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第31話、1話と言わず0.5話

 ―『参加する方は挙手で』―


 午前九時。

 朝食を取り終え、その片付けも終えているこの時間帯。むしろ、もう洗濯物や掃除に取り掛かっている時間だと言えよう。

 しかし今日は平日ではなく、休日である。

 普段ならばまだ寝ている者がいてもおかしくはない。いや、他の者に限らず彼だってそうである。まだ布団の中でうとうとしていて、起きるか寝るかの選択肢で微塵の迷いもなく二度寝を選んでしまう、そんな至福の時を過ごしていてもおかしくはないのだ。

 それなのにも関わらず、早朝にしゃきっと目が覚めてしまい、当番でもないのに鼻歌交じりに朝食を普段より二品多く作り、寝てばかりいる娘の起床を促し、ついでに当番のくせに寝ているマキにチョップを見舞わせたりしたのは、彼にとって今日が特別な日だったからに他ならなかった。楽しい予定がある直前、夜眠れなくなったり不必要なほど朝早くに目が覚めてしまう子供、それに似た状況だったと言えるのだろう。

 土間で皿を洗い終えた修真は綺麗さっぱり片付いた居間へと戻り、あらかじめ食事中に言っておいた通りに座って待っているマキ、ポチ、ミュランダの三人の前にどっかりと腰を下ろした。

 ほぼそれと同時に彼の皿洗いを手伝っていた半透明な幽霊さんもふわふわと戻ってきて、部屋の隅で胡坐あぐらをかいている赤い髪をした少女の横にまるで座ったかのように低くなった。

 こうして現在片桐家に住んでいる人と兵器とその他が、無言過ぎて妙な緊張感が漂っている居間に勢揃いしたわけである。


「……よし、みんないるな?」


 と、満を持して修真が言った。

 それ以外の面々はごくりと固唾かたずを飲む。彼が何を言い出すのか待機し続けて、かれこれ四、五分ほどにもなるのである。それだけ待たされれば、何が始まるんだろう、何を言うんだろう、と当然のように期待も高まっていた。

 修真は、それぞれの表情が人の話を聞くに相応しいものだと確認し、


「じゃあ聞くぞ」


 すぅっと息を吸い込んで、叫んだ。


「――買い物行くひとッ、手ぇーあーーげてッ!!」


 張り上げた声が部屋全体に響き渡った。声が消えると、先ほどとは少し違う不思議な静けさが部屋を満たしている。

 目を閉じて数秒待った修真は、一堂に会した五名の女子たちを流し見て、ふっと小さく笑った。


「……ごめん、俺が悪かった」


 挙手された腕は、なんと十本だったのだ。


「上げる手は片方だけで良いから!」


 という彼の反応で、少女たちの表情がぱぁっと喜色きしょくに満ち、それぞれが非常にわざとらしく『なぁ~んだ、そうなのか~』と言わんばかりに顔を見合わせ手を下ろしていく。ニヤニヤしながら。


「はぁ……」


 息の揃ったおふざけに修真は深い溜息を吐いた。問いに対して総勢五名の諸手もろて上げで答えられてもおかしな集団にしか見えない。というか、どうして事前の打ち合わせも無しにこうも息を合わせられるのかが不思議でならなかった。


「そこは説明しなくてもわかるだろ……っていうか――」


 が、本当におかしかったのはそこではない。

 それは――


「幽霊さん家から出れないじゃん!!」


 びしっと指さされた幽霊さんは愕然がくぜんとした。スケッチブックには極太で『!!!』と書かれている。地縛霊なのだからしょうがない。

 約一名を撃沈した彼は更に、がっくりする幽霊さんの隣で足を崩している赤毛の少女セキコに咆える。


「動物はスーパーに入れねーよ!!」


 セキコの表情が驚愕きょうがくと絶望で消え去った。キツネでしかも妖怪変化の類なのだからしょうがない。

 約二名を精神的ダメージで撃沈させた修真は、朝っぱらからの全力ツッコミではぁはぁ言いながら頬を伝う変な汗を拭う。

 何かがおかしかった。


(くそっ……!! なんなんだこの状況!!)


 不思議と誰も喋ろうとしない。さっきから楽しそうにニタニタ笑っている。

 そこでふと、修真はイヤ~な視線を感じ、ちらりと目線を上げた。


「……」


 マキ、ポチ、ミュランダが『私は私は?』と言わんばかりに、自分を指差している。

 目が輝いている。

 期待している。

 ツッコミを!


(うっ……)


 悩んだ。

 考えた。

 元々そんな技量も度量も無いのに、彼女らは何かを期待してこちらを見詰めていた。いかなる状況においてもこの雰囲気には答えなければならない、それが人間界のルール。そして修真自身も、どうしようもなくこの期待に答えてやらなければいけない気がしていた。


「お、あ、えっと……」


 のっとらないわけにはいかなかった。そのルールばかりは無視できなかった。

 けれど、いくら探してもツッコむべきポイントが無かった。

 それが彼を追い詰めた。


「おっ――お前はバカだ!!」


 ミュランダがガーン。


「それからお前は暗いし無愛想!!」


 ポチがガガーン。


「もうお前に至っては何が何だかわかんねえ!!」


 マキはガビーン。


「はいッ、全員スーパーには、はーいれーませーーんッ!!」


 無言の一秒があって。

 彼も含めた全員がショックで崩れ落ちた。




 ―『逃走こそ勝利の秘訣?』―


 様々なショックから立ち直った片桐家の面々。

 彼女らの目の前、食卓の上には新たに色鮮やかな一枚の広告が置かれていた。


「んで、だ。普段なら俺一人で行っても良い所なんだけど、これを見て欲しい」


 そう言い、修真は中でも一際大きく書かれた文字を指差した。指が止まった場所には『米十キロなんと二千五百円!! お一人様につき一袋限り!!』という文字が躍っている。

 幽霊さんが目を見開き、宙を浮くマジックによってスケッチブックに『まさか!』の三文字が。そんな彼女に対して、修真はそうですと首を縦に振った。

 実は幽霊さんが驚くのも無理の無い話だった。というのも、ここ数日の片桐家の食事は米が食卓に並ばずパン食続きだったのだ(三、四日程度だが)。それも朝、昼、晩の三食全てがである。同時に、やはり和食はパンに合わないのか、彼女の腕の見せ場が減っていったのはもはや語るまでも無い。

 小麦に奪われた自分の立場、小麦に支配された食卓。夕食の用意をしようとしても、修真やマキに「今日はパンだから、私に任せてください」と、自分の仕事場を追い出されてしまうのは苦痛でしかなかった。

 が、ところがどっこい米を買うと聞いてこの食いつきである。大げさでも何でもなく彼女にとって己の存在意義を取り戻せるのと同義だった。

 興奮する幽霊さん以外の面々は『それで?』とばかりに首をかしげており、修真は目を閉じ、うむと威厳たっぷりに頷く。


「そう、今日は荷物持ちをやってほしい。この機会に二袋くらい攻めてみようと思ってるから誰か一人、一緒に来て欲しい」


 ここまで、どうして彼がこんな話を始めたのか一切知らなかった少女たちは『あ、それでか!』という面持ちで顔を見合わせて納得。

 そういう前提があることを伝え、


「それじゃ……」


 改めて修真は彼女らに問う。


「――買い物行く人ッ、手ぇーあげて!!」


 そして、

 次の瞬間。


「っわーーーーーーーーーーッ!!」


 と、ある者は廊下へ転げ出て、またある者は裸足で庭へ。またまたある者は掛け軸の裏へ増設した隠し通路へと脇目も振らず飛び込んだ。

 つい今まで六人もいた部屋がたった二人ぼっちの密度の薄い空間に変わるまで、わずか一秒。


「……」


 爽やかな小鳥のさえずりが聞こえるほどそこは静かだった。

 初夏の朝に、残っているのは怒りだけだった。

 残っているのは、唐突な出来事にぽかんとしている幽霊さんと、自分。


「……こ、このッ」


 修真は己の拳を固く、固く握り締める。見事なまでの逃走劇だったが、その手際の良さがまた怒りを逆撫でした。おちょくっているとしか思えなかった。

 そしてやはりというべきか、


「こぉぉぉおおおおおおのあばずれ共めェーーーーーッ!! どぉぉおおおこ行きやがったァーーーーーッ!!」


 怒号が上がるのだった。


『修真さん、ここはやはり私が』


「だから家から出れねぇじゃん!!」




 ―『お買い物を終えて』―


「はぁー、ラッキーだった~」


「……重い。疲れた」


 近所のスーパーから出て来た所でそれぞれ呟いた。

 土曜日の晴れやかな空と夏の強い日差しの下、彼らは広告の目玉商品『米十キロなんと二千五百円!! お一人様につき一袋限り!!』を狙って買出しにきており、今は丁度それを無事に購入し終え、帰路につこうとしている所である。

 節約大王こと修真は戦利品の十キロの米が入った袋を軽々と片腕に抱え、彼としては珍しい満面の笑みを浮かべていた。


「助かったよ、お前がいてくれたおかげで二袋も買えちゃった。これで数ヶ月は安泰だな」


 その横、修真が人員増強の為に同行させた少女はいつもの無表情で、ずっしりと腕に重みをかけてくる米袋を抱いている。

 彼女らしく、ぶっきらぼうに返した。


「あそ、よかったね。どうして私がこんな事」


「付き合わせてすいませんでした」


 瞬く間の謝罪、しかしあしらうようなそれに、ポチは口を尖らせた。


「もういいよ、今日はひまだったし、来た以上戻れなかったし……ていうか、パパはこういう時だけ嬉しそう」


 修真は歩道を歩きながら、驚愕の値下げという名の奇跡と、それを手に入れてしまった喜びから心を弾ませている。


「そりゃー嬉しくもなるって。だって普通、二千五百円とかありえないんだぞ! ほんと、広告見たとき目が飛び出すかと思ったよ!」


 喜色満面の修真を、ポチは哀れむように見た。


「だから今朝はあんなにテンション高かったの。こんな米くらいでそんなに喜ぶなんて……」


 それを受けても彼の喜びの色はこれっぽっちも揺るがない。


「ははは、今はちょっとやそっとじゃ怒る気にもなれないぜ」


「じゃあ、もし私がこのお米をボレーシュートしたら?」


「お前にオーバーヘッドキックかな」


 二人はそんな調子で街路樹が整列している歩道を歩いていく。木々の間から漏れる日光がアスファルトをまだら模様にし、そこを歩けばちかちかと眩しい光が目を細めさせる。

 その日、歩道の向こう側が揺れて見えるほどこの街の気温は高かった。Tシャツ一枚でも汗ばむほどに。


「にしてもあっちぃな~。そろそろ夏も本番だって言ってたぞ、ニュース」


「パパの魔界もこのくらい暑かったけど?」


 と、応えたポチは涼しげなノースリーブのシャツを着ており、下は若干のロールアップを施したデニムのパンツというボーイッシュな格好で決めている。それに反して、可愛らしいつま先が顔を出している足元はひまわりをモチーフにしたぺらぺらの飾りがあしらわれたサンダルを履いており、その全体像はなんだか家からそのまま出てきましたと言わんばかりの雰囲気をかもし出している。

 そして修真は、話の副産物としてとんでもない事実に気づくことになる。


「あ~でも、あそこは海があるから見た目が涼しッ――」


 ぴたりと止まる足。暑さからのものとはまた違う種類の汗がたらりと頬を伝った。


「あお、そういやぁ、しばらく行ってない、よね……?」


 心苦しそうな声で問われ、ポチはこくりと一つ頷く。

 人間界と魔界の時間の経過速度が違う。人間界で一日過ごしたならば、魔界では八日が経過している。それを知っているからこそ修真の顔色は悪かった。

 その渋く歪めた顔を硬直させたままの彼に、飾り気の無い格好のポチが、特別な理由もなく、よっと低い分離帯に飛び乗って言った。


「バカンスも兼ねて行ってあげるのがいい。ほったらかしはダメ、人として」


「人としてダメなのか?」


 もう一度尋ねると、ポチは綱渡りでもするかのように分離帯を歩き始める。


「うん、人としてね……」


 どうやら、彼女の足取りや声色から察するに、さほど重大な問題ではないらしい。今度良い機会があれば――夏休みに入ったら行くのが無難か、と漠然とした予定を立てて修真も歩き始める。


「あぁほら、危ないからこっち歩けよ。転んだら車に轢き殺されるじゃねーか。米が」


「別にそっちには転ばない。パパの方に転ぶから大丈夫」


 ポチの顔を半目で見やる修真。

 ミュランダに瓜二つな顔はパーツ一つ取ってもそっくりで、しかし可愛らしさは残しつつもなんとなく物憂げな瞳と、それを覆う眼鏡の効果もあってか幾分か知的で物静かな少女に見える。

 そんな彼女が今の知的さの欠片もない発言である。

 左手に携えていたスーパーの袋をがさりと持ち上げてみせた。


「大丈夫なわけねーだろ。もしそうなったら俺がぐわーってなるだろうが。こっちは卵も持ってんだからな。全部オジャンだよ」


「残念だけどもう終わり」


 三歩ほど歩いて、ポチは分離帯から降りる。そこで街路樹の並木は終わり、その先は胸ほどの高さの植え込みが分離帯として機能するようになっていた。


「ったく……」


 修真が少々呆れ気味に呟く。

 ポチの足取りは依然、軽快。

 脇に植えられた街路樹が無くなった歩道は当然、日差しも直接当たるようになってくる。その眩しさに額に手をかざす修真は一歩前を歩くポチの後ろ姿を見ていて、ふと思った。

 ポチは肌と髪が雪のように白い。見る限りなのだが、こんなに強い日差しに肌を晒していたらすぐに真っ赤になってしまうんじゃないかと思えるほど紫外線に弱そうである。


「……お前、そんなに肩出してると日焼けするんじゃない? 大丈夫なの?」


 ポチははっとして、嘆くような深いため息を吐いた。


「はぁ……。すでに手遅れ、長時間紫外線を浴び続けてもう真っ黒。それどころか、さっきから細胞同士の結合力が弱まってきてるから、少しの衝撃で体が崩れ落ちる危険性がある」


「これは分かる。うそだね」


 見事、思いつきの嘘を看破かんぱした修真にポチは呆れながら逆に尋ねた。


「大体、私がその程度でどうかなると思う?」


 彼女の言った言葉はたったそれだけで、修真にどれほど愚かな心配をしていたのかを思い知らせた。

 ポチは片桐家最強の少女。その剛槍の一振りは敵を切り裂き、本気を出せば修真でもマキでも手が出せない。それどころか最近はあまり感じなくなったが、意図すれば彼女の強さが五感全てを通じてひしひしと伝わってくる。

 そんなポチが日差しくらいでどうにかなりようはずがないのだ。


「……そりゃそうですよね。僕が間違っていました」


 何故か“それ”が修真を情けない思いにさせ、表面的には少々肩を落とさせる。どうしようも無い差である為、諦めはつく。だがやはり、自分の娘より物理的に弱かったりするのは、色々な沽券が守れていないような気が――


「……?」


 そんな事を、どうかしたのかと聞かんばかりに首をかしげる“張本人”に話せるはずもなく、修真は話題を切り替えるのだった。


「なぁ、そう言えば今日はでかくないな。どうかしたのか?」


 普段、休日なら下着にシャツだけというパンツスタイルでコーヒーでも嗜んでいるのが休日の彼女である。ところが、今日に限ってはポチは学校へ通う姿、つまり小さい方だったのだ。

 ふいに問われたポチだったが、別段どうという反応を見せずに返答する。


「ダメ?」


「いや、いつもがでかいから。なんでかなと思って」


 彼の何の気ない疑問に、長女は少し沈黙した。

 このポチの行動、それは簡単に言えば“油断”だった。というのは、最近、以前と比べると敵の襲来が減少した。彼女の中で憶測の域は出てはいないが、まだ見ぬ敵――あの兵器達を操っている者を取り巻く状況に何らかの変化があったと考えるのが妥当である。あるいは既に目的を達成し、襲う必要が無くなった――と考えるのは安易でもあるような気もしてしまう。

 それに他にも特徴はあった。奴等は休日ないし、週末に襲ってくる傾向があったように思えた。それで週末はいつでも戦えるように天使の姿を取っていたのだが、減少傾向にあるのなら今くらい……


(今くらい……ただの人間みたいに――)


 敵襲があったとしても赤子の手を捻るが如く敵機を蹴散らしてしまうポチが、心から、半信半疑で、本気で、そう思った。

 そして、


(ふふっ、ダメって分かりきってる。人間じゃ戦えないし、今の方がずっと良い)


 なんと馬鹿馬鹿しいのだろうと気分の良い自嘲をする。

 彼女にとって戦いは娯楽、破壊は悦び。心は要らず、力が全て。力の無い自分など、正常な自分ではないのだ。

 だが、この世界に来たばかりの頃とは違う。

 もう、つい先日までとは違う。


(でも……何が、変わったんだろう……)


 ポチは、‘それ’が心に生まれた‘余裕’だということをまだ知らない。


「おいポチ、どうかしたのか?」


「――え!?」


 そこで返答するのをすっかり忘れていたのを思い出す。けれど、たった今考えていたような事は、恥ずかしいので言えるわけが無い。

 口をついて出た言葉は、答えをはぐらかすものだった。


「と、特に理由なんて無い。ただそんな気分だったの」


「へぇ、そういうもんなのか? よく分からんけど」


 淡白な回答に修真も感慨無く納得し、どこかを見ながら歩く彼女も浅く頷いた。


「そう、そういうもんなの。人として」


「それ、さっきから言ってるけど何なの? 人としてって。人として何なんだよ」


「マイブーム。これを言うと、如何なる状況でも打破できる。人として」


「出来ねーよ。お前が出来たと思ってるならそれは勘違いだよ。人として」


 取り留めも無い会話をしつつ、修真は普通では考えられない機能をその体に持つ娘に至極普通な感想を抱いていた。気分でころころ体のサイズを変えられるのなら是非とも体験してみたいものである。


「にしても、前から思ってたけどでかくなれたり小さくなれたり便利だよなぁ。最近じゃあミュランダもでかくなる時があるし」


 当然とも言うべきその言葉に、珍しくポチが首を捻った。


「……そう? 例えば、どんな時に便利だと思う?」


 言われて、うーん、と考える修真。


「そーだなぁ…………こう、なんだろ?」


 改めて考えてみると、その利点は何なのだろう。体が大きいからと言って、別に得することもないし、小さいからと言っても同じ。精々、前者の方が高い物を取る時に便利なくらいしか修真には思いつかなかった。


「ほら、あれだよ。高い所の物を、いや違う。そう、道が……」


「道が?」


「道が急に……狭くなった時とか?」


「……」


 ポチは無言ですごい顔をしていた。あえて言うならば『有り得ない』と言いたげというか、表情で言ってしまっているというか。

 自分の言ってしまったあまりにも稚拙過ぎる発言に、修真は少々恥ずかしくなり慌てて訂正した。


「……ごめん、今の無しッ! 忘れてくれる? もうちょっとちゃんと考えるから」


 ポチは“はいはいもういいよ”とばかりに肩をすくめ、


「道は関係無いけど便利と言えなくもない。どちらにも別の長所があるから」


 気を使ったのか、そう付け加えた。


「長所? それってどんな?」


「今の状態なら公共交通機関に子供料金で」


「やめろバカ野郎」


 話が良からぬ方向へ向かってしまい、修真は本日、何度目かもわからないため息を吐く。しかし、よく考えてみるとどちらが適当な料金なのか、皆目見当がつかない。そもそも、ポチに年齢という概念は存在するのだろうか。あるとして、こいつは何歳なのだろうか。

 そんなことを考えると、頭が痛くなりそうなので修真は話題を変えることにしておいた。ついでに、信頼でもってほんのりと釘を刺して。


「あー、まぁ、お前もやっちゃいけないってわかってると思うからこの話はいいや。ところでさ、今日の昼飯どうする? 何か食べたいものあるか?」


 もちろん釘を刺すまでも無い年齢不詳の長女は、これっぽっちの考える素振りも見せず即答。


「さぁ? 何でも良いんじゃない」


「何でもって……お父さんそういうのが一番困る。さっきそうめん買ったけどさ、それであいつら満足するかな? なんかおかず足りないとか言われそうなんだよな」


 幽霊さんの多大なる助力があるとはいえ、それでも一日三食のメニューを考えるのは中々どうして難しいものである。長く生活しているとレパートリーも尽きてくるし、それだけにメニューが被らないように配慮するのも難易度が上がってきたりするものだ。

 そんな事情で渋い顔で首をひねった修真に、ポチは自信満々に頷く。


「じゃあ言う。いまひとつ物足りない」


「だよな。どうしようか」


「さぁね。でも……美味しいのがいい」


 娘の無表情からほんのりと楽しさが垣間見えた修真は、苦笑じみた笑みを浮かべて言った。


「だから、そういうのが一番難しいんだって。人の話聞いてんのかー?」


「あ、パトカー」


「うわ、美しいほどの無視だよ。これはもう芸術の域だな」


 『あの一件』以来、二人はかなり自然体で接するようになっていた。むしろあの一件があってもなお、互いに変に緊張したり、妙な気を使わせる事も無かった。結局、悩みに悩んでの告白――暴走した本音の吐露の結果は、修真の中でのポチのイメージ『静かに気難しいヤツ』をぶち壊すまでに至り、お互いにとってある意味、雨降って地固まるという結果をもたらしたと言えるのだろう。

 今ならば、ポチの淡白な態度も、意味不明な行動も、


(まぁ、こういう奴だしなぁ)


 そう思うことで修真を今まで以上に気楽にさせていたし、ポチの方も、無口、無反応だが案外楽しめる事が出来ていて、別に自分である必要性は無いのに買い物に行こうと一番に誘ってもらえて(手近な所にいたから連れ去られた)、こうして一緒に歩いていて、お喋りができる。そんな時間が……気にしてくれているんだな、仲良くしようとしてくれているんだな、そう実感できる事が彼女には楽しかった。

 たぶん、今、修真の心の中にはちょっとだけ自分が存在している。仲間はずれじゃなくて、ちゃんと考えていてくれる、それが分かる。

 たったそれだけで、中々、嬉しい。

 というのは心のごく一部で、大部分はというと――そんなことより暑いからさっさと帰りたい、だったりする。


(あぁ……暑い)


(あぁ、ほんと今日の昼飯どうするかな……あ、そうだ)


 そうしているうちに、二人は交差点の信号が赤に変わったので足を止めた。

 行き交う車両の向こう岸、再び街路樹に挟まれた歩道が熱気で揺れるのを眺めていた修真は、


(――あっ)


 すっかり忘れていた親としての体裁を思い出し、苦笑しながらポチに手を差し出した。


「そういえばさポチ、荷物持つよ。重いだろ?」


「全然重くない、自分で持てる」


 そう言い、よっと米袋を抱え直すポチの姿はとてもじゃないが軽そうには見えない。現状、小柄なポチが持つにはどうも相応しい物ではないサイズだった。腕力的に言えば問題などないのだが。


(すっげー重そうなんだよなぁ……)


 付き合わせてしまったのに荷物を持たせるのも気が引ける上に、仮にも娘、仮にも女の子にこういった物(米袋、十キロ入り)を持たせるのはいくら修真でも男としてどうかと思って、もう一度言う。


「いや、なんか重そうだし、持つよ。むしろ持たせて」


 しかしポチはそれを良しとせず、ぷいとそっぽを向いてしまうのだ。


「うるさい、大丈夫だから。この程度、重いなんて感じない」


 修真はきょとんとしてしまった。拒否されるとは思ってもみなかったためだ。大体、重い荷物を持ってもらえるのなら楽なのじゃないだろうか。それに、こっちには体裁というものがある。


「な、なんで? ほら、俺的にはこう、お前を連れて歩く手前そういうのは俺が持った方が無難っていうか、正解っていうか、聞いてる?」


 そんな彼をポチはじろりと見上げ、


「無価値な模範を追求する無神経な衆目なんか気にする必要ないし。だいいち私が手ぶらで歩いてたら意味が無いし」


 申し出を綺麗に一蹴。

 修真は脳裏に引っかかるような言い方をしたポチに、困りながら返す。


「前半は意味わからんけど、意味が無いことはないだろ? 最初から米を買うために付いて来たわけだし……な? それに誰かが見てるからとかじゃなくて――」


「うるさいなぁ」


 嫌そうに目を細め修真を見上げ、すると急に得意げ……というよりも勝ち誇ったような声で言った。


「パパには関係ないの。私個人の問題だからね」


 発言は突っぱねているようにしか聞こえないが、なにやら嬉しそうである。

 当然、修真は釈然としない。


「個人の問題ねぇ……」


 要領を得る事が出来ずにいる彼を横目で見て、ふっと口の端を上げるポチ。それは、こみ上げる笑みを必死にこらえて無表情が変化した結果だった。

 彼女には可笑しく思えて仕方が無い。


(ふふっ)


 修真が持ち前の鈍感さゆえに、なぜ自分がこの米袋を持っているのか全然理解できていない辺りが。


(パパって間抜け)


 心の中で一人、笑う。からかうように。

 ポチとしては修真が気づいていないからこそ、心地が良かった。そこに意味があった。

 そう、私は今――


「なにニヤニヤしてんだよ?」


 ――はっ。


「そっ、そんな顔してたっ?」


「かなりしてるけど……一人で楽しそうだなぁ」


「な、なにも――」


 明らかな動揺を見せる長女を怪しげに眺める修真。

 そこで、ポチにとっては良いタイミングで赤信号が青に変わり、これ以上追求されると困ってしまうと判断した彼女は、彼より一足先に歩き出す。


「い、行こっ」


 短く言い終えたその瞬間、ポチはふわりと手が軽くなるのを感じ。


「持つからさ」


 耳元でそんな声がして、ふり向くともう姿は無く、前に向き直るころには米袋を二つ抱えた修真が歩いていた。


「ほら、車に轢かれるぞー?」


 肩越しにそう言われて、ポチの心に不満が沸騰していく。あろうことか一瞬の油断を突かれて米を奪われてしまった。

 キッと目を鋭くさせ、駆け出す。

 その背中に追いついて。


「かっ、返せ!」


「おわっ!?」


 信号を渡った修真は横からひったくりのような勢いで米袋を奪い返しにやってきたポチに驚いた。しかも奪ってすぐ、何も言わずぱたぱたと走り去ってしまうではないか。


「……は?」


 な、何なんだ。

 もちろん、取り残された修真は呆然とするしかない。彼女の後姿と揺れる真珠色の髪を唖然として眺めながら、その行為の意味の推測を試みてみるが。


(そ、そんなに持ちたかった……のか? そうだとして――うん、わからん)


 一方、米袋を奪還し、彼の数メートル先をゆくポチはご立腹だった。唇を固く結び、その眉はやや吊り上っている。もし彼女が肉食獣だったら低く唸り声を上げていたことだろう。


(~~~~ッ!)


 これは修真が持ってはいけないのだ。

 自分が持たなければ楽しくないのだ。

 だって……

 ――お手伝いなのだから……


「…………え、えぇっと。あ、おい!」


 数秒、色々と考えていた修真だったが、このままではポチに置いて行かれてしまいそうなので駆け足で近寄った。

 が、しかし。急に並行して歩くのを躊躇い、その数歩後を歩くことにしたのは、彼女が警戒心剥き出しで大事そうに米袋を抱いていたからだった。


(うわっ、これ完全に怒ってる……)




 ―『蜂のように刺す』―


『ポチお嬢様、連れて行かれてしまいましたね』


 白いスケッチブックにマジックが走って、それだけ見るとどこか物悲しい文を書き記した。

 乾いた洗濯物を畳んでいた黒髪の少女はその文を見て、半透明の和装の女性に笑顔を見せる。


「たまには良いんじゃないですか~? 二人で行動っていうのも珍しいですし~」


 幽霊さんは半透明の胸の前で両手を合わせて楽しそうにスケッチブックを浮かばせる。


『そうでございますね。きっとお嬢様は喜んでいらっしゃると思います』


 あの後、マキたちは一発ずつどつかれる事でなんとか荒れ狂う修真を鎮まらせることに成功し、しかし、その引き換えにポチという尊い犠牲を払っていた。無理矢理に引きずられて行ったとも言うが。

 それでもきっと、ポチは楽しんでいるだろうという確信がなんとなくマキと幽霊さんにはあって、お互いにそう思っているであろう事が可笑しくて二人はくすくすと笑う。

 洗濯物を畳み終え、マキはん~っと大きく伸びをしながら言った。


「それにしても修様をからかうと面白いですねぇ~」


 幽霊さんがちょっと申し訳なさそうな表情で疑問を字に表した。


『けれど、よろしかったのでしょうか。あのような事を修真さんにしてしまって』


 生活に不可欠な買い物という重要な使命を背負った修真をからかう、そのような事が許されるのだろうか。ただでさえ、ヒノトオロチを封印し続ける役目を担っていたこの家を存続させるために住むという決断を下した彼には恩義を感じているのに(当時の時点では利害関係は一致している)、あんなおふざけに加担してしまった私は……。

 と、負い目を感じている幽霊さんをマキは一言でもって笑い飛ばす。


「幽霊さん真面目ですねぇ~!」


 あんまりにも釈然としなくて幽霊さんはやりきれない溜息を吐くような動作をした。

 それに釈然としないのは、それだけではない。今朝の出来事は、いつもと変わらぬおふざけだったが、なんとなく話が上手く出来ていやしないだろうか。いや、上手くというよりも、逆に不自然な――そう、休日に出かける時はいつも修真と行動を共にするはずのマキが、ここに居る時点でおかしい。

 幽霊さんは真剣な面持ちで、目の前で笑っている夜色の髪の少女に問う。


『ミュランダお嬢様は気づかれてはいませんが、今日の事はもしや、マキさんの筋書きなのでしょうか』


 マキはそのスケッチブックを見て、にこにこと微笑むだけ。何も答えようとしなかった。

 煮え切らない様子の彼女に、幽霊さんはさらに踏み込んで質問。


『だから修真さんも?』


 ここでマキが笑った。


「あはは、まっさか~! 修様にそんな脳みそ無いですよぉ~!」


 その言い草に幽霊さんの目は点になっていた。


「修様の名誉のために言ってしまいますけど、修様はそんな高尚な事ができるタチじゃないんです。まぁ、そこが良さと言ったら……惚気のろけに聞こえてしまいますかね?」


 ぷるぷると首を横に振る幽霊さん。

 それからマキは何かに観念したのか、困りながら話し出した。


「あ~、まぁ、そうですね。半分は筋書きってところです。もう半分は……優しさ、いえやっぱり……ごめんなさいの気持ち――ん~、これも違う。自分でも上手く説明できません」


 この時の彼女は不思議な印象だった。少女なのか、それとも母親なのか。どちらでもなく、どちらでもあるような。しかし、どちらにせよ未熟さを含んでいた。

 その表情を好意的に思えた幽霊さんは、半透明の着物の袖を口元に当てがい暖かい微笑を浮かべる。まるでくすくす笑うように。


『お母さんが独り占めはいけませんよね』


「ええ。面目無いです」


 首に手を当て目を細めるながらマキは答え、その後、返答としてではなく独り言として「まったく、本当に……」と呟いた。

 ポチという子は人前、特に家族の前だと修真に甘えようとしない。強気に振る舞うのが常だというのに、甘えるという正反対の行為に及ぶのが恥ずかしいのだろう。という理解は、今やマキと修真だけではなく幽霊さんでさえ持っている。

 少々後悔するマキに、幽霊さんは気遣いとしてスケッチブックを一枚捲って見せた。


『ポチお嬢様、上手に修真さんに甘えられているでしょうか?』


 マキはそのページを見て、ぷっと吹き出した。


「ん~、似た者同士だからケンカ……まぁ、上手くやってるんじゃないですか?」




 街中から住宅街へと移り変わった景色の中を歩き始めた二人の間には、微妙な距離が置かれている。失敗に後悔する修真と、三歩ほどで追いつける前を依然として早足で歩くポチ。

 さっきとは打って変わって気まずい雰囲気である。

 とても気まずい。

 かな~り、気まずい。


(と、とりあえず、もう一回謝る……いや、そもそも何で怒ったんだよ。米持っただけじゃね? それの何が……まぁ、何かが気に食わなかったんだろうけど……)


 修真が悶々と悩んでいると、


「……」


 突然、ポチが歩みを止めた。

 それに遅れること半秒、修真も足を止める。

 くるりと振り返ったポチを見て、何か、凄い暴言でも飛ん――いや、下手をしたらブライゼルが飛んでくるかもしれないと思い、必要以上に警戒して身構えた。


「……怒ってないから」


 ぽつりと呟いた言葉が聞き取り辛くて、修真はまたも訊き返す。


「はい?」


 無言の後姿が、ぎゅっと米袋を抱き締めたのが見えた。次に耳に届いたのは、拗ねたような、困ったような、どちらとも思える娘の声。


「だから、別に……さっきのこと、怒ってるわけじゃないし……」


 表情もその言葉に見合ったものだと見て取れた。


「えぇッ、怒ってないの!? うそ!?」


 予想外の言葉に仰天する修真。

 そんなに驚かれるとは思っていなかったポチはどこを見ていれば良いのか分からなくなって下を向き、なんとなく自分のつま先に焦点を合わせる。

 そのまま。


「……う、うん。怒ってはいない。なんか、ちょっと大きい声出したらパパがしゅんってなって謝って、でも私は怒ってないのに許すのも意味不明だから無視した……怒ってると思った?」


 彼女自身気づいてはいないが、じっとしていられずせわしなくアスファルトをサンダルの先でアスファルトを突付いている。

 訊かれた修真は、思っていた事をまるっと吐き出した。


「うん滅茶苦茶思った。やっちまったなー、とか思ってた」


 それに、ぴくっと眉が反応し、ちょっと口を尖らせる。


「私……そんなに怒りっぽくないし、人として」


 うんうんと頷き、あれで怒られて納得いかなかった自分が間違いではなかったと確信する修真。


「そうだよな、良く考えたらそりゃそーだよ。いや、俺も何で怒ったんだろうなーって分かんなかったんだよね」


 と、真顔で返さたことをポチは、これはこれで何か違うような気がしてならなかった。

 何か違うのだ。別に気にしてほしかったわけではないが、それにしても気にしていなさ過ぎる。まったくもうっ。

 と言い返してやろうと決断し、

 決断したのに、


「わっ……私のこと何だと思ってるわけ?」


 彼女の口から出たのはそんな、今しがた考えていたものとはかけ離れた問いだった。気づいてはいないが、表情もどこか棘がある。

 そしてこの問いに、バカそうにへらへらした顔(ポチから見て)で即答する父。


「え、変なヤツとか?」


 鋭いローキックが修真の左脛ひだりすねに炸裂した。




 ―『妹の逆襲』―


「んでさ、それ、持ちたかったのか?」


 大事そうに抱えた米袋を指差されて、ポチは沈黙しながら首を小さく縦に振った。二人は未だ、帰路の途中である。


「……へ、へぇ~」


 などと、表面上はそう言いながら心の中では、本当に持ちたかったのかと驚愕。我ながらにしても娘が米袋を持ちたい子とかありえない。

 なんで米!?

 普通そんなの持ちたいか!?

 そんな疑問で頭が一杯になってしまう修真はもうそれ以外の事を考える事が出来なくなってしまい、自分で考えてもさっぱり答えが見出せないので、結局直接本人に訊く事に。


「えーっと、どうしてか聞いていい?」


 すたすた歩きながらぶっきらぼうに返答するポチ。


「重いから」


「は? 重いからって、重いの嫌じゃないの?」


「嫌だけど」


「嫌なのに持ちたいのか!?」


「そうだよ。悪い?」


「いや、悪くはないけどさ……」


 爆発的な矛盾。いつしか目の前には全ての秩序が乱れた混沌カオスだけが広がっていた。

 一体、こいつはどうしたいんだ。

 もう何も考えられない。

 意味が分からない。

 もうダメだ、もう……

 とか、修真が真っ白になっているその間、ポチは過ぎ行く街並みをぽけーっと眺めていて、それを発見した。


「……あ」


「え!?」


 過剰に反応する修真に不安げな視線を向けつつ、指でそれを示す。


「……ちょっと寄り道していい? 買い物"手伝ったんだから"それくらい当ぜ――」


 彼女の言葉で我に帰った修真は、


(――し、しまったッ)


 と、ポチが片手で口を塞いでいるのに気づかず、前方を見やっていた。古ぼけた和風の建物に、『アイスキャンディー』と書かれたのぼりが立てられている。どうやら駄菓子屋のようだ。


「いいけど――菓子ならうちにあったぞ?」


「あ……いや、ち、ちがうの。ア、アイスが食べたいだけ……」


「あぁ、そういや暑くなってきたもんなぁ」


 ポチはほっと胸を撫で下ろした。

 それにも気づくことはなく、修真は家を出た時よりも高くなった太陽を見上げる。夏と呼ぶに相応しい青空に薄っすらと漂っている白い雲。


「アイス……アイスか」


 アイス食べても――いや、言われてみれば食べたいかもしれない。


「ん~、よっし。そんじゃ寄ってくか」


 買い物を手伝ってくれたポチにご褒美としてアイスくらい買ってやるのも良いだろうと、こくんと頷いたポチと共に駄菓子屋に入った。

 外の明るさとは対照的に、様々な駄菓子が陳列されたレトロな雰囲気の店内は薄暗くひんやりとしていた。天井に取り付けられた扇風機の音と、業務用冷凍庫の動く音だけが静かに店内を満たしている。人の気配は感じられない。


「……」


 怪訝そうに修真の顔を見上げるポチ。きょろきょろと辺りを見回す修真。


「あの~、すいませ~ん」


 声をかけると、店の奥で何か物音がして間もなく、三日月のように曲がった腰のおばあさんがえっちらおっちら出て来て、しわがれた声で出迎えた。


「あい、いらっしゃい」


 そしてポチを見るなりほっほっと笑みを浮かべたのである。


「おや~、めんこいお客さんだこと~。お人形さんみたいだねぇ~」


 ポチは見ていた。修真が咄嗟とっさに顔を背けたのを。

 肩が震えている。ぷるぷる震えている。

 ポチには分かった。

 ――わ、笑っていやがる!


「……」


 今度は修真が笑いをこらえるので必死だった。確かにポチにはお人形さんという比喩は似合うかもしれないが、それはあくまでも外見の話なのだ。


「お、お人形さんだってよ……」


「う、うるさい」


 ポチは肘で小突いてからかう修真をぎろりと睨み上げる。

 そうとも気付かないおばあさんは、にこにこと微笑みながら可愛らしい来客に話し掛け続ける。


「お嬢ちゃん、今日はお兄ちゃんと買い物かい?」


「おじょっ――」


 子供じみた呼び名にポチはおもいっきり顔をひきつらせた。この老人も悪気があって言ったわけではないだろうが、ポチにしてみればこの老人の何倍も活動しているわけで、お嬢ちゃん呼ばわりされるいわれは無い。問題があるとすれば今の姿だが。

 にこにこと微笑むおばあさんに自分の存在について言葉を返そうとして、


「だ、だれが――」


「そうなんですよー。買い物を手伝ってくれて」


 修真が割って入り『お嬢ちゃん』を肯定した。おばあさんはお手伝いもできるお嬢ちゃんに感心し、そうかそうかと頷いている。


「良い妹さんだねぇ」


「俺にはもったいないくらいで」


 と、謙遜しつつ、修真はどこか可笑しかった。あのポチをお嬢ちゃんと呼べる人間が居ることにも驚いたが、その“お嬢ちゃん”がなんともミスマッチで良かった。

 そこで、俯いてわななくポチがすぅっと修真の背中に手を伸ばす。

 ぎゅむ!


「ぃいッ!?」


 少女の兄が上げた突然の奇声に、「はて?」と首をひねるおばあさん。それに見えない角度で、ポチが背中を抓り上げている。

 そうとも知らないおばあさんはまた朗らかに笑って、また言った。


「そうなのかい。お手伝いなんてえらいねぇ」


 そんな言葉に顔を見合わせる二人。

 修真が再び笑いをこらえながら顔を逸ら――


「いぎッ!?」


 それよりも速く、ポチはその足をどすっと踏んづけた。本気を出せば分厚い氷をも踏み砕く一撃である。

 奇声を上げてしゃがみ込んだ少年に、おばあさんは怪訝そうに声をかけた。


「お兄ちゃん……どうかしたのかい?」


「いやっ、あの――」


 じんじんと痛む足に震える修真が言葉を返そうとした瞬間に、やけに平坦な口調でポチが言う。


「なんでもないです。アイス下さい」


「アイスかい? アイスはそこだよ。全部百円だからね、好きなの選ぶといいよ」


「うん、どうも。ちょっとこれ」


 しゃがんだ修真にぼすっと米袋を押し付け、冷凍庫まで近寄って振り返った。


「パ――」


 ポチははっとした。


(い、いけない……)


 ここでパパと呼んでしまえば、老い先短い老人の幻想を壊すことになるのではないだろうか。この老婆の目に映った微笑ましい兄弟、その幻を壊すのはいささか非情なのではないだろうか。

 などと、失礼なのか優しいのか良く分からない考察(考えすぎともいう)を経て、ポチは一つの結論に辿りつく。

 ウソを真実にしてやるしかない!


「お、おおお、お兄ちゃん! どどっ、どれにするっ?」


 不自然としか言い様がないひっくり返った声である。


「はぁっ? お前……あぁ、そうか。俺のは適当で頼む、妹よ」


「はっ……あははっ……」


 ポチの表情は怒っているのか笑っているのか判別できないが、とにかく噴火寸前の顔。何しろ、何かを噛み潰すように歯を食いしばっている。


「わっ、わかったよぉ!」


「よし、妹よ! 財布、右のポケットに入ってるから取って――」


 と、からかい続ける彼を蹴り飛ばしたくなりながらも、デニムのポケットからピンクのがま口財布を取り出し、半ば正拳突きのようにお金を払う。


「こっ、これください! はい二百円!」


「ありがとうね。またおいで、お嬢ちゃん」


「う、うん! またくるね!」


 おばあさんのイメージを壊さないようにそこだけ愛想良く答え、しかも手まで振ってあげるという最大限のサービスを振る舞い、


「あ、おい――」


 おばあさんに見送られながら、アイスを片手に修真の背中をずいずい押しやって店の外へと駆け出した。そのまま駄菓子屋の前の道路を挟んで正面に位置する小さな公園まで入っていく。

 てっきり店を出るまでと思っていた彼は、未だにずいずい押しやってくるポチに尋ねる。


「おいおい、どこまで行っ――」


「――死ねッ!!」


 どぐぉ!

 そんな鈍い音だった。振り向き様からの本気グーパンチが修真のわき腹に決まっていた。


「ぐふッ! おぅ……おふっ、ごふぇ!」


 それはもう肉を抉り取るかのようなパンチ。パンチを超えたパンチ、言わば殺人パンチ。

 がくっ、と膝から崩れ落ち、わき腹を押さえ痛みに悶絶する。

 そんな彼にポチは俯きながら怒りがまだくすぶっている拳を握り締め、顔を赤くして憤慨した。


「おっ、怒るよッ!」


「お……まえっ……もう、怒って……る、じゃねぇか……くっ、はは、は、おっふぇッ、ごほっ! べ、別にそんな怒る事じゃなごふぁあ!」


 怒り心頭のポチに対して、それでもなお、修真は可愛らしく呼ばれてしまったポチを笑った。お嬢ちゃんと肯定したあたりに腹を立てているらしい事は流石さすがの修真でも気づく。

 "お嬢ちゃん"は、強い口調と一層強まった恨みがましい目で修真を睨む。


「恥ずかしかったのに!」


「えほっ、こほっ……ふぅ。いやー、悪い悪い。でもちょっと面白かったし、いいじゃん。褒められてるんだからさ。あと暴力反対、けほ、っぇほ!」


「……むッ」


 ポチは納得いかないという表情で眉根を険しく寄せる。確かにけなされたわけではなくむしろ好意としてだったのだろう。それは理解できたがそれでもポチとしては素直に嬉しくは思えない。お嬢ちゃんなどという子供っぽい呼称はミュランダが一手に引き受けていればいいのだ。

 それなのに修真は笑う。

 馬鹿にした風でなく、嬉しそうに。


「どうして笑うの!」


「だってそりゃ、お嬢ちゃんとか、可愛いかったからなぁ。逆に聞くけど、お前は何がそんなに嫌なんだよ」


「ぅ~~ッ」


 言い返せず、押し黙ったポチの心に妙な違和感が生じた。例えるなら、むずがゆい、そんな感覚だろうか。この前は修真に可愛いと言われてあんなに嬉しいと思ったのに、どうして今は……。

 そして、かゆい場所はかいてしまうのが当然の反応というもの。


「わっ、私は可愛くなんてない! もう大人なの! パパよりもあの老人よりもずっと大人なの!」


「老人って言うなよ……」


 やけに粘り強く否定し続けるポチの背格好はどこからどう見ても中学生くらいである。それに加えて修真の立場からすると可愛らしく思えてしまうのだが、どうやら彼女は子ども扱いされるのが嫌いなようだった。

 それにしても、


(……お、面白いな、こいつ)


 なんでこんなことで怒っているんだ。別に怒る所じゃないだろ。

 そんな風に考えている修真がポチの心の機微――女の子っぽい部分を褒められてしまうと嬉しいながらも自分を大人だと思っている意思との相違でついつい反射的に怒ってしまう(照れ隠しで)、なんてことを理解する日は永久に来ないかもしれない。


「あーはいはい。そんなに怒ってるとアイスが溶けるぞ、お姉さん」


 ポチの中で何かが弾けた。

 お、思い知らせてやる。

 私がどれだけ嫌だったかを!


「わー! パパかこっいい!」


 突然、そんなことを言い出した。


「――は?」


「パパ超かっこいい! かっこいいね! すっごくかっこいい!」


 う、うぐ……、と一歩のけぞる修真。あろうことか、ポチは自分の味わった不快な出来事をそっくりそのまま彼に返していた。


「えーっ、どうしてそんなにかっこいいのー!?」


(……こ、これは)


 確かに嫌だった。

 確かに、言葉には出来ない不快がそこにあった。


(す、すっげー嫌だな……)


 傍からポチが言われているのを見ている分にはなんてことはない、微笑ましい日常のワンシーンに過ぎなかったのだが、自分が言われるとこうも言葉に困るものだとは。しかも連続攻撃で畳み掛けられ反撃の余地が無い。

 これを巷では、誉め殺しと言う。


「かっこいい! ほんとかっこいい!」


「わ、わかった! やめッ、もうやめてくれぇ!!」


 誉め殺されかけ、ストレスのあまり修真は謝りながら両手で耳を塞いで小さくなっていた。

 それをポチが冷ややかな目で一瞥いちべつし、ふんっ、と鼻を鳴らす。「思い知ったか!」と言わんばかりの表情で。


「お、俺が悪かった……。でも、あのおばあさんもそんなに立て続けに――」


「やっぱりパパかっこいいね」


「なんでもありませんでした」


 決して浅くはない精神的ダメージからよろよろとベンチに座る修真。その横にどっかりと座る冷酷無比のポチ。

 娘に震えながら彼はうやうやしげに尋ねる。


「ポ、ポチ様どうでしょう、アイスでも食べませんか……?」


 その提案にポチ様は深く頷かれたのです。




 ―『知ったかアイス』―


 どさりと米袋をベンチに置いて背もたれに身を預けた。同じようにその隣にポチも座る。

 ちょうど木陰になっているため、日の当たっている場所よりも涼しい。ポチには日陰の中から見える人っ子一人居ない公園の風景がなんだか灼熱地獄のように見えた。


(……)


 静かだ。

 暑いのは嫌だけど、忙しくなくて、うるさくもなくて、胸の中にぐちゃぐちゃした感覚もない、落ち着いた、穏やかな、楽しい。つい微笑んでしまいそうな、今日の暑さなんか似合わないすっきりした感覚。

 普段ならなんてことない景色も、心なしか綺麗に見える。

 パパと仲良くすると、こんなにも景色が違ってみえるのか。

 だったら、もうちょっとここで……

 帰ったら、うるさくなってしまうから……


「あー。っていうか、忘れてたけどアイスの金――はい」


 修真は、財布から二百円取り出してポチに差し出した。

 そんなつもりじゃなかった娘は首を横に振る。


「ううん。いらないよ」


 そんなつもりじゃなかった父もここばかりは譲れない。


「いや……そういうわけにはいかないって」


「もぉ~、いらないってば」


「いいから!」


 むかっ。


「しつこいなっ、そんな端金はしたがね必要ないッ!」


 と、切り捨てたポチに、それでもなお修真は食い下がる。


「お前っ! 百円を端金とか片桐家の人間にあるまじき金持ち発言だぞ!  ……いや、そうじゃなくて」


「だからいらないって言ってるでしょ。何回言えばわかるの」


「だけど、娘におごってもらう父親とか聞いたことねーよ。ここは俺の言う通りに――」


「買ってあげたの! いつものお礼!」


 隠しておくつもりだった本音をとうとう大声で吐露してしまうポチ。

 きょとんとしながらも礼を言う修真。


「あ、おう、ありがと……」


「どーいたしまして!」


 鋭く突っぱねたポチはべしっとアイスを修真に叩きつけてすたすたとブランコまで歩いて行ってしまう。

 きぃきぃと軋んだ音を立てながらブランコが揺れ始めた。


「それじゃあもらうなー」


 一応断っておいて、どちらもソーダ味の棒アイスの袋を破いて口にくわえた。気温が高いせいか、アイスの味も冷たさも美味しく感じる。


「うーん、風流だ」


 夏だなぁ、としみじみ思いながら、ブランコを揺らすポチに声を掛けた。


「お姉さーん、アイス溶けるぞー?」


 ぴくりと反応する耳。けれど、なんとなく腹が立つし、悔しいから無視。

 と、思っていたら。


「食べないなら早く帰ろうぜー。日焼けするぞー」


(……な)


 ちらりとベンチを見ると、アイスを咥えた修真が立ち上がって帰ろうとしている。


(何を! そんなのダメに決まってるのに!)


 その瞬間、ポチは暴れるようにブランコから降りて、ずどどどっと修真に押し寄せた。


「歩きながら食べるの行儀が悪い!」


 無理矢理に腕を下に引っ張ってベンチに座らせた。

 どかっとベンチに尻餅をついた修真には、もちろんのごとくさっぱり訳がわからない。


「お……おい、急になにすんだよ」


「座って食べるの!」


 ただ、何かに腹を立てていることだけは確かである。しかもいきなり。


「は!? いや、どうしたの? お前、いつも行儀なんか――」


「どうもしてないからっ!」


 と、声が被る勢いで怒鳴るポチ。勢いのままの面持ちで、眉間にしわを寄せている。

 ぽかんと停止する修真。

 ポチは、その呆気に取られた彼の表情が物語っている困惑を見て取って、自分が大分、かなり、非常に、とってもおかしな事で腹を立てていることに気がついた。

 そして気がついたと同時に、思い通りにいかない不満と一緒に口に出す。


「んあぁぁあっ、もうッ! 私の言うこときいてよ!」


 修真の目が点になる。

 色々な意味で驚かざるを得ない。

 何しろ聞いたことがなかった。こんな滅茶苦茶なわがまま。


「いいからここに座って食べて!」


 もう一度、強く叱り付ける様に言って、


「……オッケー、わかった、わかったから落ち着け。座って食べます。これでいいな?」


 修真が銃を付きつけられた犯人のごとく両手を上げる。それを見て、ポチは急に大人しくなって頷いた。


「……うん」


 彼女が隣に座ったのを確認し、そろ~っと両手を下ろす。


(な、何なんだ。いつも行儀なんて気にしないくせに……)


 あまりポチと二人で出かける機会というものはないのだが、それにしても今日は奇行が目立つ。ポチがどうしたいのかが今一よく理解できない。

 米袋を持ちたがったり、

 行儀についてこだわったり、


(さ、さっぱり分かんねぇよ……)


 頭の中で考えていると、ブランコで遊ぶのはやめてしまったのか、落ち着いてアイスを食べ始めたポチを見やる。

 そこで唐突に、ピンときた。

 彼女は何も行儀についてこだわっていた訳ではないのだ。そう見せかけて、引き止めていたのだ――という可能性もある。


(……ん、まぁ、もう少し付き合ってやるか。誘ったのは俺の方だもんな)


 でも、それを訊くと彼女が怒ってしまいそうなので、そういうことで納得し、胸の内に秘めておくことにしておいた。

 修真は自分でも気づいていないうちに、落ち着いた笑みを浮かべて、話しかける。


「なぁ、ポチ。家の話なんだけどさ」


「なに?」


「あの家になってから家賃がないんだけど。なのに銀行に行ったらいつもの金額が振り込まれててさ。どうしようかなーって思ってるんだけど」


「そうなの?」


「そうなんだよ。だから、ちょっとだけ贅沢するか、全部貯金するか、ん~」


 ちなみに片桐家の金銭面のシステムはこうだ。毎月母からある程度の金額が支給され、そこから家賃、光熱費、食費、学費が引き落とされる。マキ達の生活費は色々切り詰めて捻出したり、とっくの昔に解約した携帯電話代などがあてがわれていたりするわけだ。そうこうしていると大した金額は残らないというのが毎月の生活なのだが、それでも残った金額は貯蓄するか、はたまた娯楽に使うかというように別れてくる。

 その内の家賃分が浮いたとなると、相当な金額になる。その使い道をどうするのかを修真は迷っていた。


「ほら、お前も欲しい物とかあるだろ?」


「え?」


「だってもう夏じゃん。服とか、水着とか、何か色々欲しいんじゃないの? やっぱり扇風機買おうかなって、さすがにもう限界が――」


「別に」


 え?

 と、言わないばかりの表情になった修真は、意外にも無欲な返答が帰ってきたことに目を丸くした。何かしらのおねだりをされるはずだったのに、この想定外な返答は逆に心配させる。


「い、いらないの? ホントに? 服とか、今の時期だと水着とかあるんじゃないのか?」


 訊かれて、ポチはふむと顎に手を添える。


「……服あるし、水着も持って――あ、エアコン」


「そうか。お前がいらないって言うなら、それはそれで、うん」


「無視するな! エアコン!」


「そうかぁ~、マジどうすっかな~。マキにでも聞いてみるか~」


「このッ……」


 ポチの額にびしっと走る青筋。

 しかし、もっと気になる物がポチの瞳に映り込んでいた。


「……あ。ちょっと、ねぇ」


「だからエアコンは無理だって言ってんだろー? あんなハイテク技術に頼らなくても人は生きていけるんだよ。わかったか、この現代っ子め」


「ちがう。何か書いてあるの……ほらここ」


「え? お前これ――」


 見てみると、ポチの食べ終えたアイスの棒に『アタリ』と書かれているではないか。見紛う事なき当たり棒である。


「おおっ! 俺、アイスのやつ始めて見たかも!」


「ふ、ふーん。そうなんだ……へぇ」


 と言いながら立ち上がり、ゴミ箱に向かうポチ。


「えぇっ!? お前それ捨てるの!?」


 ゴミを捨てるという行為を止められ、ポチは困惑の色が隠せない。難しい表情。


「え? ゴミはゴミ箱に――あ、不燃ゴ……いや、そんなバカな。記憶と判断が正しければこれは可燃ゴミで良いはず」


「違う! まずゴミじゃないんだよ!」


「……?」


 ポチは「なんだと?」という顔で当たり棒を睨みつけ、しかしそこは持ち前の賢さで秒を待たずして閃いた。

 そう、これは――


「――はっ、資源か。リサイクルボックス」


「そういう意味じゃねぇ! 俺、そんなエコロジーな人間じゃねぇよ!」


「はー? じゃあどうしろって言うわけ?」


 なんだか面倒くさそうな顔で訊かれ、修真はとある可能性を見出す。

 まさか……

 冗談とかじゃなくて?


「お前……」


 がっとポチの狭い肩を掴む。


「ま、まさかだけど、本当に知らないのか?」


 ポチは無表情の裏側で動揺していた。

 そ、そんなに常識なことなのか。

 こんな棒切れがいったい何だと言うんだ。

 も、もしかして知らなかったら恥ずかしい事なのでは……


「はっ? し、知ってるし。えぇっと……あ、そうか」


 言うや否や、ポチはおもむろに地面を引っ掻いて穴を掘り、そこへ当たり棒を……

 ――埋めた。

 間違いなく、見ている前で、当たり棒を、地面に、埋めた。埋めてしかも、ぽんぽんと軟らかくなった地面を叩いて、固めた。


「……」


「……ね、こういう事でしょ?」


 な、に、がっ!?

 くらくらと目眩すら感じながら、修真は尋ねる。


「……いや、あの、ごめん。なんで? なんでそれ埋めた?」


 肩をすくめるポチ。


「え? これを埋めると新しい木の芽が……なに、これも違うの?」


「……なんでそんな環境に優しいんだよ」


 修真は暗澹あんたんとしつつも、完璧に理解した。

 ポチは当たり棒という文化を本当に知らない。いや、よくよく考えてみれば無理もないだろう。彼女は元来、異界のモノなのだから。


「あ、あのな、その当たりって書かれた棒――当たり棒っていうんだけど、それを持って行くともう一本貰えるんだ。お得だろ?」


 ふむふむと頷いたポチは、


「なるほど」


 と、納得しながら、やっぱりゴミ箱に向かう。


「だからなんでだよ!? まだか! まだ俺の説明に足らない部分があるのか!」


 修真の勢いにぎょっとした彼女は心から怪訝そうにする。


「だ、だって、こんな棒きれもう一本もらっても仕方ないし……」


「あぁそっち!? アイス! アイスがもう一本もらえるの!」


 ポチは黙った。

 数秒、考えた。


(分かってくれた、のか?)


 すると彼女は、必死の説明を「はんっ」と鼻で笑い、強気な面持ちで言い放ったのだ。


「バカにしないで。こんな物でどうしてアイスが貰えるわけ? ミュランダならともかく、私にそんな低レベルのウソが通用するなんて思わないで」


「……」


 ちきしょう!

 と、心の中で叫びながら修真は自分の膝を叩いた。

 かなり信じていない。ここまでの流れから、からかっていると思っているのだろうことが見て取れた。

 だとしてもこれは事実で、真実なのだ。なんとかして伝えなけれ――


「って、おい! どさくさに紛れて捨てようとしてんじゃねぇ!」


「もー。今日はどうしたの?」


「いや、あのね、本当なんだよ。それでアイスが貰えるの、マジで」


 ポチは呆れたようにふるふると首を横に振る。


「もういい。そういうのいい。まず、こんな棒きれでアイスが貰えるっていう発想が無い。そんなことしても企業側にデメリットしかないのに。そのお得感で購買意欲を高めようとでも言うつもり?」


「いや、そうかもしれないけど、本当なんだよ。どうしたらわかってもらえるのかな……あぁ、お前の言うとおりだ。お得だからまた買いたくなるだろ?」


「そんなちゃちな演技で騙されないから。おとといきやがれ」


「……」


 どうしようもなかった。

 言ったことを全部信じてしまうミュランダもたまにどうかと思うが、ポチはポチで妙に常識があるためタチが悪かった。どうしてと問われても、そうだからとしか言いようが無いのに。


(どうやって証明すればいいんだ……)


 と、悩んでみたが、答えは実に簡単だった。


「あ、わかった! 交換しに行こう!」


 交換が可能な事を彼女の目の前で見せる事が、ここで議論を交わす以上の証拠になる。それさえ見せれば納得してくれるはず――いや、納得せざるを得ない。


「わざわざそこまでしなくても……子供だね」


 何か途方もない温度差がそこにあった。

 修真は思わず握り締めた拳を震わせていた。


「て……てめぇ、言ったな? その言葉覚えとけよ。本当だったら謝れよ。ごめんなさいだからな」


 ポチは軽くあしらうように鼻を鳴らす。


「ふん、いいよ。百回言ってあげる」


「よし、その前に一回洗うか。埋めたから砂だらけだ」


「うん」


 というわけで、砂まみれの当たり棒を洗った二人は公園前の駄菓子屋へ交換に向かった。本当に修真が店に足を踏み入れた時、ようやくポチは不味い雲行きである事を悟りそして、彼女の予感は見事的中。


「……」


「……」


 無事、店から出た二人は無言で公園のベンチまで戻ってきた。ポチはばつが悪いのか目を合わさないようにしている。

 再びベンチに腰を下ろした修真は、正面からポチの顔を覗き込んでやったのだった。


「で? 百回くらい何か言うことは?」


 ポチは、


「まぁ、本当は知ってたけどね……」


 非常に往生際が悪かった。





  ―『食事への探求』―


「ねぇ、このお肉ってどこ?」


 昼食の真っ最中に、ふとミュランダが尋ねた。彼女の箸には豚のしょうが焼きがぶらさがっている。余談だが、背の低い長卓の上には彼女が箸で持ち上げているしょうが焼き以外に、主食である大量のそうめんと、昨日のポテトサラダが並んでいる。

 食卓を囲んでいた一同は彼女の突飛な発言に、


「あ、ごめん、そこのネギ取って」


「はいどうぞ。私の愛がたっぱり入ってますよ」


「どの過程で入っ……たっぱり?」


「ポチやめとけ、気づくと喜ぶぞ」


 全く動じず、食事を摂っていた。ある意味“慣れ”というものなのだろう。

 返答を待っていたミュランダは少々ぽかんとしていて、どうやら自分が無視されているらしい事に気づいた。

 けれどこの程度で彼女の心はめげない。おもむろにミュランダは長卓をぐるっと回り、向かい側に座っていた修真の横まで這って行く。

 真横まで行っても、修真は黙ってそうめんを啜っていた。

 その横っ腹を、

 人差し指で、

 ――つん。


「――ぶっ!」


 修真は口の中に入ったそうめんをつゆの入ったお椀に噴射した。


「ちょ、修様! 汚いですよ!」


「げほっ、ごはっ! ち、ちげーよこいつが――何すんだよいきなり!」


「ねぇねぇ、このお肉ってどこなの?」


 腕でぐっと口元を拭いながら修真は心底怪訝そうな顔をする。マキとポチはこいつは何を言い出したんだ、と表情を険しくしていた。


「どこって、何が!」


 ミュランダは這って自分の座布団まで戻り、皿に置いておいた箸としょうが焼きを持ち上げ、もう一度極めて平静に尋ねる。


「だから、このお肉は、誰の、どこの部分なの?」


 そういうことか、と理解した修真はに落ちないまま事実を回答。


「ああ、普通に豚の肩の辺りだけど……」


 何を急に疑問に思ったのか知らないが、彼女は肉の部位と種類が気になったらしい。


「ふ~ん……」


 と、難しい表情で豚肉のしょうが焼きを見詰めるミュランダ。それから、何を思ったのか、ぱくっとしょうが焼きを口に放り込み、ゆっくりと箸を置いた。

 もぐもぐと咀嚼し、ごくんと飲み込む。

 すると突然、

 がぶ!!


「――んぃッ!?」


 ミュランダは隣で味噌汁をすすっていたポチの肩に、吸血鬼のごとくかじり付いた。もちろん声を上げるほど痛かったポチは、平手打ちで怒りの報復。


「な、なにするッ!!」


 ばちーん!

 と、思いっきり引っぱたいた。ミュランダはまるで殴られたかのように、畳にどさっと崩れ落ちる。


「あ~っ、ミュラちゃん大丈夫ですか~! いきなり噛み付いたりしたら叩かれますよ~!」


 マキに助け起こされた彼女は、うぅっと涙目でぴりぴりする頬をさすりながら言った。


「ぅぅっ、味しないし、硬いし、あんまり美味しくないよ……」




  ―『目には目を』―


「じゃあこれはどこの部分か答えて」


 今度はポチが言い出した。

 大方、やり返すつもりなのだろう。有名な法典もびっくりな理屈(例を挙げるならば目には目をではなく、目にはレモン)を常とする彼女がやる事なのだから倍返し以上であることは明白だ。すなわち、待っているのは大惨事である。

 修真は、テーブルから身を乗り出して箸を突き出しているポチに目を細めて言う。


「いや、確かに今のはミュランダが悪かったけど、やめとけよ……」


「いいからッ! 答えて、早く!」


 ばん!

 というのはテーブルを叩いた音である。


「答えろって言われてもなぁ……」


 どう答えた所で待っているのはポチの報復と、そこから勃発する姉妹喧嘩なのだから修真は悩むしかない。ミュランダもはらはらしながらこちらを見詰めていた。

 自分に全ての決定権が委ねられている。

 いたたまれなくなった修真は、何かを誤魔化すように頭をぽりぽり掻きながら助けを求めてマキの方を向いた。


「あ、えー、マキちゃんはどう思う?」


 マキはこちらに背を向けてそうめんを食べていた。


「おいてめッ――」


「パパ!」


 一喝された彼はマキを追及するのをやめ、更にずいと突き出されたポチの箸を見る。


「え、あっ。えーっと……」


 箸に挟まれているものを見る。

 まじまじと見る。

 更に更にずいずい向かってくる“それ”に、ポチの威圧に、修真は観念する以外の術が見当たらなかった。そして彼は意を決し、渋々それの名称を答えた。


「……だってお前それ、ネギだぞ」


 ミュランダが逃げようと立ち上がった。

 が、それが叶うことは無かった。

 がぶ!!


「ひぎゃあああああああ!! あたしの耳ってネギだったのぉぉぉぉおおおおおおッ!?」


「ちょっとしょっぱい?」


 妹が姉に噛み付き、姉が妹に噛み付き返す――そんな阿鼻叫喚の事態の最中で、


「やっぱり暴力はいけませんよねぇ」


『ノーモアウォー』


 マキと幽霊さんは平和を祈ってやまない。




 ―『悪戯っ子』―


 強い日差し、白い視界。きらめく水の粒が、地面からこんなにも近い場所に虹をかける。

 手にしたガーデニングホースの出口から水が出て行く様を、修真はぼーっと眺めていた。わざわざホームセンターまで行って買ってきたホースを手洗い場の流し台に取り付け、それを片桐邸の庭まで引っ張ってきたのだ。


(あぁ、なんで庭に蛇口ねーのかなぁ……)


 というのも、一々ジョウロで水やりをしている幽霊さんの為に人肌脱ごうと思い立ったからだった。

 そしてここまでやり終え、いざ庭の植物に水をやろうと縁側に腰掛けた所だったのだが、不思議と彼を動かしていたやる気のような物が雲散霧消したのである。簡潔に言うとめんどうになったのだ。

 縁側に座った修真は、とめどなく水を吐き出し続けるホースの出口を指でつぶし、出て行く水の形が変わる様子をただただ眺めている。

 そこへ、


「何してるのー!」


 と嬉々として廊下を走ってきたミュランダが、修真の背中に飛びついた。


「うおぉっ」


 予期せぬ事態に体勢を崩す修真。何か冷たいと思えば、持っていたホースが自分の足へと水を吐き出し、ジーンズを濡らしている。


「ねぇねぇ、なにしてるの!? 長いのが向こうから続いてるよ!」


 興味深そうに、手洗い場のある方を指差して尋ねるミュランダ。その表情には清々しいほど邪気が無い。

 修真は自身の足に放水したままどうするわけでもなく沈黙する。

 不思議そうにするミュランダ。

 そして、


「……なぁ、ミュランダ?」


「なぁに?」


「騙されたと思って、ちょっと庭出てみろよ」


「ん……うん!」


 それはなぜなのか、という疑問を後回しにして元気の良い返事を返すと、彼女は言われた通りに置いてあったつっかけを履いて数歩進んで振り向いた。

 ――その時だった。


「びゃあああああああああああ~~ッ!!」


 ミュランダは驚いて悲鳴めいた声を上げる。修真は感情を失ったような無表情で混乱する娘の顔にホースを向けていた。

 逃げ惑い、背を向けるミュランダ。しかし、放水の手は止まらず、今度は背中にばちゃばちゃと水がかかる。


「だぁぁぁあまぁぁぁあさぁぁぁあれぇぇぇえたぁぁああぁぁぁぁあ~~ッ!!」


 彼女が何やらぐるぐる回りながら水に追いやられていくのを見ていて、修真はようやく感情を取り戻した。


「あっはははは!! ぐはっ、だはははは!!」


 ようやく放水が止まり、びしょ濡れになったミュランダは髪やら服やらいたる所から水を滴らせ、修真へと向く。

 腹を抱えて笑っている。床をばんばん叩きながら。

 そんなパパを見ていたら、ミュランダにもなぜだか笑いがこみ上げた。


「やははははは!! 服濡れたははははは!」


 庭でひぃーひぃー言いながら爆笑する父と娘。

 笑いも治まらぬうちに、ミュランダが楽しそうに言う。


「やははは! パパもっと、もっとやって!」


 修真は裸足で庭に降り立ち、爆笑しながらホースを空に向けた。すると、ミュランダの下へ、雨のように形を変えて水が降り注ぐ。


「キャ~~~~!」


 と、ミュランダは頭を抱えながら逃げ惑う。その最中に、目の前に小さな虹がかかっているのに気がついた。


「あ!」


 今度は放水の中、ぴょんぴょん飛び跳ねて虹を掴もうとする。が、彼女の手は何度も虚空を掴んでいる。

 修真は虹が消えないように、上手く放水を続けた。


「あははは! ぜんぜん取れない~~~!!」


 虹と戯れるミュランダだったが、急に水の向きが変わり、虹が消えてしまった。ちらりと修真の方を見ると、『こっちおいで』と手招きしている。


「なになに~~!?」


 寄って来た娘に、修真はこれまでとはまた違う、険しい表情で言った。


「おい、背中に変なのついてるぞ。毛虫かそれ?」


 その言葉を耳にした途端、彼女の快活な笑顔が凍りついた。と、思いきや今度はその場でどすどす地団駄を踏み鳴らす。


「――え!? やだやだ毛虫キショイから嫌い! 取って早く取って!!」


「わかったわかった。取ってやるから後ろ向け」


 言われるがままに背中を向ける。服が濡れているだけで、他には何の異常も認められない。否、異常などあるはずが無かった。

 毛虫が背中についてしまっていると信じ切り、その怯えと嫌悪から身を強張らせる彼女の背後。それすなわち、隙だらけの背中。

 修真はニヤリと口の端を上げ、

 手にしていたホースを、えりから服の中へとぶち込んだ。


「ひゃっ――わっ、わっ、わぁー!!」


 吃驚びっくりしたミュランダがぶんぶん腕を振り回して暴れること三秒。やがてホースは抜け落ち、玉石の敷き詰められた地面に首を振り回すようにして転がった。

 修真はそれを見てまたもや大笑い。服が汚れることも気にせず地面を転げ回った。


「ばはははははっ!! 腹が、腹がーっ!!」


 そんな彼をぬっと影が覆う。


「は――ッ!?」


 気づいた頃には時既に遅し。びしょ濡れ娘がとびっきりの笑顔で手にしたホースの口はこちらを向い――

 ばちゃばちゃばちゃばちゃー!!


「うっ…………」


 修真は、修真の着ていた衣服は、一瞬にしてミュランダと同じ状況に陥った。けれど、蒸し暑かったのが水を浴びた事によって消え去り、逆に心地よい爽快感すらある。

 水を浴びて停止した父を指差し、爆笑する娘。そに釣られるように彼も笑い出した。


「きゃははははははは!!」


「うはははははははは!!」


 こうして出来上がった精神状態が昂った二名様は、これ以上お互いを濡らしても意味の無い事を悟り、新たな同志を作り出そうと画策するのだった。



 笑いで吹き出しそうになりながら、ミュランダが裏庭からポリバケツを持ってきた。修真はしゃがみこんでぷるぷるしながら、ぐっと親指を立てる。この時点で、二人は完全にいたずらっ子に変貌を遂げていた。

 彼女が両手で持ったバケツに、修真が水を溜めてやる。

 これで準備は整った。

 二人は顔を見合わせ、これから起こる事に胸を弾ませ、ぷるぷる笑いを堪える。

 はぁはぁ呼吸しながら目尻を拭う修真の肩を、ちょんちょんと何かが突付く。

 何かと思って振り向くと、ミュランダが頭上に掲げたバケツをひっくり返す所だった。

 ざばーーっ!!

 と、水を浴びることになったのは無論、彼女自身である。

 何を思ったのか突然自爆したミュランダを、彼はおさえ気味に笑いながら「お前バカか。何がしたいんだ」とばかりにぺしりと叩く。

 そして、もう一度バケツに水を溜めた彼らは、ついに行動を起こした。


「おーいマキー!! 大変だー!!」


 数秒すると、いつもの如くエプロン姿のマキが家の奥からやってくる。


「はーい、呼びました~? あ、ホース繋いだんですね。ご苦労様です~」


 廊下を這う水色のホースを見てマキは微笑む。これから何が起こるのかも知らずに……

 段取りはこうだ。修真がマキを呼ぶ、マキが一歩縁側から降り立つ、頭上ののきに待機したミュランダがバケツでざばー。それが回避されたとしても修真がホースで追い討ちをかける、という非の打ち所がない作戦。

 修真は踊る胸を押し込め、計画がバレてしまわないように平静を装う。


「あぁ、呼びつけて悪い。ちょっとこっち来てくれ、何か妙な物があるんだよ……」


 マキは微塵の疑問も持たず、首を縦に振った。


「ちょっと待ってて下さいね。玄関から靴を」


「い――いやいやいや、いいから! すぐ終わるから裸足でいい!」


 彼のあからさまに慌てた様子に、何か普通ではない印象を感じたマキは眉をひそめ、じーっと見詰める。


「……」


 怪しい雲行きである。何か妙な物が庭に落ちている、普通に考えればおかしい。それに何故玄関へ行く事を拒むのか。拒むのならばそれなりの理由があると考えていい。

 マキはその鋭い洞察眼をもって周囲の様子を流し見た。

 庭が異常に濡れている。ただの水やりでこんなにも水浸しになるものだろうか。

 というか――


(修様、髪も服もびしょ濡れですね……)


 それらの異変を発見し、マキは疑いの眼差しで修真に言った。


「だったら、その妙な物とやらを、ここまで持ってきてもらえませんか」


「――え、えぇっと……ちょっと待ってろよ……」


 早くも修真&ミュランダの立てた計画が頓挫とんざしようとしていた。

 動揺する彼の視界には、軒に待機するミュランダが「どうするの!?」というジェスチャーを送っているのも見えている。

 ピンチである。下手に動けば、墓穴を掘る事になる絶体絶命。だが、逆を言えばピンチはチャンスでもあった。


(そうか! これならいける!!)


 彼はたった今思いついた新たな手段に勝ち目があると確信し、行動に移る。

 手にしていたホースをぽいと投げ捨てた。


「ごめん。本当は、お前がこっちに来たところでホースで水かけてやろうと思ったんだ。でもお靴とか履いてたら干すのも面倒だと思ってさ……失敗しちまったなぁ」


 驚いて目を丸くするマキ。呆れて物も言えないとはこの事だった。子供じゃあるまいし、暑いからと言って服をびしょ濡れにしてまで遊ぶなんて……

 と、ため息を吐くマキに、ちょっと寂しそうに修真は言う。


「……ま、いいや。タオル持ってきてくれない? このままだと家に入れないからさ」


「んもー、しょーがないですねぇ」


 マキは口を尖らせながら踵を返し風呂場へと向かった。

 バスタオル一枚手に取って、縁側へと戻る。


「お、ありがとありがと」


 すぐそこまで来ていた修真へ、


「たま~に子供っぽくなるんだから。水だってタダじゃないんですからね」


 という言葉を添えて、それを手渡す。

 その瞬間を彼は待っていた。タオルを差し出すその手を掴み、ぐいと庭へと引っ張り込む。


「――ッ!?」


 マキは体勢を崩し、落ちるように庭へ。

 修真は彼女がケガをしないようにそれを受け止めつつ、次いで素早く羽交い絞めに。

 体の自由を奪われたマキは驚愕を露にし、声を荒げる。


「しまった、罠ですか!?」


 耳元で修真の笑う声がする。


「油断したなマキ、お前も俺達の仲間入りだ! っていうか、意外と用心深いんだなぁ……」


 しかし、勝利したと言っても過言ではない状況にありながら、彼は思わぬカウンターを食らう事になる。

 マキはこの状況を、くすくすと笑っていたのだ。


「ふふっ、甘ちゃんですねぇ。この程度で私をどうにかできると本気で思ってるんですか~?」


 彼女の声には確かな余裕があった。それが何によって裏づけされたものであるか、修真には見当が付かない。


(完全に不意打ちだったのに、何か――!? いいや、そんな訳がない。これはハッタリだ!!)


 そう踏んで、修真は強気に出た、


「はっ、強がるなよ!」


 その刹那。


「いっやぁ~ん、耳に修様の生温かい吐息がぁ~♪」


「――」


 予想だにしていなかった彼女の反撃で、全身に嵐のごとき悪寒が駆け巡る。肌という肌に津波の如く鳥肌が立つ。


「――ひぃッ!!!!!」


 修真は脊髄反射でマキを放し飛び退き、距離を取った。この時、彼の心情を一言で表すと『気持ちが悪い』だった。

 見事危機を脱却マキは、自分から数メートル離れ、かたかたと小刻みに震えている修真にびしりと指を突きつける。

 ぐっと胸を張り、


「これぞ忍法お色気の術! あなたが私に勝てる訳はない、なぜならばあなたの弱点はこの私だからです!!」


 言い終えてから自分がどういう勝算で動いたのか、それに対し修真がどう動いたのかを改めて、瞬時に理解し、膝が折れたみたいにぺたりとへたり込んだ。

 そこに、


「忍法すいとんのじゅつー!!」


 バケツいっぱいの水がざばーっと降り注ぐ。その水が地面にぶつかる音は、悪戯っ子にとって計画の成就を祝う祝砲、になるはずだった。


「……」


 マキはもはや驚きもせず目を伏せている。そこへミュランダが、軒からぴょんと飛び降り、地面に軽やかに着地した。

 そこで目にしたのはやはり、夜色の髪から水を滴らせて立ち尽くす母の姿で、悪戯が成功して楽しくなったミュランダは思いっきり笑う。


「あははははははは!! ママも仲間になったー!」


 が、


「ははは……は……?」


 マキだけではなく修真もがどんよりと暗くなっているのに気づいたのはその時で、どうもマキがへたりこんでいるのは自分が水をかけたからではないということに気づいたのも、その時だった。



 数分後。服を着替えたミュランダと修真は、縁側に腰掛け、タオルで髪を拭いていた。

 わさわさとタオルで髪を拭いていたミュランダは、ふと隣でおなじようにしている父に尋ねる。心底、不思議そうに。


「ねぇ、パパ?」


「んー?」


「あたし達、なんで叩かれたの?」


「う~ん」


 修真は髪を拭き終え、タオルを首にかける。


「やっぱ、服を濡らしたからじゃねぇかな?」


 ふ~ん、と納得し、タオルを廊下に置くミュランダ。二人の頭には洗濯物を増やしたお仕置きとして、見事なたんこぶがこさえられていた。

 修真はよっと膝立ちになり、まだ濡れているミュランダの髪を続けて拭いてやりはじめる。それが心地良いと知っている彼女もきゅっと首をすぼめて大人しくする。投げ出した足は、楽しそうにぶらぶらと揺れている。

 数秒そうしていて、ふと思い、修真もミュランダに尋ねてみた。


「なぁ、ミュランダ」


「なぁに~?」


 返事と共にくるりと振り返る。


「俺はどうして思いっきり、ビンタされたんだろう」


 その質問で、ミュランダは途端にむっとした。


「パパがママの乙女心キズつけたからでしょ!」


「……ホントすいませんでした」


 あろうことかミュランダに怒られてしまい、なんだか納得いかないものを感じつつ手のひらの形に赤くなってしまった頬をすりすりと撫でてみる修真だった。

 そして、この後しばらくマキに無視される事になるのはまた別の話。




 ―『片桐家番付表』―


 事の発端はセキコの発言だろう。


「気になるんやけど、この家で一番強いのって誰なん?」


 至極、興味本位の質問である。

 強者揃いの片桐家の中で自分の力は何番目に強いのか、それをはっきりさせるための一言だった。

 数日前セキコは、全国津々浦々を放浪する生活の中で偶然この地に立ち寄り、この世界のものとは違う膨大な力に惹かれ(あわよくば強くなるきっかけとして手に入れるつもりで)、そこでミュランダと出会い、共闘し、勝ち目の無い相手に挑んだ。本気の真なる霊狐の姿をもってして、あくまでもミュランダの時間稼ぎという役割で。

 そして現在に至る訳なのだが、この片桐家という名の強者の‘群れ’の中で生活するにおいて、強者のみの番付において、やはり自分の位置付けが気になってしまうというもの。

 無論、気になる理由はそれだけではない。

 彼女の本性は仮にも獣。通常ならば、勝てる相手、勝てない相手、そういったものは直感で判別がつく。しかし、この家の人間――人間の見てくれをしている中身は全くの別物の何か達を見ても、本能からはひどく曖昧な情報しか送られて来ない。

 というか……


「ごめんってば! さっきのは不可抗力だって言ってるだろー!?」


「こっち来ないで下さいっ、どうせ私は気持ち悪いですよーだ!」


「だからちがっ――ていうか一回止まんない!? なんで歩いてんだよ!」


「――なッ、修様が追いかけてくるからに決まってるでしょ!? そんなこともわからないんですか!? このドブ修真!!」


「おぉぉぉおおッ、てめぇ今なんつった!! もう一回言ってみろぉぉぉおおおお!!」


 戸が開け放たれているので分かりやすいのだが、廊下を早足でぐるぐる歩き回っているのは修真とマキだ。正確には、歩き回っているのがマキで、その後ろを修真がついて行っている。ぎゃいぎゃい言い合いながら、二人は二階の方へと消えていった。


(むぅ……)


 彼らの普段の生活を見ている限り、


(強そうに見えんなぁ……)


 それが、セキコの本音だった。

 が、彼女自身、それに興味を持ってしまった事が悲劇の引き金になろうとは思ってもみなかった。

 いや、誰もが思っていなかったのだ。




「こんな時間にお風呂入ったの?」


 何か冷たいものを飲もうと居間にやってきたミュランダは、すでにそこでくつろいでいた姉に問われた。まだ乾ききっていない髪を見てそう尋ねたのだろう。


「んーん。さっきパパと庭で遊んでたら水かけられたの。楽しかったよ」


 ポチは幽霊さんに用意させたアイスココアをくいと飲む。氷がカランと涼しげな音を立てた。


「ふぅん、さっきの騒ぎはそれ……」


 水遊びの声を二階の自室から聞いていたポチはふむと納得した。


「――って、無視すんなや! こん中で一番強いのって誰なん!?」


 痺れを切らしたセキコがもう一度問いかけ、


「そだっ、あたしコーンフレークた~べよ♪」


「さっき昼飯食ったやろが! コーンフレークとか今じゃないわッ!!」


 ミュランダはきょとんとし、ポチはやれやれと肩をすくめた。肩をすくめた理由としては、セキコが知りたがっている‘分かりきっている事’よりも、きっと馬鹿馬鹿しい喧嘩の発端の方が興味が湧いたからだ。


「ねぇ、キツネ。それよりも、あの二人がどうして喧嘩しているのか知りたくはない?」


 続いて、幽霊さんがスケッチブックを掲げる。優しく微笑むその表情はどこか楽しげでもある。


『お二人、今日はどうされたのでしょうか』


 そんなことどうでもいいだろう、そう言う前に、


「あのね、パパったらママの乙女心傷付けたんだよー?」


 さっきの一件を知っているミュランダは、ちょっと困った表情で答えた。


「ふふっ」


 ポチは思っていたとおりの馬鹿馬鹿しさから薄く笑い、「そういうことだって」と部屋の隅に座っている幽霊さんに呟いた。半透明な彼女はスケッチブックに『あらら』と書き込んで、彼らの微笑ましくも他愛のない痴話喧嘩をくすくすと笑う、ような動作を見せる。

 彼らの争いは日常茶飯事なので、今現在も二階からすごい物音がしたり、銃声が聞こえてきていても天使の姉妹は特に不安には思ったりしない。怒るのに飽きたらすぐに仲直りするだろう、と終われるほど些細な事なのだ。


「って、ちがう!! こん中で一番腕っぷしの強いヤツって誰なんかって話やろ!?」


 突然、穏やかな雰囲気を引き裂くようにセキコは吠えた。‘無視なんかしなさそうに見える’幽霊さんに吠えた。

 案の定、真面目な幽霊さんは突然の大声に目を丸くするも、しっかりと受け答える。


『そう言われましても、しがない幽霊の私にはちょっと。お嬢様方におっしゃっていただかないと』


 半透明の指がちょんちょんと示す先にいるお嬢様方へと顔を向けるセキコ。

 ポチがゆっくりと立ち上がろうとしていた。


「さて、そろそろ日本ひょっとこメルトダウン連盟に定時連絡を入れないと……」


「そんなれんめ――はッ!?」


 指摘しようとして意味がわからなくなった結果である。


「そ、その連盟なんなんや!?」


 ポチは急に真剣な面持ちになった。


「想像してみて。ひょっとこが徐々にメルトダウンしていくところを」


 少々腑に落ちなかったが、セキコは言われたとおりに思い浮かべてみる。

 ひょっとこ。

 メルトダウン。

 メルト……ダウン……?


「え?」


 首を傾げるセキコ。ひょっとこまでのイメージは出てきたが、そもそも彼女にはメルトダウンがわからなかった。

 その横でミュランダがぶふっと吹き出すが、ひょとこがメルトダウンしていくのを想像しての事だろう。


「あのー、もうええやん? もう十分遊んだやん? この家で強い人教えてや」


 もうセキコは困ってしまっていた。

 それに対し、笑っていたミュランダがさっと敬礼のポーズをとる。なぜか。


「はいボスッ、この家で一番強いのはお姉ちゃんだと思います!」


 ポチも同じく敬礼して続いた。


「私がお姉ちゃんです」


 姉妹がふざけているのはともかく、やはりそうかとセキコは納得し、深く考えるように腕を組んだ。

 普段の片桐家のやりとりを見ていて大体分かってはいたが、修真とポチの順位だけは不明瞭だったのだ。先日の喧嘩騒動でも少々の切り傷はあるものの双方共にほぼ無傷だったのが、更に事態を複雑にさせていた。

 ちなみに、セキコから見た彼らの序列は、一番がポチか修真、三番目がミュランダ、後はそれ以外、となっている。


(うん、やっぱお姉やんが最強なんやな……)


 姉妹が口をそろえているのだから、恐らく最も腕っぷしが強いのはポチと見ていいだろう。

 が、問題はそこではない。むしろ一番などどうでも良いのだ。


「ほぉ~。ほんなら二番は? 大体わかってるけど」


 答えは修真だろう。そう思って尋ねたセキコの問いに対し、姉妹の返答が見事に揃った。


「ママかなぁ」


「ママ」


(んんっ!?)


 セキコにはかなり意外だった。

 普段はどう見てもマキが『あ~っ、ごめんなさぃ~』修真が『てめぇこの野郎!!』のイメージで、力関係は限りなく修真の方が上に見えるのに。


(パパさんと違うんか? なんでや……)


 そう思っている隣で、言った本人である姉妹同士も意外そうに顔を見合わせている。


「だ、だよねだよね! ママってなんか浮世離れしてるもん!」


「ママもお前には言われたくないと思う。けど、前にも話したことあったけど、ママはパパに合わせて力をセーブしてる。だったらママはパパと同等、もしくはパパよりも強いと考えるのが妥当」


「んふふっ、二人共買い被り過ぎですよぉ~。私は常に修様のちょい下あたりのちょっぴり不思議な奥ゆかしい存在ですから」


「どっ!?」


 天使の姉妹、セキコは同時に驚いて身を反らした。

 いつの間にやらそこに居たマキは、三人の反応を見て可笑しそうに笑う。


「あれれ、どうかしたんですか~? そんな人をおばけ見たみたいに……うちにはもう幽霊さんがいるからそういうのは間に合ってますよ。ぎゃっ、おばけコワイ!」


 心無い発言に、幽霊さんは傷ついてがっくりとうなだれた。


「えっ、えっ? ママいつからいたの!?」


 目を丸くして訊くミュランダに、マキはむむむと首を捻る。


「たった今ですけど。んん~、意味も無く忍んで近づいてみただけで、そんなに驚かれるとは……。それで、どうして強さの話なんてしてるんですか?」


 一瞬、面食らったような顔のまま硬直していた一同だったが、急に現れた程度の事を気にしている場合ではない。そう、この人の事を気にするならば、もっと別にあるのだ。

 そんな思いを代表し、尋ねたのはミュランダ。


「ママ、パパは?」


 マキはとびっきりの笑顔を見せ、


「さぁ? 今頃、壁に頭でも突っ込んで気絶してるんじゃないですか?」


 そう吐き捨てた。

 天使の姉妹は嬉々として反応する。


「ほら! やっぱりママの方が強いんだよ!」


「この結果が全て」


 彼女らが『やっぱりママは強い』と再確認している中、セキコは脳の回転を促しているのか、人差し指でこめかみをこつこつ突付いていた。


(あかん……)


 赤毛の耳も、先日の一件で一本になってしまった尻尾も力なく垂れているその様は、傍目からすると何かに思い悩んでいる様にしか見えない。

 突然そんな風になってしまったセキコを案じ、マキが声をかけた。


「ど、どうかしたんですか、セキコちゃん? え?」


「……」


 が、反応が返ってこないので、なんですかこれ、と姉妹に小声で尋ねるマキ。姉妹は首を傾げている。

 そんな周囲を他所に、セキコは己の未熟を呪っていた。


(うちの推測がこうも簡単に……)


 マキの位置が修真と同等と判明したおかげで、彼女の片桐家の序列予想図は脆くも崩れ去っていた。彼女が考える序列の中ではマキが最下位に位置していた為だ。第一、戦っている所を見たことすらない為、戦えないものだと踏んでいたのだ。

 こうなると諸々、狂ってくる。


(あかんわ。ママさんってそんな強いんか……)


 セキコ自身は、以前の経験からミュランダよりも弱いと自覚していたわけで、ポチとミュランダが一目置いている修真は上位確定。その中で、強さを目の当たりにしたことがなく普段の生活を見ている限り、マキは戦えたとしても大した強さではなく、恐らく自分よりも弱い、という位置関係になっていた。それに、見た目の印象というのもあり、セキコからすれば、マキは普通の女の子に近しいものにしか見えなかったのだ。

 そのマキが修真と同位までに跳ね上がってしまったとなると、自分の位置が……。


「じゃ、じゃあ、うちは!? うちはどのへんなん!?」


 なんだか焦った口調で尋ねるセキコ。自分を自分で指差している。

 どれくらいなのだろう、とマキとミュランダが考えてみるその直後に、ポチが考える素振りも見せず、即答した。


「とりあえず、私より弱い」


「ちゃうねん! 何番目に強いかって意味やねん!」


「あぁ。そういうこ……」


 笑顔のまま、マキが言葉を失った。またも姉妹が顔を見合わせて、ミュランダが気まずそうな「……あ」という顔で停止した。

 二人共、言えなかったのだ。

 言える筈があろうか。

 お前が一番弱い、だなんて……。

 それとは逆にポチは、


「お前はこの家で一番弱い。幽霊は非戦闘員だから」


 あっさりと厳しい現実を包み隠さず直球で突きつける。オブラートのオの字もない。

 片桐家長女による他人の心身を毛ほども気遣わない言葉は、セキコのハートを一撃粉砕。言葉というナイフに胸をえぐられ絶望した彼女は軟体的な動きでぐにゃりと畳に倒れ込んだ。


「……う、うそやん」


 マキとミュランダは『あ~あ……』という面持ちで、ポチはどこか満足気に、うむうむと頷いている。

 物理法則やら何やらを色々と無視しスライム化したセキコは、それでも何かの聞き間違いかもしれないと思ってもう一度、すがるように尋ねた。


「……お、お姉やん……今、なんてゆうた? もっぺんっ、もっぺんゆうてくれんっ?」


「お前はミジンコ」


 そこに容赦は無かった。

 またぐにゃり。


「……」


 このどんよりとした空気の中で、マキとミュランダはセキコにかけるべき言葉を探し、唯一ポチだけは我関せずでアイスカフェオレをこくこくと飲み干している。

 このままではあんまりだ、そう思ったマキとミュランダはなんとかフォローを入れようと言葉を探した。


「そ、そんなことないですよ! 強さなんか時と場合によって変わるものなんですから!」


「そうだよ! セキコ、あたしのこと助けてくれたじゃん! あの時セキコ強かったよ!」


 励まされたセキコはよろりと上半身を起こし、心底自信を失った――もはや泣きそうな声で問う。


「……ぅぅっ、そうかなぁ? うちってドベとは違うんかなぁ……?」


 次々と元気付けていく二人。


「ドベなわけないですよ!」


「そうだよドベじゃないよ!」


「ドベじゃない、エキノコックスだ」


 皆が一斉にポチを見た。

 説明しよう、エキノコックスとはキツネを媒体にするグロテスクな寄生虫なのだ!

 ぷるぷる震えていたセキコが、とうとう吼えたのはその時だった。


「――待てコラァッ! だ、誰がそれやねんボケェ!」


 彼女が『それ』で濁した辺り、口に出すのもはばかられるのだろう。なにしろ毒舌を超越した、落ち込んでいてもなお怒鳴らせるほどの滅茶苦茶な中傷であるからして、彼女が怒るのも無理はない。

 今の今まで落ち込んでいた彼女が、がるるる~っと牙を剥く様を、ポチは興味深そうな、それでいて暗い目で眺めると、


(あ、からかい甲斐がある)


 にやりと不適な笑みを浮かべた。

 その一瞬の表情、悪魔の微笑を見逃さなかったミュランダは、姉の暴虐行為を未然に食い止めようと立ち上がった。


「ダメだよおね――ぎょえ!」


 ずだん、という音がしてミュランダは背中から畳に叩きつけられていた。ノールックで妹を背負い投げたポチは、ぱんぱんと手を払いながらセキコに向かって圧倒的勝者のごとく振舞うのである。


「はっ、私とる気? エキノコックスの分際で?」


 腕組みをしたポチを下から睨み上げるセキコ。この時点で力の差というものを野生の本能で感じ取る。まず勝てない。

 がしかし、それでもセキコは立ち向かうのをやめたりはしなかった。ちょっと泣いていた。


「ぐっこの……やったるわぁッ! ぼこぼこにしたるぅ!!」


 そんな必死の表情を見て、ポチの心が躍る。


(ふふふっ♪)


 端から見れば、まさに一触即発の雰囲気。今にも殴り合いが始まりそうで、どごごごごごと二人共が闘志を燃やしている。ちなみに、畳に叩きつけられたミュランダは瀕死の虫みたいに悶絶していた。

 これはまずい、間違いなく死人――というか死に狐が出る。ここで動かなければ、それを黙認するのと動議。年長者としてそれは許されない。


「……はぁ、仕方ないですねぇ」


 そう悟ったマキがここでようやく溜息混じりに重い腰を上げた。


「さぁて、そろそろ掃除しなくっちゃ」


「ママぁぁぁっぁあああ! おいてかないでぇぇぇええ!!」


 這いつくばったミュランダがその足首をがしりと掴む。

 その目線までしゃがみ込み、マキはにっこり。


「いいですかミュラちゃん、大人になったら‘見なかった事’にするのがベストな選択という時もあるんですよ? 例えば、ポチちゃんが私たちのいない所で修様にべたべた甘え――」


 ぼぎゅり!!

 という耳を覆いたくなるような悲痛な音がして、電池が切れた人形のようにマキはその場に倒れた。ミュランダは見ていた。視界にいきなり現れて、マキの首を曲がってはいけない方向に曲げた姉の姿を。


「ママぁああああああああ――ッ!!」


 妹の叫びを尻目に、ポチは赤らんだ頬でぜぇぜぇ言いながらセキコに視線を向ける。

 そんな、なんだか真っ赤な顔でこちらを睨みつけている少女が、セキコには急に可愛らしく見えた。そんな事で恥ずかしがれる若さが、とても可愛らしく思えたのだ。

 と、その気持ちがそのまま表情に出てほっこりと笑みを浮かべ、


「ははっ」


 たのが、ポチを更に激怒させた。

 正確かつ現代的に言うならば、ポチをブチギレさせた。


「こッ、この世から消してやるッ!」


 怒りを露にするポチが踏み出そうとした瞬間、


「っわぁああああ――ッ! やめてぇぇぇぇえええ!!」


 即座に動いたミュランダがその胴を背後からがっしりと抱き止め制止し、必死に叫ぶ。


「ダメだよセキコッ、挑発したらダメッ! 早く逃げてッ、こんなの時間稼ぎにもならない早く!! このままだったらセキコ一発でばちゅんってされ――うごほぇッ!!」


 容赦の無い姉の肘鉄ひじてつがミュランダの鳩尾みぞおちに入り、どさりと畳に沈んだ。二、三秒の出来事である。

 セキコは今は亡き片桐家次女が残した言葉を笑う。


「ふっ、うちかて鍛えてるんや。一発でやられるわけないやろ? それも、ばちゅんやなんて飛び散るような」


 対するポチは死神を彷彿とさせる怒気を滾らせ、低い声で。


「……いいだろう。お前を、最高の屈辱をもって死へと誘ってやる。これで、ばちゅん、だ」


 深くうつむき、ポチはすぅと右腕を上げる。

 手の形、中指を親指に引っ掛けたそれが意味するのはデコピン。

 セキコのりんごのように鮮やかな赤い髪が怒りから逆立った。力を込めた指先の元々鋭かった爪が、しゃきん、と伸びた。


「バカにすんのも大概にしときッ!!」


 声をあげ、思いっきり飛び掛かっていくセキコ。

 ポチの冷たい声が、妙に響いた。


「――飛び散れ」


 ばちゅんッ!!



  ―『カンけり』―


 片桐邸から徒歩五分ほどの距離にある公園。滑り台やジャングルジム、ブランコ、設置してある遊具が夏の日差しでかなり熱を持つ時間帯。ゴミ箱から拾ってきた缶を地面に置いて、それ中心に三人の少女が立っている。涼しげな格好ミュランダ、麦藁帽子をかぶったポチと、へんてこな巫女装束もどきを身に纏うセキコの三名である。


「あ~あ、負けちゃった」


 自分の出したパーを見て顔をしかめているのはミュランダである。


「それがお前の限界」


 ポチが自分の勝利が当然だと言わんばかりの表情で仁王立ちして言った。

 公園にやってきたものの、あまり人間界の遊びというものに詳しくない天使の姉妹はセキコに意見を求め、紆余曲折を経てカンけりをやることになったのだ。


「ほな、やり方はさっき説明したとおりや。カン蹴って、見つけて、五十数えて、蹴られてしまう前に見つけて、名前を呼ぶ。ええな?」


 三人の状況的には最初のじゃんけんでセキコが勝ち抜け、姉妹による再戦でミュランダが敗北したという具合である。

 鬼に決まったミュランダは、これから行うカンけりという遊びがいかなる暗黒遊戯――一度でも鬼になったら泣くまで鬼にさせられ続ける現代社会においてのイジメの縮図のような内容の遊びであることをまだ知らず、とても意気込んで二人の顔を順番に見た。


「よぉっし、みーんなあっという間に見つけちゃって鬼なんかすぐに引退デビューしちゃうよ! 誰が最初にカン蹴るの!?」


 そんな雰囲気を壊さないように、セキコは楽しげにポチの肩を叩く。


「お姉やん! 空の彼方まで蹴っ飛ばしや!」


「わかった。蹴っ飛ばす」


 頷いたポチは早速、空き缶から助走に足りる分だけの距離を取り、次いで駆け出した。全体重をかけ踏み込む左足、そして右足で、


「飛べッ――」


 蹴り飛ばす!



 ばちゅんッ!!



「……」


「……」


 姉妹は跡形も無く砕け散った空き缶の残骸を、ただ呆然と見詰めていた。あるいは儚く散った夢の残滓ざんしを見詰めていた。

 やがて、発案者であるセキコがぽつりと、小さく呟いた。


「……ほな、帰ろか」


 人生とはかくも空しきものなのか、そう思いながら少女達はお互いを励ましあうように肩を叩き合い帰路についていく。

 深く澄み渡る夏の空のように、少女達の心もまた、ブルーだった。



 えー、1年以上ぶりですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?

 ひとまず謝罪はおいといて、とりあえず定休日の身に何が起こったのかをさくっと箇条書きにしてみました。

 1、2008年12月、クリスマスに合わせて更新しようと企み間に合わず。新年元旦に照準を合わせるが、これも不発に終わる。

 2、2009年3月、元旦の不発から書けない期間が到来し三月まで至る。追い討ちをかける様にここでまさかのPC大破。死因はやはりあの時こぼしたカフェオレか。もちろん書き溜めたデータも消滅。バルス。

 3、2009年7月、新たなるPC――これまでのノート型をやめ(飲み物こぼすと全部壊れるから)、デスクトップ型に手を出す。ついでにプロバイダも変え、光というネット環境を手に入れた。ひゃっほう!

 4、2009年8月、ルーターが原因不明の故障。取り替えてもらう。

 5、2009年9月、ところがどっこい、長らくこの話を書いていなかったため、書く習慣と書き方自体を忘れてしまう。ここからしばらく停滞の月日が流れる。

 6、2009年12月、一年が経過し、そろそろテンションが上がり始める。

 7、2010年1月、順調。小説の最大文字数が4万に減っていることを初めて知り、調整を始める。時間がかかってしまったがいよいよ更新か。

 8、2010年2月、ネズミにLANケーブルを噛み千切られる。何かの呪いだろうか?

 9、2010年3月、新たにLANケーブルを張り巡らす。が、二日も持たずしてネズミに噛み千切られ、三千円をドブに捨てた気分を味わう。なんだ呪いか。

 10、2010年4月、ようやく無線LAN(子機)を手に入れ、文明の発展に感激しつつ今に至る。


 とまぁ、こんな感じでして……誰かが辛抱強く未だに待ってくれているとは思いませんが、でもこれだけは言っておきます。

 本当に申し訳ありませ!!

 えー、最後になりましたが、気分を一新してこれからも書いていくつもりですので、初めましての人も、久しぶりの人も、何卒この定休日をよろしくを願います。


 次回は魔界に行くよ!エルナさんが書きたいからね!


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