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第30話、おさみしガリアンヌ 後編

 目には見えぬ大気がうねり、ひゅおうと風が鳴る。雲とも言えぬ薄い水蒸気を突っ切って、一人の少女が魔法で作り出した光の翼で飛翔していく。

 ミュランダは、空の高みに突如として現れた、山を横半分に切って逆さまに浮かせたような形の物体、その天辺を目指して飛んでいた。


(な、なにこれ……)


 近づいてみて初めて、それが巨大な氷だということが分かった。見る限り純粋に氷のみで形成されているようで、すぐそばを飛んでいると零れ出す冷気が風と混じって夏とは思えない寒さを肌に与えてくる。

 しかし、それよりも、驚くべきは、その規模。広大な面積を有し、小さな山ほどもある。

 さっきから数分、上を目指して飛んでいるが中々その終わりは見えてこないのがこの氷塊ひょうかいの巨大さを物語っていた。


「もう! こんなの作ってどうするつもりなの!?」


 一人、氷塊を見やって憤慨する。彼女の距離から見るとまるで氷山である。


「……」


 当然、怒ったところで反応してくれる誰かは今はおらず、吹き荒れる風の音しか聞こえない。

 ちょっぴり、寂しくなった。

 遥か眼下に広がる朧気おぼろげた街並みを見下ろして、ミュランダは上昇する速度を緩め、その場に滞空する。


「ど、どうしよ……。やっぱ勝手に出てきちゃってダメだったかな……?」


 修真には大人しく待っていろと言われたミュランダだったが、この氷塊が出現する瞬間に感じた膨大な魔力のせいでじっと待っていることなどできるはずもなく、家を飛び出してきてしまった。


「……幽霊さんには悪いことしちゃったかも」


 その際、必死に引き止める幽霊さん(ポルターガイスト駆使)を振りほどいて。

 なんとなく罪悪感を覚え始め、誰にでもなく自分自身に言い訳。


「でもでも、だって、たぶん、あそこに、いるし……」


 修真とマキはポチを探しに行った。だが、見下ろした自分の街から、二人がやってくる気配はなかった。

 やっぱり、家に戻って知らせた方が――


「――って違う違う!」


 ミュランダはぶるぶると首を横に振った。


「まだ絶対そうだって決まったわけじゃないもんね。ちゃんと確かめないと。こないだだってオロちゃんと間違えそうになったし……」


 確かめなければ。

 自分が感じたあの力が、誰のものであるかを。

 その上で、修真に知らせに行けばいいのだ。そうすれば、ポチを探している二人を混乱させることもない。

 それに、待っているだけ、というのは性に合わなかった。


(あたしだって協力するもん!)


 ミュランダはすぅと息を吸い込んだ。


「大丈夫だもんっ!」


 言い聞かせるように声に出し、自分自身を鼓舞こぶ。再び空を仰ぐようにまっすぐ上昇していく。

 彼女には、絶対に近いほぼの確率で、この氷塊が誰の手によって作り出された物かわかっていた。

 氷塊が出現する直前に感じた魔力の波動。

 強大過ぎて、よく知っている力。

 でも、もし違ったらと思うと、修真とマキに報告する気にはなれなかった。だから確認しに向かうのだ。

 空を行くミュランダは眼前を覆い尽くす雲の幕をつき抜け、


「――見えた!」


 明瞭となった視界の中心、天空に佇む氷塊を一望した。


「で、でっかい……」


 その全貌を目にし、呆然とする。しかし、ここで遠巻きに見ている余裕はない。

 空と氷の境界線から逆巻く風を切り裂き、タンポポ色の髪を揺らしながら、すとん、と軽やかに舞い降りた。

 飛翔をになった翼が淡い光となって散る。


「な、なにここ……?」


 ミュランダが着地したのは、広大な面積を有するスケートリンクのように滑らで汚れ一つ無い平らな氷だった。見えるのは、深い青色の澄み渡った空と、白い雲、輝く太陽、それらは総じて、手が届いてしまいそうに近くに存在している。

 神秘的な空間に、人の気配は感じない。


(だ、誰もいないのかな……? お姉ちゃんは……?)


 氷上を歩き出したミュランダの横から雲が流れてきて、視界をさえぎった。

 そして、その雲が視界から消えた時。

 在り得ない現象の中心に、

 姉の姿を見た。


「お、お姉ちゃん!?」


 ほっそりとした体を窮屈そうに締め付ける制服に身を包み。美しくしなやかな真珠色の髪を風に遊ばせている。そのかたわらには荘厳そうごんな装飾が施されたやたらと大きい刃が目立つ槍、神槍ブライゼルが突き立てられていた。


「やっぱお姉ちゃんだったんだ!」


 良かった。自分の感覚は間違っていなかった。そんな思いで、ミュランダはポチに駆け寄っていく。


「お姉ちゃーーん!!」


 呼ばれ、白き乙女はこの空間への闖入者ちんにゅうしゃにフレームの無い眼鏡に覆われた冷たく鋭い双眸そうぼうを、その方へと向ける。


「おね――!?」


 その途端とたん、ポチの周囲に良くない空気が蔓延はびこっている事に気付いて、急ブレーキ気味に足を止めた。


「――え?」


 その空気は、例えようもなく、何か、好意ではない想いをはらんでいる。

 立ち止まり、荒くなった呼吸を繰り返している妹に、ポチは冷めた笑みを浮かべて言った。


「遅いじゃない、待ちくたびれたわ」


「どしたの? こんなの作って……学校でも変だったし、な、何かあったの?」


 周囲をきょろきょろ眺める。

 氷と空しか無い広大な空間は、世界がたったこれだけになってしまったように錯覚させる。照らしつける太陽も吹き続ける風のおかげでそれほど暑くは感じず、怖いほど幻想的な場所だった。

 そこで姉妹は向かい合う。

 ポチはいかにも可笑しそうに笑った。


「ふふっ、戦いの舞台にはうってつけよね」


「……へ?」


「私たちが戦う舞台よ」


 信じられない発言に耳を疑う。

 一方の姉は、笑みを不敵にゆがませた。


「ちょっと街でもぶっ壊そうと思ってね。どれだけの量を落とせば街が崩壊するのか分からなかったから、とりあえずこのくらいを積乱雲の水分を利用して凍りつかせてみたんだけど」


「な、何言ってるの? 意味分かんないよ……」


 ポチの言葉とその表情が結びつかず、ミュランダは表情に混乱があらわになる。

 冗談にしては笑えなかった。冗談にしては規模が大きすぎた。

 だとしたら――いや、そんなことはありえない。


「ね、ねぇ、帰ろうよ……、パパもママもすっごく心配してたんだよ?」


 困惑というべき面持ちで提案する妹に、ポチは薄い笑みをたたえたまま、呟く。


「心配? それはおかしな話ね」


「ど、どうして?」


 静かに、笑う。


「ふふっ、そりゃそうでしょ。私は心配されないからね、あなたと違って」


「え、でも……心配してたよ? ママなんかすっごく怖くなっちゃってパパに大きい声で怒鳴って、パパだってお姉ちゃん探し――」


「うっさいッ!!」


 聞いたこともないポチの怒声に遮られ、ミュランダは口をつぐんだ。

 どう見ても、いつものポチではなかった。そう不安に思いながらも、何故か知らないけれど急に怒られたことに腹が立って、ミュランダは負けじと食い下がった。


「な、急に大きい声出さないでよ! だいたいこんなとこでなにしてるの!! こんなの作って!!」


 妹の問いに、今の怒りが嘘のように思えるほど落ち着いた声色でポチは答える。決して悪意の感じられない、ふざけた笑みで。


「……そうねぇ、分かり易く言うと、私『悪いヤツ』になったの」


「な、なにそれ……」


 あまり笑顔を見せないポチだからこそ、その彼女らしからぬ表情が、これ以上の無い作り笑いだとミュランダには分かった。

 分かったのだが、ところがどっこい、言葉の方はちんぷんかんぷんだった。


「……どゆこと?」


 頭上にクエスチョンマークを浮かべんばかりに小首をかしげた妹に、


(ど、どうして理解できないわけ……? こいつ……)


 ポチは苛立ちを覚え、それでももっと噛み砕いて補足した。


「だから! ミュランダは私を倒さなくちゃいけないの! 分かるっ? 私を放っておいたらこの氷が街に落っこちてみーんな死んじゃうからっ!」


 そこまで言ってやってミュランダはようやく理解の色を示し、力無く頭を両手で抱え込んだ。

 抱えて、


「えぇ―――!? お姉ちゃんそんな事しようとしてるのっ!?」


「そうっ、今まさに!」


 衝撃に襲われながらも、ミュランダは想像してみる。

 こんな物が街に落ちた日には、みんなぺしゃんこになってしまうだろう。

 ――それは駄目だ。


「だめだめ! そんなのしたらいけないんだよ!?」


「へぇ、どうして?」


「どうしてって、それは……」


 どうしてと言われても、そんなことは問答無用で却下で、言語道断。上手くは説明できないが、なんか駄目なのだ。


「とにかく駄目だってば! どうしてそんなことするの!」


「理由があるからよ」


 姉のきっぱりとした物言いに、ミュランダは言葉を呑んだ。

 ポチがそう言うのならば本気なのだろう。だが、それをしようと言うのならば、止めるのが道理で、出方次第では戦いも辞さない覚悟がある。

 それは、いつもの事で。今日ばかりは少し違った。

 相手が身内、しかも姉なのだ。

 そんな不毛で、悲しいのは嫌だ。


「そ、そんな! お姉ちゃんと戦うなんて……あたし出来ないよ!」


「はぁ……」


 妹の反応にポチは脱力し、大きなため息を漏らす。それは、あんまりにも想定の範囲内、というか、セオリー通りの発言だったからに他ならない。


(こういう戦う前の意思の最終確認って面倒ね……っていうかそう言うと思ってたんだけど、こうも百点満点だと何か疲れる感覚がする……)


 そんな風に心の中で呟いたポチは、予測が安易な妹に一種の疑問を感じつつ、冷酷な微笑をその雪のように白い頬に浮かべた。


「……へぇ。なら、これを見ても同じ事が言えるのかしら?」


「……ど、どうゆうこと?」


 空恐ろしい姉の台詞に、ぐっと力をこめて身構えるミュランダ。

 何を思ったのか、ポチはスカートの裾に手を掛けた。


(こちとらそんなの求めてないのよ。これでも見て、もっと敵意を抱きなさい)


 ゆっくりとたくし上げていく。


「え!? な、なんなのぉ!?」


 戸惑うミュランダの目に、許されざる光景が飛び込む。

 露出した姉の足を目で辿って行くと、

 そこには、


「――あぁッ!?」


 見覚えのあるライム色のストライプ柄が。

 お気に入りの、一品が。

 自分ではない、姉の所に。


「それあたしのパンツじゃんかっ!! また勝手に穿いたのっ!?」


 いきなり頭に来て、びしっとパンツを指差す。

 ポチはくつくつと笑い、それはもうありがちな悪役のごとく言い放った。


「……天使化してから三十分と四十二秒。このパンツのゴムは絶望的に伸び切っているわ。これはもうあなたのパンツじゃないの。もう私にしか穿けないんだからねッ、あはっ、あははははッ!」


 それは、ミュランダにとってこれ以上ない嘲弄ちょうろうだった。

 こめかみに浮き上がる青筋。体が、内から湧き上がる憤怒ふんどにわなわなと震える。


「ま、また……私のパンツ……」


 理不尽だった。

 しかも、これが一度目ではない。前例として靴下、今度はパンツが姉の手に落ちた。


「……くっ」


 ポチにはポチのパンツがあるというのに、自分が気に入っている物ばかりが奪われていくこの不条理。ていうか自分のパンツ穿けよ。

 それらの想いが燃焼を起こし、


「このクソメガネッ! ぶっ殺してやるぅぅううううう―――――――ッ!!」


 怒声を上げたミュランダは氷を蹴り上げ、怒りのままに超人的な速度で跳び出した。


「そうこなくっちゃッ!!」


 ポチは心から楽しそうな表情で咆えると、同じく氷を蹴り上げ、迫る妹にぶつかっていく。

 両者の距離が瞬時に詰まり、先手を打ったのはミュランダ。


「バカぁぁぁあーーーーッ!!」


 ポチと接触する寸前に跳躍し、頭部を目掛けての飛び膝蹴ひざげりが放たれる。だがポチは舞うように、すれ違うように彼女の攻撃をかわす。


「このっ――」


 氷上に着地したミュランダは、自らの速度の反動で滑りながらも、そこから再び跳び、


「りゃッ!」


 猛スピードから大きく振りかぶった拳で突き入れる。

 が、


「遅いわねッ!」


 その速度を上回る反応で、ポチはひじを前に出しその拳撃を受け崩す。

 防御され、しかしミュランダは神速の反応でまだ浮いている不安定な体勢から体を捻った。


「まだッ!」


 腰の捻りを加えた鞭のようにしなる蹴りが、ポチの側頭部を襲う。

 ポチを捉えた手応てごたえ。


「……やるじゃない」


「――ッな!?」


 ただ、捉えていたのは、腕。蹴りは、ダメージを与えることなく防がれていた。

 勢いを制されて、着地する。


「足元ががら空きよ!」


 その瞬間にどうしようもなく生じてしまう隙を狙い、姿勢を低くかがめたポチが、ミュランダの足を蹴り払う。


「うあッ」


 両の足を翻弄ほんろうされ、前のめりに、しかも受身もままならぬ内に倒れていく。

 だが、それはいつもの喧嘩で何度も受けた攻撃。

 もう慣れていた。


「こんなのッ!」


 本能から氷を両手で突っぱね、前に宙返りする形で持ち直す。と、同時に振り向き様の後ろ回し蹴りを、


「えりゃぁ!!」


 姉の顎に向けて放つ。


「やるじゃない!!」


 上体だけ逸らしたポチの前髪を、ローファーに包まれたつま先が掠めた。


(またよけた!? この!)


 不意を突いたであろう攻撃すら当たらない事にミュランダはほぞを噛む。

 眉間に深いしわを寄せた妹から三歩ほど距離をとったポチは、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)という振る舞いで、肩にかかった髪を払った。


「ふふっ、次はどのパンツにしようかしら。あ、あの星柄のもお気に入りだったわよねぇ?」


 それがまた、ミュランダを猛烈に激怒させた。


「んもっぉーむかつくぅッ!! 泣いても許してあげないんだから!!」


 怒りで思いっきり氷を踏みつける。

 確かに、ポチは強い。しかし、だからと言ってこのままパンツの恨みを晴らさず泣き寝入りする訳にはいかない。


「ぜったいごめんなさいって言わせる! 五回言わせる! ぜったい!」


 咆えて、獣のように飛び掛る。


「あははッ! 早く言わせてみなさいよッ!」


 ポチがその場を飛び退すさり、ミュランダがかえるのような四つん這いの姿勢で着地。したと思いきや前転し、ポチの足元に転がり込むと、片手で体を支えてポチの足を蹴り払う。


「っりゃあ!!」


「ははッ、真似する気!?」


 ポチはそれさえも軽く跳躍してかわし、


「そんなのが――」


 真上から、右の膝を高く上げ、


「通用するとでもッ!?」


「ひょえぇ!」


 悲鳴を上げて身を横に転がすミュランダ。ほぼ同時にポチの足裏が顔のすぐ、氷の面を踏み砕き、びしぎしと放射状に皹が走る。

 ミュランダはごろごとと距離をとって、ようやく起き上がった。


「――ッ!?」


「ほら!!」


「――あぐッ!!」


 しかし、瞬く間に接近していたポチの、疾走の速度を乗せた拳がミュランダの腹部にめり込んだ。その衝撃は体を浮き上がらせるほどに凄まじい。

 更に体を一回転させ、


「吹っ飛ぶがいいわ!」


 高速中段蹴りがミュランダの胸を捉え、体が直線を描いて吹っ飛んだ。

 そのまま氷上に、


「まだッ!」


 接触する寸前に魔法の翼を広げて横回転。体勢を立て直すと共に受けた勢いを殺し、着地。


「よ、よくもやったな!!」


 また攻撃に打って出る。

 怒りに駆られたミュランダは、竜巻のような回転から生み出される破壊力抜群の蹴りを、中空から連続で繰り出しポチに襲い掛かる。


「いっつもあたしを見下して!」


 この状況で蹴りを選択したミュランダは賢いと言えた。相手の体の方が大きいのならば、腕よりもリーチの長い足で戦うべきだ。さらにその蹴りに回転を組み込めば、攻撃を加えづらい。


(だからといって、脅威ではないけど!)


 が、それも虚しく一歩一歩、的確な距離で後退していくポチには蹴りを防がれる事はあっても、決定的なダメージを与える事が出来ない。


「どうも本気じゃないようね……」


 回避に徹していたポチは、攻撃を続ける妹をまるで傍観者のごとく見ながら蹴りを捌いていく。

 このままでは楽しめない。己の策を次の段階へと進ませ、妹の『喧嘩』という意識を『戦い』に変えなければならない。

 力を示すことで。


「てぇりゃあ!!」


 大きく弧を描いた回し蹴りを、


「蹴りはね――」


 半秒もない間にミュランダには信じられないことが起こった。


「――なぁッ!?」


 全くの動きも無く、ただ手だけの力で蹴りを、その足首を受け止めるではなく掴み取られた。浮いているため、それだけで体は不安定となる。

 そんな状態に追い込まれたミュランダを、ポチは棒切れでも振るうかのように振り上げ、


「隙が大きいのよッ!」


 思いっきり氷面に叩き付ける。


「が――」


 ひどく重い音がして、ミュランダの氷面に激突した。あまりの速度から何度も弾んで、転がって、やがて停止する。

 氷上のステージに、一時の静けさが訪れた。


「……あんたの蹴りなんて止まって見えるわね。やる気あるの?」


 倒れた妹に、冷酷な口調で吐き捨てるポチ。

 氷上に転がったミュランダは、頬と腕、足にくすぐったいような痛いような感覚を覚え、それが冷たいに変わり、痛みに発展したのをきっかけに肩を押さえて弱々しく立ち上がった。


「く……このッ」


 嘲弄は真に受けているものの、脳裏では姉への対処を考察に専念する。


(やっぱり強い。どうやったらお姉ちゃんに攻撃が……? ううん。まずこれ以上当たらないようにしないと……)


 全身に走る鈍痛。滅茶苦茶に投げられて受身が取れなかった。むしろ受身を取らせないような攻撃が出来る相手、考え無しではこちらが不利なのは目に見えている。


(ど、どうすれば……)


 考えなければ。

 考えなければ。

 燃えるような戦闘意欲が欠け、苦しそうに眉をひそめた妹に、ポチはもう一度挑発。


「あら、その程度? 良いの? 天使化しなくても。得意の魔法はどうしたの? まぁ、天使化したところでたかが知れてるけど」


「うっさいバカッ!」


 肩を押さえていた腕をばっと横に払い、躍起やっきになって突っ込んでいく。

 見返してやる!

 その一心で、もう一度、弓を引くように拳を振りかぶるミュランダ。だが、ポチにとってはその行為が拳撃だと言っているようなもの。対処するのは造作も無い。


「タコメガネ――ッ!!」


 そして、どうにかしてやろうという気持ちばかりが先行し、冷静さを欠いたミュランダは不用意に距離を縮めてしまう。


「――つまらないわね」


 刹那、ポチの長い足が百八十度の動きで蹴り上げられ、その途中でミュランダの手首を弾く。


「っ!?」


 その衝撃で腕が大きく仰け反った。

 そして、振り上げられた足が、


「甘い!」


 踵落としとなってミュランダの肩に直撃。


「がっ――」


 押し潰されるようにミュランダは沈んだ。

 氷に全身を叩きつけられたような感覚。一度傷付いた箇所を更に攻められる事によって増幅する痛み。

 ポチは憮然ぶぜんとした面持ちで、そのままぐりぐりと背を踏みにじった。


「はい負け。なによ、期待したのに弱っちぃ」


「うぅ……ッ」


「という訳で、脱落者一号のミュランダには素敵な罰ゲームをあげるわ」


 ポチはつかつかと歩いて行き、ブライゼルに引っ掛かっていたビニール袋に手を突っ込んで、何か黄色い物体を取り出した。

 それはテニスボールほどの大きさで楕円形の……


「一回やってみたかったの。これ、目に入ったらどうなると思う?」


 ポチはミュランダの背中に馬乗りになり、これ以上ない邪悪な表情をしてそう告げた。

 うつぶせに這いつくばったミュランダの顔が青ざめ、恐怖に染まる。幼い瞳には、黄色い果実が映っている。


「――ひっ!」


 姉の手に握られた黄色い果実。本来、それの用途はジュースに入れたり、料理の彩りとして添えたりするものだ。それ単体で摂取する人間は多くはない。何故ならば、その黄色い果実には超絶的な酸味が含まれている為だ。

 それを、姉は……

 

「お、お姉ちゃん、それだけは――!!」


 ミュランダは涙を浮かべて姉に懇願する。

 それを受けて、姉の口元が卑しく吊り上がった。

 ぐぶしゅー!

 そんな汁気を感じる音と同時、目の前の黄色い果実がポチの手によって握り潰された。果肉が崩れ、内部から飛沫となって果汁が飛散する。フレッシュな香りが氷原に広がった。

 次の瞬間、小女の壮絶な悲鳴が響き渡る。


「いっぎゃああああああああああ――――ッ!!」


「おっと」


 ひょいとミュランダから距離を取ると、


「熱いぃぃぃぃいい!! 目が焼けるぅぅぅぅぅう!!」


 ごろごろと転げ回りだした。


「目がぁぁああぁっあ!! 目が取れるよぉぉぉおおう!!」


 ポチは、妹が悶絶もんぜつし、狂ったように転げまわっているのを冷静に眺めながら、握り潰した黄色い果実こと?レモン?をメガネを頭に上げてしげしげと眺める。


「あら、やっぱり痛いのね。案外普通じゃない」


「ほっぺが! ほっぺがひりひりするよぉぉぉおうッ!!」


 じたばたと暴れながら泣き叫ぶミュランダの顔はレモン果汁でびしょびしょ。これまでにない産地直送生絞り攻撃で、肌や目が危険な状態にあるのだろう。(注、ミュランダは特殊な訓練を積んでいます、普通の人間は真似をしてはいけません。シャンプーが目に入った時の十倍は痛いです。なお、レモンはこの後ポチが美味しく頂きました)


「ほら、まだまだあるのよ?」


 がさごそとスーパーのビニール袋から新しいレモンを取り出したポチが、ダークな笑みを浮かべた。


「いっやあああああああああ!!」


 ミュランダは目を手で覆って、首を振り乱して拒む。

 その時、彼女の中で何もかもが限界に達した。


「オロちゃん来てぇぇぇっぇえ!! ドラゴンッフォォォォォオオオオスッ!!」


「あ、ようやく?」


 ドオオオオオオオッ――――!!

 赤い力の奔流ほんりゅうがミュランダの体を貫いた。吹き抜ける風が渦巻き、肌が刺されるような感覚と深紅の閃光とが氷原を支配する。

 あまりの眩さからポチは手をかざし目を細めた。

 放散される光が収まると、そこには龍の要素を含んだ体に再構成され、天使としての人格を有したもう一人のミュランダが、


「うぁぁぁぁああッ! 顔が燃えるかもしれないぃぃぃぃいッ!!」


 溶けた氷から生まれた水溜まりで顔を洗っておられました。


「あ、ダメじゃない。せっかく作ったのに溶かしちゃ」


 ポチは形成した氷塊が、天使化もといヒノトオロチの妖力の発揮に伴う発熱によって氷が溶けてしまったのを残念がるが、そんな声も必死のミュランダには聞こえない。

 じゃぶじゃぶと泣きながら顔を洗い終えたドラゴンミュランダは、半径四メートルほどの半球状の水溜りの中心で疲れ果てたような息をついた。


「あ、あぅぅ、まだピリピリする……」


 顔の皮膚を痛めつけていた刺激が引いていくと、ふと自分の下半身が水に浸かっていることに気がつく。

 服を通して滲み込んでくる水が冷たい、しかもぴちっとまとわりつく感触が気持ち悪い。制服も小さくてきつかった。


「……く」


 なんで?こっち側?に表出した瞬間にこんな目に遭わなければならないのか。痛いし、寒いし……

 怒りと虚しさを心一杯に感じながら、ざぶざぶと水を掻き分け、這い上がろうと反り返った氷に手を掛け――

 つるん。


「ひゃッ」


 どぼーん。


「あーあー、馬鹿ねぇ」


 しゃがんだポチは、水溜りでばちゃばちゃ溺れている妹を見下ろした。

 自分とほぼ同じ背格好でしかも鋭利な角やら爬虫類を思わせる尻尾やらが生えている女が、身長のニ分の一程度の水で溺れているのは異様な光景としか言い様が無い。それが妹なのだから情けなくもなる。


「あのねぇ、氷を濡らしたら滑るに決まってるじゃない。私が日光でも溶けないように温度調整してるっていうのに……。これ結構疲れるのよね」


「えほっ、けほっ! つつつ、冷たい!」


 龍の尻尾をぴんと張らせ、寒さから肩を抱くと体が勝手にがちがちと震えだす。

 ポチはあまりにも物を考えていない妹の様に呆れ果てて溜息すら出てしまう。


「はぁ……。そんなの当たり前じゃない」


 ミュランダはとても悲しくなった。

 せっかく表に出られたと思ったら、全部水浸し。おまけに寒い。

 あんまり悲しくて泣くかと思った。目頭に何か熱いものがこみ上げる感覚もあった。


「……」


 初めて会いまみえる天使化を果たした妹に、ポチは嫌味ったらしく言い放つ。


「ふふっ、あなた私を笑わせるために?表?に出て来たの? 肉体が再構築されてもバカは治っていないようね」


「お姉ちゃんだって――」


 言い返してやる。

 そう思って口を開いたミュランダだったが、続く言葉が出てこない。

 どう言い返せば、ポチは悔しがるのだろう。


(……)


 必死に考えた、けれど、どんな皮肉も姉には通用しないというのが答えだった。

 悔しい。

 とてつもなく悔しい。

 だから、


「お姉ちゃんの豚汁!!」


 悪口を言った。


「なっ……」


 すると、意外にも効果があったようで、今度はポチが言葉を失った。

 そうなると、ミュランダは楽しくなってしまって、


「やーい豚汁〜! 豚汁豚汁、きゃははははは!!」


 爆笑しながら指をさして笑い出す。

 当然、ポチはこんな屈辱を受け入れられるほど温厚な性格ではない。


「わっ、私のど、どこが豚汁だっていうわけッ!? 言ってみなさいよ!!」


 しかしその怒りの抗議も、


「きゃはははッ、豚汁が喋ってる〜〜!」


 笑いのスイッチが入ってしまったというか、豚汁がツボって爆笑するミュランダには届かない。


「……」


 死ぬほど腹が立った。

 自分はミュランダよりも痩せている。それどころか片桐家の女子では一番体重が軽い方だ。でも、ミュランダが豚汁と言うのなら、何か豚汁的な要素をこの体が含んでいるのかもしれない。いや、そんなことは無いはず。あ、でも……

 と、負のスパイラルに陥ってしまったポチは、ありもしない自分の豚汁要素を探し始める始末。

 結果、見つからない。


(くっ……)


 なんて言い返してやろうか。

 そう思ったポチは、向けられた言葉をちょぴり形を変えて妹に返す。


「あんたのお腹の方がプニプニでしょうが!!」


「――んなッ!?」


 図星でした。


「あははッ! ほらみなさい! お菓子ばっかり食べてるからそうなるのよ!!」


 フリーズした妹にポチは指を突き立てる。それを受けて、よろよろと後ずさりしながらもミュランダは苦し紛れに返した。


「お、おおおっ、お姉ちゃんだって食べてるくせに!!」


「私は頭使ってるから太らないもんねっ! あんたの方が豚汁じゃない! この豚汁バカ!!」


「こ、この……ッ」


 めちゃくちゃ腹が立った。

 確かに、ポチよりはちょっと肉付きが良いかもしれない。けれど、それは言っても健康的な範囲内の話で、無駄な贅肉がたっぷりついているわけではない。けれども、自分より痩せているポチがお腹プニプニだと言うなら、それはある意味事実で……

 結局、口喧嘩でも先に負けたのはミュランダだった。

 怒りの琴線が音を立てて寸断され、再燃する怒りを混ぜて、腹の底から叫ぶ。


「ぜぇぇぇえったいにッ、一発ぶん殴るッ!!」


 突如、彼女の背中が盛り上がり、

 メキメキメキ!

 と、制服のシャツを破いて龍の鱗に覆われた翼が生え、大きく広げられた。 それはポチの腰から生える蝙蝠のような翼とは違った、太い骨格で支えられた全身ほどもある重々しい翼。重厚な龍の鱗でよろいのように覆われている。

 まさしく、龍の翼。非天使形態の?翼の魔法?とは違う、形を変えた天使の一部。

 それを見てポチは動じもせず、違うところで闘志を燃やす。


「いいわッ、やってみなさいよ! 豚汁なんて言った事、泣いて詫びさせてやるわ!」


 ミュランダはキッと鋭くした目でポチを睨み、水面を叩くように龍の要素を得た翼を羽ばたかせ、


「叩きのめしてやるぅッ!」


 弾かれたように水から飛び立った。

 中空で大きく翼を広げて急停止、そこからポチに目掛けてミサイルの如く突っ込んでいく。

 それを待ち受ける姉。


「格の違いってもんを教えたげるわ!」


「どうなっても知らないからッ!」


 速度を増したミュランダの腕に、紅蓮の炎が燃え上がえう。黒い爪が伸びた手に、龍が持つ鎧のような鱗がばちばちと生え、手甲のように変貌を遂げた。

 ヒノトオロチを再現したような腕。

 それを、


「バァァァニングゥッ――」


 赤の軌跡きせきが斜めの直線を描き、


「パーーーーンチッ!!」


 打ち付ける。

 ゴォォオオオオオオオオン!!

 轟音と共に大きく砕け散る氷の破片。暴風のように巻き起こる冷気。氷塊を打ち砕いたミュランダの拳はクレーターさながらの傷跡を刻む。

 その最中、


「――!?」


 砕けた氷が飛び散るのをスローモーションのように見ながら、手応えが無かった事実に驚愕に瞳を見開く。


「――潰れろ」


 声の方を見れば二対の翼――羽毛を生やした翼と蝙蝠のように被膜に覆われた翼で悠々と空中に座っているかのようにこちらを見ている、姉。


「このチビ!!」


 そのままぐるんと身をひるがえすと、飛び散り落下しようとする氷の破片を、ミュランダに向かって蹴り飛ばす。


「うっわわぁッ!!」


 ミュランダは大慌てで後方に退避。間もなく、立っていた場所に砲弾のように飛来した氷が落着。轟音を立てた。

 強い風によって、流れ、消えていく冷気。


「あ、あぶなかった……。ていうか、これでも避けられるの……?」


 さすが、とでも言うべきなのだろう。冷や汗を拭ったミュランダは、龍の拳をぎちぎちと握り締める。ちなみに、その胸中にはチビとののしった姉への怒りが燃えている。

 改めて感じるポチの強さ。


「あんたのへなちょこパンチなんかが私に当たるわけないでしょ!」


 そして腹立たしさ。

 本気を出しているのに、ポチはまだ余裕があった。その証拠にブライゼルを使っていない。『勝つ』ならばブライゼルを取らせなければ。それだけの力を示さなければ。

 でも、どうすれば――


「だらしない体が重いから遅いんじゃないの!?」


 もうぶっ潰す。


「……ほえづらかいても知らないから」


 ミュランダの背後から紅蓮が燃え上がった。必要以上の魔力で発動した為、火炎は両手では数え切れない数に増えていき、


「……ドラゴン、テール」


 そして、龍をかたどる。

 ほむら色の光に照らされながら、ポチは冷徹な瞳で、無数の炎龍とミュランダを見据える。


「ふふっ、いい加減、御託は聞き飽きたわよ。前置きはいいから、さっさと私を楽しませなさい!」


「みんな……」


 すぅっと天に掲げた龍の指先を、


「一気にいくよ!!」


 突き付ける。

 刹那、火炎の龍が緩やかな曲線を描いて、一斉にポチへと襲い掛かった。


「ふふっ」


 ポチは襲い来る火炎の龍を後方に飛翔してかわす。炎の一部が氷面に直撃。爆発。そうでない龍は、依然として自由自在、縦横無尽に迫る。

 空中で赤い火線を掻い潜って飛ぶポチ。


「恐るべき追尾性能ねッ、ミュランダの癖に!」


 叫び、急直下。氷上のぎりぎりをほぼ九十度の角度を描いて飛び抜ける。直後、降り注いだ炎の龍が背後で無数の爆発。

 その動きを、ミュランダはしかと見ていた。


「そっこだぁ!」


「――ッ!?」


 ミュランダが叫んだ瞬間、ポチの眼前の氷が砕け、その下から炎の龍が大口を開けて飛び出す。


「なッ!」


 ゴオオオオオオオオ――――ッ!!

 何発かがとうとうポチを捉え、炎がぜた。続いて空からも炎が降り、ポチの体を炎の中に押し包んでいく。


「今!」


 氷上を驚くべき速度で駆け抜け、爆炎から飛び出したポチに向かって、跳躍。


「お返しぃぃぃいい!!」


 今度は確かな手応えだった。


「ぐ!!」


 手甲で殴り飛ばされたポチの体は斜めの線を描き、氷に激突。砕けた氷から濛々と白霧が広がった。

 次いで、ポチの落下地点に手の平を向け、全身にみなぎる魔力をそこへ集中。


「ハァァァァァァア!!」


 燃え上がる龍の力。

 ミュランダの体が赤く、真紅の輝きを帯びる。

 手の中で最大限まで高めた炎を、


「ヒィィィイトッ、ウェェェェエエイブッ!!」


 解き放つ。

 それはヒノトオロチの吐息と相応の威力をもった炎だった。波動となった灼熱の奔流が、白霧を押し退け、ポチが落ちた場を焼き払い、氷原を火の海へと変える。

 それを見届け、ミュランダは龍化した手の中に残った炎を握りつぶし、思わずガッツポーズ。


「やった!」


 初めてポチにダメージらしいダメージを負わせた事に喜びが隠せない。あの腹が立つ姉の鼻を明かしてやった。

 が、それも絶望に変わる。


「あんまりあたしをみくびるか……ら……」


 ミュランダの瞳が見開かれた。

 炎が徐々に消え去っていくと、そこにはぷすぷすと煙を上げる黒い塊が浮いていた。


「……う……うそ」


 それは他でもない翼。

 ポチを守るように、前に折り畳まれた四枚の。


「……ふふ、ちょっと熱かったわ」


 声が聞こえ、黒焦げた訳でなく、漆黒の翼が広げられる。


「……そんなことじゃ私には勝てないわね。どう? 降参でもしてみる?」


 強さという裏付けがそうさせる、蠱惑こわく的な笑み。経験と実力を推し量っての余裕と、性格ゆえの尊大さが入り混じった表情。

 ポチは、全くの無傷だった。

 ミュランダは姉の強さに、初めて恐怖を覚えていた。





 一方、その頃。


「こちら、お米十キロが一点で三千九百七十八円になります」


「えーっと、三千……あ」


「どうかしたんですか、修様」


「いや、その……金、おろすの忘れた、的な?」


「な、何やってんですか! だいたい、スーパーにポチちゃんがいるわけないじゃないですか! 途中からおかしいなって思ってたんですよ!」


「だ、だって、可能性はゼロじゃないだろ!」


「それで、こちらの商品は……?」


「あ、本当にすいません。戻してきます」





 大きくえぐられた氷のクレーターの中心を見たミュランダの背筋に寒気が走った。

 魔力障壁を展開したポチの姿が。

 消失し損じた氷塊の一部を周囲に浮かべ。

 傲然ごうぜんと、立ち尽くしている。

 強者の風格をその身にまとい。


「……」


 頭が真っ白になった。表情も言葉も失って、ただぽかんとその光景を見ることしか出来ない。

 ポチを守っていたエメラルドグリーンの障壁がパッと散り散りになって消え、風になびく真珠色の髪を押さえながら、かつかつとブライゼルの元まで歩いていく。


「ダメじゃない、この氷を破壊したら。直すのが面倒だわ」


 刃を引き抜き、撫でるように緩やかに振った。

 すると、刃先から蛍のように淡い光が零れ、あろうことか周囲の大気がクレーターに集束し、その中に含まれる水分から傷付いた氷塊が修復されていくではないか。浮かべていた欠片もその中に埋もれ、時間を巻き戻したように元通りになった。

 あっという間の出来事だった。


「――う、うそッ!? ノ、ノーダメージ!?」


 煤の一つも付着していないシャツの袖で頬を拭うポチ。血が拭い去られると、天使の再生能力の高さから傷は既に血が止まっていた。

 そこまで見せつけるように行動し、ポチは落ち着いた調子で言う。


「あら、そんなことないわ。ちゃんと魔力は消費したもの。ほんのちょびっとだけど」


 ミュランダには本能的にも感覚的にも理解する事が出来る。

 まだポチは力を温存している。温存どころか、一割も力を使っていない。底が知れない。勝てない。希望の欠片も無い。

 諦めるように目を瞑るミュランダ。

 その時だった。


 ――ソナタハ、ココデ諦メテシマウノカ。


 ミュランダだけに聞こえる、心に直接響く、地鳴りのような低い声。


(だって……もう勝つ手が……)


 ――我ニ、希望ヲ抱カセタデハナイカ。


 声の主は己の身に『力』として迎えたる龍、ヒノトオロチ。


(……だって)


 諦めようとするミュランダに、ヒノトオロチは低い声で滅茶苦茶な宣告を告げる。


 ――ソナタハ負ケテハナラナイ。ソナタハ立チ向カワナケレバナラナイ。如何ナル苦境ニ置カレヨウトモ、如何ナル絶望ニ覆ワレヨウトモ、ソナタハ立チ向カウ事ヲ忘レテハナラナイ。甘イ判断デ歩ミヲ止メテハナラナイ。


 それは龍が力を貸すに相応しいと思った少女への願いを込めた、自分を助けた強き姿と、それとは真逆の今の弱気な心への叱咤しった

 或いは神の託宣たくせん


 ――戦エ!! 我ヲ救ッタ責務ヲ果タセ!!


 龍の一声が、ミュランダに再び闘志を灯す。

 燃え上がる、魂。

 強く固まる、心。

 奮い立つ、感情。


 ――ソナタガ諦メルノラバ、我ガ地上ヲ焼キ払ッテクレルッ!!


「くっ、ま、まだ、まだ負けない!! 負けられない!!」


 理由は上手く分からないがどうしようもなくそう思った。ここで諦めたら、ヒノトオロチに合わす顔が無いような、裏切ってしまうような気がして……それが嫌だった。


(見ててオロちゃん。あたし、やってみせるよ……)


 使える物は使う。それは姉の言葉。


(だったら、あたしも使う。今なら分かる。お姉ちゃんに無い物、あたしは持ってる!)


 いつしかミュランダは全身に紅蓮の炎を纏っていた。


(ふぅん、なんだか不味そうな気配ね。危険と解釈するべき?)


 ポチが一応の警戒を見せる。

 ざっと一歩踏み出したミュランダは、


「もう容赦しない。いくよ……ッ!!」


 全身に力を込め、

 何も考えず、

 ただ、氷を全力で蹴った。翼で風を押し退け速度を上昇。


「ふぅん、魔法がダメなら近接戦闘?」


 猛烈に攻め込むミュランダは龍の爪が生えた腕を振り上げる。それは打撃の構えではなく、斬撃の構え。


「でやぁッ!!」


 また受け崩そうとしていた爪からの一撃を、


「――ッ!?」


 咄嗟とっさに後方に距離を取ってかわすポチ。

 触れてもいない氷に斬撃の衝撃が走り、傷跡を残す。


(――っな!?)


 目を見張るほど攻撃速度と破壊力が増している。避けていなかったらどうなっていたか分からない。

 妹はそれほど強力な、ポチの予測をも凌駕する力を揮っていた。

 それが、楽しい。


「どうやら本気中の本気のようねッ! 私も本気を出すわ!」


 後方に向かって低空を飛び抜け、氷に突き立てていたブライゼルを引き抜き、


「りゃぁッ!」


「――づッ!」


 追いすがってきたミュランダの爪を、苦し紛れでブライゼルの柄で受け止める。

 が、逆にブライゼルを掴んだミュランダは、ポチの動きを止めた事になった。

 その動きが止まった瞬間。


「あたしに有って、お姉ちゃんに無い物ぉッ!!」


 ミュランダの脇から何か黒い物が伸びるのをポチは見た。

 先端がかぎ、のうになった太い、


「――尻尾!?」


 気付いた時には、龍の尾がポチの腹部にめり込んでいた。


「――か、は……ッ」


 鈍い衝撃が体の中心を突き抜け、よろりと一歩後退する。

 今しかない。今を逃したら次は無い。

 ミュランダは最初で最後のチャンスを掴み取るべく、


「くぅらえぇえぇえええええッ!!」


 仰け反った姉へと追撃を加えるため一瞬にして距離を詰める。

 至近距離で背筋を大きく反らせ、両腕を腰に溜めるように構えた。


「バァァァアアアアストッ」


 手に集束する爆熱の力。

 圧縮した熱量をポチの腹部へ直接、


「――ノヴァァァァアアアッ!!」


 叩き込む。

 ――ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!

 至近で炸裂さくれつする大爆発。割れる氷。荒れ狂う衝撃、音。

 衝撃波の中で、龍の力が、活動の限界を超えた天使の体から抜け出ていく。天使化も解け、自身の力の奔流に飲まれた。

 ミュランダの必死の一撃、それをまともに食らったポチもまた、数十メートルの距離を吹っ飛んでいた。

 しかし、氷に槍を突き立て、踏みしめ、彼女が地から足を離すことはなかった。

 起爆地点から真っ直ぐブライゼルの刃の跡が続いている。


「ぅっ、ぐ……」


 体を焼かれた痛みと、骨が軋む痛みとが駆け巡っている。


「ふ、ぅっ……いっ、今のは驚いたわ……。か、格闘に、魔法を織り交ぜるなんて勉強してるじゃない……」


 そう呟き、腹部の周辺だけ焼け焦げたシャツを破いて捨てた。

 彼女が不敵な笑みで顔を上げると、


「……あら、二名様、ご案内?」


 そこに、ミュランダを抱いたマキと、修真が立っていた。

 真の標的が、ようやく現れた。





 目的とも言えない目的が、彼女にはあった。

 それは、至極簡単に導き出された答えとも言えた。また、信じるために行う確認作業のような意味もあった。

 この氷塊の大きさは、見つけてもらう目印。

 敵となって戦うのは、素直になるための仕掛け。

 全てが上手く、思ったとおりにゆけば、何事もなかったように、終わる。

 もちろん街に危害を加えるつもりはない。一つも利益が得られない上に、彼女の望む所ではない。

 彼女の望みは、修真が来て、戦って、負ける。

 それだけ。

 その結果、何が得られるかと問われても今の彼女には答えられない。非常に漠然とした意識でそうしているから。そして、それを悪いことだとののしる自分も感じている。

 けれど、何かが欲しくて、戦う。

 いや、戦いたい。

 なぜならば、それが彼女なりの――





「随分と派手にやったなぁ……」


 気を失ったミュランダのすすだらけ額をふわりと撫で、戸惑ったように空と氷の景色を眺めた修真が呟いた。

 いつもの姉妹喧嘩と比べて、この有様である。

 この場に到着した途端、爆炎の中から飛んできたミュランダをキャッチしたマキに尋ねる。


「おい、大丈夫か?」


 ミュランダを抱いたマキが答える。


「ええ、安心してください。特に外傷は見当たりません。しかしまぁ、ただの喧嘩ではなさそうですね。止める者がいなかった事もあるでしょうが」


 そうか、と返して、修真はポチに目をやる。

 その目を見て、ポチは少々身構えた。


(――お、怒られる……わね)


 やり過ぎてしまったという当然の予想に反して、修真は何でもないように言った。


「んで、今日はどうしたんだ?」


(え?)


「何か気に入らないことでもあったんだろ?」


 ちょっと、ほっとする。

 でも、理由は言えない。

 ポチは優しく問いかける修真に、携えた槍を向けた。


「つ、次は、あんた達?」


 向けられた神槍ブライゼル。鋭利えいりな尖端は揺るがず、本当の標的、を捉えている。

 その光景を不思議そうに見る修真とマキ。

 それから彼女はすかしたような振る舞いで、一芝居打った。


「私の名前はスッキリミント三十六世。この娘の体は私がもらったわ」


「……は?」


 真顔で停止する修真。

 ――ス、スッキリ? ミント?

 ゆるやかに髪をかき上げるポチ。


「大人しく私に殺されなさい。でないと、そのガキみたいになるわよ?」


 彼女からの発言を耳にした修真は強く、現実から目を逸らすかのようにまぶたを閉じた。

 こめかみに指を押し当て、脳をフル稼動させ、考える。


(……意味がわからん)


 唐突というのもあってポチが低い声で言った意味がさっぱり分からない。

 修真の険しい表情の正体が困惑からのものだと知らず、ポチは演技を若干楽しみながら大げさに言って見せた。


「?これ?はもう私の物なの。取り戻しに来たようだけど少々手遅れだったみたいね」


 マキが困惑しつつ声を発する。


「あ、操られてるってこと……でしょうか? いや、でも、そんなバカな話が……」


 人を?操る?というのは非情に難しい技術である。いくら魔法を使ったとしても惑わすくらいが精一杯で、その良い例がヒノトオロチの瘴気に当てられた修真の行動だったりするのだが、せいぜい判断力を低下させたり、無い物を見せて動揺を誘ったりと、そんな程度なのだ。それ以前に、スッキリミントって誰。

 なのにも関わらず、


「?これ?は私が乗っ取ったの」


 とか豪語するスッキリミント三十六世の言葉はにわかには信じがたい。完全に他者の精神がポチの精神を塗り替えてそこに存在しているし、他人であるポチの体を自由に動かせるようだ。そんな無茶な話は無い。


(一体、どういう手段でポチちゃんを……。スッキリミントという人物はどうやって? まさか、もしかしてスッキリミント自体が幽霊さんのような残留思念で――いや、おかしいですね。そんなものが肉体を持つ生命体に影響を及ぼせるほどの力は――)


 そこで修真が何の気なく、手をひらひらと横に振って冷静かつ客観的に判断した結果を述べる。


「無い無い。絶対ふざけてるだけだって」


「は、なるほど」


 ポチにとって不味い雲行き。


(あ……れ?)


 ぶっ飛び過ぎたかもと後悔するしかない。この芝居を信じさせることが出来なければ全てが成立しなくなってしまう。それでは本末転倒。

 なんとか信じさせようと、それっぽい言葉(スッキリミント三十六世という今思いついた架空の人物には触れない範疇の)を並べてみる。


「ほ、本当よ? これは真実なんだから。私ことスッキリミントはこの氷を街に落下させ、崩壊させるの。いては人類を滅亡させる足掛かりとするわ。この氷が落ちたら、犠牲者は数百どころじゃ――」


 ところが、反応はとても冷ややかだった。


「なぁ、何言ってんのあいつ? 話が飛躍してるっていうか――うん、意味がわからん」


 いつの間にか修真の体からするりと抜け出たマキが、大きく肩をすくめる。


「さぁ? 私に言われても困りますよ。もしかして、おかしな物でも食べたんじゃないでしょうか? 多分お腹痛いんですよ」


「あ、お腹痛いのか、じゃしょうがないよな」


 うんうんと修真が頷いて、マキが声を荒げる。


「あれだけ拾い食いはダメって言ったじゃないですか! 三秒ルールなんて言い訳になりません!」


「食ってないわよッ!!」


 勝手に拾い食いの汚名を着せられそうになって怒鳴り返すが、


「無理しないで早くトイレ行けよー?」


 こういう時ばかり阿吽あうん呼吸を体現する二人の間では、そういうことで完結しようとしていた。


「ったくもぉー! 修様、私情けないですよ!」


「まぁ落ち着けよ。もしステーキが落ちてたらお前も食べるだろ?」


「そ、それは、時と場合によりますけどぉ……」


「え、お前マジで? もしかして俺の知らないところであいつらに『高級品なら落ちても食べて良いんですよぉ〜』とか教えてんじゃねーの?」


「うっわ、ひっどい! 冗談で言ったのに、私のことそんないやしい女だと思ってたんですね!?」


「つい二秒くらい前からな」


「もーうやってられません! 実家に帰らせていただきます!!」


 ポチが用意したシナリオは、完全に乱されつつあった。


(ぐ……なんのよ……)


 なんでこの二人は、人が用意した舞台で、当人を無視して好き勝手してくれているのか。何故ここで下らない口喧嘩などしているのか。

 まだ、ミュランダの方がやりやすかったじゃないか。


「っていうかさ、名前が無いよな。遊びにしても普通もっと考えるだろ」


「ですよね。スッキリミントとか私だったら三秒で自爆してますよ、恥ずかしさで。しかも三十六代も続いてる意味が分かりませんもん」


 黙っていれば、架空の人物にまでケチをつけられる始末。ポチ自身も言ってから後悔しているのに。

 なんなんだ。

 本当に、なんなんだ。

 イラつく。


「うっさいわねっ、人の名前にごちゃごちゃと!! この娘の体が返して欲しくば私を倒すがいいわ。でなければこの氷が街に落下し、大きな災厄となる!」


「いやいや、そんな緊張感ゼロで言われてもな。っていうかこれってどういう遊びなの? さっきから寒くてさ、もう帰りたいんだけど?」


「そうですよぉ〜。ポチちゃん早く帰りますよ〜? こんな所でバカみたいに遊んでて……早退1ですからねー」


 そこでポチは、本気でぶちギレた。


「……あーっそう、いいわよ……。嫌でも本気にさせてやるわよッ!!」


 整った顔を歪め、手の平を氷に叩きつける。その指先から魔力が伝導していくのが波動のごとく、氷塊全体に広がっていった。

 奇怪な行動に修真もマキも怪訝そうに眉をひそめた。

 次の瞬間。

 ――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!


「――んえぇッ!?」


 急に、エレベーターが下降する時のような気色の悪い浮遊感が修真の体を包んだ。次いで、風鳴りとは程遠い低く厚みを持った音が響き始める。実際、一瞬だが爪先立ちになるほど彼の体は浮いていた。

 地震さながらの揺れに言い知れぬ危機感を感じ取った修真は、周囲に目を配らせる。


「何!? これなに!?」


 空が揺れているように見えた。空の景色だけではない、空と修真の間にある空気さえもが小刻みに震えているではないか。

 只ならぬ何かが起きそうな、しかも悪い予感が脳裏を過ぎる。

 マキが動揺しつつ叫んだ。


「こ、高度がぐんぐん下がり始めた!? 修様、この氷、落ちてます!!」


「お、落ちてるぅっ!?」 


 二人の狼狽ぶりに、ポチはほっと胸を撫で下ろす。これで信じなかったらどうしようと不安になってはいたが、やはり街を破壊するという条件を提示すれば、あの二人はそれを阻止しないではいられない。

 極めつけに酷薄な微笑を浮かべ、嘲るように尋ねる。


「制限時間は今から三十分ってとこ。その間に私を止められるかしら、保護者さん?」


 修真は後悔から拳を作った。

 全ての認識を改め、震える視界の中にポチを操るスッキリミント三十六世を捉え、威嚇のごとく咆える。


「くっ、てめぇなんてゲスなんだ! っていうかマジで操られてたのか。変だと思ったよ!」


 それに続くマキ。


「どうやらそうみたいですね。……修様、こういうゲスの中のゲス野郎には一発ガツンと決めちゃいましょう!」


「ポチを返せゲス!!」


「そうですッ、このゲス!!」


 向けられた暴言にひくひくと眉を引きつらせるポチ。


(ゲスゲスって、ずいぶん好き勝手言ってくれるじゃないの……)


 確かに悪役を演じているのは自分だが、少々言い過ぎなのではと疑問に思う。しかも二人掛りでそこまで言わなくても。それよりも修真とマキに言われると無性に腹が立った。ポチ自身、氷塊の高度は下げているが街に落とす気はさらさら無いのに。

 だが、その辺の怒りと事情もぐっと我慢して、


「さぁ、かかってきなさい!」


 氷の上に突き立ったブライゼルを引き抜き、体の周りで演舞のごとく大きく振り回す。ガッ、と柄の底で強く氷を突いた。

 人差し指でくいくいと挑発し、それを受けた修真は静かに呟く。


「……やってやるよ」


 スイッチの切り替えたかのように、平常時はニュートラル極まりない彼の雰囲気ががらりと変わった。

 怒りを押し殺しているような声がポチの耳に届く。


「人の娘に手を出して、その態度とは良い度胸だな……」


 ミュランダをゆっくりと横たわらせ、マキが立ち上がる。


「盗人猛々しいとはまさしくこの事ですね……」


(こ、この二人……)


 ポチが何に一番驚いたか、それは彼らの意識の切り替えの早さ以外の何物でもない。

 修真はゆっくりと一歩、踏み出す。


「しかも、ポチの体を使って下らない騒動を引き起こしやがって。そんなのてめーの体でやりゃあ良いだろ……」


 マキが修真に同化し、視界から消えた。その意味をポチは知っている。彼のバックアップへと回ったのだ。

 すなわち、戦闘が起こるかもしれないという可能性を見出した、という意味。

 ポチは、スッキリミント三十六世という架空の人物に怒りを燃やす修真の気迫に、何故か、ほんの少しだけ警戒し、無意識に身構える。


「へ、へぇ……そんなに?これ?のことが大事?」


 間を置かず、修真が声を荒げる。


「大事だよ。文句あるかこの野郎っ!」


(修様かっこいい!)


「ばッ、茶化すな!!」


 若干恥ずかしがる修真と、それをからかうマキを見て、ポチは肩を小刻みに震わせていた。


(な、なによ……?うそつき?……)


 ――本当はそんな風に思っていないくせに。

 二人は?スッキリミントに操られているポチ?に、呼びかける。


「ごめんポチ! ちょっと痛くするかもしれないけど、後で謝るからな!」


(お父さんとお母さんはあなたを愛してますからね!)


 ――黙れ。

 怒りが湧く。

 熱く、体が燃えるような、それでいて、とても不快なそれが、ポチの心を瞬く間に支配した。


「黙れッ! 二度と喋れないようにしてやるッ!!」


 ブライゼルを大きく振り回し、


「あんた達うるさいのよぉ―――ッ!!」


 真横に薙ぎ払う。荘厳なる刃から真白い滅却の閃光がレーザーキャノンよろしく放たれた。


「いいッ!?」


 修真はすぐさま機械のような翼を広げ、その射線上から跳び上がった。足元が轟音と共に焼き払われ、それどころか滅却の光は空まで貫通し、氷塊の一角がちりとなり崩れ去っていく。

 凄まじい光景に目を奪われながらも、手の内にストールを生成する修真。

 間髪入れずにマキの指示が飛ぶ。


(接近戦闘、ブライゼルの阻止! 気をつけて下さい、槍が相手では戦いが困難ですよ!)


 指示に従い、続け様に斜めから振り下ろされる滅却の一閃を、淡い光の軌跡を残しながら回避し、一直線にスッキリミントの懐に突っ込む。

 ストールを体の横に構え、

 またも鮮烈な光を帯びたブライゼルが修真に降りかかる。


「っさせるかぁ!」


 弾丸のごとく氷上に落着すると同時、光るブライゼルに向けてストールを振り抜いた。

 耳をつんざく金属音。


(ぐっ、重い……!)


 互いの武器が衝突し、主の腕力のみの力で均衡きんこうする。滅却の光が放たれる寸前に受け止めた漆黒の剣を睨みつけるポチ。


「鬱陶しいッ!!」


「のおおッ!?」


 気合と共に切り払い、ストールごと修真を弾き飛ばす。修真はそれでも飛び行く視界の中で蒼魔銃を生成し、魔力を注ぐ。

 着地の寸前、ストールを氷上に突き立て、


「テュッティ!」


 吹っ飛ばされた速度を殺すと同時に、トリガーを引き絞る。

 装飾が輝きを放ち、ブライゼルを発射させないための牽制けんせいの一撃が銃口から閃光となってほとばしった。


「そんなので止められるとでも!?」


 ポチはブライゼルを掲げたまま流れるような動きで真横に飛び、すぐ脇をテュッティの閃光が氷を抉りながら駆け抜けていくのを身ながら、逆袈裟ぎゃくけさに滅却の光を放つ。


「え、おわぁぁあっ!!」


 悲鳴を上げながらも、


(叫ぶ前に回避!)


 マキの支持に体を反応させ、滅却の光が接触する寸前に、修真はなりふり構わない横っ飛び。

 修真の頭上を通過したブライゼルの光は、氷塊を取り巻く入道雲を真横に切り裂いた。

 すぐさま立ち上がり、狙い撃ちされないよう氷上を疾走する。


「あ、あっぶねぇ!! あれ当たったら死ぬだろ!!」


(射撃で牽制、後に距離を詰めて近距離戦に持ち込めば勝機はあります!)


「無茶言うな!!」


 言いつつ、テュッティの標準射撃でポチを乗っ取ったスッキリミント三十六世を狙う修真。

 高速でトリガーを引きまくると、銃身内部で圧縮された魔力が弾丸となってポチに飛んでいく。


「くっ、イラつくわねッ!」


 その弾丸を翼で防ぎながら、振り上げたブライゼルを氷上に叩きつけた。破砕され、真っ白な大量の冷気があふれ出す。

 風向きから、その冷気が修真を押し包んだ。


「くっそ、見えねぇ!」


 視界を奪われ、銃での牽制は効果が望めない。テュッティを体内に戻し、ストールを両手で構える。

 動きは無い。


(風速から、この冷気が晴れるまで約六秒です。下手に動くのは危険、待ちましょう)


 マキの言葉で、修真はいつどこから仕掛けられても対処できるように、呼吸を押し殺し、力を溜める。


(残り四秒)


 遠距離からのブライゼルの一閃、それとも接近か。


(三、二)


 次の瞬間、言い知れぬ悪寒が修真の背筋に走る。


「――ッ!?」


(――後ろです!!)


 振り向く。

 見る。

 そこに、音も無く、気配もなく、忽然こつぜんと、居る。ブライゼルを今にも振り下ろさん体勢で。


「――くッ」


「はァッ!」


 思考が驚愕に染まろうとも、修真は反射のごとく即座に距離を取るが、それも虚しく、ごうと風を裂いて迫る槍先が胸板を掠めた。


「つッ――」


 制服のシャツが横に切れ、血の玉が飛ぶ。


(修様!)


 氷で滑りながら後退した修真は、次の攻撃に移ろうとするポチから目を離さず返答。


「掠っただけだ!」


 思った以上に戦闘の流れが速い。しかも、氷上での戦闘で足場が悪すぎる。

 そう考えるのも束の間、


「勝てるわけないでしょ! この私にィッ!!」


 距離を取ったがゆえに、リーチの長い突きが修真を襲った。





「んっ……はれ? ここは……」


 目を覚ましたミュランダがまず目にしたのは、


「はァァァァ!!」


「づっ!」


 互いの刃をぶつけ合う修真とポチの姿だった。


(な、なにこれ……? ど、どうしてパパがお姉ちゃんと戦ってるの!?)


 ミュランダの視界の中で、凄まじいやり取り。

 ポチの卓越された槍のリーチと格闘を駆使した連撃。神速の乱れ突きが体の急所を正確に狙って繰り出されている。

 対する修真は刃が掠った脇腹を押さえながら、防御に徹していた。


「吹き飛べ!」


「くっそぉッ!」


 繰り出された蹴りに、不安定な体勢から膝をぶつけ、反動を利用して後方に滑る。すぐさま怒涛の突きに備えて、右にフレスベルガスを生成。二刃でもって迎え撃つ。


「はァァァァ!!」


(は、早すぎる……っ!)


 しかし、ポチの熟練された動きから繰り出される連続突きは防ぐので精一杯に見えた。

 ――大変だ。


(パパを助けなきゃ!!)


 このままでは、修真が串刺しにされてしまう。それに、こんな光景は見たくない。


(で、でもどうすれば……)


 考える間にも、二人の戦いは激化の一途を辿るばかり。

 消耗し切った自分が割って入っても、状況が好転するとは思えない。むしろ、何一つとして手が出せない。

 どうしよう。


「これでぇ!!」


「くあっ――」


 また、ポチの槍が修真を掠めた。

 ミュランダにはもう見ていられなかった。


(待ってて、あたしが、あたしがなんとかするからッ!!)


 駆け出した彼女は、空と氷塊の境界線を越えた。翼の魔法で舞い上がり、少々上昇すると、真っ逆さまに落ちるように地上へと姿を消した。





「はぁ……う……くっ」


 槍での連撃の前に、修真は劣勢に立たされていた。

 シャツは切り裂かれ、呼吸もままならない。槍と戦う事がこれほどまでに困難を極めるというのを思いもよらなかった。自分の間合いに相手を引き込めない、近づけない。それに、相手がポチだというのも大きな理由だった。


(修様、前!)


 スッキリミントに操られたポチは出鱈目に強かった。

 槍を携えて迫るその姿には、恐怖すら感じた。だが、いつもの戦いの時のような?何か?が今日に限って修真を揺り動かさなかった。

 紙一重で攻撃をさばき、スッキリミントが次の攻撃へと移るその隙に、距離をとる。


「そうやって逃げ回るだけ!?」


「うるせぇ!!」


 形勢逆転を賭け、大きな一歩で下がった修真はしゃがむと同時に、上半身を九十度捻って二刃を振りかぶった。


「壊れろッ!」


 修真を突くべくポチが間合いに入った。という絶妙のタイミングで、


「させるかぁ!!」


 軽い跳躍と共に、全力を注いで真横に薙ぐ。

 間合いに引き込まれたポチは突きの動作に入っていながらも、急遽きゅうきょ体を回転させ、回し斬り。

 ストールとブライゼルが激しくぶつかり合い、火花を散らす。


「ハァァァア!!」


「だぁぁあらぁぁぁああァッ!!」


 ポチが槍を構えるまでの隙を狙って、修真が疾走。目一杯に距離を詰め、交互に、滅茶苦茶にニ刃の攻撃を振り回す。


「弱いくせにッ……!」


 修真の速度に押され、後退しながら乱撃を受け止めるポチ。激しい金属音が数え切れないほど鳴り響き、互いの武器が衝突する。

 人間を遥かに超越した動きでせめぎ合う二人。

 しかしここでは、さすがに手数では二刃を繰る修真が優勢だった。


「くっ――」


 ブライゼルだけではニ刃を操る攻撃に追いつけず、ポチはみるみる氷塊の端へと追い込まれていく。

 槍での攻撃はリーチが長い反面、攻撃の動作が大きく距離を詰められると不利。しかも突撃しながら嵐のように斬撃を繰り出す修真相手では相性が悪い。

 居たたまれず、


「しつこいのよぉ!!」


 大きくフレスベルガスを斬り弾いて、飛翔。

 距離を取られたらまたブライゼルの強力無比な一撃が放たれる、それを許せる余裕など無い修真は、すかさず追撃をかける。


「ポチを返せぇ!!」


「馬鹿はこれだからッ!!」


 ポチは光を帯びたブライゼルを、頭上に掲げる。

 魔力によって修真の背後で空気が渦を巻き、水分を集めて氷のつぶてが形成され、そして飛び立つ。


(修様後ろ!!)


「――な」


 マキの声に反応した刹那。

 広がった黒髪が視界を覆っていた。


「――借りますよ」


 ふわりと修真の手から抜け出ていく魔剣。

 そこに、マキが居て。


「ま――」


 修真の胸を踏み切りにして、跳び立った。

 体勢を崩し、ある意味蹴り落とされた形となった修真は、急転する世界の中でその凛々しい後姿、


(お前それ――)


 思いっきり見えていた?星柄のパンツ?に目を奪われていた。


(ミュランダのじゃね?)


 マキは勢いのまま、迫る礫の一つに、


「こっちは二人なんですよッ!!」


 漆黒の魔剣を真横に一閃。真っ二つに切り裂いた。それだけではなく、そのままに切り裂いた氷の上半分に飛び乗り、それをまた踏み切りに利用。

 違う角度から修真を撃ち落そうと形成されつつあった礫に接近。


「ハッ!!」


 今度は下から斬り上げ続けて横に両断、十の字に解体した。

 崩れ去る礫の破片と共に、軽やかに氷上に着地。

 その反動で髪が大きくしなやかに、美しく揺れる頃、氷の破片が彼女の周囲に落着した。

 数秒も無い、まさに人を超越した動き。

 何とか修真の身の危険を退けたという喜びと、このアシストを良い形で繋げて欲しいという希望を抱いて、マキは振り向き、名を叫ぶ。


「修様!」


 と、思ったのだが。

 期待とはてんで違う、むしろ真逆の事態に彼は陥っていた。


「っぎゃああああああああ!!」


 修真はポチを操るスッキリミントに接近するどころか、


「落ちるぅぅぅぅぅうう!!」


 悲鳴を上げながら狂ったように縦横無尽に飛び回っていた。それはさながら風船を膨らませて空に放った時のような。

 そこでようやくマキは思い出す。


(あ、そういえば、修様って一人じゃ飛行ユニットの制御が出来なかったような……)


 彼の危険に、ついユニットの制御を修真に委ねて跳び出したものの、彼は制御事態が困難――というか出来ないのだ。

 運良くその飛行の不規則さが手伝って、更に生まれ来る氷の礫は全部回避しているのだが、それも長くは続かなかった。


「助けてぇぇぇえええええ!」


 ひゅるひゅると空を昇った修真の体は、ふわりと推進力を失って真っ逆さまにひっくり返った。

 みるみる落ちる。


「マキのバッカや――――」


 ドーン!

 落着点から土埃つちぼこりさながらに舞い上がった冷気を眺めていたマキは、拳でこつんと自分の額を小突いた。


「えへっ♪」


 その一方、落着したのをきっかけに、宙に浮いたポチの狙いは完全に修真に定まろうとしていた。


「弱いくせに弱いくせに弱いくせにィ!!」


 元々、感情が乱れていた事。ミュランダでの体力、魔力の消耗。修真との戦闘で苛立ち。それだけではなく、今まで積み重ねた色々な不満がここにきて爆発してしまい、ポチの心は何も見えなくなっていた。

 彼女の胸中を例えるなら、ひどく散らかってしまった部屋のようで、どこから片付けて良いか分からないといった有様。

 それなのに部屋は荒れていく一方で。

 一人ではどうして良いのか分からなくて。


雑魚ざこ! この雑魚ぉッ――ッ!!」


 とうとう激情に呑まれてしまったポチは次々と礫を出鱈目に生み出した。機銃の掃射の如く修真の周囲一帯に礫が降り注がせる。

 荒れていく原因を取り除くかのように。

 壊れろと。

 何度も壊れてしまえと叫んだ。

 そして、修真の周囲からとても落下音とは思えない滅茶苦茶な連続的な轟音が湧き上がる。

 破壊の光景を見届け、ポチは背骨が折れたように肩を落とした。

 辛い。

 悲しい。

 痛い。

 苦しい。

 頭を抱え、首を左右に振る。


「もうイヤ……もうほっといて……」 


 誰にも聞こえないように呟いた、ただ一人きりの弱音。

 ポチはもう何も見たくなかった。

 修真も、マキも。

 対照的に荒れていく自分も。

 全部。

 だが、その目は見てしまう。

 互いの背を合わせて、互いを守りあった二人を。


「ふぅっ、ギリギリセーフでしたねっ♪」


「アホか! お前絶対バカだろ! なぁ、バカなんだろ!? 答えてくれよ!」


 背中合わせに言葉を交わす二人の周りには、マキのストールと修真のフレスベルガスによって両断された礫の破片が無数に落ちていた。

 余談だが、修真だけは頭から流血している。


「こんな形で修様と背中を合わせることになるなんて! こういうのってもっと一緒に本読んだりするとか、お風呂とか――」


「聞けよ! マジで怖かったんだからな! あの自分じゃどうしようもなくて、落ちちゃう感覚!!」


「ま、結果オーライってやつですよ」


「ぜんっぜんオーライじゃねえ!!」


 壊したのに、壊れていなかった。

 分かり合い、理解し合い、楽しそうな二人の姿。

 どうして自分はこんなにも痛いのに、そっちは……。

 二つの裏切りがポチを益々(ますます)激情させる。


「雑魚なのに! 雑魚なんだから早く壊れなさいよッ!!」


 怒りで、邪悪に顔を歪めるポチ。

 マキは真摯な面持ちで、ストールの切っ先を静かに、取り乱すスッキリミントに向けた。


「……あなたは随分と口が悪いようですね。親の顔が見てみたいです」


 あなたです。


「はっ。今度はお前? いいわ、ぶっ壊してあげる!!」


「面白いですね、タダでは済みませんよ。けどね、私たちは二人で一人なんですよ。あなたが何を企んでいようと、私たち二人は絶対にポチちゃんは返してもらいます。あと、修様を傷付けたのは万死に値しますから覚悟してください」


「覚悟するのはお前だからね」


 どうして冗談を言い合えるのが自分ではなく、彼女なのか。

 自分はどうして理解してもらえないのか。

 こんな芝居までしているのに。

 本当は、楽しくしていたいのに。

 ポチはそれらの痛みを胸に、なお冷笑を浮かべ、激昂に塗れて支離滅裂となった言葉を叫ぶ。


「出来る物ならやってごらんなさいよ……、雑魚が何匹増えたところで変わり無いッ! お前等さえいなければ!! こんな、こんなッ!!」


 混乱するポチ、だがその一部である『天使』としての彼女には、勝利という二文字を強制的に選択させる。

 そして天使は荘厳なる槍を天に掲げた。


「っははははッ! もう逃がさない……破壊してあげるからッ!!」


 狂気的な喜びを顔に浮かべ、再びブライゼルを天に掲げる。それに伴って周囲の空気と水分が掻き集まり、修真達を乗せた氷塊が変貌を始めた。

 空と氷塊との境界線が奇妙にせり上がり、それがドーム状に氷塊を覆っていく。


「退路を断つつもりですか……」


 マキにはそれが分厚い氷の壁で囲われていっているのだと分かった。

 自分たちが氷の檻に閉じ込められていくのを見据えながら、険しい声で修真に語りかける。


「どうします? このままポチちゃんのブライゼルを狙った攻撃ばかりを続けていたら、倒れるのはこっちかもしれませんよ?」


「お前、気付いて……」


 修真は一瞬、驚いた顔になった。

 ポチではなく武器であるブライゼルばかりを狙った攻撃。そこには、ブライゼルをポチから引き剥がしてしまえば攻撃能力は格段に落ちる、そんな意図があったのだろう。

 如何にも修真らしい短絡的で甘い策だった。成功する保証は皆無。槍を奪ったとしても本来の戦闘力が高過ぎるポチに効果があるとは到底思えない。

 しかし、マキにはそれが馬鹿だと笑うことが出来なかった。

 呆れたような、それでいて自嘲めいた笑みを浮かべるマキ。


「はぁ……。私が気付かないとでも思っていたんですかー」


 修真は至らないと自分でも分かっていた策を見抜かれた事に、少々無力感を味わって肩を落とした。


「……ごめん。でも! それ以外に何か――」


「いえ、気にしないで下さい。修様は元々?こういうの?向いてないんですよ」


 ぐさり。

 とナイフのように突き刺さる包み隠さない言葉。


「うっ……」


 しょげた修真をマキはくすくすと肩で笑い、スッキリミントが作り上げていく氷壁を、どこか余裕すら窺える強い表情で睨みつける。魔剣を体の線のように、縦に真っ直ぐ構える。

 視線だけは動かさず、優しく、呟いた。


「だから?こういうの?は、私に任せて下さい」


「お前……」


「集中、前見て!」


 彼女の想い答えるように、修真も同じく魔妖刀を構えた。気になってマキの横顔をちらりと見るが、首を振ってスッキリミント一点に集中。

 莫大で威圧的な力を放出しているポチの体。

 氷の壁はついには氷塊自体の形を円形にするまでに至り、その唯一空との接点であった頂点もみるみるうちに閉じられた。急に外界と遮断された為、空気の停滞と共に静寂が駆け抜けるように広がっていく。閉ざされたという感覚が心地悪い。

 いつしか夕日となった陽光が差し込む氷塊の中に、捕われた二人と、捕えた一人。

 ついに氷の檻を完成させたポチは笑みでも泣き顔でもない、静かなる怒りと哀しみが入り混じった面持ちで二人を見た。

 込み上げる苛立ち。

 むかつく。

 体の底からこんこんと湧き出てくる、不満。


「お前等はいつもいつも腹立つのよ……?私?の心をぐちゃぐちゃにして……」


 それを搾り出すように吐き出していく。

 たとえ自分の行動が原因といえど、もう引き返せなかった。


「だから、もういい。もうぐちゃぐちゃになりたくない、もうならないようにする。考えるのめんどくさい……」


 そこに演技など一欠けらもなく、とうにポチはポチに戻ってしまっていた。だが演技ではないとは言え、彼女が常とする冷静さなど欠片も有りはしない。


「もういらない……」


 操られたポチの様子が豹変した事で、修真もマキも口には出さないが無言の内に緊張感を感じていた。しかしそれ以上に、娘を乗っ取ったスッキリミントが哀しんでいるらしい様が修真の胸を締め付けた。

 スッキリミントに同情を覚えた訳ではない。

 簡単なことで、ポチの顔で、ポチの姿でそんな風にされると、まるでポチが悲しんでいるようでとても不愉快だったのだ。

 ポチには、そんな顔はさせたくない。


「さっきから黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって!! はっきり言え! 

何が悲しいんだよ! 俺がなんとかしてやるからポチは返せ!!」


 ポチは、ぎろりと声の主を睨みつけた。

 皮肉にも、修真の言葉はポチの怒りを逆撫でしていた。これまで以上に。


「うるさい黙れぇッ!!」


 絶対言わないつもりだった言葉を、滅茶苦茶に叫ばせてしまうほどに。


「なんとかしてやるだとッ!? うそつくなッ!!」


 感情のままに。


「本当は私なんか興味無いくせにッ!!」


 心のままに。


「悪かったな愛想悪くてッ!!」


 思ったことを、心の奥底に封印して隠さず。


「元々こんな顔なんだ! 余計なお世話よッ!」


 本当は、どうしようもない?女の子の部分?で分かっていた。

 自分と、ミュランダとマキとの決定的な違い。

 明るく元気なミュランダ。いつも笑顔で、時々冗談を言って雰囲気を楽しくさせるマキ。

 それとは真逆の無口で無愛想な自分。

 その違い、それは、『可愛い』。


「私なんか……私なんて……どうせ……可愛くない……」


 二人とも可愛く甘えられる。自然に可愛い笑顔ができる。可愛いから修真もそっちを見るのだ。

 だけど、自分には出来ない。可愛くなんて笑えない。可愛い言葉も仕草も似合わない。こっちを見て欲しいなんて恥ずかしい台詞、言える筈が無い。

 だから修真も見ない。


「お前に思われなくても、そんなの一番私がわかってる! でも、無理なものは無理なんだ!! 可愛くできない私はどうすればいいんだ!!」

 最初は、それでよかった。それどころか、可愛くする必要すらなかった。

 だが、今はそれだけじゃ、駄目だった。


我侭わがままなのは、ちゃんとわかってる!! でも……二人だけにそんなの、ずるい……」


 ポチはひどく思い詰めた声で呟いて、ゆるゆると無気力に氷上に舞い降り、崩れるようにへたり込んだ。

 とても悲しかった。溜め込んでいたものを吐き出してもこれっぽっちも気分は楽にはならないし、言ってはいけないことを口にしてしまった喪失感が大きく、それが重苦しくポチの心にのしかかった。

 どうして可愛くできないんだろう。

 どうして私にはできないんだろう。

 どれだけ力が強くたって意味が無い。そんなものよりも、もっと可愛いが欲しかった。


(こ、こいつ、な、何を言ってるんだ……可愛くない、とか……)


 彼女の悲嘆ひたんに、場は静まり返っていた。

 いつの間にか氷塊の落下は停止していた。

 修真の頭はこんがらがってしまい、むしろ何が起こっているのかすら理解できていない。


「い、意味が……。ちゃんと、わかるように、説明してくれないと……」


「――っ!!」


 どこまでも鈍い修真が、気づいてくれないのが嫌で。

 素直になれない自分が哀れで、こんな浅ましい自分の願い――こんなことをしたら修真は自分を怒るだろう、こんなことをしたら修真は自分を見ざるを得ないだろう、そんな下らない願いを具現化した物を作らないと想いを伝えられないのが滑稽こっけいで。

 ポチは、己の片腕とも言えるブライゼルを握り締め、翼を張る。


「誰の、誰のせいで……ッ」


 ブライゼルの刃が煌々と白く輝いた。凄まじい怒気に魔力の発揮を混ぜこぜにした波動が駆け抜ける。

 人智を超えた凄まじい空間の中、マキが一歩、踏み出す。


「ポチちゃん!? ポチちゃんなんですよね!?」


 マキには、ポチの最後の言葉で、曖昧だったすべてに納得がいった。

 この氷塊が落ちない理由。謎の人物を偽って、自分たちと戦った理由。その全ては、ポチによる自作自演。それ以外の何物でもない。

 そして、そうしなければいけなかった理由も、彼女には理解できた。

 しかし、もう手遅れだった。


「お前のせいだァァァアーーーーーッ!!」


 ポチは空を蹴って修真に向かっていく。

 全ての不快を取り除くため。

 その刃を、彼を消すべく振り上げる。


「やめてくださいっ! こんなの本当にあなたが望んだことですか!?」


 そんなこと、ポチにさせるわけにはいかない。大切な彼女に、怒りに任せて大事なものを壊させるなどという愚行を犯させてはならない。

 マキはストールを片手に跳び出し、ポチの行く手をはばむ。


「全部わかったから! もうやめてください!!」


「邪魔するなァッ!!」


 魔剣と神槍が真っ向から衝突し、火花を散らす。

 幾度も刃を交える二人。しかし、今のポチのブライゼルはとてつもなく重く、マキには受け止めることしかできない。

 それが天使の力なのか、はたまた怒りによるものなのか。どちらにせよ、力では彼女を止められそうになかった。


「――ぐっ、ポチちゃんッ!!」


「消えろォッ!!」


 一心不乱に邪魔者を排除しようとするポチの振り下ろしをなんとか受け止めたマキは、互いの刃越しに回答をもってして呼びかける。


「ポチちゃんッ!! 修様は鈍いんです! 言わなくちゃ分からないんです!! 伝わらないんですよッ!!」


 だがその言葉も、今のポチには届かない。

 そしてこんな状況であろうとも、いやこんな状況だからこそ、ポチの力はいつも以上に発揮されていた。


「どけェッ!!」


「くっ――!!」


 マキはいとも容易く、途方もない馬鹿力による回転斬りで弾き飛ばされた。

 その間、ポチは修真へと肉薄にくはく


「これで、これで終わりだッ!!」


 ブライゼルをごうと振り上げるポチ。

 だが修真は構えはおろか、動こうともしなかった。


「修様!?」


 いや、動けなかったのだ。


(こいつは、ポチ? じゃあ、今までのは……?)


 最初から、ポチはポチだった。

 また、気づいてやれなかった。


「修様お願いッ、動いて!! ポチちゃんにあなたを壊させないで!! そんなこと、この子にさせないでぇッ!!」


 マキの悲痛な声で、修真は動いた。

 彼は、自分で選んだ。

 怒りに呑まれ、自分へと刃を向けるポチをどうするのかを。自分はどうするのかを。

 修真は、己を守る武器、フレスベルガスを投げ捨てた。


「な――修様ッ!?」


「ポチ……ごめんな」


「ァァァァアアアアアッ!!」


 ブライゼルの刃が、修真を切り裂く。

 その寸前。



 ――突如、頭上の氷の壁が爆発を起こした。



 誰もが不測の事態に上を向いた。

 降って来る。

 一つの影が。


「――聖なる純白よ!」


 不意な事態で、しかもこんな心の状態でもポチの天使としての性質が反応し、接近する影をその冷めた双眸そうぼうに捉える。


「――ミュランダ!?」


「暗黒に染まりし、かの野獣を清めろ!!」


 だが、荒れた心のせいで彼女の動作反応が僅か、遅れる。

 白い魔法陣に包まれたミュランダが咆えた。


「カン!! チュゥゥゥゥウッ!!」


 ポチの視界に、突如として無数の何かが現れた。

 それは白い、何か。

 それが、魔法陣から解き放たれる。

 そこまでは見えていた。


「ハイィィィィィイ――――――ッ!!」


 べちゃ!

 べちゃべちゃべちゃべちゃ!!

 何か、ぐっちょりした物が次々に飛来し、ポチの視界は暗転した。


「……」


 静まり返る場。

 ポチの顔には、生クリームがてんこ盛りになったパイ皿が叩きつけられている。


「……」


「……」


 バラエティ番組などで良く目にするそれはどうやら100%生クリームの代物らしく、ぼたぼたと顔から滴っていた。

 いつしか、凍り付いていた場は、時間も凍りつくまでになっている。


「……」


 雨のような生クリーム攻撃を受けたポチはぴくりとも動かない。

 そんなポチを見る修真とマキは、何がなにやら。

 ただ、ミュランダだけは鼻息荒く、勝ち誇っていた。


「どうだ! ライオンやゾウだって一撃で倒すんだよ!!」


 そこで修真とマキは知る。

 ――あ、今朝のウソ信じてた。


「……ッ!!」


 ぐちゃ!!

 最後にぼたりと落ちたパイ皿を踏みつけ、垂れていく生クリームの中でポチが口を開く。


「ミュランダぁ……?」


 最悪にキレていた。体から吹き上がる怒気は数秒前の比ではない。誰をも圧倒するような冷たい空気だった。

 何より目が違う。生クリームの隙間から見えた瞳はナイフのようなおどろおどろしい光を宿し、殺人鬼かと見間違うほどの殺気を放っている。

 ミュランダはあまりの恐ろしさに思わず小さな悲鳴を上げた。


「――ひぃッ!」


 次の瞬間、

 どがどごばきめりぐしゃ!!


「……ふんっ」


 ぼっこぼこにされたミュランダが氷上に沈む頃には、ポチはつかつかと、怒りを感じる早足で歩き出していた。


「え、あ、おい! どこに――」


 修真が呼び止めるも、


「帰る」


「えぇっ?」


「もう帰るっ!!」


 ずがーーーん。

 と、ポチは自分で作った氷の壁をブライゼルでぶち破って外に出て行ってしまう。

 何もかもが理解不能の領域に達して数秒、修真は悩みに悩んでからようやく一言だけ口を開いた。


「な……なにがどうなってんの?」





 結局、ポチの氷塊を街に落とす策は当初の予定通りに不発に終わった。あの後、氷塊はポチからの魔力供給を失って自壊。街に衝突する前に修真とミュランダの働きによって消滅した。

 修真、マキ、ミュランダの三人は疲れ果て、ようやく帰路についた頃には、街は騒然となっていた。

 周辺住民は皆、野次馬根性丸出しで家の外に出たり、井戸端会議を開き、環境破壊による世界が崩壊する前兆なんじゃないかと邪推してみたり、或いは神秘的な何かを感じ取ったりと大騒ぎ。

 突然街の上空に現れ、しかも一時間ほどで消え去った謎の巨大物体に説明付けるにしても超常的な自然現象として片付けるには無理があるので仕方が無いだろう。

 そう思いながらも騒然とする住宅街をさも他人事のように振る舞いつつ、内心は非情に耳が痛い思いをしながら足早に家に帰宅した修真達は、玄関に脱ぎ捨てられた靴を目にし、しかもそれがポチの物だったため、ひとまずの安堵を許されたのだった。

 しかしそれはやはり?ひとまず?に過ぎず、夕飯の支度が出来ようとも、風呂の時間になろうとも、何度呼びかけようとも、ポチが自分の部屋から姿を現す事は無かったのである。

 そしてそれが、夜が更けるにつれて片桐家の人間にとてつもなく居心地の悪い結果を残していた。



















 雲の無い月夜。

 片桐家はとうの昔に寝静まっており邸内の灯りも全て落ちている。時刻でいうところの深夜零時十八分という時間帯。

 毎日天日によって干されている布団に入るが、修真は眠れなかった。


(なんだったんだろーなぁ……)


 夜風にそよぐカーテンから漏れる月明かり。絵に描いたような平穏な夜なのだが、彼の胸中は落ち着いて眠りにつけるほど穏やかではない。


(まだ……何も解決してない。俺、どうすれば良いんだろうな……)


 マキが見たポチの傷も、そしてあの?狂言?の意味もまだ明らかにはなっていない。

 どうして、ポチはあんなことをしなければならなかったんだろう。

 修真の回答は出なかったが、それに対してマキはこう言っていた。


(「ポチちゃんは、正直じゃないから言えなかったんですよ。修様に甘えたいって……。だから、あんな風に、行動で示したんじゃないでしょうか? 修様が、ポチちゃんだけを見るように」)


 彼女の答えは、修真にとってはなはだ疑問なものだった。


(ん〜、本当にあいつがそんなこと考えるのか……?)


 それに、あの時、言っていた台詞。

 ――私なんて可愛くない。

 それもずっと修真の胸につっかえていた。


(あー、なんかもやもやするっ!)


 苦しそうに寝返りを打つ。

 あの後、夕飯が出来て部屋まで呼びに言ったが、ポチからの返事は何一つとして返ってこなかった。修真だけに限らず、マキでも、ミュランダでも、それは同じ結果に終わっていた。

 夕飯は彼女一人が居ないだけで、この世の終わりみたいにひどく暗い雰囲気だった。

 数時間、マキと話し合ったが、自室に閉じこもってしまったポチをどうにかする答えはいくら悩んでも答えは出なかった。


(寝ようか……でもなぁ……)


 修真はむしゃくしゃして、布団を頭からかぶる。

 明日になればポチは出て来てくるだろうか。誰かが、もしくは自分上手い解決策を閃くだろうか。

 そんな想いを胸に、強く目を瞑る。

 だが、この時間になっても眠りについていないのは、彼だけではなかった。


 ――音も無く部屋の戸が開く。


 修真は気付いていない。

 外から聞こえる涼やかな虫の鳴き声に紛れて、?それ?は修真に接近する。

 手には窓から差し込む月光を浴び、闇の中でらんらんと輝く刃。

 包丁。

 その影は気配を完全に殺し、ゆっくりと布団の前に忍び寄った。

 瞬間、


「――どぅおッ!?」


 寝ていた修真は突然、跳ねるように飛び起きた。

 顔と目を鋭く歪め、周囲を警戒する。


「…………って、あれ? おかしいな」


 冷や水を全身に打たれたような感覚に驚いて飛び起きたが、しかし何の変哲もない自分の部屋という光景がただ静かにある。

 変だ。不気味だ。

 と思っても、視覚からもたらされる情報には警戒すべき点が見当たらない。


「き、気のせいか」


 自分に問い掛けてみるが、どうにも勘違いというか、状況から判断して変なのは自分らしい。


「そ、そうだよな、勘違いか。気にし過ぎだよな。疲れてんのかな、俺」


 はぁ、と溜息をつきながら釈然としないまま布団に戻り、掛け布団を。

 その時だった。


「――ッ!?」


 居る。

 誰かが、布団の中に、居る。

 全身の毛穴から冷や汗が噴きだし、何よりも逃げなければと思った時には、もう手遅れだった。


「ぅぐ!?」


 驚くべき速さで足を何かで絡め取られ、腕を取られ、同時に口も封じられた。

 そして、


(や――やばい)


 首筋にあてがわれた包丁の刃。


(こいつ――)


 間違いなく只者ではない。

 身動きが取れない状態で、修真は打開策を見つけるべく雷光のような速さで思考を巡らせる。ただ一つ分かることは、今自分の背後に居る者が人間界の者ではないことぐらい。こんな芸当はさすがに普通の人間には荷が重い。

 ほんの一瞬で布団にもぐりこまれ、背後から腕を取られてしまった。なんという早業。微塵も身動き身動きが取れないどころか、抵抗すらできなかった。

 修真は緊迫した空気の中で冷や汗を流す。


(こ、殺される)


 どくどくと脈打つ胸に急き立てられ、様々な恐怖も頂点に達しようとする。

 背後を取られた焦り。

 絶対的に不利な状況への恐怖。

 間違っていなかった自分の感覚を疑った後悔。

 あの手この手を考えて不利な今を覆そうと模索するが、首に刃を突きつけられている時点で行動する前にやられてしまうのは明白。


(どど、どうする!?)


 まさか自分の部屋でこんな目に遇うとは。だが、殺傷目的だったらとっくに殺されていてもおかしくはない。

 そのまま少々の硬直があって、背後から、


「喋るな」


 それだけ告げられた。

 意外だった。なにせ聞き間違う声ではない。


「ポ、ポチ……? え?」


 娘の声なのだから。

 何にせよ、ポチに包丁を突きつけられるいわれなど記憶に無いが、背後に居るのが誰とも知らない存在でないだけで修真の心は安堵する。


「なんだよ〜。びっくりしたじゃん。てっきり――」


 言いながら振り返ろうと、


「ど……ろぼう……」


 包丁の刃がひたりと首筋についた。

 間違いなく殺る気だ。

 凍りついた修真に返答は無く、代わりに命令だけが耳に届く。


「喋るな動くな。抵抗すると殺す」


 彼女の口から出たのは、とても殺伐とした警告だった。娘に包丁を突きつけられて殺すとか言われている。サスペンス深夜超特急である。


(えーーーッ!? 殺すって、えぇぇぇえッ!?)


 もう大パニック。


(ちょ、ちょちょ、ちょっと待て! なんかしたっけ? いや、してない。してないよね!?)


 とにかく身に覚えも無いし、本当に殺されたらたまったもんじゃない。ここは彼女を刺激しないように従順に従わねば。


「わ、わわわ、わかった。言うこと聞くから、ここ、これはどけてっ」


 かたかたと震える指で、いまやのどを掻き切らんとする包丁を指す。するとポチは背後から低い声で。


「ダメ。何度も言わせるな、殺すぞ」


「なんでッ!?」


「静かにしろ。死にたくないなら」


 てんで取り付く島が無い。

 さらに謎なのが、ポチが刃を突きつけたまま何もしないところである。殺そうと思えばいつでも……


(もしかして……殺すのが目的じゃないのか?)


 何かが色々おかしい。

 何の目的で、ポチがこんな危なっかしい行動をしたのかが分からない。殺すとは言っているが、恐らく殺すつもりはない。


(う〜〜ッ、ぜんっぜんわからん!)


 包丁の冷たい感覚にはらはらしながら、とりあえず目を瞑って彼女の動機を考える。

 一、日々の不満がそうさせた?

 ニ、単純に実は嫌いだった?

 三、もしかしたら、そういう遊び?

 なんだかどれも違うような気がしてならない。あるとしたら三番だが、遊びにしては度が過ぎているような、ポチだったらやりかねないような……。

 もしかしたら全部可能性が有るような……。

 状況が上手く飲み込めないまま黙考を続けていると、急に背中が温かくなる感覚を覚えた。


(へ?)


 肩甲骨あたりに当たっているのはぼんやりとした温度。腰に当たっているのは、その固さから膝だと分かった。

 ポチは修真の背中に、体をぴたりと密着させていた。


(な、ななな、何をするつもりなんだッ!? やや、やっぱり殺されるのかぁッ!?)


 修真はもうほとんど泣きそうな表情で声の無い悲鳴を上げる。

 迷走する状況に取り乱していると、蚊の鳴くような小さな声が聞こえた。小さ過ぎて聞こえたり聞こえなかったり。

 何かと思って耳を澄ます。


(――え?)


 本当に、小さく、夜のさざめきに消されてしまいそうな――


「……ぅっ……ひぅっ」


 ポチの嗚咽おえつ

 包丁を持つ手が震えている。

 背中越しでも、修真にはすぐ分かった。

 泣いている。

 あのポチが。


「お、おい! どうし――」


 振り返ろうと体を動かすが、


「ダメ! 動かないで!」


 今までに聞いたことも無い声でポチは拒んだ。驚いた修真はびくりと反射的に体を強張らせる。

 普通の状態じゃないのは明らかだった。どう解釈してもいつものポチではない。


「お願いッ、見ないで!」


 悲痛な拒絶を受けて、修真は大いに怖気づいた。

 振り返ってはいけない。見てはいけない。ポチがそう言うのならば本当にそうなのだろう。

 けれど頭ではそう思っているのに、彼女の漏らす嗚咽が、シャツに染み込んでくる涙が、修真に本能のような意志を芽生えさせた。

 どうしようもなく、ふり向かなければいかない気がした。

 たとえ何をされたとしても、

 たとえ死んでも、ふり向かなければならない。

 ポチが泣いているのだから。


「――くッ!」


 修真はめられていない左手で包丁を持つ腕を掴み、力任せに起き上がった。

 そして、彼にとって人生最大の衝撃と言っても過言ではない光景を目の当たりにする。


(――う、うそだろ……?)


 捲れあがった布団の中でうずくまり、その体には少し大きい白のパジャマの袖を握り締めて、静かに小さく震えているポチ。

 本当に泣いている。何かに悲しみ、何かに心を痛めて涙を流すその姿を目にした途端、修真の胸を大きな衝撃が貫いた。

 息が出来なくなった。

 まるで喉を締め付けれているように、呼吸が苦しい。声も出ない。

 頭の中の認識と、目の前の光景が繋がらなさ過ぎて、

 あの強いポチが、

 あの無表情のポチが、

 と、それ以上何かを考える事もできず、ただポチの姿を見ることしか出来ない。


「……うっ、ひぅっ、うぅ。だめ、見ないでぇ……」


 ぽろり、ぽろり、止めどない涙をメガネに包まれていない瞳から流すポチは、うつ伏せになって顔が見えないように隠す。


「こ、んな、こんなの……わたしじゃない……」


 愕然とする修真の瞳。


(ポチが……泣く、なんて……)


 脳が痺れ、体が硬直し、心に激烈な痛みが広がっていく。全てへの理解がままならぬうちに、無意識のうちに、手が伸びていた。彼女に触れようと。

 だが、


「だめッ!」


 ポチは、それを制した。


「助けないで……お願い……」


 身を縮め震えている彼女の反応に、修真は呆然として、何もできなくなった。

 ポチは布団に顔を押し付け、言った。


「ほ、本当に、まけ、負けちゃうから……。もっと、負けちゃうから」


「――ま、負ける!? だ、誰に!」


 けれども彼女は答えず首を横にだけ振る。


「言えない……のか?」 


「……わ、わたしッ、こんな恥ずかしい、子で、ごめん、なさいッ。も、もう、大人なのに……!」


 ポチを見下ろした修真は、あたふたとした調子で尋ねる。


「は、恥ずかしい子? 恥ずかしい事って……ど、どうしちゃったんだよ。誰かに嫌なことでもされたのか?」


 困った。困り果てた。よもやポチがこんな状態になろうとは夢にも思わない。


(な、なんだこれ。包丁持って入ってきて、それから泣き出して、恥ずかしいって……)


 彼女の話からすると、なにやらとんでもない恥ずかしい失敗をしてしまったようだが、こんな風にポチがへこんでしまうなんて相当な出来事らしい。


「ポチ、本当にどうしたんだ? 言ってくれなくちゃ分からないよ……」


 訊いても、ポチはただ布団に顔を押し付けて首を振るだけ。

 こんな時どうやって、何を言ってやれば良いのかわからない。

 それでも必死に考えて、気付いたら、


「えっと、その、なんていうか……そう! 確か、小学生の頃だったかな? まだ母さんと暮らしてる時なんだけど、母さん毎日忙しそうだったからすごく手伝いたくってさ」


 そんな事を口に出していた。

 ポチは聞いているのかいないのか、小さく縮こまって嗚咽を漏らしている。

 それでも彼は続けた。


「それで、洗濯物を干そうと思ったんだよ。その頃はまだ背が小さかったから、物干し竿に洗濯物をかけてから、上に吊るそうと思ったんだよ」


 ポチが興味ありそうに、涙で腫れた顔を上げた。


「……そ、それで……?」


 修真は先の事を思い出して、笑い混じり話していく。その声は意識せずとも、穏やかで、とても優しい。


「んで、片方持ち上げるだろ? そしたらずるーってもう片方から落ちちゃってさ。すぐに持ち上げるのやめたんだけど、運の悪いことに、母さんの下着だけが干してあるヤツが道路のど真ん中に落ちた……」


 言い終えて、顔がひきつった。


「……」


 ポチは赤い目を丸くしている。

 本当に情けないといわないばかりの大きな溜息をついて、修真は?恥ずかしい失敗?の結末を語った。


「そしたら、通行人のおっさんの目の前でさ、しかも通行人のおっさんじゃなくて管理人さんで、もう最悪。すぐに母さんが謝りに行ったんだけど。帰ってきてから死ぬほど怒られた。『お母さんのパンツ人に見せてどうするの!』とか言われちゃって、もう恥ずかしくてさぁ。他人に母さんのパンツ見られたのが恥ずかしくて死にそうになったよ」


 思わず当時を思い出してぷるぷると身悶みもだえする。

 ポチは笑いたいけど笑えないというなんとも心地悪そうな表情を一瞬見せて、すぐに顔を隠してしまった。

 ――なんか違ったっぽい。


「だから、まぁ、その、何が言いたかったっていうと、俺も結構恥ずかしい失敗とかしてるから大丈夫、っていうか……まだまだあるけど、聞く? 今日だって屋上で……」


 布団に顔を押し付けたまま、ぶんぶん首を横に振るポチ。


「あ、ああそうだよな。ごめん……」


「……」


 埒が明かなくなって、修真はようやく、


(たぶん、これは思い違いじゃない。俺が、こいつに言ってやらなくちゃいけない……んだろうな)


 言う覚悟を決めていた。

 それは、もしかしたら違うかもしれない。勝手な思い違いかもしれない。でも、マキに言われてからそう思うようになっていた。しかし、そんなのは自惚れだと決め付けてる自分が心のどこかにいて、気いていない振りをしていた。

 そうとしか考えられなくなっても、意地を張るかのようにどうしても信じられなかった。

 自分自身は、ポチの中で、それほど必要とされていないと。

 そう、思っていて。

 この答えを言えるほど、自信が無かった。


「えぇっと、これは俺の推測なんだけど、聞いてくれるか……な?」


「……」


 返答はない。

 だが、言わなければ。


「お前、ひょっとして……俺に、何かしてほしかったんじゃないのか? ずっと、そう思ってたんじゃないのか?」


 ポチはまた答えなかった。

 だが、修真は返答を待った。

 やがて少しの沈黙が続き、ポチは、涙声で言った。


「ちがう、ちがうのぉ……っ」


 言葉を真に受ける修真。


「あ、ごめん……。そうだよな、やっぱり勘違い――」


「それも、ちがう……」


「え?」


「ちがう、の。それも、ちがうの……ッ!」


(ど、どういうことなんだ?)


 混乱する修真は、ポチがどんな思いでここまで来たのか知らなかった。

 胸に巣食った感情に負けて、ここまで来てしまった。それどころか、人前で泣いてしまった。

 それが恥ずかしくて、情けない。


「ぜんぶ、ちがうのにぃ……」


 こんなに近くにいるのに、たった一言、本当の想いを伝えられないのが、気づいてくれないのが、悲しい。

 言えない自分が、悲しい。

 もう、これ以上、何もできない。

 ポチは布団から顔をあげ、揺らぐ感情を宿した瞳から、思いつめた心を溢れさせ修真に、問う。


「わ、わた、し……どうす、どうすれば、いいのぉ……」


 無論、修真には理解できなかった。理解はしたかったが、彼女が問う、何をどうすれば良いのか、それがどういう意図の質問なのかさっぱり分からないのである。


「だ、だから、な、何が?」


 伝わらない。無常にも、ことごとく、伝わらない。

 ポチには、どうして伝わらないのか、分からない。

 もう限界だった。


「っ……う……ぅあああぁぁぁ――――」


 大声で、泣いた。

 ポチは自分が戦ってきたものに負け、修真の胸に飛び込んだ。


「おわ!」


 服を掴んで、引き寄せて、思いっきり体をくっつけて、ここまでしているのに気づいてくれない鈍感な修真を、ポチは泣きながら叩く。


「ばかああぁぁぁあああっ!」


 何度も、何度も叩いた。

 泣きじゃくり、強く、強く、叩いた。


「ばかぁぁぁっ、パパのばかぁぁぁあっ!」


 泣き喚きながら自分の胸板を叩き続ける彼女を見て、修真は胸が張り裂けそうになる。ポチがこんなにも悲しんでいるのに、戸惑うことしかできない。何もしてあげられない。

 自分の無力がとても辛い。


「ごめん、ごめんな?」


「パパが、パパが悪いんだからぁぁぁっ!」


「ポチ……」


 修真はポチの背中を、子をあやすように優しく包み込み、頭を撫でた。彼女に泣いてほしくなくて、


「そうだよな、俺のせいだよな。本当にごめん……」


 泣き止んでほしいと思って何度も謝った。


「パパのせいでぇっ! わたし、わたしこんなにっ、こんなのちがうのにぃ!」


「ごめん。俺のせいだよな……」


「パパが、ミュランダとママばっかりだからっ、わたしだって、そんな、仲間はずれはいやなのに! そうやって、いっつも!」


「……俺が、仲間外れにしちゃってたのか」


「ふ、ぅっ、うぅっ……パパのばかっ、ばかばかっ! ……あほぉ、もうくたばれ……」


「ごめん、何もしてやれなくて……。俺のせいで、お前にこんなに悲しい……」


 しばらく、修真はポチに叩かれた。

 涙ながらの心の吐露を受け止めながら。

 絶えず、謝りながら。

 彼女の気の済むまで。






 あれから何分経っただろうか。

 一時間、二時間もあったようなきがするし、たった十分のようにも思える。不思議な時間だった。

 いつもなら耳にもつかない虫の鳴き声が大きなさざめきに聞こえる。確かに聞こえるポチの小さな呼吸音は、大分落ち着きを取り戻してきたらしかった。

 もしかしたら、胸に詰まった物を吐き出してすっきりしたのかもしれない。ただ、変な体制でしがみつかれてしまったせいで、体がちょっときつかった。


「ポチ、足が痺れてきたんだけど……」


「ご、ごめん、なさい……」


 謝りながらも、ポチは修真の膝の上からどこうとしない。離すまいと、服を掴んでいる手に力を込めた。


(ど、どうしたもんかなぁ……)


 修真、苦笑い。

 このままでは話も聞けない。

 それにしても、悪いのは自分として、ポチはいったい誰に負けそうだったのだろう。何と戦っていたのだろう。

 かなり気がかりだったが、ポチは言おうとはしなかった。

 だが、それ以上に嬉しいこともあった。


「実はさ、今、けっこう驚いてるんだ」


「……どうして?」


「ほら、何があったのか知らないけど、お前は俺を頼ってきてくれたんだろ?」


 彼の言葉に、ポチは表情に落胆の色を見せぎゅっと体を寄せた。


「……ごめ、んなさい。頑張ったけど、?これ?は私じゃ、勝てなかった」


 密着している小さな体は、泣いているせいか少し熱い。

 修真は八方塞がりのこの状況にどうするわけでもなく、ぼりぼり頭を掻く。それでもようやく落ち着いてきて、一つ、自分の過ちに気が付いていた。


(たぶん、無理に訊く必要ないよな……?)


 訊こう訊こうとしていたが、どうやら彼女に必要なのは?こうしていること?らしいし、無理に聞き出そうとしてもポチを泣かせてしまうだけのような気がしたからだ。

 そうだよな、と自分に確認を取り、真っ赤に腫れた瞳、その目尻に溜まった涙を拭ってやる。


「ごめんな。言いたくないなら言わなくても良いよ。気がすむまで一緒にいるからさ」


 彼女は大きく息を吐くと共に、また謝った。


「ごめん、なさい……」


 ポチは、吐き出せるだけ吐き出して、諦めにも似た感覚で修真の温度に身を委ねた。

 ようやく、ここにたどり着くことができた。もっと、違う方法で上手にここに来れたらよかったのに。

 そうは思うが、思い続けた願いが叶った歓喜の方がよっぽど大きかった。

 修真が抱きしめてくれる。その今なら、彼という安堵の中にいることが出来る今なら、ミュランダの気持ちがわかる気がした。

 修真だから言える。

 修真になら言える。

 優しくしてくれるから、その気持ちに応えたいと思う。

 勇気を出せる。

 今ならマキの言っていた、言わなくちゃ伝わらない、という言葉の意味も理解できる。


「……言うから聞いて、欲しい」


 胸の中で、ポチがひっそりと呟いた。

 数秒おいて、修真は訊き返す。


「いいのか?」


「うん」


 ポチはゆっくりと語りだす。また泣き出してしまいそうに、頬を朱に染めて。


「あのね、わたし……」


 体が緊張と恐怖で震えているのが、修真にも伝わった。

 だがそれでもポチは、彼の優しさに後押しされて、声を振り絞って、消え入りそうな声で言った。


「……さ、寂しかった、みたい」


 それは、あまりにも彼女には似つかわしくない言葉で、あまりにも予想外だった。

 震えながら、たどたどしい口調で話す。


「……?それ?は、一人で部屋に、いる時に、気付いたの。でもっ、最初は?それ?が、何かわからなかった」


 所々、うわずった声で精一杯搾り出す声を修真は黙って聞きながら、包丁を首に突きつけられた時よりも気が動転していた。

 また泣き崩れて行くポチの顔で。


「……ミュランダが、このまえ冗談で言ってた。さ、寂しいってっ。それで初めて、気付いたの。私は寂しい、んだって。……そしたら、すごく、すごく恥ず、かしかった」


 寂しいと思ってしまう自分が恥ずかしくて、泣いてしまう自分がどうしようもなく悔しくて、ポチは唇を噛んだ。

 悔しくて、悔しくて、思いっきり噛んだ。


「別にそんなの、恥ずかしいことじゃ……」


 言いかけた修真を圧倒する勢いで、


「だ、って、ミュランダもママも一人で寝れるっ、私には、できないッ。それはダメ、ってことでしょッ? 負けってこと、でしょッ?」


 涙を流しながら訴えた。特徴的な抑揚のない声なんかじゃなく、目一杯感情が込められた声で。


(ポチ……)


 修真はここで初めて知った。

 ――え、一人で寝れなかったの?


「わっ、たし、負けちゃったっ……ぜんぶに負け、ちゃった……」


「……」


 今、目の前で泣いている少女は驚くほど、一人で夜が眠れないほど、弱かった。

 いつも自信たっぷりで、他人の干渉を許さない性格だと思っていた。積極的に人に近寄ろうとしないから、本当にそうなのだろう。

 ――だが、それは他人に対してだけだった。

 ポチは自分よりも強い。その鮮烈な印象のせいで、彼女が悩むことはありえない、そう思い込んでいた。

 ――だが、それは違った。確かに力は強いかもしれない、賢いかもしれない、けれどポチはまだ?人間としては?子供とそう大差がないのだ。

 いつしかそれを忘れてしまって、彼女をこんなにも傷つけてしまった。

 自分自身も、小さな頃は母親に甘えていたのに。

 彼女も言わないだけで、同じだったのに。

 ポチは強いプライドがあってクールに振舞っているけど、そのプライドが強すぎて言えないだけでポチはこんなにも弱い。戦闘になれば一番強いけれど、女の子としてはこんなにも……。

 そうだ、女の子なんだ。


「ポチ……」


 修真は初めての敗北に涙するポチを、強く強く抱き締めた。


「ごめんな」


 もう泣かなくて良いように、寂しいなんて思わなくて良いように、愛しい娘を誰よりも強く包み込んだ。

 それが嬉しくて、悔しくて、ポチの涙は止まらない。


「わたし、もう大人なのに。こんな……こんなッ!」


 ポチは敗北し、ここまで来てしまった自分を恥じ、全てを言ってしまった自分を責める。


「そんなことない。お前は悪くない」


 恐らくそれは、彼女にとってすごく怖い事で、苦しい事だったのだろう。

 感情よりも先に知ってしまった常識や、欲望を押さえつけようとする理性のせいで、頭でっかちになってしまっていただけなのだ。


「こッ、こんな、恥ずかしい子で、がっかりしたでしょッ? いらなくなったでしょッ?」


 もう滅茶苦茶に喚いている。冷静さなんか欠片も無い。

 ただ愛おしく見えるポチの姿を見て、修真の心は穏やかだった。


「そんな風に思う訳ないだろ?」


「なんでッ? 私はもう大人なのにッ……こんなの、普通、変だって、いらないって、思うよぉ……」


「だから、そんなことないってば」


「わた、し、寂しいに負けた……のにっ。負ける私はっ、いらないっ。可愛くない、なのに、どうしてっ!」


 修真のえりを握り締め、どうしてと尋ねるポチ。

 この時ばかりは理解できた。いや、修真にとってはそれが事実だった。


「お前はじゅうぶん可愛いよ。可愛くないなんて言ってないだろ?」


 彼の言葉にポチはうろたえ、何度も首を横に振った。


「……あぅっ……そ、そんなのウソっ、兵器なのに、わたし、可愛くないの知ってるのにぃ……寂しいにまけたのにぃっ」


 その狭い両肩に手をあてがい、修真は言う。


「大丈夫。大人でも寂しい時は寂しいよ。っていうか、お前はそんなに大人じゃないだろ?」


 怒ったように真っ赤な瞳を向けるポチ。


「もう大人っ。パパよりも沢山生きてるもん……っ」


 修真は小さく笑った。


「だって、俺の娘になったのはちょっと前だろ? まだ一歳にもなってないじゃん」


「……だっ、だけど」


 何か反論しようとしてポチは口篭もった。

 修真は優しくポチの髪を撫でながら、過去を思い返す。そうすると今の言葉には嘘があった。


「……でもさぁ、実際俺はお前のこと大人だと思ってたよ。ほら、ミュランダは『子供!』って感じがするけど、お前はけっこう落ち着いてるだろ? 俺の知らない事も沢山知ってるし。だからさ、なんていうのかな、甘えたいなんて思わないだろって思い込んでた」


「……やっぱり、がっかりしたんだ」


 こみ上げる悔しさから、修真の服をぎゅっと掴むポチ。

 

「はは、違うよ。だからごめんな。そうだとばかり思ってたから全然気付けなかった」


「パパ……どうして、謝るの? ぜんぶ、わたしが悪いのに……」


 それは、と言って、修真は言葉に詰まった。

 自分達がポチをこういう風にしてしまった気がする。勝手に強い子だと決め付けて、それが彼女にも伝染して強い子を演じさせてしまっていたのだろう。

 新しい環境、新しい感情、ポチはまだ何も知らない。

 分かりやすい、楽しい、怒り、そんなのは簡単に理解できたのだろう。だが、寂しいはそんなに簡単な感情ではない。嬉しい楽しいを知ったから、それを求めて生まれる感情なのだから。

 だが、全部自分が悪いと思ってしまっているポチに、それは言えなかった。

 言えない代わりに、修真はおもいっきり小さな体を抱き締めた。

 ポチを知れて嬉しい。話してくれて嬉しい。

 可愛くないわけがない。些細な事で、こんなになるまで健気に思い悩んで。

 ミュランダよりも少し大きい。

 ミュランダよりも少し細い。

 ほとんど一緒に見える体でもこんなに違う。

 修真は自分が知らなかったポチを新たに感じる。


「さぁ、どうしてなんだろうな。ちょっと俺にも分からないかな。ほら、俺、バカだし」


「……」


 答えをはぐらかされて、ポチは少々むっと口を結んだ。

 そんな彼女に修真は屈託のない笑みを向ける。


「これからはもっと甘えたい時に甘えていいからな」


 修真の瞳を、ポチは真実を問う子供のような眼差しで食い入るように見つめた。


「……そうなの? 本当にそれでいいの? 私、お姉ちゃんなのに?」


「ああ。姉ちゃんだからって、我慢することなんか無いって」


 頷いて返すと、ポチはゆっくりと言葉の意味を咀嚼そしゃくし、飲み込むように理解していった。


「……わかった」


 そうとだけ呟いて、背中を向け、修真にもたれた。

 彼の腕をその胸に抱いた。

 遊ぶように、手を触った。

 包み込まれていると、心から感じた。

 だが、それが本当に正しいのか、自分がこんなにも喜びの中に浸っていていいのか、そう思って、でもそれを手放したくなくてポチは謝ってしまう。


「……ご、ごめんなさい」


 修真はちょっと苦笑して、尋ねる。


「ちょっと慣れないか?」


「う、うん」


 それを聞いて、ポチの気持ちが自分と一緒なのだと思った。


「安心しろ、俺もなんだよね」


「え?」


「ほら、ミュランダ……いや、あいつに限らずマキもだけど、よくくっついてくるじゃん? だから、あいつらが甘えてるのかどうか知らないけど、ちょびついてくる分にはもう慣れちゃったんだよ。でも、お前に甘えられるのは、その、初めてだから、なんか緊張しちゃってさ」


「分かるよ。わたしも、すごく、緊張してる……。でも、慣れたい」


「そうだな。大丈夫、いつか、慣れるよ」


「うん」


 ポチが頷いたのを確認し、修真はふと、畳に転がった包丁を見た。


(でも、これはなぁ……)


 甘えても良いとは言ったが、毎回あんなポチ流の甘え方をされたらこっちの身が持たない。何かの手違いがあってからは遅いのだ。

 ここで注意しておかないと命が危ういだろう。


「こ、今度からはあんな危なっかしい真似はやめてほしいかな……? ほんと死ぬかと思ったから」


「あ、あれはもう……し、しないよ」


 自分でも無かったことにしたかったポチは、気まずそうな半笑いで顔を逸らした。

 さらに釘を刺す。


「それと、空に変なもん浮かべるのも禁止な」


「し、しないったら!」


 真っ赤になって言い張るポチ。どうやらちゃんと理解しているようである。

 修真は、様々な問題が解消された開放感から、ふっと小さなため息を吐いて、呆れ混じりに言った。


「よしよしっ、お前は可愛いよ」


 真上にある彼の顔を見上げるポチ。


「ほ、ほんとに? ミュランダとか、ママよりも?」


「ん〜、同じくらいだな」


 返答がお気に召さなかったのか、ポチはぶすっと目を細めた。


「なんか気に食わない」


「そ、そこはしょうがないだろ……」


 困る修真に「ふーん」とつまらなさそうに呟いて、喋りだす。


「……今日ね、久野愛に訊かれた」


「久野愛?」


「二年A組の久野愛」


 首を傾げていた修真は、クラスを聞いて思い出す。同じ学年に在籍する女子生徒の名前だ。直接関わったことはないが。


「あー、喋ったことないから、どんな人かは知らないけど。なんて訊かれたの?」


「お父さんが嫌いかどうかって」


(どんな流れでそうなったんだよ……)


 謎に包まれたポチの日常会話に疑問を感じる修真。この時点で分かることは久野愛という人物が間違いなく変なやつだということだろう。


「聞いてる?」


「え、あぁ、聞いてる聞いてる。それで?」


 場違いな推察は後にして、彼女の言葉に耳を傾ける。


「私ね、き、嫌いじゃないって言った……」


 恥ずかしがっているのか、ポチはやっぱりたどたどしい口調で、おまけにそわそわしながら語った。


「けどそれは、たぶん違う。本当は、たぶん、ううん、たぶんなんかじゃなくて……」


 そこで言葉を区切って、真っ赤に泣き腫らした瞳で、修真を見つめる。


「きっと、きっと好きだよ」


 きっと好き。

 その言葉が修真に喜びを感じさせると同時に、?きっと?という前置きがポチらしくて、可笑しくさせた。

 ?たぶん?よりももっと前向きな意味で?きっと?。


(なんてゆーか、アレだなぁ……)


 なんとも不器用な性格だと思った。

 はは、と微妙な笑みを浮かべた修真を、ポチは真剣に見据える。


「パパは私よりも弱いし、鈍いし、バカだけど、それでも、きっと好き。だから……」


 もう一度、だから、と言って俯く。

 恥ずかしい。かっこ悪い。

 そんな自分を縛り付ける想いを勇気で振り切る。想いは言わなければ伝わらないと学習したばかりだ。何故伝わらないのか、それは、言わなかったからに他ならない。

 気持ちを伝えたい。

 だから言う。

 たったそれだけの単純な事で、けれども、ポチにはとても難しい事。

 でも、それでも、言った。


「私は、パパと仲良くしたいよ……」


「――」


 あまりにも率直で純心な言葉に、修真は一瞬、思考が停止してしまった。

 ポチの言葉に嘘は無かった。見栄も無かった。ただ、素直に、言った言葉が純粋なものだった。

 修真は、ひねくれ者の彼女の本当の気持ちを知って、考えを改めていた。

 こちらを見つめる瞳も、心も、なんて純粋なんだろう。


「……」


 ポチは、返答を待つのが不安になってきゅっと修真の服を掴んだ。

 それにはっと我に返った修真は、嬉しくて笑ってしまいそうになるのを我慢しながらぽんとポチの頭に手を置く。


「そっか、ありがとな。仲良くしような、これからも」


 髪をくしゃくしゃ撫でた。


「……あ」


 ポチの全身を震えるような不思議な感覚が駆け抜けた。

 胸の中が急速に沸騰するような。

 のどの奥がもぞもぞするような。

 下っ腹がくすぐったくなるような。

 それらの衝動に突き動かされ、我慢する必要などどこにも無くて、座って笑っている修真にがばっと腕を回した。


「ぉおおっ? おいおい、きゅ、急にどうしたんだよ……?」


 まさかポチに抱きしめられるとは思ってもみなかった修真は目を白黒させる。


「わかんない! でも、きっと嬉しい!」


「そっかそっか」


 新たに絆を深める二人。

 その壁一枚隔てた、廊下側。

 暗闇の中で一人、壁に背を預けていたマキは、


(ちょっとジェラシーですよぉー、修様ー)


 くすりと微笑むと、軽快かつ弾むような足取りで自分の部屋に戻って行くのだった。


(それにしても、あ〜、良かった〜!! 今日はなんか長い一日でした〜〜!!)





 どんなに辛い事があっても、どれほど嬉しいことがあっても、無関係に明日は来る。

 何があろうと、夜が明け朝となるように、大なり小なり次々と変化は訪れるのである。昨日の空気は今日とは違う。一瞬一秒として同じ物など有りはしないのだ。

 翌日には、ポチはすっかり元に戻っていた。

 マキとミュランダはそれを特に疑問に思うこともなく、またいつもの日常に戻った。


「補習生は今配られたプリントをしっかり勉強し、明日の朝提出するように!! 自分の現実をしっかり把握しろ!!」


 ほとんど泣きそうな顔で窓の外を眺めていた修真は、現在の心境のように曇り雨を降り注がせている空を遠い目で見詰めていた。

 教師が教卓を降り、教室を後にしたのを口火に、学年中から集められた欠点組みは一気に溜息をついた。仲には歓喜から雄叫びを上げる人物もいれば、涙を流しながら握手を交わす事物もいた。

 それもそのはずで、一週間に渡った補習授業がたった今、終わりを告げたのである。

 そしてその中に居た修真は傷心のまま現在まで補習をうけていたのだが、彼もまた途方も無い開放感から、


「よしっ、帰るか!」


 活力に満ちた表情で鞄を片手に立ち上がった。

 廊下出ると、遅くまで残っている生徒は同じ補習を受けた同士達くらいしかおらず、陽光が差し込んでこないせいか昼間とくらべるとひっそりしている。

 より一層引き立てられた悲愴感を背負い、下駄箱を出る。

 ずっしりと空に掛かっている灰色の雲から降り注ぐ雨。

 そこでようやく気がついた。

 

(……ぁ、最悪。傘もってきてない)


 これも何かちゃんと勉強をしなかった自分への罰ということに置き換えて、修真は雨のグラウンドを歩き始めた。

 冷たい。

 ざぁざぁ降る雨の中で、雨の温度よりも制服をクリーニングに出さなければならなくなったのが、悔しくて仕方が無い。


(また、出費……か)


 冷たい水分をばら撒く雨天を見上げる。雫が目の中に入ってすぐにやめた。

 ぐしょぐしょのグラウンドを渡りきり、校門に差し掛かる。

 道路に出た辺りで、異物が視界の端に映った。


「ん?」


 不思議に思ってその方を向くと、植え込みの前に小さな姿。鞄を抱え持って、雨空を見上げているポチ。

 傘もささずに。

 髪も、服も濡らし、ポチがそこに佇んでいた。

 その場に棒立ちして見つめていた修真は、ようやく声を掛ける。


「お前……なにやってるんだ?」


「――あ」


 ふいに声を掛けられて、ポチは折れるほどに垂れていた首を上げた。

 そして、なんでもないように、


「終わった?」


 そう尋ねた。


「は、何が?」


「補習」


「あ、今終わって――いやいや、そうじゃなくて、帰ったんじゃなかったの? つーか、びしょびしょじゃねーか」


 ポチの姿はまさに濡れねずみだった。制服はぐっしょりと雨水を吸ってしまっているし、髪からは雫がぽたぽたと滴っている始末。随分と長い間雨の中にいたのだろう。

 ポチは雨に打たれながら、無表情で答える。


「どこにいようと私の勝手。濡れているのは傘を持って来なかったから」


 まったくもって事実そのものの回答。勝手と言われてしまっては、修真も返す言葉が見つからない。

 ざあああああと勢いの増した雨が二人の沈黙に割って入る。

 それに助けられて、修真は次の言葉を探し、見つけた。


「……誰か、来るのか?」


 するとポチはこくりと首肯しゅこうした。


「まだ来ないのか?」


 静かに首を振って、ポチはゆっくりと手を差し出した。





 新しくなった帰り道。降りしきる雨に人影はあまりなく、町は閑散としている。時々水を跳ねて過ぎていく車くらい。

 そんな雨の街並みに、人影が二つ。

 傘も差さずに、手を繋いで歩いている高校生男女。端から見るとカップルかと思えなくも無いが、どちらかというと兄弟のように見えるおかしな二人。実際は親子(?)なのだが、雨の日なのでそういう目を向けてくる人通りは無い。

 そのため、ポチも手を繋いで歩いていられるのだろう。

 修真は濡れた靴下の感覚を気持ち悪く感じながら、さっきから一向に喋らないポチに尋ねた。


「それで、どれくらいあそこに居たの?」


「……一時間と三十九分、二十八秒」


 正確に答えたポチの手はかなり冷えている。

 初夏とはいえ、雨の中に一時間半もうずくまっていたらそうなるのは分かりきった事なのに。


「なんで待ってたの?」


「……待ってたっていうのはパパの勘違い。私、そんなにしおらしくない。ぼーっとしてたら、パパが来た。それだけ」


「あ、そーっすか」


「……あ、今、なんかバカにした」


「してないしてない。ただ、普通は傘とか持ってくるだろ」


「じゃあ、今度からはちゃんと持ってくる」


「やっぱ待ってたじゃねーか」


「だっ、だからそれは……もういい」


 怒ってしまったポチを修真はけらけらと笑い、まっすぐ道路を見ながら呟いた。


「帰ったら、すぐ風呂に入れよ?」


「うん」


 素直にうなずくポチ。


「パパ」


「ん?」


 振り向くと、


「帰ったら――」


 ポチはすごく自然に、息を呑むような可愛らしい笑顔を見せていた。


「?風邪をひかないように?すぐお風呂に入れよ?」


 その感情豊かな表情に目を奪われ、


「……はいはい、分かりましたよ」


 気にしていないように返事をして、修真は歩き出した。

 ポチも遅れないように横を歩き出す。

 陰気になってしまう小雨のその日、

 いつもとはちょっとだけ違う、いつもになった。






 余談。


「うえっへーい!! 復活やーー!!」


「この人誰ぇぇぇぇえええッ!?」


「あ、セキコ! セキコだよパパ!」


「って、うちの出番こんだけかーい!! でも消えんで良かったー!!」





 はい、というわけで27話でした。ちょっと雰囲気の違う終わり方でしたが、いかがでしたでし――

 違いますよね。

 半年以上も待たせてすいませんでしたですよね。ええ。わかっておりますいませんでした。

 ただ違うんですよ。それはというのも、この話が「やっと半分出来たかなー?」っていう最悪のタイミングでパソコンの野郎がへそを曲げてしまいましてね。しかもこれまでの曲げっぷりとは一線を画す曲げっぷりで、曲げるというか折れたって言っても過言ではない状況。要するにご臨終なされてしまったのです。まったく、ちょっと紅茶かけたくらいで怒っちゃって。

 いえ、彼が怒るのも無理ないとは思うんです。確かに定休日の不注意が引き起こした惨事。コードに足を引っ掛けて紅茶○伝ばしゃあっ。

 いや、ですけど、仮にその紅茶○伝をばしゃあされたのが定休日だったら「いえいえ、こちらはだいじょうぶですよ。それより自分の部屋でアクロバティックに転んでいたようですが、お怪我はございませんか?」っていう何事にも動じない紳士っぷりで対応出来る量なんです。その点、彼はといえばばしゃあで即死ですからね。しかも凶器は紅茶○伝。貴様はどれだけデリケートなのか。思い出してくれ、今までだって色々ばしゃあしただろ。もう一回ばしゃあするぞ。ばしゃあって言いたいだけですからね。

 とまぁ、そんな状況の中にあっても、日々増えていくアクセス数を見たりすると感謝と共に罪悪感で心が痛いわ(自業自得)、それなのに小説は書けないわ(自業自得)、貯金は123円しかないわで、飛びたいのに飛べない某、魔女の○急便みたいな状況に陥っちゃってもう自転車にプロペラを

 はい、どうでもいいですね。

 次はこんなに時間かからないようにがんばります。ちゃちゃっと書いて、ぱぱっと更新。そんな感じを目指します。紅茶も飲みませんし、転びません。貯金もします。

 内容の方はですね、ちょっと前々からやりたいなって思ってたことがあるんですけど、いつものように大きな話を一つという風じゃなくて、四コマ漫画みたいにベリーショートストーリーをたくさん、みたいな感じにしたいんですよ。うーん……どうなるんだろう。

 まぁ、そんなこんなで、次のお話も面白くなるようにがんばりますのでよろしくお願いいたします。読んでいただいてありがとうございました!


 あ、感想や励ましのお言葉をくださる神のような優しさを持った方へ。

 とても励みになります!

 いつも迷惑かけてごめんなさい!

 ありがとうございます!

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