明け方の月と海辺の梟
突然の喚声に、海賊『梟』のレイナスははっと目を見開いた。
いつの間にか眠っていたらしい。勢いよく頭を上げると、ぐらりと視界が揺れる。
不意を突かれて誰かに殴られたのか。そう誤解するほどにがんがんと凶悪に響く頭を押さえ、彼は呻き声を上げる。
おかしい。自分はこんなに酒に弱かっただろうか。
少々度数の高い酒だとは思った。しかし早く酔えるならそれに越したことはない。無類の酒好きが集めた男たちはやはり酒好きの大酒飲みばかりで、宴会でもやろうものなら酒だけでかなりの出費を覚悟しなければならなかったからだ。
妙に飲みやすい酒だとも思った。クセがなく後口も爽やかなそれは、いつも彼らが購入する安酒ではない。しかし不味いのならともかく美味い酒ならば別に文句はない。不景気のこの世の中、なじみの酒屋が酒蔵に余っていた酒を常連客に安く提供してくれたのだろうと考えた。
今夜ばかりは見張りも役に立たなかったはずだ。彼が見張りにも飲酒を許した。
先代の頃からこの隠れ家は見つかったことも、踏み込まれたこともなかったのだがら。
…………とんだ失態だ。
彼らを甘く見ていた。この前ケンカを売ったばかりなのだから、もう少し警戒するべきだったのだ。
響く頭を押さえ重い瞼をこじ開けて見れば、上から下からお揃いの濃紺の制服を着た男たちがわらわらと侵入し、ほとんど無抵抗の彼の仲間たちを次々と捕縛していた。
あり得ないほど重く感じる身体をどうにか持ち上げ、傍らの剣をつかむ。
彼のもとにも堅苦しい制服姿の男たちはやってきた。しかし彼が急に立ち上がったことに驚いたのか、数歩離れた場所で怯んだようにたたらを踏む。
侵入者たちを闇色の双眸でじろりと見回して、彼は剣の鞘を投げ捨てる。
灯りを映して赤々ときらめく刃に周囲が息を飲むより早く、彼は突き出された獲物を剣で弾く。
切っ先が逸れるとすぐに前へ踏み出す。出口をふさいでいた敵のひとりを蹴り出し、ひとりを体当たりで飛ばした。
そして彼は侵入者たちの脇を風のようにすり抜けていく。
いっぽう当然向かって来るものだと予想していた制服の男たちは、肩すかしを食らった気分だった。
いや、実際向かってくるとも思っていなかった。これだけの人数に包囲され、仲間を拘束され、自分の身体もうまく動かない状況でまだ抵抗する根性があったとは。
そのため、反応が遅れた。
「お、追え! そっちへ行ったぞ!!」
「外へ出すな!」
はっと我に返り誰かが慌てて叫んだ頃には、レイナスは酒盛りをしていた場所からさっさと抜け出している。狭い場所に大勢が詰めていたことも、捕り方の動きを鈍くする要因だった。
これだけの人数を相手にして勝てるわけがない。
やけになって暴れるにはまだ早い。
でも大人しく捕まろうとは絶対に思わない。
圧倒的に不利な状況で、レイナスはまだ奇妙な冷静さを保っていた。
この状況を覆せるとしたら、策はひとつだけ。
すなわち敵の頭をおさえること。それは彼ら『梟』がもっとも得意とする手段でもある。
彼が突破した出口は、上の見張り台へと通じるものだった。
重く、気を抜けばもつれて転びそうになる足を無理やり動かしながら、彼は舌打ちする。
「くそ。こんな時期に海賊なんて捕まえてる場合か」
この小さな島国に、大陸の大国の艦隊が迫っている事は誰でも知っている。
もっとほかにやる事あるだろうが。
忌々しげに呟いて外に飛び出せば、星が消え白い月だけが取り残された薄青の空に、夜が明けたばかりだと知らされる。
ざわり、と人の気配がした。
木製の板を並べ小さな屋根を付けただけの見張り台の前。
侵入者と同じような制服ながら襟元や袖口、肩に金糸銀糸を使った刺繍や房飾りをつけている男たちがそこにいた。彼らは明らかに濃紺軍団の上司であり、命令権限を持つ者たちに違いなかった。
当たり、だ。
船を着けてある隠し港と二択だったのだが、海兵たちに指示を出すにはこちらの方が都合がいい。
レイナスはちらりと笑って武器を構える。
数人のうち、端にいた男たちがさっと顔をしかめて剣の柄に手をかける。
しかし、それらを片手で制した者がいた。
一歩前にすすみ出るまで、決して巨漢とまでは言えない男たちに埋もれて全くわからなかった。男たちよりもひどく小柄で線の細い、少年のような人物である。
――いや。埋もれていたのではない。
彼らの中央で、彼らに護られていたのだ。
男たちの中で明らかにいちばん若いあれが指揮官。彼が狙う頭。
歯がゆくなるほどにゆっくりと剣を抜く相手に、彼はため息をつきたくなった。
なめられたものだ。
あんな子供のような若さで司令官とは。あれはどこかの名門貴族の御曹司だろうか。
少しの癖もない教科書の見本のような型。本気で人に刃を向けたことのない者の剣だ。誰かが「はじめ」と声をかけなければ敵は向かってこないと思っているような。
――何年か前の、自分のように。
濃紺の帽子の下からのぞく小柄な指揮官の瞳は、夜明けの空を映したような薄青。
そこに浮かされたような熱はなく、怯える色もなく、ただ強くこちらを見据えている。
目が合ったとき、これは少々厄介かもしれないと思い直す。
彼がまず頭を狙うのは、それが手足を封じるもっとも効率的な方法だからだ。命令できる権限を持つ者が臆病であるほど、自らの命や地位や金に執着する傾向が強ければ強いほど、こちらの要求を素直に聞き入れてくれる。
だが少女のように華奢な目の前の指揮官からは、それらがまるで感じられなかった。
捕り物の真っ最中だというのに、奇妙に冷めた瞳。
まるで、感情を持たない人形のように。
これまで対峙したことのない種類の相手に、なんとなくやりにくい気分になる。
何かが引っかかる。しかしそれを詮索している暇はない。
剣の腕だけで言えば、小柄でまだ少年のような指揮官相手に負けるとは到底思えなかった。周囲の大きな男たちが手出ししてくればわからないが、彼らを下がらせたのならむしろ好都合である。
引き下がるわけにもいかない。自分だけではなく、仲間の命がかかっているのだ。
さっさとあの指揮官同様に細く頼りない武器を弾き飛ばし、二、三発殴って手っ取り早く人質になってもらおう。
屋内のばたばたと人が動き回る足音や物が壊れるような音を背に、彼は追い立てられるように地面を蹴った。
相手は小剣の鋭い切っ先と視線を向けたまま、ぴくりとも動かない。
「フィン」
濃紺の男たちの誰かが、そう呟いた。
小柄な彼らの上司に向けて、気遣わしげに。
その言葉に、レイナスは大きく目を見開く。
第二位王位継承者。
この国の現第二位王位継承者は――女性だ。
それもまだ若い――ちょうど、目の前の指揮官のような。
「―――えっ」
なぜすぐに気付けなかったのか。
これは――少年ではない。女性、それもこの国の王女だ。
夜が明けた後の空のように澄んだ薄青の双眸、小柄な身体、細い肩――軍服である程度身体の線が隠れているとはいえ、周囲の男たちとは明らかに違う。
違うのに。
違和感の正体にようやく納得がいった頃には、彼はすでに刃を振り下ろしてしまっていた。
急に勢いをなくしたレイナスの剣を、それよりもずっと細い小剣がなぎはらう。
剣にせいいっぱいの力を込めたのだろう。彼――いや彼女もまた大きく体勢を崩し、金の房飾りのついた軍帽が頭からすべり落ちる。
濃紺の軍帽から現れたのは、きつく束ねられた豊かな白銀の髪。少しも日に焼けていない白く滑らかな肌。繊細で涼やかな顔立ち。
いま空にある月が、そのまま人の形を取って現れたかのような。
力が完全に削がれた剣をそれでも渾身の力でやっと弾いた彼女は、しかし口元にほんのりと笑みを浮かべた。
月の光のように淡く儚く、熱の感じられない微笑を。
このとき、レイナスの身体は完全に止まっていた。剣を弾かれて一、二歩後ずさり、体勢を整えもせずに目の前の月を凝視している。
「あ、んた―――」
呆然と呟いた言葉は、彼を取り押さえようとするほかの仕官たちの声によってかき消された。
「あなたの提示した条件はこれで満たしました。これであなたは私のものです。あなたの部下共々、これからはこの国のために働いてもらいます。海賊『梟』のレイナス――いえ、レイン・マーナ・ナルディード卿」
第五位王位継承者と。抑揚も少なく淡々と告げる王女。
「それは昔の話だ」
苦々しい気分でレイナスは呟く。素性までばれていたとは。
新しい海軍総督が女だと知って、彼らは笑ったものだった。
そんな彼女から、敵対しているはずのレイナスら海賊に、協力して一緒に大国を撃退しようといった内容の書状が来た。
士官学校も出ていない深窓のお姫様の頭は、実におめでたいらしい。
だからレイナスは書状を突っ返し、言ってやったのだ。
金や名誉でおれたちが釣れると思ったら大間違いだ。従わせたければ実力で屈服させろ、と。
捕まえられるもんなら捕まえてみろ、と。
そして彼女は、今まで誰にも見つかったことがない隠れ家を探し当て、踏み込んで彼ら『梟』を一網打尽にしてしまった。
両肩を屈強な仕官たちに押さえつけられ強制的に膝を着いた『梟』の首領――かつて王位継承権を持っていたれっきとした王族――を見下ろしても、小柄な女性指揮官はにこりともしなかった。
疲れたようにふう、と吐息を漏らし、手にしていた小剣を地面に突き刺す。
手が震えとても鞘にしまえる状態ではなかったのだと知ったのは後のこと。
無法者になったとしても、誇りはある。思い通りにいかなかったからといって自分の言動を覆すような真似はできない。
レイナスは覚悟を決めた。
夜の闇の中、誰よりも何よりも鮮やかにそこにある月のような王女。
そんな彼女に、命を預ける覚悟を。
☆ ☆ ☆
小さいながら交易の拠点として栄える島国アルフェラ。
大陸の軍事大国ガレナがその莫大な富に目を付け幾度となく船団を率いて戦を仕掛けてきたものの、アルフェラはこれを悉く退けた。
戦の功労者と呼ばれるのは、女性でありながら海軍を指揮した王女。
その傍らには、常に黒髪黒眼の側近が付き従っていたという。
読みにくい文章を少しでも読みやすく…と、いっぱい改行してみました。
書いている小説の冒頭部分を、短編用に手直ししたものです。