プロローグ『戦場で悪霊を見た』
個性のかけらもない寒々とした荒野に一台の軍用車両が走っていた。どんな悪路でも問題なく走行し、多少の銃弾でも貫けない装甲を持った特殊軍用乗用車だ。
市街地迷彩を施したそれは、質の悪い地面を音を立てて踏みしめていく。
落差の激しい地面の凹凸を飛び越え、着地したところで車体に来る衝撃に後部座席で頬杖をついていたジョナサン・デチャンスは思わず舌打ちをしていた。
「すまねぇ、ジョン。わざとじゃないんだ」
バックミラーで後部座席にいるデチャンスを確認しつつ、ドライバーのマークは申し訳無さそうに謝る。
「わかってる、わかってるよ。こっちこそ失礼した」
デチャンスはそう返し、窓の外を見る。
見えるのは壮大な荒野だったが、本当にそれだけだ。何時間もこんな光景を見せつけられると流石に飽きてくる。本当に、壮大なだけ。
彼はアメリカ人で中央情報局の特殊捜査チームに所属している捜査官だ。米陸軍特殊部隊で准尉をやっていたデチャンスは、CIAにスカウトされそこに配属された。それだけ優秀な兵士なのだ。
そんな彼がなんでこのような東欧の某国の大地を移動しているかと言うと、最近のCIAの情報から来るものだった。
今、彼らが目指してる街は戦場だ。そこでは政府軍と反政府軍が争っている。石油問題を抱えており、当初は小競り合い程度の争いが、次第にエスカレートして行き今や泥沼化していた。
その戦場には二つの不吉な噂があるという。
一つは人体実験により誕生した人間兵器が反政府軍側の手によって使われていること。
もう一つは、悪霊と呼ばれる存在が政府軍側を殺し回っているそうだ。
この二つに合致する真相はデチャンスにも予想がついた。
――その『悪霊』とやらが人間兵器だと。
しかし、デチャンスはリアリストだった。自分の目でその存在を視認するまで認めない主義なのだ。文字だけの情報で何がわかるというのだ。結局自分の目で見、耳で聞き、鼻で嗅いだ方がこの上なく頭に入ってくるのだから。五感から得る情報に勝るモノなどないのだから。だから敢えて人間兵器と悪霊を別々に考えるよう務めていた。
その考えは当局も同じだったらしく、デチャンスが志願書を出すとあっさりと承諾してくれた。人間兵器の製造、所持は国際法により禁じられている。アメリカ側もみすみす指を咥えて見てるわけにはいかなかった。
「見えたぞ、あそこだ」
マークが顎で前方を指した。その先にあったものは黒煙をもくもくと上げる建造物群だった。あれが例の街だ。
「激戦区だ。準備しとけよ、旦那」
マークはそう言った。
デチャンスは自分の座っている座席のすぐ傍にあるアタッシュケースを開いた。その中にあったものは拳銃だ。ヘッケラー&コックUSP45口径自動拳銃。デチャンスはハンドガンの本体を取り出すと、そのすぐ隣にはめ込まれていた弾倉を取り外した。それをUSPのグリップ部の下にある空洞に差し込み、上部のスライドを力強く引く。
――ガチャン
初弾を装填する音が重々しく響く。この簡単な動作でこの鉄の塊はいつでも人を殺しうる凶器へと変貌を遂げた。
予備のマガジンは今着ているジャケットの軍用ベストにたくさんあったし、そのベストには近接戦闘用のコンバットナイフもあった。準備は万端だ。
車の内にまで届いていた銃声や爆発音は街に近づくほど、力強く、そして恐ろしげに響いていた。
※
マークの運転するハンヴィーは戦地を極力回避したルートを走っていた。目的はあくまで人間兵器と悪霊の確認だ。わざわざ他所の国の戦場に突っ込んでいく必要性は皆無に等しかった。
「いたぞ、あそこだ」
マークの視線の先にあるのは、政府軍の軍服に身を包んでいる男とその数名の部下らしき男達。
ハンヴィーは彼らの真正面に停車した。デチャンスは車を降りる。
「CIAのフェネクスだな?」
政府軍の男は英語で声を張り上げる。
『フェネクス』と言うのはデチャンスの暗号名だ。
「あぁ、そうだ! 合言葉は『ザーイエッツ』!」
政府軍の男は強張らせていた顔を緩めると、
「私は政府軍のユーリだ、よく来た。早速、話をするとしよう。中へ!」
と言って、後ろにあった石でできたビルを指差した。銃撃や爆撃で半壊したこの街の建物の中でも珍しい、傷らしい傷は見当たらないビルだ。
「マーク、車の中に待機しろ」
デチャンスは無線機を取り出し、ハンヴィーの中にいるマークにそう告げると、ユーリと共にビルの中に入った。続いて部下達が順序よく並び、ぞろぞろとビルの入り口を潜っていった。
※
ユーリに続き、埃っぽい作戦会議室に足を踏み入れたデチャンスは、部屋の真ん中にある大きなテーブルに向かった。そこには広い紙が敷かれてあった。紙にはロシア語が羅列してあったが、デチャンスにはその文字よりも紙の中央にある写真が気になった。
写真に写っていたものは恐怖に顔を引き攣らせながら突撃銃の銃口をあらぬ方向へ向けている政府軍兵士と、その銃口の下を潜るような体勢で今にも兵士に飛びつこうとしている青年だった。その青年の手には鋭利なナイフが握られている。
「これが例の?」
デチャンスはユーリにそう聞いた。
ユーリは頷くと、
「我ら政府軍の兵士がその命と引き換えに撮ったものだ」
デチャンスは眉をひそめる。
「命と引き換えにか……?」
「あぁ、そうだ。その兵士……カルルの死体にはこの写真を収めたカメラが握られていた。何でカメラを壊すなりしなかったか謎だがな」
ユーリは息を吐いた。
「このような若い男が何故『悪霊』などと呼ばれている?」
デチャンスは疑問に思ったことを聞いた。
「詳しいことはわからない。こいつの襲撃を受けた部隊に一人、致命傷を負いながらも生き残った者がいた。彼は、命からがら逃げ延び私の部隊と合流した。酷く恐怖に怯えており、衛生兵の手当も虚しく死亡した。その兵士は治療中、うわ言のようにこう呟いてたそうだ。――『悪霊』と」
デチャンスは息を呑む。
その時だった。
デチャンスの腰のホルダーに挿していた無線がやかましく鳴り響く。
失礼、とひと言言ったデチャンスは無線の受信スイッチを押した。
「どうした、マーク」
(デチャンス! 助けてくれ! う、うわぁぁぁぁぁっ)
パニックに陥ったマークの声とその悲鳴、いや断末魔が耳朶を打った。その叫びは無線のスピーカーを壊すような大きさだ。
「マーク! おい! 一体どうしたんだ!?」
デチャンスは声を張り上げるが、無線から聞こえるのはザーッというノイズ音だけだった。
デチャンスとユーリは顔を見合わせる。
ドンと作戦会議室のドアが勢いよく開かれた。
「何事か!?」
ユーリは振り向き様、怒声を放った。そこに居たのは政府軍の軍服に身を包んだ兵士だ。今やその堅苦しい服には裂け目や刺した痕が生々しく、それも数多くあり、そこらからはおびただしい量の血が染み出し、溢れている。
ユーリはすぐさまその兵士に駆け寄った。兵士は腹の傷口を抱えながら、部屋に踏み込むとそのすぐ手前の壁にもたれ掛かる。背中と壁が擦れ、壁に縦長の血の線を残した。
デチャンスも兵士に駆け寄ろうとしたが、不意にドアのすぐ外に佇んでいた影に気が付き足を止めた。
「何があった?」
緊迫した様子のユーリは兵士にそう尋ねた。
兵士は口を開いた。が、上手く言葉を出せないらしくゲップをした。それに混じり、血泡がゴボゴボと溢れ出す。
兵士は一拍おいて、そしてやっと言葉をひと言発する。
「悪霊……」
「なんだって!?」
ユーリはぎょっとした様子で聞き返す。兵士の恐怖に見開いた目はユーリのすぐ後ろ、ドアの方に釘付けとなっていた。
「逃げろ、ユーリ!」
デチャンスが叫んだのと、ユーリが後ろを振り向いたのはほぼ同時だった。
そこに居たのは、すぐ近くのテーブル上の写真に写っていた青年だった。端正な顔立ちをしていたが、その混沌とした目には、憎しみ、恨み、怒り……そう言った負の感情が渦巻いている。少なくともデチャンスにはそう見えた。
ユーリは腰のホルスターに収めてあるマカロフ拳銃に手を伸ばしつつ、立ち上がる。
何もかもが遅かった。
青年は俊敏な動きでユーリに飛びつき、手に持っていたナイフで彼の首筋を斬り裂いた。その早さは瞬きをする間にも満たなかった。
ユーリは鮮血を首筋から噴き上げながら倒れた。ピクピクと体を痙攣させるその死体を跨ぎ終えると、青年は雄叫びを上げた。
それは、原始時代の恐竜にも似た、耳を劈くような叫びだ。野蛮としか形容し難く、人間のモノとはとても思えなかった。
咆哮が終わると、青年は怨念の篭った目をあらたなる獲物……デチャンスの方に向けた。
それがジョナサン・デチャンスとその悪霊、イヴァン・ハーンとの最初の出会いだった。
イヴァンはデチャンスに向かい、そして地面を蹴った。