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第29話、おさみしガリアンヌ 前編

 初夏の晩、彼女の瞳は冴えていた。

 布団の中で身を縮めても瞳を閉じても、どうしてなのか意識がはっきりとしてしまう。もう深夜なのに、普段ならばとっくに眠りについているというのに。

 ぐるぐると堂々巡りを繰り返す意識が、まぶたの裏に浮かんでは消える文字を映し出す。

 浮かぶ。

 浮かぶ浮かぶ浮かぶ浮かぶ浮かぶ。


「――イヤ! やめろ消えろッ!」


 意志とは裏腹に叫んだ言葉で、はっと目を開けた。

 夜の藍色に染まった自分の部屋。夜風に揺らめくカーテンからは時折、淡い月明りが差し込んできている。

 上半身を起こした彼女の小さな胸には、吐き気に似た不快感が渦巻いていた。


「くっ、なにこれ……」


 身を強張らせ、握り潰すように両肩を抱く。その力のあまり、皮膚に爪が食い込んだ。


「……んっ、く」


 当然、痛い。

 だが?それ?は痛みでは消えない。彼女が痛みで消そうとした不快感は、力でもってしても消し去る事が出来る類のものではなかった。

 増え続ける?それ?は、次第に心の全てを覆っていく。

 例えるなら、自分が塗り替えられてしまうような、汚くなっていくような、決していい気分ではない気持ち悪い感覚。

 それに、とても寒い。

 手も、肩も、震えていた。


「イヤ、こんな……」


 胸の不快を消したいと、何度も願った。しかし、どう対処すればこの不快感が消えてくれるのかが彼女には分からなかった。

 いや、知らなかったのだ。


「……くっ」


 悔しさから太ももにも爪を立てる。?本来ならば感じる必要のない?鈍い痛み。爪が肌をぎりぎりと削り、朱色の傷が五本ずつ太腿ふとももに滲んだ。

 人間としての生活を始めてから追加した?痛み?という機能。

 本来、彼女のような存在にとって痛覚などは必要なく、もとより存在しない。しかしながら痛みというものは人間にとって重要な感覚らしく、痛みで体に危機を知らせたり、活動の限界などを知らせるための警報装置のような役割を果たしている。彼女が存在としての道だけを望むのならば、痛みという機能は必要なかったのである。

 けれど、彼女達がそうしているから、真似をして?人間のような機能?を追加した。

 彼が感じる物をより近く共感するため、そんな理由でではない。

 では、なぜか。

 彼女の体に人為的に組み込まれた本能、その中の一つである適応能力が働いたのだ。

 周囲に同化し、溶け込む。

 それは、彼と彼を取り巻く世界に、彼女が適応した結果だった。


「く、そ……!」


 枕もとに置いてあった愛用のメガネを鷲掴みにし、ふらふらとおぼつかない足取りで部屋を出る。


(……暗い)


 廊下に出ると、いつもとは真逆にしんと静まり返っている。幸い、月明かりが差し込んでいるのでまったく見えないほどではなかった。

 板張りの廊下が素足に冷たい。

 ひたりひたりと当ても無く、進んで行く。


(やめて。そっちには行きたくない)


 一歩進み、躊躇ためらっては引き返すという単調な行為を繰り返す。


(戻りたいのに……!)


 だが、心の奥底にある感情がそれを許さず、彼女はまた一歩踏み出す。

 数十分そうして、彼女は一階へと降りる階段に差し掛かった。

 木製の手すりを掴み、立ち止まった。

 窓から差し込む月明かりに、照らされきらめく真珠色の髪。


(わ、私……)


 彼女は今、大きな岐路に立たされていた。

 迷わせ混乱に陥れているのは、少し前から胸の内に巣食って、?生まれて間もない人間としての心?を蝕んでいる感情。

 それはとても恥ずかしい想いで。

 それはとても口には出せない想いで。

 だが、胸に渦巻くこの新しい感情どうにかしないと壊れてしまいそうだった。だから、彼女は深夜の片桐低を彷徨って、思い悩む。


(行きたくないのに……)


 目的地は分かっている。

 けれご、そこに辿り着いてしまったら、それは彼女にとっての敗北。

 引き返すことが出来たならば、彼女にとっての勝利。

 そして、迷っている今は弱者。

 誰もが寝ているこの時間に、誰も見てないこの時間に、彼女は彷徨っている。

 勝利と敗北の狭間はざまを。


 ――パパ、私、どうすればいいの……?




 深い青が逃げるように西の空へと消えていき、遥か東のビルの山から眩い光が顔を出す。

 そんな中に、ぽつんと存在する古風な家屋。周囲を囲う高い塀。その一辺にあるこれまた古風な門に、なんだか日本家屋には似つかわしくないピンク色。誰の目にも止まらない真新しい表札(マンション時代の物)には、ポップな字で「KTAGIRI」と書いてあった。

 そして、日の出から大分あと、片桐家の朝は早くも遅くも無い、微妙な時間から始まる。


 この日家事当番だった修真は自室でぱちりと目を覚まし、まるで夢遊病なんじゃないかと思える流暢りゅうちょうな動作で立ち上がった。そのまま何の迷いも無く今まで寝ていた布団を無言で押入れに文字通り押し込むと、部屋を出て洗面所に向かう。

 あくびをしながら洗面台で蛇口を捻り、流れ出した水音を意識のどこか遠くで聞きながら、鏡に映った自分の顔をぼけっと眺めた。

 言うまでも無く十七年ほど付き合っている見慣れた顔だ。


(俺って……こんなに早起きだっけ?)


 修真は、こんな朝からしゃきっと目が覚めてしまった自分に尋ねる。

 思えば、彼女達が一緒に生活するようになって、大分自分の行動がいわゆる規則正しい生活というヤツに近づいている気がしている。最近では夜遅くまで起きていないようになったし、朝起きても顔を洗うなんていう爽やかな習慣など無かったはずだ。

 これは、良いことなのだろうか。

 一般的に考えたら良いことなのだろう。しかし、年頃の若者としてはどうなんだ。

 少々顔をしかめて、


(ま、どうでもいいか)


 ざぶざぶと顔を洗って、気分転換。タオルを洗濯機へと放り込んで居間へと向かった。


「幽霊さん、おはようございます」


 いつものように土間で朝食の準備をしようとしている半透明の女性に挨拶を交わす。

 換気扇から朝の日差しが差し込む古臭い空間の中で、幽霊さんは微笑んで会釈して返し、


『おはようございます、修真さん』


 手にしたスケッチブックに、さらさらと挨拶の言葉を書き込んで見せた。

 朝っぱらから幽霊と顔を合わせるとなると少々薄気味悪いが、彼女はそんなものを感じさせない清潔そうな雰囲気を持っている。全身が半透明も、ちょっと足とかが無くて喋れなくても、もっと凄い物を見てきた修真からすれば何ら問題ない。

 少し変わった爽やかな挨拶を交わしたところで、幽霊さんは困ったように頬に手を当てて、修真の顔をちらちらと窺いだした。


「? どうかしました?」


 尋ねる彼に、幽霊さんはひどく申し訳なさそうに言う――というか書く。


『申し上げ難いのですが……お米が、無くて』


 そこまで書いてペンを止め、特殊能力ポルターガイストで修真の前に蓋の開いた一斗缶いっとかんを浮かべる。

 ふわりと、もはや誰か透明人間でも居るんじゃないかと思える動きで浮かんだ一斗缶。普通ならば物体が物理的な力の干渉を受けずに動くことはありえないが、修真はそんなありえない光景に驚く事は無い。それが普通になってしまったのである。

 彼が驚いたのは、一斗缶が浮遊していることよりも、その中身でだった。

 げ、そんな表情で固まる修真。


「うっわ……すっからかんじゃん」


 片桐家では主に米の貯蔵用の入れ物として扱われる缶の中には、一粒の米も見受けられない。

 うっかりしていた。最近、かまど(薪をくべなくても点火したマッチを放り込む程度で、ヒノトオロチの力で燃え上がるという優れもの)で米を炊くようになって、その辺りの管理は幽霊さんに任せっきりだったのだ。


『どういたしましょう? これではお弁当も作ることが出来ません』


 なんだかほとほと困りきった表情と必死そうな字で訴えかける幽霊さん。彼女としても自分の役割(この場合、炊事)が果たせないとなると心苦しいものがあるのだろう。

 しかし修真としても、あの三人にどんな文句を言われるか分かったものではない。


「……そうだな、えぇーっと」


 どうしたものかと、冷蔵庫を開いた。買い貯めをしない冷蔵庫の中には、少ないが適当な食材はある。けれど、主食が無い。

 あるのは卵に、ウィンナーに、牛乳……


「どうしよ……。あ、そうそう!」


 いつもは余ったご飯は冷凍にするじゃないかと思って冷凍庫を開けるが、もわっと溢れた冷気の中はやはりすっからかん。こういう時に限って必要な物が無い。冷凍食品ははなから買ったりしない。


「はぁ……もう、しょうがないな」


 修真は大きく溜息をついて、不安そうに見る幽霊さんに言った。


「すいませんけど、幽霊さんはゆで卵作ってもらえます?」


 そう言い置き、修真は適当に服を着替えて家を出て行くのだった。




「おーひゃよーござーまーす」


 寝癖と眠気がMAXの状態のマキが居間に下りてきた。室内を見渡すと、そこにはいつもになった光景がある。背の低い長卓と、テレビと、掛け軸と、なんだか香ばしい匂い。


「はれ?」


 マキは匂いにひかれるように座布団の上に丸まったセキコをひょいと跨いで、土間へと顔をのぞかせた。

 修真と幽霊さんが並んで朝食を作っている。


「むぅ……」


 普段の彼女ならば仲良くしているようにしか見えないが、今は怒る気力どころかそんな選択肢すら浮かんでこない。


「あ、殻むけました?」


『はい。これでよろしかったですか?』


「全然OKっすね。えぇっと、マヨネーズは、っと」


 振り返って冷蔵庫を開けようとした修真は、こちらを呆けた顔で眺めつづけているマキに気づく。

 彼女は、紺色のパジャマの袖で眠そうに目をごしごし擦っている。


「おー、おはよ。髪の毛ぼっさぼっさだぞ?」


 マキは寝ぼけた声で言う。


「ええー。なんか、あ、やっぱり眠いかも。もう一回寝てきます」


「うん。お休み」


「ちょぉっと!」


 するとマキは慌ててつっかけで土間に降り、フライパン片手の修真の腕をひしと抱きしめ、不満そうに言った。


「どおいうことなんですか! せっかく起きた私はもう寝なくちゃいけないんですか。おはようのちゅーはどこにいったんですか!」


「そんなもんどっか行っちゃったよ。こっちは朝っぱらコンビニに走って疲れてんだよ」


「じゃあもう、強引に」


 平常心であしらいながら、柔らかそうな唇をむーっと突き出しているマキの頭を、ぺいん、とフライパンで軽く叩く。

 マキは頭を片手で抑えながら、寝ぼけた笑みを浮かべた。


「へへへ、効きませんよそんな攻撃ぃ〜。逆に眠気がふっとびました」


「もっと大事な物がふっとべば良かったのにな。脳みそとか」


 フライパンを火に掛けた修真の背に、じっとりとした恨めしげな瞳で見て吐き捨てるマキ。


「修様のケチんぼぉー。ひとでなしぃー」


「はいはいわかったから。あっちで大人しくテレビでも見てろよ。すぐに作るから」


 冷たい反応を返してウインナ―を焼き始めた後姿にマキはくっと顔を険しくし、丸々と太ったゴミ袋を持ち上げると、勝手口の厚い木戸に手を掛けた。


「そんなことゆーなら、ゴミ出ししてきてやりますよ。うっははは、死ねー!」


「非常に助かります」


 最後に、


「ぶぁーかっ」


 子供のような捨て台詞を残し、よたよたと外に出て行った。

 修真はその姿を見送って、呆れもほんの少し混じった、けれどどこか楽しんでいるような小さな笑いを漏らす。

 その肩をちょんちょんと小突くスケッチブック。


「はい?」


 ふり向くと、幽霊さんがフライパンを指差している。


「おおっ!? コゲるコゲるっ!」




「お腹減ったかもぉー」


 数分して、少々頭の出来が悪そうな言葉と共に、ピンク地にキリンが踊り狂うファンシーなパジャマに身を包んだミュランダが起床。空腹に苛まれながら、ふらふらと居間に姿を現した。

 静かな居間で一人ぼっちで喋り続けるテレビは天気予報を映し出している。今日は九十五パーセントの確率で快晴らしく、どうも真夏日になるらしい。そう言われてみると、昨日の夜は寝苦しかったかもしれない。

 そんな事を考えていると、


「おう、おはよ。今日は自分で起きれたのか?」


 土間から修真が姿を見せた。

 ミュランダは明るく元気に笑う。


「パパおはよー。えらいでしょー?」


 あくまでも空腹で自然に目が覚めたなんて絶対に言わない。


「毎日それが続いたら、偉いかもな」


「毎日はちょっと無理〜。って、あれ? どうしてエプロンつけてるの?」


 首をかしげたミュランダは、修真が身に付けた黒く飾り気の無いエプロンを見て尋ねた。


「んー、今日は久々に朝飯作ることになって」


 と言うと、ミュランダはきらきらと瞳を輝かせる。


「やったぁ!」


 最近の食事は全て幽霊さんが作っていたので、修真の作った料理が食べられる事が嬉しかった。

 ミュランダ的に幽霊さんの食事が不味い訳ではない。むしろ絶品なのだが、妙に品のある料理ばかりで、盛り付けも美しいのでがっつくことが何だか悪いような気がしてしまうのだ。しかし、修真の料理は俗っぽいと言うか、ある物で適当にそこそこ美味しくという概念の下に作られているので盛り付けも適当、ばくばく食べられるのが好きだった。


「あー、パパの朝ご飯ひさしぶりだねー。楽しみだよぉー」


 ミュランダがぐるると鳴ったお腹をさすりながら、嬉しそうに言う。

 修真は子供っぽい彼女を微笑ましく思い、自然と笑みを零す。


「そう言われると作る甲斐があるな。よーっし、すぐ作るからな」


「じゃあ、ちゃんと良い子で待ってるねーっ」


 邪気の無い笑顔で返す彼女に、修真は半目になってテレビの方を指で示した。


「それよりも、そこのぐーたらを何とかしてくんない?」


「ぐーたら?」


 指の先を見やると、テレビの足元ではマキが座布団を抱いて、幸せそうに微睡まどろんでいる。

 隙だらけの母の姿に、ミュランダはにやりと口の端を上げた。寝ているマキを見て、ある衝動に駆られたのである。


「ったく、起きたと思ったらこれだからな」


「ママに……」


 軽い助走をつけ、


「じゃ〜〜んぷっ!」


「はぶっ!!」


 勢い良くダイビングボディプレス。いきなり落下衝撃を受けたマキは不意を突かれたこともあって、淀んだうめき声を上げた。


「う……うえぇー、なんれすかー。重いれすよぉー」


「えへへ〜、ママあったかだねー」


 嫌がるマキの背中に、子猫のような笑顔でぎゅっとしがみつくミュランダ。反してマキは顔をしかめるしかない。


「あのれすねぇー、もうちょっと大人しく甘えれないんれすか〜? バイオレンスドーターれすかー」


「ふかふか〜♪」


 ミュランダの中で、マキに抱きつくのは修真にするのとはまた違った良さがある。柔らかくて、ふんわりと良い匂いがして――その一方、修真と同様に途方も無い安心感も存在する。どんな世界に行ってもこれに勝るものは無いだろうとミュランダは思う。

 そうしてバイオレンスドーターが安堵に酔いしれ、

 マキが動かなくなり、

 間も無く、


「……」


「……」


 修真はゆっくりと、何故か普通に落ちているハリセンを手に取った。

 大きく振り上げて、


「寝てんじゃねーよ」


 すぱん、すぱーん。


「痛いれすぅ〜」


 どつかれたマキは、抱きついているミュランダを膝の上に抱く要領でむっくり起き上がると、睨むかのようにほとんど閉じた目を修真に向けた。


「いきなりなにすんれすか、この暴力亭主ー。あ、血が……」


「出てねーよ。起きろっつってんだよ」


「起きてますってばー。せっかく地球の寿命を計算し」


「朝っぱらから怖いこと考えるな。完全に寝てただろうが」


 二人が牽制けんせいし合うのをよそに、ミュランダはマキの膝の上でごしごしと目を擦りながら小さく呟く。


「ちょっと静かにしてぇ……」


「マジ寝かコラ」


 はぁと大きな溜息を吐いた修真は、もう付き合っていられなくなって土間へと戻って行った。

 むにゃむにゃと口を動かして眠ろうとする娘を見下ろして、マキは一応、母として行動する事を決意する。

 眠いながらも立ち上がって、


「っしょーがないっすねー。こうなったら朝シャンれすよー」


 その細腕で、むんずとミュランダを掴み上げ廊下に。


「おは――」


 と、そこへちょうど起きてきた白に四葉のクローバーを散りばめた柄のパジャマを着たポチを、


「はいはい行きますよぉー」


「ちょ、どこに――」


 有無を言わさず小脇に抱えて連れ去っていく。

 脱衣所にぽいぽいっと二人を放り投げ、


「はいはい、とっとと脱いでくださいよ〜」


 ぷちぷちと一つずつボタンを外していくミュランダと、まだ寝ぼけているのか呆けているポチの二人を、順番に引っこ抜くように二人のパジャマを脱がせ、


「へ?」


「わ、私は自分で――あ!」


「……」


 マキは固まった。





「あれ、風呂入ってきたのか?」


 皿を両手に持った修真が土間からやってきて、濡れ髪の少女達を見て尋ねた。


「あしゃしゃんだよー」


「……あっづい」


 頬を桜色に上気させたミュランダとポチが口々に答える。


「良いお湯でしたねー」


 くつろいでいる女子三名は、ほぼ下着だけという出で立ちだった。


「いや、お前ら……」


 お子様二名は見る物が無いので問題無いが、横目でちらと見てしまったマキは修真も無視できないライン。

 何事もなかったような真顔でホットドッグが乗った皿をテーブルに置いて、おほんと咳払いをしてそれとなく注意を促した。


「おい、コラ。女の子なんだから、ちゃんと服を着てから出てきなさい。湯冷めして風邪ひくぞ」


「えー、そんなの暑いじゃん。せんぷーき買ってくれたら服着るよぉー」


「マキみたいなこと言うんじゃありません」


「購入決定、はい財布」


「うぉい! なんで俺の財布持ってんだよ!!」


 ばしっとポチの手から財布を取り返し、眉根を寄せる修真。

 末端勢力のポチとミュランダ相手では話にならない。ここは病原体である本体を叩かねば根本的な解決は見えない。

 修真は、知らん顔で団扇うちわあおいで涼んでいるマキを睨みつけた。


「っていうか! お前がちゃんとしろよ。こいつらが真似するだろうが!」


 するとマキは一瞬目を丸くし、次にひどく邪悪な冷笑を浮かべた。それはさながら、獲物の隙を見たハンターのごとく。

 おもむろにちょっと崩れた体育座りになり、


「はっはーん。この格好に何か問題でもあるんですか? 一応、服は着ていますけど?」


 髪をくるくると指でいじりながら、つやっぽい表情で修真を見やる。薄っぺらいキャミソールの裾を、はたはたを仰ぎながら。

 ちらちら見え隠れする胸の膨らみ、その下の緩いライン。

 修真は思わず息を飲んだ。が、すぐに目を逸らす。


「そ、そりゃ、あるよ。そういう格好で歩き回られると……あれだ、迷惑だ」


「はてー、どう迷惑なんですかねぇ?」


 にっこりと清楚な笑みを見せ、彼の首筋を触れるか触れないかのタッチでつぅーっと指でなぞる。

 ぞくり。


「や、やめろ! 気色悪い!!」


 飛び退いてばたんと壁にぶつかった修真に、四つんばいのマキが近寄っていく。否、追い詰めていく。


「ひぃっ!」


 ブラジャーをしていないのが分かった。それゆえに、胸の輪郭りんかくがくっきりと薄布に浮かび上がっていた。体の動きに連動して揺れるのもはっきりと見えた。っていうか谷間が見えた。


「しゃ、社会一般常識に反してる! そ、そんなの他人の迷惑だぁぁぁぁああああ!!」


 修真は顔を手で覆って、その場に小さくしゃがみ込んだ。まるで肉食動物に怯える小動物である。

 しかし、


「た……他人? 私達家族って言ったじゃない……。だから今まで、こうして……」


 まったく別の所でマキは戦慄せんりつしていた。

 他人。

 信頼する人物からの冷徹な発現に、マキは震え、おびえ、呆然としたまま動かなくなった。


「あなたが……家族だって言ったから……ここまで、ここまでやってきたのに……。両親や友達を裏切って、みんな、みんな裏切って! でも、兄妹でも愛し合えると言ったお兄様の言葉を信じてここまで逃げてきたっていうのに……なのにッ! いつからこんなことになってしまったの!?」


「どんなことになっちまったんだよッ!!」


 マキは氷のように凍てついた表情で、焦点の合っていない瞳で修真に向ける。その視線は修真を見ているのか、それとも壁を見ているのかすら、定かではない。

 だが、ただ一つ、裏切りと常識によって抉り取られた空虚な心だけが透けて見えたような気がした。

 硝子のように繊細で、壊れてしまった心が。

 寄せて上げていない無防備な谷間とかが見えた気がした。


「服を着ろぉぉぉおおおおッ!!」


 カタカタと肩だけを震わせて、不気味な笑みを漏らすマキ。


「ふふっ、ごまかすのね……今更。散々私の体を傷物にしておいて……。昨日だって嫌がる私を組み伏せて、あんなにいやらしい手つきで……体を……もてあそんだのに……」


「いつだよ――んぐッ!」


 何かを口にしようと息を吸った修真の口を、抱擁ほうようを求めるかのような動作でよりかかったマキの手が塞いだ。

 これ以上、言わないで。

 と、言うように。

 修真は無理に引き剥がす事も出来るマキを、何故か振り払う事が出来なかった。それはある種の罪悪感があったから、なのかもしれない。


「むがもががっ(離せコノ野郎)!!」


 瞳に映ったマキの黒髪。その前髪のせいで顔は見えない。


「……いいのよ」


 マキの掠れた声が、緊張の最中にある修真の耳に鮮明に届いた。


「本当は……分かっていたことだわ。血の繋がった兄弟が結ばれる訳ないじゃない、常識よ。あの時は、私たちは違う、そんな常識も愛で覆せる、そう思っていたけれど、結局、どこまでいっても他人が定めた勝手なルールから外れることなんて出来なかったんだわ……」


 白い細腕が修真の胸板を突き飛ばした。どっと壁に叩きつけられ、彼はその場に崩れた。


「ってーなッ、いい加減にしろよ!」


 それが『別れ』という運命に対する、彼女の回答だった。

 今まで信じてきた背徳の道を、それでも幸せになれると信じて、願ってきた今までの自分を否定した。

 甲高い声で、狂ったように笑った。


「ふっ……ふふ、あはははははッ!」


「こえーよ!!」


 笑い続けた。

 そして、ひとしきり笑うと、急に静かになり、無音の静寂だけが室内に鳴り響くようになった。

 憎い。

 この人を奪ったあの女と、常識が憎い。

 どうして?

 どうしてこんなことに。

 全てを握り潰すように、拳を作るマキ。

 吐き捨てるように、告げた。


「これで気が済んだでしょうッ? 早くあの女の所に行きなさいよッ!!」


 悲痛な叫びが部屋に反響し、やがて消えていく。


「だからなんで泣いてんだよ! 頭おかしいんじゃねぇの!? っていうか何なんだよこの状況!!」


 そこで修真は目を見開く。

 彼女の瞳から一筋、大粒の涙が零れた。一筋、二筋。それから、すがる者を失ったマキ自身も、涙のように崩れ落ちた。

 脳裏に反芻はんすうする満たされた過去、光を失った未来。これから、どうして生きていけというのか。家族を失い、友人を失い、愛する男を失い、私が誰かにこんな仕打ちをしただろうか。いや、していない。

 そうなのだ。

 これが、人という存在が作り出した身勝手な罪なのだ。

 兄妹で愛し合った、それ自体が罪なのだ。

 でも、私はこの人を、兄を恨む事が出来ない。

 だとしたら、


「もう……二度と、私の前に顔を見せないで……」


 これが私の答えだろう。

 そうすれば、心置きなく、あの女の所へ行けるだろう。

 私を忘れるだろう。

 私も、あなたを想い続けることができるだろう。

 これが、全ての結末。

 私は、罪人。

 これまでも。

 そして、これからも……。


   愛と哀しみの檻  ―完―





「良くわかった。今後、一切に渡ってお前とは喋らない」


「それだけはいやぁぁぁぁぁぁあ〜〜」


 マキの瞳からだばだばーっと滝のような涙が溢れた。


「うーそぉー! 冗談なんですぅー! ちょっと調子に乗ってみただけなんですぅー!!」


 泣き叫びながらがばーっと修真に飛び込んで、もんどりうって覆い被さり、必死の抵抗を見せる修真に腕を回そうとする。


「そっ、その格好で寄るな! つーか何なんだよっ、今の昼ドラみたいなやつは!!」


 なんとか体の密着を回避しようとマキの片腕を捕まえて肩を押し返す。


「いやぁぁぁああぁぁぁあ〜〜」


「は〜な〜れ〜ろ〜っ!!」


 ぐぐぐっと絶妙な力の均衡を保つ二人。体勢的な有利は守りに入った修真にあったが、倫理的な有利はマキにあった。


(くぅ、このままじゃ……)


 力いっぱい跳ね除けてしまったら、後ろのテーブルにマキがぶつかってしまう。そもそも、女の子を冗談抜きで突き飛ばすのは如何いかがなものか。

 そんな風に思ってしまう修真が、攻めの姿勢を取り続けるマキに勝てる筈が無かったのだ。

 べちゃん。


「ひぃやあああああああ!!」


 瞬間、修真の女の子めいた悲鳴が居間に響き渡った。

 もう色んな所が密着して、ドキドキするわ緊張するわで大変。互いの間にあるのは薄っぺらい布切れが一枚しかないので、風呂上りの体温もじわじわ伝わってくる。


「離してぇぇぇぇぇえッ!!」


「やぁぁぁ〜〜ん!」


 じたばたと暴れる修真の顔に、嫌だ嫌だと頬擦りするマキ。


「やあんじゃねぇ! ポチぃぃぃいいい、ミュランダぁぁぁああああッ! 朝っぱらからパパが変なことされちゃうよ、助けてぇぇぇぇえええ!!」


 とか、マキの下で助けを求める修真が横を見ると、


「ねぇミュランダ、生クリームの起源って知ってる? 生クリームって最初は食べ物じゃなくお守りとして東アフリカ地方で開発されたんだって」


「そうなの? ほんと?」


「うん。なんか猛獣とかに襲われた時に、現地の人は『カン・チュー・ハイ!』って叫んでから投げつけるんだって。ライオンとかゾウとか一撃で殺れるってうわさ


「すっごい! お姉ちゃんって物知りだね!」


「騙されてるぞぉぅあぁぁぁああ!!」


 体の至る所をまさぐられて悲鳴。

 奇跡の騙されっぷりを披露したミュランダに後で人の話を鵜呑みにしてはいけないと教えなければと考えている余裕もなく、救出の望みが絶たれ、魔の手が伸びる。


「喋ってくださいよぉぉぉおおぉお!! 悲しいですよぉぉおおおおッ!!」


 叫びながら修真の制服の襟を掴んで、胸板にごしごしと額を擦り付けるマキ。

 とうとう修真が限界に達し、謝る羽目になった。

 

「分かったから! 喋らないとか言ってごめんッ! 喋る、喋るからどいて!! 早く服を着て!!」


 マキはゆっくりと顔を上げ、驚いたような表情で修真を見詰める。


「ほ、ほんと、ですか?」


 自分の胸の上にある均整が取れた可愛い女の子の顔にどぎまぎすることも無く、修真は早くこの状況から抜け出したい一心でがくがく頷いた。


「本当本当! 嘘じゃないって!!」


 その瞬間、マキは素早く立ち上がった。くわっと顔を険しくして、やにわに天使の姉妹を怒鳴りつける。


「二人ともちゃんと服を着なさい! 父親とはいえ、殿方の前でそんな布切れ一枚の格好でいるなんて信じられませんッ。恥を知りなさい!!」


「えぇっ!?」


 あまりの方向転換に二人とも驚きが隠せませんでした。


「お前が恥を知れ!」





 という訳で着替えていらした三名は、大人しく座布団に座っておりました。


「ごめんごめん、誰かさんのせいで遅くなったな」


 修真はようやく人数分の皿を長卓に置き終え、食事を心待ちにしていた少女達に申し訳ないとばかりに謝罪の言葉を述べる。


「もうお腹ぺこぺこだよー」


「早くしないと日が暮れる」


 未だに赤い頬をしているポチが皮肉って、自分の前に置かれた皿の上を見る。ロールパンの表面はこんがりと焼けており、ウインナ―は飾り包丁で絵に書いたような焼き上がり。片桐家の朝食に登場するのは初めてのホットドッグ。見る限り美味しそうだった。

 そのまま乗ったホットドッグに手を伸ばす。

 ぺちっ。


「いて」


「こーらっ、まだ頂きますしてませんよ」


 片桐家の食事でフライングは許されない。それは家族の絆どうこうではなく、単に平等にスタートしなければ、誰かが多く食べ、誰かが少なく食べるという事態が起こってしまうためだ。

 フライングを阻止されたポチは、団扇うちわで扇ぎながらくるりと修真に向いた。


「ねぇ、それよりもあっづい。エアコンつけよ」


「いいけど。あるならな」


 ポチはきょろきょろと部屋の隅々まで見渡して愕然する。お目当てのエアーコンディショナー様は影も形も見当たらないのだ。

 まるっきり、無い。

 この現代社会において、それとはかけ離れた原始的家庭にポチは口を尖らせる。


「……無いし。学校の図書館はあるのにうちには無いし」


「いつの間にそんな現代っ子になりやがった」


 修真はずいっとポチに顔を近づけて、その無表情を覗き込んで言う。


「あのなぁ、うちにそんな贅沢な一品があると思ってんの?」


「普通の家庭には一台や二台が常識」


「あー、とうとう言いやがったなこの野郎。そんな夢のある発言は二度とするな!」


 ポチはアンニュイな無表情そのままで返す。


「もう一回言ってやる。エアコン買えよ」


 修真の額にぴしりと青筋が浮かび上がった。修真だってエアコンが欲しくない訳ではないのだ。買いたいけど、諸所の事情で買えないのである。


「……」


「……」


 どごごごごごとオーラを燃え上がらせながら、無言のやり取り。

 そこに水を差すように、あるいは和ませるかのように、ミュランダが我慢しきれず声を上げた。


「ねぇ〜! 早く食べよぉーよー!」


 苦笑したマキが、


「それじゃあ、頂きますしましょうかっ♪」


 その場を取り繕って、それぞれ手を合わせていつものように皆の声が揃ったのだった。




「おい、いつまでテレビ見てんだ。そろそろ行く準備しろよ。娘を見習え」


 ぼーっと呆けた顔でテレビを見ているマキに食器類を片付けてきた修真が半目で言った。彼女は頬杖をついた気の抜けたような声で返事をする。


「自分だって見てるじゃないですかぁ。あ、星座占いだ。そういえば私って何座ですか?」


 幽霊さんは洗い物に取り掛かり、ミュランダとポチは自室に登校の準備に戻って、居間にいるのは二人だけになっていた。


「俺はもう行くだけなの。準備出来てるから一緒にするんじゃないよ。お前はバカヤロー座」


「私だって行くだけですよぉー。バッファロー座って無いんですけど」


「病院行け」


 なんとも彼女らしくない覇気の無い言動を少々意外に思いつつ、テレビの時刻表示を見る。今日はいつもより早めの朝食だったため、まだ数十分の余裕があった。

 そこまで口うるさく言う必要も無いかと、一緒にテレビ観覧する二人。


「……っていうかさ」


 修真はまっすぐテレビを見ながら、いた。


「もうちょっとやり遂げるとかなかった?」


「何がですか?」


 と質問で返すマキは全体的にだらしない格好。靴下も片方穿くか穿かないかで止まっているし、長く夜のように艶やかな色を持った黒髪の途中にはくしがぶら下がっている。おまけに制服のリボンも首に巻いただけで放置されているというやりかけっぷり。


「何がって全部だよ。言ったら負けだと思ってたけど、もう我慢できん」


 テレビにご執心だったマキが呆れている修真にくるりと振り返った。

 何を思ったのか、スカートからのぞく木目きめ細やかな肌の足をこちらに向かってついっと上げてみせる。


「じゃあ私の勝ちですね。っていうか、そんなに気になるなら穿かせてくれれば良いじゃないですか。はい、スタート」


 ナチュラルにテレビに顔を向ける修真。

 むっと眉をひそめるマキ。


「ちょっと、何さらっとシカトしてるんですか。人と喋る時は目を見て話せって小学校で習わなかったんですか。無視っていうのは古代ギリシャの時代から重罪として」


「お前小学校行ってねーだろ」


「オッケー、わかりました。靴下穿かせてください」


「何がオッケーか知らないけどそんなもん自分でやれよ。子供か」


「あ、違います違います。修様の意思とか関係無いんですよ。穿かせろって言ってるんです」


「うわー、びっくりしたー。この国には人権ってもんがあるんだよー?」


 両者ここで顔を向け合い、膠着こうちゃく状態に入る。全くの真顔で互いを見合う謎の時間。

 少ししてマキが真剣そのものの声で言う。


「穿かせ」


「嫌だね」


「穿かせて!」


「あのさぁ……」


 溜息混じりに何かを言いかけた修真は、何故か真剣な彼女の眼差しを見て、黙った。何故、この齢十七歳という若さで他人の靴下を穿かせねばならないのか、はたまた何を思ってマキは自分に靴下を穿かせようなどと思い至ったのか、さっぱりわからない。

 見詰められたマキの頬がほんのり紅潮こうちょう。この無言の間がなんだか余計に恥ずかしくさせ、我慢できなくなって、わずかにうつむいた。

 けれど、蚊の泣くような声でもう一度囁く。


「は、穿かせれば……いいじゃないですか……」


 目の前にあるつま先まで穿かれてぶらさがった紺色の靴下。

 恥ずかしがるマキ。

 そして、その馬鹿馬鹿しさ。

 修真は自分の中で唐突に何かが沸騰するのを感じた。


「――だはははははッ!! 子供じゃあるまいし何言ってんだはははははッ!!」


 テーブルをばんばん叩きながらの大爆笑。

 まさかの爆笑に赤らんだマキの顔からしゅんと熱が抜け出ていった。修真は腹を抱えて笑い続けている。


「ひぃッ、ひぃ〜ッ、腹いて〜! 死ぬっ、死ぬぅ〜!」


 先刻とはまた違う恥ずかしさで、ぼっと深紅に染まる頬。


「くはははは!! あははははは!!」


「バ、バカッ!!」


 あんまりに笑うものだからだんだん怒りが込み上げてきて、思わず櫛を髪から引き抜いてぶん投げた。


「わははっは――がッ!」


 良い音がして、彼の体はそのまま倒れこんだ。

 が、すぐに跳ね起きる。


「いってぇなこのや――」


 言い返そうとするも、


「――お願い穿かせてッ!!」


 マキの凄い剣幕の声。

 本気で怒っているような表情。

 修真は、びくりと体を竦み上がらせた。


「え、あの、は……?」


「穿かせなさいって言ってるんですよ!」


 やり過ぎたかもしれないとか、本気で怒っているんだろうかなどという疑問すら考える事が出来ず、面食らったままかくかくと何度も首肯するしかない。


「早く!」


「あ……はい。わ、わかりました」


 びしっとつま先を指差すマキに従って、修真はおろおろと足へと手を伸ばした。

 ゴムが伸びないように持ち上げると、滑らかな足のラインが嫌でも目に入って、柔らかい脹脛ふくらはぎの感触が、スカートの奥から伸びている太腿ふとももが、修真を羞恥させた。


「……あの、これで、良かった?」


 修真が下からマキの顔色を窺うと、むすっとしてこちらを見ている。


「はい、次これ」


「は?」


 ぽんと手渡される櫛。マキはくるりと背中を向けて、髪をちょいちょいと指差した。

 どうやら髪をこの櫛でけと言っているらしい。


「……な、何で俺がそんなことしなきゃいけないんだよ」


 拒否し、櫛をテーブルに置く。

 マキは肩越しにじぃっと修真を見詰める。一辺の揺らぎも見せず、ただ何かを訴えるかのような目で。


「……」


 無言の圧力。

 蛇に睨まれた蛙。

 ほどなくして、やはり修真はマキに屈するのだった。


「はぁ……。わ、分かったよ、今日だけだからな……」


 仕方なしに櫛を手に取り、指通りが心地良い髪を軽く持つ。マキの白く華奢きゃしゃな首筋が僅かに露になる。普段ならばほぼ見る機会の無い光景に、ちょっぴり心拍数が上がった。


「どこ見てるんですか。うなじにキスでもするつもりですか。それともガッと掴みたい衝動にでも駆られてやがるんですか」


「そんなことするかッ!」


 いかんいかんと首を振って、櫛で真っ直ぐに梳いていく。

 そうしてはいながらも、修真としてはどうしてこんな事になってしまったのかさっぱり理解できない。怒ろうと思ったのにそれより先に怒られてしまってタイミングを失ってしまった。


(な、なんなんだよ……)


 それよりも他の誰でもなくマキがちょっと本気で怒っているらしい事が心を萎縮いしゅくさせていた。

 もしかしたら、また演技かもしれない。


「なぁ……何か怒ってる?」


「怒ってないです。バッファロー」


「そ、そうっすか……」


 どうも釈然としない。声のトーンは依然、真剣そのものだし、表情は見えないがむすっとしているに違いない。

 そういえば彼女がこんな我がままを言うのは滅多にない。

 そうまでさせてしまったのはやはり自分のせいなのだろうか。笑ってしまったのがいけなかったのだろうか。いや、でもあれはしょうがないだろう。

 などと案じていると、


「……ごめんなさいこんな事させて。でもちょっと、ほんのちょっとだけ……甘えたくなったんです。ごめんなさい」


 ふいに、謝られた。


「え? あ、いや、別にお前がそうしたいなら、俺は良いんだけど……」


 修真がきょとんとして、マキが黙って、櫛を動かす手が止まって、テレビの音声がいやに大きく聞こえるようになった。二階からミュランダとポチの騒ぐ声がまるで彼方からの喧騒のように響いてくる。

 二人は無言のまま。

 お互いを気にしたまま。

 数分間、黙っていた。

 それからしばらくして、んんっと伸びをして喋りだしたマキの声は、


「あ〜っ、やっぱり自分でするのと人にしてもらうのって違いますねーっ」


 いつもの明るい調子に戻っていた。


「そ、そうなの?」


「ええ。なんだか良い気分ですよー。幸せな感じがしますー」


 振り返った彼女は、やはりいつものにっこりとした何も考えていなさそうな笑顔。調子を合わせるように、修真もぎこちなく笑った。


「へ、へぇ……。女の子の髪とか良く分からないけど、どこまで梳けばいいの?」


「どこまでって、そりゃ全部に決まってるじゃないですか。見た目で、もうこれくらいで整ったかなーって思ったらいいですよ?」


「じゃあこれで」


「……」


 首だけ振り返ったマキの瞳がじんわりとうるんだ。今にも泣き出しそうな捨てられた仔犬のような面持ち。漂う切なさ。

 修真は慌てて訂正した。


「じょ、冗談っすよ。冗談」


「だったら、指通りがさらっとなるまでで」


「さらっとね、さらっと……」


 やけに真剣な眼差しで髪を睨み、再開させる。

 また少しして。


「そうだ!」


 今度は、何かを思いついたらしいマキがぽんと手を合わせた。


「修様の長きにわたる補習も今日で終わることですし、一緒に買い物に行きましょうよ!」


「ねぇなんで? なんで今日なの? 今日まで補修なんだよ? 普通、明日じゃないの?」


「じゃあ明日で。久しぶりのおデートですよ」


 きらきらと期待に輝く瞳をこちらに向けるマキ。

 反して修真は、久しぶりって言うけど一回もおデートなんかしたことねーだろという突っ込みすら入れずに、落ち着き払った態度で対応する。


「うーん、まぁ、そうだな。米を買わないといけないから、安いと良いんだけど……」


 あちゃーと自分の額をぺしっと叩くマキ。


「しまったなー。私ってば、なんてタイミングで……」


「別に良いんだぞ? 俺は一人で行くから。その代わり、ぜってー米食うなよ。パンでも食ってろ」


「行きますよ。全然行きますって。一度ならず二度までも」


「それ使い所間違ってんだろ。つーかさ」


 髪を梳きながら開け放たれた戸から外を眺める修真。

 廊下の向こう側に、燦々と眩い陽光が降り注いでいる。幽霊さんが趣味で育てている草花が朝露を乗せて、きらきらと輝いていた。


「もう夏だな」


「そうですねぇ。日中は二十八度前後ですから」


「実はさ、今月って多少余裕あるんだよね。だから、エアコンは金銭的に無理だけど、扇風機なら。あいつらも欲しがってたし……」


 随分とさらさらに流れてきた髪を見詰めながら提案すると、先程とは段違いにご機嫌になったマキが笑顔のままで頷いた。


「そうですねっ♪ じゃあ、お米のついでにそれも買い――」


「下見だけどな」


「……え」


 信じられないと言わんばかりの顔でこちらを見ている彼女に、ここばかりはおくせず修真はえらく無表情に言った。


「だから、あくまでも、限りなく、どこまでも、下見だから。まだ必要無い。無くても死なない。つまりまだ買わない。アーユーオッケー?」


(か、買うみたいな雰囲気出してたのに……)


 節約というレベルを遥かに超えたあまりのケチっぷりに唖然とするマキ。しかし、こうした非情なる決断の上に片桐家の家計は守られているのだ。

 と、その時。

 どどどどど!

 ずどーんッ!!

 ででででで!!!

 ここは戦場かと思える慌ただしい物音の後に、


「パパッ!!」


 ミュランダが居間に疾風のごとく姿を現し、仲良く寄り添って髪を梳いてもらっている母の姿を見て、


「あたしのく、つしたどっ……こ……」


 その光景の衝撃度から凍りついた。

 硬直している娘に、修真が怒鳴る。


「おい! お前また階段使わずに飛び降りただろ。あれほど危ないからやめろって言ったのに!」


 ところが、ようやく我を取り戻したミュランダは叱られてしまった事など気にも留めず、マキを指差してどすどす床を踏み鳴らす。


「あぁーっ! ママだけずるいよ。あたしもあたしも!」


「えー? だってお前、髪ととのっ――」


 てるじゃん、と言い終える前に、


「〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」


 ミュランダはヒステリックにタンポポ色の髪をばさばさと自分で掻き回し、頭を大きく振り回した。


「はいっ、もうぐちゃぐちゃだよっ!」


 結果、服を着ていなければ前か後ろかさえわからなくなってしまう。まるっきり顔が見えない。

 修真は何とも言えず額を押さえた。


「ふふっ」


 欲望に忠実な娘の姿にマキは一人、穏やかに微笑む。ゆっくりと立ち上がった彼女は、がっかりだとばかりに肩をすくめて嫌味っぽく言った。


「あ〜あっ。修様ったら髪梳くの下手っぴだからもういいですー。着替えに行ってこよー」


「お、おお……悪いな。じゃあさっきの件、よろしく頼む」


「わかりましたよー」


 肩越しにひらひら手を振り、適当な返事をしながらマキは居間から出て行った。

 後姿をぼーっと見送る修真の腕をミュランダはひしっと掴み、ぶるんぶるん左右に振り回す。


「ねぇねぇっ、ぼーっとしてないで早く梳いてー」


「え!? あぁ、そうだな……。ったく。ほら、前向いて」


「えへへー」


 恥ずかしさと嬉しさが同居した笑みを浮かべ、ちょこんと修真の胡座の上に腰を下ろす。もたれかかるように身を預けた。

 もう頭しか見えない。


「いやいや、これじゃ出来ないから。近すぎる、もうちょっと前に座って」


「えぇ〜ッ」


 指示されて、渋々前にずれるミュランダ。

 修真は彼女の髪をふんわりと持ち上げた。マキに比べると髪質は細く、軽い気がする。


「さらっとね、さらっと……」


「皿?」


「いや、こっちの話だから気にするな」


「うんっ。じゃあ気にしなーい」


 櫛を通し始めたのが分かった。すると、ミュランダは自然とるんるん気分になって、テレビの中から流れてくる音楽に釣られて歌いだした。


「あっしったー、なーみだでもぉ〜、じゃっすーあいびりー♪ だーいっじょおっぶぅだよだよぉ〜♪」


 なんとなく楽しくて。


「おーひーさーまーにぃは、あーえないけっどぉでもねー、あなたーにはーあーえるぅ〜♪ かーさに、いれってっ♪」


 ご満悦の表情で歌い狂うミュランダに、後ろの修真がぼそぼそと尋ねる。


「あ、あのさ下手……なのか?」


「ふぇ? 何が?」


「か、髪の毛梳くの」


「ん〜ん、上手だよ? ……っていうか、下手とか上手とかってあるの?」


「それもそっか……」


 と、呟いて視線を戻すと、ふと視界の端に何か白い物が。

 ん?

 顔を上げると、


「どぅおっ!?」

 

 居間の戸から半身を覗かせているポチが、じぃっとこちらを見ていた。

 微動だにしない彼女に、修真は驚きつつも尋ねる。


「お、お前何やってんだよ……、ちゃんと準備終わったか?」


 ポチは気付かれ、話し掛けられたことにより、とことことこちらへやってきて頷いた。


「うん。もう完全」


 言葉の通り制服には微塵の着崩れも無く、すでに鞄も手にしている。修真は一番しっかり者のポチに感心し、


「なら良いんだけどさ。まったく、どいつもこいつもぎりぎりまで準備しないからなぁ。お前も見習えよー」


 指でつんとミュランダの後頭部を小突く。


「じゃああたし、お姉ちゃん見習って隠し通路作るよ!」


「一番ダメなとこ見習ったな」


「大丈夫だよ? パパの部屋にも色々作ってあげるから。あ、ドア開けたらドーンっていうのやってみたい!」


「ドーンって完全に爆発しただろうが」


 そんな他愛も無いやり取りをする二人をじっと見詰めるポチ。その強い視線に違和感を覚えた修真は眉を上げる。


「ん、ポチ? どうかした?」


「あ……ううん。別に」


 ゆっくり首を振って、座布団に座る。

 ミュランダが嬉しそうに提案した。


「お姉ちゃんもやってもらいなよー」


 ポチは麦茶をコップに注ぎながらてんで興味を示さない風に。


「いい。さっき自分でやったから。下手そうだし」


「すいませんねぇ。下手そうで」


「うん。じゃあ土下座ね」


「なんだよ、不機嫌か?」


「別に」


 もうこっちも見ずに、テレビのリモコンを乱れ打ちしてチャンネルを選定している。ぱっぱっと目まぐるしく変わる画面を見ながら、誰に言うわけでもなく口を開く。


「人にやってもらうより、自分でやった方が早い」


 ミュランダがすかさず異議を唱えた。


「えー? 自分でやるよりもパパにしてもらった方が嬉しいんだよ?」


「お子様はジャムでも食べてろ」


 ばっさりとぶった斬ったポチに対して、ミュランダはつんとそっぽを向いて、しかし自信に満ちた表情で言う。


「いいもん、お子様でもぉー。ジャム食べるもんねー」


 姉妹の喧嘩じみた言い合いにつっこみを入れることも忘れ、櫛で梳き続けていた修真は、


「よし、かなりさらっとしてきたな……このぐらいか?」


 ずいぶんとさらさらになったタンポポ色の髪を真剣な眼差しで見詰め、訊いた。


「ポチ、これで良いと思う?」


「最初から、そんなの適当で良い」


 ぶっきらぼうに言われて、修真は自分の作り上げた作品に見惚れるかのようにニ、三歩さがって遠巻きにミュランダを見る。自分の視点から見ても、特におかしな点はないように思えた。


「よっし完成! 終わり!」


 開放感にも似た達成感からかいてもいない汗を拭い、修真はどっと腰が抜けたように座った。女の子の髪を手入れするという重大責任からようやく解き放たれたのだ。

 後ろ髪の感触を確かめつつ、満足のいく結果にミュランダは嬉しそうに礼を言う。


「ありがとうパパ! ねぇ、あたし可愛くなったかな?」


「おう、なったなった」


「じゃあ今度は結んでっ!」


「……」


 は?

 という表情のまま固まる修真に、彼女はスカートのポケットから髪留め用のゴムを取り出して、不思議そうに言った。


「これで髪結ぶんだよ?」


 修真は渋い表情でこめかみに指を当てる。


「えっと、それは、どういう風にすれば……」


「今日は三つ編みがいいなぁー」


「ああ、み、三つ編みね。三つ編み……?」


 自分に確認を取ってみるが、三つ編みのイメージ映像は浮かぶものの、その結び方が脳内の記憶から送信されてこない。これっぽっちも。


(し、知らねーよ。結び方……)


 急に沈黙した修真の顔を覗き込むミュランダ。


「やり方知らないの? 三っつに分けて、順番を入れ替えるようにしてやるんだよ?」


「おお、なるほど! 三本の順番を入れ替えるのな!」





 口頭では伝わらない情報という物がある。彼は言われた通りに順番を入れ替えようとしただけなのだ。そう、決して彼は悪くない。いや、誰も悪くないのだ。途中からちょっとおかしいなと感づいていたのだ。

 ミュランダの髪に、ブロッコリーみたいなへんちくりんな結びが三つ形成されておりました。


「……なんて言えばいいか、マジごめん」


「うわぁぁぁぁああんっ!! これじゃあ学校行けないよぉぉぉぉぉおおおっ!!」


 ポチが耳を塞ぐほどの爆音で泣き喚くミュランダ。

 彼女が泣いてしまうのも当然で、決して、期待したのに裏切られたとかではなく、自分で自分の姿を鏡で確認してひどくダサかったから泣きたくなったのである。

 そんな騒々しい泣き声を聞きつけ、


「ちょっと! ミュラちゃん泣かせて一体何の騒ぎですかッ」


 呆れと怒りが入り混じった剣呑な面持ちでマキが二階から降りてきた。見れば、わんわん泣くミュランダの頭部に、三本のブロッコリーが悲しく屹立している。頭がおかしいとしか思えない前衛的な髪型だ。

 マキは往々(おうおう)にして原因である姉をほぼ犯人と決め付けてちらりと見る。

 ポチは濡れ衣はお断りだと、ぶるぶる首を振った。


「ちがうちがう。パパが泣かせた。私じゃない。冤罪えんざい


「修様が?」


 ポチが指差した修真を訝しがって見ると、小さくうずくまってひどく申し訳なさそうにうなだれていた。

 マキが回答を求める前に、修真はこれまた自信なさげな小さな声で言う。


「いや、なんていうか、三つ編みを頼まれたんだけど……こういう結果に終わってしまいまして……。まことに申し訳ございませんでしたっていうか……」


 泣き喚くミュランダ。情けのない修真。無関心のポチ。その様を見て、マキは海よりも深い溜息を吐いた。


(はぁ……。なにやってんだか……)


「うぁぁぁあああああんッ!!」


 とにかく、今は近所迷惑なミュランダを泣き止ませる事が先決。


「可哀想に。はいはい、今直してあげるからねぇ〜」


 マキは赤子をあやすように優しげな声でミュランダを撫で、後ろに回って奇天烈な形で髪をまとめ上げている輪ゴムを解く。

 はずが、


「いたっ!」


「え?」


 よく見れば髪の毛がめちゃくちゃにからまってしまっており、ちょっとやそっとじゃ解けない。


「ど、どうやったらこんな……あーもうっ!」


 バブチ!!


「ひぎゃぁぁぁあああああ!!」


 何かが千切れるようなすごい音がして、ミュランダの首がかくんと折れた。


「いいですか、修様! 三つ編みっていうのはですねぇ!」


「おい! ミュランダ泣いてるぞ!!」


「ちょっと、しゃきっと座ってください!」


 べちん!


「あうっ」


 頭を叩かれて、ぼろぼろ涙を零しながら座り直すミュランダ。


「ぇええっ、それはあんまりだろぉ……」


 彼女の鬼のような所業に戦慄している間にも、マキはタンポポ色の髪にもう一度櫛を通し、三束になるように分けた。続いて、器用な指使いでまとめた束を崩さないように右端を中心の束に交差させた。


「真ん中に右端を上からクロスさせるわけです!」


「……はい」


 暗く答えた修真の目には、


「痛いよぉ……頭がちりちりするよぉ……」


 母の暴挙をこらえ、泣きながら座っているミュランダが。


(こ、心が痛い…)


 しかしマキはさくさく説明を続けていく。


「そうしたら、今度は左端。現在交差している二つの真ん中になるように上から交差させて、今度は右を真ん中に。それをどんどん繰り返していくんです」


 見事な早業(それが普通)で三つ編みを構築し、五秒もしないうちにミュランダの髪を先端まで編み上げてしまった。


「で、ある程度まできたらゴムで止めたら、はい終わり」


 ぽんとミュランダの肩を叩くマキ。


「す、すご……」


 さすが女の子、と言うべきなのだろう。あれだけ奇抜だったミュランダの髪は修真が想像していたものとは違い、背に垂らした大きな三つ編みに早変わりしていた。

 当人は泣いているが。


「ちょ、ちょっとッ!」


 修真は掠め取るかのような速度で倒れたミュランダの三つ編みを手に取る。

 想像していた三つ編みと違う(ちなみに彼が想像していたのはおさげタイプの三つ編み)。

 いつもは侮っているマキがここまで器用だとは思っていなかった。思っていたよりも、下で結びが始まっており、結び自体も緩くふんわりとしている。驚愕である。


「お、恐れ入りました……」


 マキは呆れたようなジト目で彼を見る。


「まったく……。修様はこれくらい知ってると思ってましたよ。っていうか、分からないなら分からないって言えばいいじゃないですか」


 マキに怒られた修真はがっくりと肩を落とした。

 期待に満ちた眼差しで見られて断れなかった。それもあったが、期待に応えてやりたい自分もいた。


「……返す言葉もありません。面目無いです」


「私よりもミュラちゃんに謝った方が良いんじゃないですか?」


「ミュランダごめ――いや、大丈夫か? すごい音がしたけど……」


 謝罪してみるが、やはりミュランダは号泣している。


「もういいもん……みんなバカだもん。パパもママもだいっ嫌いだもん……」


「よかった。三つ編み、気に入ってもらえたみたいですね」


「一言も言ってねーよ」


 床低く頭を下げた辺りで、丁度食器の片付けを終えた幽霊さんがやってきてバスケット(こっちに住むようになってからは弁当)を人数分テーブルに置いた。

 テレビを見やると、今すぐ家を出なければ遅刻してしまうという時刻。

 彼女は喋れずともわたわたと大慌てし、


「さては、ついに成仏の時?」


 失礼極まりない天使の姉に怒りを覚える事もなく、びゃびゃっとスケッチブックにマジックを走らせた。


『皆様、そろそろ時間ですよ。いいのですか?』


 焦りなんて欠片も無い書体の文字を見た修真が時計を確認し、


「うおっ、遅刻する! 行くぞ!」


 鞄を手にして転がるように玄関へと走っていった。


「あ、逃げた」


「私達も行きましょうか」


「待って待って! あたしのくつしたどこ!?」


「んもーっ! まだ穿いてなかったんですか!!」


 こうして慌ただしく出かけていく片桐家の面々、玄関から手を振る幽霊さんに見送られて学校へと駆けて行くのである。




 住宅街のほぼ中心に位置する建物から電子的な鐘の音が鳴り響いた。昼の日差しを受ける白い校舎は堂々と、だが静かに門を構えている。

 ここは私立並森牛井高校しりつなみもりうしいこうこう。近隣の住民からは牛丼高校と親しまれる高等学校で、校名こそふざけているとしか思えないが、別段変わったところはない普通の私立高だ。

 煉瓦れんがが円形に敷き詰められた無駄にお洒落な中庭を挟んで北側の校舎。

 いわゆる特別棟、その二階で最も東に位置する一室のドアに手を掛けるポチの姿があった。

 頭上には図書室の文字。


「……」


 無言で足を踏み入れると室内は。まだ昼休みも始まったばかりということもあって閑散かんさんとしており、当番の図書委員を覗いては人っ子一人居ない。

 ポチはその図書委員とは見知った仲だった。

 受付に座って黙々と文庫本を読み進めている図書委員こと、久野藍くのあい

 彼女はほぼ毎日こうして図書室に居た。なぜなら他の図書委員が89パーセントの確率でサボタージュを決め込むからで、または『私がやらないと誰もやらない』というある種の責任感からこうしている。

 ちなみに現在、彼女がたしなんでいるのは英国文学というやつで、シングルマザーのフランソワとその娘キャスリーンがどうこうなっていくという話である。

 小説は、ジュニアスクールからバスで帰宅したキャスリーンの前に、フランソワの前夫デビットが現れる場面に差し掛かった。

 デビットは、前妻フランソワにほぼ奪われる形で失ったキャスリーンにゆっくりと近づき、こう言ったのである。


「どうも」


「はぇ!?」


 久野愛が頓狂な声を上げて文章から視線を上げると、普通とはかけ離れた少女が立っていた。真珠色の髪(後で聞いたら地毛だった)に、不思議な色をした瞳がメガネのレンズの向こう側からこちらを見ている。

 久野愛はその少女を認めて、驚きも冷めぬまま親しげに話し掛けた。


「あ、あぁ、なんだポチちゃんかぁ、びっくりしたぁ……。あ、そうだ、こんにちは。今日も来たんだね」


 このポチという、中学生、下手をしたら小学生にも見え兼ねない少女は、その容姿とは裏腹に同じ学年だという。最初はその髪色から、とんでもないやんちゃガールが攻めて来たと驚いていたが、今ではすっかり日常の一部に溶け込んでしまった。

 尋ねられたポチは、いつものように抑揚のない声で答えた。


「涼しいから」


「そうだね。クーラーあるのは、ここか保健室だけだもんね」


「そう」


 と、素っ気無い返事をしてコーヒー牛乳のストローを吸うポチ。

 対して、久野愛はちょっぴり苦笑して、


「あの、ポチちゃん?」


 壁に貼られた『飲食厳禁』という手製のポスターを指差した。

 ポチは何も言わず彼女の言葉を手で制し、飲み終わったコーヒー牛乳を入り口近くのゴミ箱にかこーんと投げ捨てた。

 久野愛はくすりと笑う。


「ゆっくりして行ってね。今日も多分、そんなに人来ないからね」


 ただでさえ人の往来が少ない図書室という場所において、晴れの日ほど人が来ない日はない。そりゃあ外で昼食を取ったりする方が開放的で良いだろう。ここに来るのは本当に用事のある者か、クーラーが効いているという話を聞きつけた者くらいだ。


「うん」


 ポチは無表情に呟くと、「いつもの」と行き着けの喫茶店に訪れた常連客のようなことを言う。久野愛は「そこだよ」と幾つかある丸テーブルの上にあった新聞紙を指差した。


「どうも」


 ちゃんと感謝がこもっているかどうか分からない礼を言って、ポチは新聞紙が置いてあるテーブルに着席して足を組んだ。

 がさりと広げて読み始めるその仕草は、まるでおっさんである。

 彼女はここのところ毎日、新聞を読みに来ていた。新聞というのは世界情勢から地方事情まで記されているので情報や知識を得るにはお手軽アイテムで、人間界のことを知るのには中々優れた情報誌だった。


(なるほど、近隣の動物園でライオンの子供が生まれたのか。動物園ってどんな所?)


 ところが、新片桐低には人目につかない結界が張ってあるらしく、郵便物が一切届かないという不便極まりない家(幽霊さん 前住人、岩瀬美穂 談)なので、読もうと思ってもお金を払ってコンビニなどで購入しなければならない。前の住人である飲んだくれの保健医も電話線を引くのに相当な苦労を下らしい。

 そこでポチが目をつけたのがこの図書室だ。

 ポチは図書室が好きだった。静かだし、人も少ないし、新聞は読めるし。何より涼しい。

 滲んだ汗が引いていくのを感じながら、今日も静かな昼休みを過ごすんだろうと確信していた。


「ねぇ、ポチちゃん」


 名を呼ばれて、ポチは新聞紙から顔を出す。


「?」


 見れば、久野愛がなにやら難しい表情でこちらを見ている。


(こ、この顔は……)


 その表情からポチは即座に面倒くさい事が起きてしまう予感を読み取った。

 ポチの統計学(テレビ、ドラマ、漫画、調べ)上において、この展開は厄介事の始まりだと、全てが決定付けている。

 出来れば巻き込まれたくない。今は新聞紙で人間界の情報を得ている真っ最中で、こちとら人間の悩みなんぞには興味ナッシンなのだ。聞いてやる義理も無い。

 ならば、だとしたら……

 どうするのか、答えは一つ。

 ――ぶった斬る!!


「あのね、いきなりこんな事聞かれても困ると思うけ」


「なら困るッ!」


 ばっさり。

 何とも言えない静寂が図書室を支配する。

 表情を失った久野愛に対し、彼女は威風堂々たる風格で構えている。うろたえる久野愛の様に、ポチは、心の中でガッツポーズを取っていた。


(よし、勝った)


 これで平和は守られた。これで何も無い平穏な日常が訪れ――


「で、でも聞きたいのッ。お願い!」


 しかし、久野愛はめげなかったのである。


(――な、バカな。こ、こいつ本当に人間?)


 久野愛を人としてどうなんだと思う傍ら、自分も人としてどうなのか疑問が残る行為に手を染めているので言うに言えない。

 一気に劣勢に立たされたポチは、じりりと一歩後退せざるを得なかった。

 彼女の真剣な眼差しが、自分を貫いている。

 マジだ。

 ヤツは真剣そのものだ。

 何故か圧倒されたポチは、警戒した声で漏らした。


「き、聞くだけなら……」


 あなどれない。この久野愛という人物は、先手必勝、一撃必殺の攻撃を見事に耐え抜いた猛者もさ。想像するに、とんでもない相談事を持ち込まれるに違いない。持ち込まない、持ち込ませない、作らないが鉄則だと勉強したというのに。

 などとポチが軽いパニックに陥っているのを知らず、久野愛は鬱々とした声色で話し始めた。


「あの、私の家ね、お父さんが単身赴任してるんだ。それで、明日帰ってくる予定なの」


 ぶるっと少し頭を振って冷静さを取り戻すポチ。


「で?」


「私、お父さんとあんまり喋ったことなくて……弟は普通にお父さんと仲良いみたいなんだけど、ポチちゃんはお父さんとどんなこと喋るの?」


(ど、どんなこと? どうと言われても、普通だが……。今日は何か喋ったっけ?)


 無表情で天井を眺めるポチが自然と沈黙していると、


「……」


 久野愛は何かを勘違いしたのか、


「あっ、嫌だった? ごめんね? いきなり変だよねッ、こんなの聞くの変だよねッ!」


 理解不能なテンションでぶんぶん手を振った。

 その様子を疑わしげに眺めていたポチは思う。

 ああ、さてはこいつめんどくさいな……

 と。

 だが、あまりにも目まぐるしい脳裏とは打って変わって、ポチの口から出る言葉は何のフィルターを通ったらそうなるのか、極めて平静かつ冷静。


「今日はエアコンの有無について」


 少々ずれたタイミングでの返答を受け、久野愛はぽかんとした。


「……? エ、エアコン?」


「そう」


 簡潔な事実だけを伝えてしまう癖があるポチの発言は、知らない人にはあまり伝わらないケースが多い。が、あえてポチは補足説明はしない。何故ならば面倒だからだ。補足しようものなら会話が発展してしまう。


「……」


 ここでまた気まずい無言の時間が訪れるのだが、全てを把握してその気まずさを演出しているポチにとっては有利な場面である。二度もこの空気になればさすがに相手も退くだろう。

 このまま会話が終われば吉なのだが……


「私ね……」


 久野愛はめっぽう強かった。


(こ、こいつ、まだ喋る気か……)


 無表情の裏で奥歯を噛み締めるポチ。

 そんな事を知る由もない久野愛は、ただ話を聞いてくれている(と思っている)少女に続けて告白していった。


「お父さんに話し掛けられても、いつも遠慮っていうか、どう接して良いか分からないから緊張しちゃって。だから、ずっと部屋に居るしかなくて……。友達にも聞いたんだけど、みんなお父さん好きじゃないんだって。ポチちゃんはお父さんのこと、嫌い?」


 彼女の質問に、ポチは俯いた。


「それは……」


 そこで言葉を区切らせ、脳裏で自問自答する。

 自分は修真のことが嫌い?

 何故かその時、嘘を吐くとか、適当にあしらうことが出来なかった。それが何故かは全くもって理解できなかったが、どうしても嘘を言ってはいけない気がしたのだ。


「別に、き、嫌いではない……」


 ポチの無表情が僅かに変化した。それは久野愛にはさっぱり気付かれない程度の変化。だが、普段の彼女からは想像出来ないほどの決して小さくはない変化だった。


「そうなんだ」


 と床を見詰めて呟く久野愛。

 ポチは、この雰囲気や、何もかもが恥ずかしくなってぶっきらぼうに言った。


「そっちは? 人にものを尋ねる時はまず自分から。人として」


 尋ねると、やはり久野愛はべらべらとしゃべり始めた。


「私は、お父さんのこと、好きになりたいんだと思う。どういう人が私のお父さんなのか知っていたいんだ。今はお父さんってどんな人って聞かれても、無口な人としか言えないもん。みんなはお父さんが嫌いって言えるけど、どんな人か分からないから嫌いとも言えない……。そんなのって寂しいって思わない?」


 いや、聞かれても。

 とは言えない雰囲気だった。

 なので苦し紛れに要点らしきポイントをオウム返しするポチ。


「寂しい?」


「うん。私を育ててくれた人なのに、私にはお母さんの思い出しかないよ。お母さんは、小さい時に私が良くお父さんと遊んでたって教えてくれたけど全然覚えてないから……」


 ペースを乱されているポチは、これは返し易いと嬉しくなり、咄嗟に返答する。


「私も思い出は少ない」


「ポチちゃんも?」


 こくんと頷いて、


「パパと生活を始めてもうすぐ三ヶ月」


(――え)


 ここで久野愛は驚愕した。

 三ヶ月って何ですか?

 キャスリーンってこと?

 混乱する久野愛は、しかし持ち前のパワーでポチの言葉に勝手に自分なりの説明を補足する。

 恐らく、このポチという古風なペットみたいな名前の少女は、想像するだけで辛く悲しい過去を背負っているに違いない。家庭環境も複雑怪奇に入り組んでいて、親の離婚とか再婚とか、そういう身勝手な事情に巻き込まれた悲しき現代っ子なんだ……という風に。

 そして、だからこそ、この不思議な少女に尋ねる意味があると、彼女は思った。


「たまにね、弟とお父さんが楽しそうに喋ってるの見ると、羨ましくなるんだ……。前に帰ってきた時は、弟とキャッチボールしてた。その時、思ったの。私もああいう風に出来たらいいのにって。私、どうすればお父さんと仲良くできるのかな?」


「……」


 知るか。

 とは口が裂けても言えない空気。

 少々困ってしまって次の言葉を探すポチに、


「私は、弟みたいにお父さんと仲良くしたいの。私は弟が羨ましい……」


 続けて零した久野愛の言葉はポチの心を揺さぶった。


「――」


 その言葉はあくまでも無造作に、何の障害もなく、容易くポチに理解させた。自分の心を。

 弟みたいに。

 誰かみたいに。

 弟が羨ましい。

 誰かが羨ましい。

 ――誰が?

 ふと、脳裏にタンポポ色の髪が過ぎった。


「……あ」


 ポチは一人でに呟く。

 今朝、髪を梳いてもらっているミュランダを見た時の、

 修真にべったりくっついているミュランダを見た時の、

 修真と楽しげに会話するミュランダを見た時の、あの気持ち。

 ミュランダだけではない。

 マキも。

 二人に向けられた、修真の笑顔。あの表情が自分ではない誰かに向けられている歯痒さ。向けてもらいたいという願望。


「……そう、だったの」


 あれは、羨ましい、という気持ちだったのか。

 ポチは気付いてしまった。学んでしまった。まるで傍観者のように、他人の言葉を照らし合わせ、自分の心を知ってしまった。

 すると、


「うそ、そんなの違う……」


 ポチは自分がどうしようもなく恥ずかしい存在に思えてしまった。羨望せんぼうという気持ちが、どうしてもポチには浅ましく思えてしまったのだ。

 それどころか、その羨望が如何いかにして生じるに至ったかを導き出して、

 その答えが、腹立たしくて、

 ポチは怒鳴った。


「――違うッ!!」


 答えには、修真の姿があった。

 原因にも、願望にも、彼の姿ばかりが浮かぶ。

 今までの不愉快な気持ちも全部、彼のせいだった。

 じゃあ、自分はどうしたいと思っているのか。

 それは……


「違う違う違う!! そんなこと思ってないッ!!」


 突然怒鳴りだしたポチに、びくりとする久野愛。


「ど、どうしたのポチちゃん……?」 


 ポチは狼狽する久野愛に殴り掛かるかのように詰め寄った。


「お前は自分で行動してない、だから父親もお前を見ないだけ! 自分の行動の結果が気に食わないなら行動を改めれば良い。そんなのちょっと考えれば分かること!」


 言って、驚愕に染まった彼女の瞳を見て、また気付いた。

 今のは自分に向けた言葉だった。

 久野愛に向けたが、それは自分にも言える事実。

 ポチはまた混乱していく。


「え、あ、ご、ごめんなさい……」


 訳が分からなくなって、ただ謝る久野愛。

 ポチはよろよろと後退りし、


「……こんなの、違う」


 そして、


「全部違うッ!!」


 逃げるように図書室のドアを蹴り倒して廊下に飛び出した。


「あ、お姉ちゃんだー!」


 そこに、目の前に、ミュランダが能天気な笑顔で立っていて、


「あ……」


 彼女の瞳に映ったポチの表情は、とても焦っていて、

 ――悲しみに満ちていた。


「なっ、何かあったの!?」


 駆け寄った彼女を、


「うるさい! お前なんかに分かってたまるか!!」


 ポチは突き飛ばした。

 ドガァァァアアン!

 ミュランダの体がコンクリートの壁にめり込んだ。

 そのままポチは無我夢中でその場を走り去った。

 壁に走ったひび割れからぱらぱらと壁の破片が崩れ落ち、


「む、無念……」


 ミュランダはばたーんと廊下にひっくり返った。





 日差しによってくっきりと色分けされた影。高いフェンス。そこは付近の町を一望できる牛井高校の屋上。


「へぇ〜、意外だなぁ。片桐君ってある程度料理できるから家庭的だって思ってたけど、三つ編みごときも出来ないんだね。そりゃあテストも欠点だよね」


 生徒達に開放されたスペースであるそこには、学校長の『使える物を有効活用しないのは宝の持ち腐れ』という意向によって多数のパラソル付きのテーブルが設けられていた。この為、屋上で昼食を取る生徒の数は少なくはない。しかも隅々まで綺麗に掃除されており、そんな無用なお洒落しゃれさを醸し出した屋上で昼食を取るのが修真達の日課だった。


「うっせ! テスト関係ねーだろ!」


 話題としては今朝の出来事なのだが、面白半分で語ったマキのおかげで、嘉奈は需要に応えんばかりに皮肉の連発。女子二人に対する修真はどうも旗色が悪かった。


「このサンドイッチまぁまぁ美味しいのにねー。ミュラちゃん泣かせるなんてねー。っていうかマキちゃんいつも片桐君にご飯作ってもらうの?」


「ええ、家事は曜日担当制になってるんです。ミュラちゃん泣かせる修様と」


 マキの返答に、嘉奈は何故か次元の違う世界を垣間見つつ、しみじみと言う。


「まぁ、女の子と暮らしてても男は男か。そりゃそーだよねぇ。ミュラちゃん泣かせるとか小学生かって」


 ことあるごとに陰湿にねちねちといじられ、とうとう修真が咆えた。


「だぁぁあっ! ああそうだよ俺が泣かせたよっ! 男で悪いかっ!」


 いきり立ってみたものの女子二名はまったく動じず、むしろ稀有な物でも見るかのような眼差しで彼を見る。

 それから、蔑んだような面持ちに一変した嘉奈がマキに耳打ち。


「ちょっと奥さ〜ん、お宅の旦那さん野蛮じゃな〜い? 私怖くて泣きそうなんだけど〜」


「ごめんなさい。この人、こうは見えてもまだ心は小学校低学年なんです。女の子を泣かせるのが大好きなお年頃なんです。大目に見てもらえませんか?」


「おい、わざとだろ。わざと聞こえるように言ってんだろ」


 けらけらと笑う二人。

 全く関係の無いところでたっぷり恥を掻き、屈辱を味わった修真は、まるでかたきのようにサンドイッチを食い千切り、飲み干した。


「大体! 男の俺が知る訳ねーんだよ。女の子の髪の結び方なんてっ」


 ふてくされた彼に、まぁまぁとマキがサンドイッチを勧め、また噛み付く。その二人のやり取りが可笑しくて、嘉奈は笑った。


「はははッ。っていうかさ、男子ってみんなそうなの? 三つ編みくらい分かるでしょー、普通ー」


 ますますふてくされていく修真は置いておいて、参照にするデータが無いのでなんとも言えなかったマキはにこやかに首を傾げる。


「さぁ? 私には」


 遠慮なく、サンドイッチの入ったバスケットに手を伸ばす嘉奈。


「でもそういう違いって色々聞くよねぇー。例えば、女の子座りは男には出来ないとかさー」


 ここで疑問を抱いたのは、やはり男子である修真だった。


「え、そうなの?」


「やってみなよ。できないから」


 さらりと言われ、修真はただ素直に信じられないという疑問を抱く。


「女の子座りって、床にぺたってなるやつだろ?」


「そうそう」


 あれならばミュランダやポチやマキがいつもやっている。というか、゛座る″なんていう簡単な動作に可能も不可能もあるわけがない。

 ところが、思い込みはどこまでいっても思い込みなのだ。


「あ、あれ?」


 体育座りまではもっていけたものの、そこからがどうしても足が外に向いてくれない。やり方を変えて、片足を床に付けるが、


「そこから右足を外にするんですよ」


「な、なにこれ、無理じゃね?」


 手で押してみたりするが足は一向に動かず、むしろどこかの関節に痛みが走った。体が硬いとかいう以前に、無理だと思わざるを得ない。

 悪戦苦闘する修真に、マキはいとも容易く女の子座りを披露してみせる。


「こうですよ、こう」


「お前すげーな。いつもこんな難しい座り方してんのか」


「いやいや、普通のことですから」


 苦笑するマキに何故かと問おうとする修真に、ほら、と言わんばかりの顔で嘉奈が言った。


「最初から骨盤の作りが違うらしいよー。って普通知ってるぞ?」


「は、初めて聞いた……」


 高校二年、十七にして発覚する男女の小さな違いに驚きを隠せない。それでも何かカラクリがあるんだろうと女の子座りに挑戦する修真があんまりにも頑張るものだから、周囲のテーブルからくすくすと笑い声が湧き、


「――か、片桐君! ほんとだから! こんな微妙なウソつかないってば!」


 となだめることになったのは言い出しっぺの嘉奈だった。

 ようやく修真が事実を受け入れて着席。


「知らなかった……」


 未だに引き摺るのを見かねて、マキは微笑みながら助け舟を出す。


「大丈夫ですよ修様。そんなの知らないよりもミュラちゃんとポチちゃんのパンツ買いに行って、下着コーナーの前で羞恥に頬を赤く染めた挙句あげく、駄々をこね、コーナーに足を踏み入れてもわーわー騒いでいた事実の方が」


「どうぉぉおおお――ッ!!」


「はぶッ!!」


 とんでもない速度でマキの口にサンドイッチをぶち込む修真。しかしながら、彼の反応はほんの一歩だけ手遅れだった。

 急いで振り返ってみるも、もう既に嘉奈の表情には驚愕と軽蔑とが満ちていたのだから。


「……片桐君、マジ? 少女ってそういう趣味が……。ううん、悪いとは言わないけど、ほら、嫁と畳は新しい方がってよく……ごめん、フォローできないよ」


 刃物で刺されるような優しさ。


「違う違うッ、違うって! あれはある意味半強制的に連れて行かれたというかミュランダにパンツ無しで生活させるのもアレだし買い物を覚えたばかりのマキにとんでもない高額商品を買われちゃったら危険っていうかちゃんと大人のパンツもあったし!!」


 爽やかな夏空に響いて行く少年の声。

 ――大人のパンツあったしー。

 ――パンツあったしー。

 ――あったしー。

 屋上の爽やかな空気がずっしり重くなった。

 何人か、逃げるように校舎に戻って行った。察するに、そういう話に抵抗がある子なのだろう。

 無数の悪意ある視線を感じた。そうでない者はよそよそしく、見てない聞いていないふりをしたのが分かった。

 修真は、その瞬間に理解するのである。

 ああ、やっちまった、と。

 何が起きて、自分が如何なる失言を犯したのかを知って、へなへなと膝から崩れ落ちた。とても大事な物が手の平から零れ落ちていくようだった。

 傷心の彼の肩を、そっと触れるマキと嘉奈。


「修様、ナイスファイトです」


「同情はしてあげる」


「うわぁぁぁぁぁああああッ!!」


 恥も外聞もなく、泣いた。

 すっかり落ち込んでしまった修真が屋上の片隅で膝を抱き始めたのを他所に、マキと嘉奈は女子特有の他愛も無い談笑に話を咲かせていた。


「どれ見ても書いてあるんですよ。私びっくりしちゃって」


「そうそう! デキストリンって大概のヤツに入ってるんだよね〜! あ。ところでさぁ、ポチちゃんとミュラちゃんは何処に行ったの? 最近よくこの時間になると居なくなるけど」


「さぁ? ミュラちゃんは誰かと遊んでると思いますけど、ポチちゃんは図書室ですかね? クーラーありますから」


 それを聞いた嘉奈は少し驚いて、ペットボトルを口に近づけようとしていた手を止めた。

 何故か嬉しくなって


「なーんか個性が出てきたねー! 最初はどこへ行くのも二人で、教室移動もトイレも着替えもぴったりくっついてるイメージだったのに!」


 対してのマキは何ら感慨かんがい無く返す。


「そういえばそうですねぇ。最近じゃ喧嘩もするようになりましたし」


「あ〜、何か言い合ってるのよく見るかも〜」


 当初と比べればあの姉妹は変わったと嘉奈は思う。あの二人といえばいつも修真の後ろを付いて回る存在で、見るもの全てが新しく見えるのか、黙って何が起きているのかを傍観していた印象しかない。


「個性……、確かにそうかもしれませんねぇ」


 言われてみて始めて気が付くマキ。

 ポチは元々口数が少ない子だったが、ミュランダも学校ではあまり喋ってはいなかった。いつも二人。二人で見て、二人で感想を言い合う。それが端から見た天使の姉妹だった。そんな二人が喧嘩するというのだから、不思議な話だ。

 嘉奈は悪戯っぽく笑って言った。


「どっちかって言うと、ミュラちゃんはマキちゃんに似て、ポチちゃんは片桐くんに似た感じ?」


 マキは思いっきり首を捻った。


「えぇ〜、そうですか〜? 修様とポチちゃんは分かりますけど、ミュラちゃんと私って似てますかね?」


「何言ってんの。すっごく似てるよ? 笑った時の表情とか」


「そ、そうですか?」


 戸惑うマキと、確信を持って話す嘉奈との間にある温度差。違った距離感から生まれる決して悪くは無い齟齬そごに、嘉奈は微笑みも混ぜて苦笑した。


「やっぱ一緒に暮らしてると分からなかったりする? 子育てって大変?」


「子育て……なんですかねぇ?」


 直球に子育てと言われても、マキには子育てだと断言することができない。確かに自分は親というポジションだが決して姉妹を生んだ訳ではないし、それでも立派な親にならなければと自覚はしている。

 というのは自分に対する言い訳で、ちょっぴり気恥ずかしくてうやむやにしておきたかったというのが本音だった。口に出していまうと、自惚うぬぼれているようで嫌だったのもある。

 もしかしたら修真はいつもこんな気分なのかもしれないと思って、だとしたらちょっと嬉しく感じるマキ。


「そりゃ子育てでしょー。何にも知らない子供と一緒に暮らすんだからさー」


「そっかぁ……」


 ニヤついて俯くマキ。

 その幸せそうな表情を見ていた嘉奈は頬杖をついて、どこか皮肉っぽく言った。


「こうやってマキちゃん達見てるとさぁ、たまーに羨ましいなって思うんだよね。なんか良いなぁって。マキちゃんって何かが欲しいとか無いでしょー?」


「そんなことないですよ?」


 曖昧に答えたマキに、嘉奈は興味津々に尋ねる。


「例えばどういうの?」


 少々黙考したマキは、より一層俯く角度を深めて、


「それは……私が……」


 そこまで言って、ちらりと修真を見る。


「どうせいっつもこんなんだよ。どうせさ……もう諦めたよ」


 フェンスにもたれかかってまだ落ち込んでいる。

 マキは何かしら思う所があって自嘲の笑みを浮かべると、顔を上げて照れくさそうに呟いた。


「それは、えっと、独り占めしたいなぁ……とか」


 ガタッ、と椅子が動く音がした。


「うわっ!」


 え、と首を上げると、ヒーローのファイティングポーズのようなポーズで嘉奈が固まって、しかもぶるぶると震えている。


「マキちゃん今、すっごい可愛かった!!」


「へ? えぇ!?」


 何がどうなったのかさっぱりのマキを尻目に、嘉奈は一人、腕組みをして深く頷いていた。


「なるほどぉ、こりゃあ朴念仁ぼくねんじんの片桐君もやられるよー。そんな顔されたら落ちるよねー」


 彼女の言葉の意味を理解して、マキはきゅーっと顔が夏の空気よりも熱くなっていくのを感じる。恥ずかしくなって、ついあたふたと慌てた。


「かっ、かか、嘉奈さん!」


 慌てふためく様に、嘉奈は相好そうごうを崩し、一息ついて椅子に落ち着いた。


「あはははっ、ごめんねからかって。でも、君達見てると本当になんか教えられるんだよ。自分の生き方みたいなの? あ、私ってばもしかして今、痛いこと言ってるっぽい?」 


「い、いえ、そんなことないです……」


 実に下手くそな愛想を受けて、嘉奈は「そっか」と声のトーンを落とした。そして、どこか虚しげな瞳で屋上とそこに居る学生達を景色として眺める。

 どうかしたのだろうか、と不安させる挙動に、マキは彼女が切り出すのを待った。


「……そういえば、私思ってたんだけど」


 案の定、嘉奈が口を開く。


「なんですか?」


 と、訊き返したマキに、何かを悩んでいた嘉奈がぐおっと前のめりになって顔を近づけた。


「私ってさ、部活してるスポーティーな女の子って感じだと思わない!?」


「はい?」


 質問の意図がさっぱり掴めない。今の話の流れでどうして部活でスポーティーどうのが生まれるのかが分からない。

 勢いに圧倒され気味に返答する。


「も……もしかして、部活でも始めるんですか?」


 はぁぁ〜、と大きな溜息を吐いた嘉奈は、渋い表情で額を押さえ、どさっと背もたれに寄りかかった。それから、言い辛そうに。


「……あのね、なんていうの、キャラ的にね? ほら、出番欲しいじゃん?」


「だとしたら、滲み出る帰宅部のオーラを消さないと」


 ばたん、と嘉奈がテーブルに突っ伏した。


「いや、ごめん、やっぱいい。滲み出るって辺りで結構ショック受けたし」


「あ、ごめんなさい」


 謝って、別の可能性を提案。


「だったらこういうのどうですか? 実は家庭が崩壊の危機だ、みたいな可哀想な感じの」


「ごめん、うち普通の中流家庭なんだよね」


 更に別の。


「あ、ごめんなさい。じゃあ可能な範囲で……あの事件で唯一の生き残り、的な」


「ごめん、それ何があったの?」


「なら、特技は耳が動かせる」


「インパクトに欠けるよね。ショボい。それ出来ても今と何も変わらないよ」


「だったら、実はもう死んでいるとか。あ、これはダメだ、カブる人がいます」


「そんな人いるのッ!?」


 まだ見ぬ衝撃の人物に驚愕の色が隠せない嘉奈。もう死んでいるとかあり得ない。そんな人が存在するなんて。

 提案を全て一蹴されて困りに困ったマキは、もう嘉奈自身に理想を訊くしかない。


「じゃあ嘉奈さんはどういうキャラが良いんですか?」


 死んでいる人がいるなんて冗談だよねと自身に説明付けて、妙な脱力感と共に嘉奈はこめかみを押さえる。


「そ、そうだね……。主人公じゃなくてもいいから、できればレギュラーにはなりたいよね。毎回出たい」


「それじゃあレギュラーメンバーになれるかどうか天の声に聞いてみたらどうです?」


「天の声?」


 怪訝そうに眉を上げた嘉奈に、マキはもっともらしく言う。


「ええ。天に向かって叫ぶんです『レギュラーになれますか』って」


 普段の嘉奈ならば「そんなわけない」と拒絶していたことだろう。しかし、今は違った。どうしてなのか、物語開始から三番目くらいに登場したのにも関わらずこの扱い。どんどん出てくる新キャラ達に出番を奪われていくこの屈辱。

 もう手段を選んでいる場合ではなかった。早く素敵なキャラを手に入れて物語に食い込んでいきたい。なんなら襲い来る巨大兵器と戦ってもいい。そろそろ私メインの話が一話くらいあってもいい。

 それなのに、この不遇。

 だけど、諦めない。


(そうよ。たとえ可能性が1でも、行動すれば2にも3にもなる!!)


 説明しよう。嘉奈は切羽詰っているのである。


「う、うん。やってみるよ」


 決意を感じられる面持ちで言って、夏の空を睨みつける。


「宮崎嘉奈は――」


 胸を逸らして、大きく、限界まで息を吸い込んだ。


「レギュラーメンバーになれますかーーーーーーッ!!」


 叫んだ。思いっきり、喉がびりびりするほど大きな声で。

 驚いた生徒が数名、こちらを見た。

 嘉奈は期待と希望、不安と疑心に揺れながら、何らかの変化が怒るのを待った。

 何かが起きてくれるのを切に願った。心から届けと祈った。

 全てが静止した屋上を、涼やかな一陣の風が吹き抜けた。

 その時。


 ――がだーん!


 嘉奈も、皆も、物音の方を見やった。

 勢いよく開かれた校内へと続く屋上の扉。

 そこに立っていたのは、


「た、大変だよぉ!!」


 鼻血大洪水のミュランダだった。

 彼女は静止した屋上の空気などには目もくれず、一直線に修真の前に走る。


「……あ、あの、おねおねおね!!」


 眼下の校庭を指差して何かを言いたそうに、けれど混乱していて上手く言葉が出てこないミュランダ。

 そんな様子の彼女に、ぐったりフェンスにもたれていた修真は今にも息絶えそうな笑みを浮かべた。


「……どうかしたのか? そんな血相変えて……いやお前すごい鼻血だぞ」


「だからあの、おね――わッ!? ち、血が出てるぅ!!」


 続きを言おうとするも、ようやく自分の異変に気付くミュランダ。シャツの裾で血を拭こうとした所で、マキが背後からその手を掴む。


「ああっ、コラ! どこで拭こうとしてるんですか! 血液が衣類に付着すると中々落ちないんですよ!」


「へ、あ、ごめんなさ――って違うの! お姉ちゃんがッ、お姉ちゃんが大変なの!」


 一瞬、自分の重要な用事を忘却の彼方にすっ飛ばしそうになりながらも、今度は修真とマキの服を掴んでぐいぐい引っ張るミュランダ。

 その必死な呼びかけに修真は眉をひそめた。

 彼女らしからぬ、この慌て様。

 何か良からぬことが、

 ――ま、まさか!

 顔からさーっと血の気が引いた。


「……とッ、とうとう殺っちまったのか! 何人だ!?」


「へ? ううん、ひ、一人で……」


 きょとんとするミュランダも目に入らず、修真は抑えきれない苛立ちを言葉に出す。


「っあぁぁぁあッ! いつかやると思ってたんだよ!! どうせ慣れ慣れしい奴がしつこくポチに付きまとったんだろ!? そんな事するから死ぬ羽目になるんだよッ、やってくれたなちっくしょう!!」


 突然の絶望に眩暈めまいすら感じて頭を抱え込んだ修真とは別に、マキは戦慄に染まった面持ちで硬直していた。

 即座にミュランダに詰め寄る。


「ポ、ポチちゃんは今どこですか!!」


「ちゃんとあたしの話聞いてよ! お姉ちゃんがいなくなっちゃったの!!」


 ぶつぶつと恨み言を呟いていた修真がぴたりと一時停止。ぎぎぎぎとミュランダに首を向ける。


「ってことは、人は殺して……?」


「ないよ! あたしそんなこと一個も言ってないじゃん!」


「……っあー、そっかそっか! そうだよな、いくらあいつでもそこまではしねーよな! うんうん。で、ポチがどうしたって?」


「だからお姉ちゃんが走って学校からどっか行っちゃったんだってば!!」


 大慌ての彼女に反して、修真はすっかり冷静さを取り戻していた。決してポチを心配しなかったわけではない。しなかったわけではないが、彼女ならば、心配する必要性があまり感じられなかったのだ。

 ポチは賢い。ミュランダはともかく、彼女が道に迷うことはまずないだろう。

 ポチはとても強い。たとえ、暴漢に襲われようとも秒も待たずに返り討ちにしてしまうだろう。むしろ、過剰防衛で訴訟とか起こされる不安の方が大きい。

 それらゆえに、修真は居なくなったもう一人の娘が心配だという不安があまり生じなかった。


「へぇ、何か……いや、理由もなく行動するわけないか。確実に何かあったんだろうな。でも、なんでお前がそんなに慌ててるんだ?」


「お姉ちゃん、とっても、辛い顔してた。あんな顔、見たことないよ……」


「ポチが?」


 想像してみるが、いまいちイメージが浮かんでこない。あまり心配する必要はないとは思っているが、ミュランダの言葉を疑う修真ではない。


「ふーん……とにかく、探しにでも――」


 と、言おうとしたその瞬間、

 その場をマキがいきなり駆け出した。


「え?」


 その瞬く暇も無い、一瞬。

 修真は、視界の中を流れて行く黒髪と彼女の横顔、とてもじゃないが平静とは言い難い表情だったのを見ていた。


「……」


「早く早く! もっと急いでよ!」


 思考を失った彼を、ミュランダがぐいぐい引っ張って屋上を連れ出していく。

 ちなみに、


「……」


 一人、空に向かって意味不明の雄叫おたけびを上げた女子生徒嘉奈は、ぽつんとその場に取り残される形となった。


「あっれぇ……私のキャラは?」






 ポチは昼下がりの街を陸上選手も青ざめるスピードで駆け抜けていた。


(違う違う!! そんなこと思ってないッ!!)


 気付いてしまった自分の心を否定しながら、当てもなく走って走って走り抜ける。

 途中、ぶつかりそうになった車のクラクションが大きく鳴らされた。何か怒鳴る声が聞こえたが、それもポチの耳には届かなかった。

 通行人にぶつかっても、自転車を倒しても、振り向いてはいられなかった。


(私は――)


 導き出された答え、修真への願望と欲望。彼をしたっているという事実。その二つに付随する、浅ましくて醜悪しゅうあくな自分の一部をどうしても認めることが出来ない。

 風呂上りに髪を拭いてもらった時の、嬉しさ。

 しっかり者だと褒められた時の、心地よさ。

 もっとそれが欲しかった。

 欲しいと思ってしまう自分が嫌で嫌で仕方が無かった。


(こんなの私じゃない!!)





「居たか?」


「ダメです居ません! そっちは!?」


 片桐家、吹き抜けの一階ホールに集結した修真とマキは互いに首を振った。行方をくらましたポチが帰ってきていないかと自宅に戻ってきたが、どこにも姿は見られない。

 ミュランダが今にも泣き出しそうな表情で言う。


「ど、どうしよ。お姉ちゃん、どこに……」


 家の奥から幽霊さんもふわふわと飛んできて、


『やはり戻られた形跡はありません、戻ったとすれば私が気付いている筈ですし、お米がありません』


「ポチちゃん……!」


 マキは即座にきびすを返し、靴を履き変えて出て行こうとする。


(……こいつ、どうしたんだ?)


 様子がいつもと違った。

 この動揺ぶり。

 鬼気迫る表情。

 何かが違う。

 一人だけ冷静だった修真は、マキの肩を掴み、引き止める。


「……あのさ、ちょっとタイムいい?」


「何してるんですか! 早く――」


 凄い顔で振り向いたマキに気圧けおされながらも、修真はあえて誰にでもないよう皆に、落ち着いた声色で言った。


「いや、あのさ、そんなに心配しなくても良いんじゃない? 仮にもあのポチだし。ほら、学校サボりたくなる時とか、一人になりたい時って誰にでもあるだろ? 学校サボるのが良いとは言わないけどさ」


 彼の言葉に玄関が静まり返った。

 確かにそうかもしれないと、誰もが思った。幽霊さんは半透明な着物の袖を口元に当てて、ミュランダは目を丸くした。

 それらの反応を見て、修真は続ける。


「だろ? だから、帰ってくるの待ってるだけで――」


 しかし、


「――どうしてッ!?」


 苛立ちを覚えたマキが修真の襟首を掴み、


「これが落ち着いていらる状況ですか!? それでも父親ですか!!」


 噛み付かんばかりの勢いで圧倒した。

 修真は、押し黙った。

 怒りと苛立ちを露にしていたマキは、一瞬、炎のように燃え上がる瞳で睨みつけ、見損なったように体を突き放す。

 よろめいた修真を一瞥いちべつし、


「……いいです。私一人でも、探しに行きますから」


 そう吐き捨て、玄関から駆け出て行ってしまった。


「……」


 彼女の姿を黙って見ていた修真は、意見を求めるように幽霊さんと顔を見合わせ、ゆっくりとミュランダの前にしゃがむ。

 不安そうに眉を傾けた彼女は、第一発見者という事もあって、一番心配なのだろう。


「大丈夫大丈夫。お前は何も悪くないし、ポチもすぐ戻ってくるから安心して待ってろ。俺も今から探しに行くから、な?」


 言いながら、優しく頭を撫でる。

 ミュランダは小さく頷いた。


「……ぅ、うん。分かった、待ってる」 


「よっし。賢い子」


 ちらりと幽霊さんにアイコンタクトを送り、彼女も応えて頷く。


「じゃあよろしくお願いします。俺はあの忙しい人、追いかけるんで」


『お米がありませんけれど、家のことはお任せください。お米』


 しっかりとした表情で頷く幽霊さん。彼女に任せておけばミュランダの方は安心だろう。

 修真は顔をしかめつつ靴を履いて、もう一度二人に振り返った。

 涙目で見送るミュランダと、スケッチブックをぶんぶん振って何かを訴えかける幽霊さん。

 何か、書かれている。

 単に見送っているだけかと思いきや、そこには何か文字がでかでかと。


『白米』


「……」


 その情熱の溢れるアプローチに、


「……わかりました。ちゃんと買ってきます」


 一応答えておいて、逃げるように駆け足で外へ出た。

 玄関先にはマキの姿は見えない。


(あいつ、どこに行ったんだ?)


 すると、


「ん?」


 なにやらノートの切れ端のような物が、門の敷板に落ちているではないか。

 確か、帰ってきた時にはこんな物は落ちていなかったはず。しかもご丁寧に風で飛ばされないように小石が乗せてある。


「ポチ……あ、マキか」


 不思議に思って拾ってみると、

 『殺』

 と、おどろおどろしい文字が、非情に荒々しく書き殴られておりました。


「……」


 修真は大いに辟易へきえきした。

 いくらなんでもこれはタチが悪いだろう、『殺』はないだろう。追いかけるのがとても嫌になる。

 けれどもそうは言っていられる場合ではないので、『殺』的な何かをされるのを覚悟して、走り出す。

 門を一歩出ると、意外にも、


「お前……」


 塀に背を任せたマキが、立っていた。

 いや、待っていたのだろう。

 彼女はそのまま、俯いたまま、冷たい声色で口を開いた。


「修様……私、見たんです」





 走る程度では疲れることを知らない体。ポチはこのまま走り続けるのも馬鹿らしくなり、疲れたということで自分を説得して、足並みを緩めた。

 随分と心も落ち着いてきており、周囲の景色が見えるようになってきている。


(ここは……)


 新築の家々が立ち並んだ小奇麗な街並み。立ち並ぶ街路樹。大きなマンションに挟まれた道路。どこからか電車が走る音が聞こえてくる。

 時折車が通るものの、人の往来はほぼ無いと言っていい。

 見たことも無い景色だった。

 知らない物ばかりだった。


「どこ?」


 ここでようやく足を止めるポチ。時計が無いので正確な事は分からないが、日差しと影の伸び方で大体の時刻は把握する事が出来る。


「……」


 何故だろうか。心の隅っこで、知っている風景に帰りたくなった。だがポチはその気持ちの意味を知らない為、また歩き出す。

 日差しが暑かった。

 肌に汗が滲んだ。

 しばらく、地に落ちた視界の中を流れ行く黒いアスファルトを見て、ふと思った。


「……」


 喉が渇いたかもしれない。


(自販機……)


 辺りを見回すと、道路の向こう側に自動販売機があった。ポチはひょいとガードレールを乗り越えて道路を横断した。


「あ」


 しまった。

 財布を持ってきていない。どうやら鞄の中に入れっぱなしだったようだ。


「……」


 無言で諦め、また歩き出す。

 どれくらいか歩いて、ふと目に付いた公園にポチは足を踏み入れることにした。

 誰も居ない公園。日差しを浴びる滑り台、ブランコ、ジャングルジム。

 ポチは理由など無く、ブランコに座ってみた。手に掴んだ鎖の感触が熱かった。


「……」


 目的を持たない行動は中々に難しい。どこへ行くべきなのか、自分がどうしたいのか、それらを失っているポチにとっては、ここでブランコに揺られる事しか出来ない。

 戻る?

 どうして?

 どこかへ行く?

 どこへ?

 こうも考える余裕が出来てしまうと、やはりポチの脳裏に浮かぶのは久野愛と、彼女に向けた自分の言葉だった。

 ――私は、弟みたいにお父さんと仲良くしたい。

 ――お前は自分で行動してない。

 ――だから父親もお前を見ない。

 ――自分の行動の結果が気に食わないなら行動を改めれば良い。そんなのちょっと考えれば分かること。

 そして、ポチは自分の言葉に疑問を抱くのである。


(……なら、だったら、どう改めればいい?)


 身近な存在から例を挙げるならばミュランダのように?

 

(馬鹿馬鹿しい。私には、あんな子供みたいな恥ずかしい行動は出来ない。羞恥心がある)


 では、マキのように?


(本心を直接相手に……これも違う。第一、なんと言えば良いのかさっぱり。どうしてうちにはこうストレートなのばかり)


 難しい表情で小首を傾げるポチ。身近な例を挙げてはみたが、どうも自分のやり方とは反りが合わない。


「――違う」


 そこでまた、自分が浅ましい妄想に浸っている事に気がつき、急にむかっ腹が立った。怒りと共に力を込めた手の中で、みり、と鎖が音を立てる。 

 恥ずかしい。

 腹立たしい。


「……くッ」


 苦しい。

 ――助けて。


「……どうして、そんなこと考える」


 頭の中で自分勝手な言葉を投げかけ続ける自分に、問う。


「必要ないでしょ? 無駄でしょ? それが無いと何か出来ないわけじゃないでしょ? どうして……」


 ――パパ、助けに来て。

 ポチは泣き崩れるように、顔を覆った。


「そんな、そんなの間違ってる。お前がそうだとしても、私がそうだとしても、そんなの間違ってる」


 ――私、どうすればいいのか分からないの。


「そんなことない!!」


 ――とっても心が痛くて、胸の中が苦しいよ。


「やめろ! それ以上言うな!!」


 ――最近はね、夜、眠れなくなったの。布団で目を閉じると、冷たくて、寒くて、眠れない。


「やめろやめろやめろ!!」


 ――だからね、眠れない時は、毎日、パパのこと、探してるの。でも会えない。パパの部屋まで、行けないから……だから、パパが私を見つけてくれるのを待ってる。


「そんなのお前が勝手に――」


 ――私、こんなに、待ってるよ? ずっと待ってるよ?


「勝手なこと言うな!!」


 ――パパは、どうして、気づいてくれないの?


「もうやめろ!!」


 ――私、パパに。


「お願い……」


 ――パパに甘えたいよ。


「もうやめて……」


 そこまで口にして、諦念したようにポチの全身が脱力した。

 そう、本当は分かっていた。

 本当は、

 ミュランダみたいに上手に、

 マキみたいに素直に、

 修真に、甘えたかった。

 あの笑顔を自分にも向けて欲しかった。

 自分も触って欲しかった。

 見て欲しかった。楽しく、笑いたかった。

 けれど絶対にそれは口に出来ない。言ってはいけない事だから。ミュランダよりも姉である自分は、そんな事を口に出してはいけない。

 甘えたりしたりしてはいけない。恥ずかしい事だから。修真を困らせてしまうから。

 寂しいなんて思ってはいけない。寂しくなってしまうから。

 そして、こんなことは考えてはいけない。

 なぜならば、?似合わない?から。


「どうして……私がこんな気持ちに……」


 きっと情けない表情をしているであろう自分の顔を、誰にも見られないように覆い隠す。


「どうせ私は……」


 なぜ、それらが自分には似合わないのか。ミュランダとマキには出来て、自分には出来ない理由。そこには、ポチなりに導き出した答えがあった。

 二人との決定的な違い。

 どうしようもない、女の子の部分で気づいていた。

 無愛想で無口な自分と、彼女達との違い、

 それは……


「私は、もう――」


 その時、彼女の心の内で何かが火花のように閃いた。

 むしゃくしゃした今の気持ちを発散させる方法。

 あるいは、己の願いを後押しさせる解決手段。

 またあるいは、思い悩む原因を取り除こうとする自己防衛。

 ゆらりと立ち上がった彼女の横は、冷徹な無表情だった。


「全部、いらない……」


 街を照らしていた日差しがじわじわと傾き始めた。

 隣町の小さな公園から、黒い翼を持った少女が猛烈な速度で飛び立ち、大空に舞い上がっていった。

 荘厳そうごんな装飾で彩られた槍を携えた少女は、

 いつしか乙女へと姿を変貌させていた。





「見たって……何を」


 首を傾げると、マキは思い返すように言った。


「今朝、私達お風呂入ったじゃないですか」


「ああ、うん。そういえば入ってたな」


 修真には話の意図が掴めない。確かに朝風呂には入っていたようだが、その後も彼女らに変化は無かったはずである。

 あったとすれば――


(「……ごめんなさいこんな事させて。でもちょっと、ほんのちょっとだけ……甘えたくなったんです。ごめんなさい」)


 あの後、ポチとミュランダの姿が見えなくなってから、マキはちょっとだけいつもと違っていた。

 あれ以前に、何かが起こっていた?

 だとすれば、彼女は風呂で、何かを見た?

 何を?

 マキは、溜めていた物を僅かに吐き出すような声で言った。


「……その時に初めて気付いたんですけどね、ポチちゃんの太ももに蚯蚓腫みみずばれみたいな傷があったんです。左右に五本づつ、引っ掻いたみたいな……」


 思ってもみなかった言葉に、修真は全身が冷たくなるのを感じた。いくばくかの秒が経ち、


「そ、れは、自分で……ってことか?」


 そうとだけ、訊き帰した。


「わかりません。寝てる間に無意識でそうしたのか、故意でつけた傷か、私にもそこまでは判断できませんでした。ただの勘違いかもしれません。まだ確証も得ていませんし、その段階で吹聴ふいちょうして皆を混乱させてしまっては元も子も……だから、私が注意していれば良いと思って、それにポチちゃんが自分で言わないのなら……」


 修真は二つの意味で震えていた。


「……そう、だったのか」


 一つは、今更ながらに湧いてきた、ポチが失踪したことによる危機感。

 もう一つは、マキへの尊敬と、後悔だった。

 彼女はちゃんと、皆のことを考えていた。

 不安があろうとも、いつものように振舞っていた。自分がいつも通りだと感じ、気にも留めていなかった彼女の声と笑顔の裏には、今、自分自身が感じている不安があったのだろうに。

 そうだというのに、呑気のんきに……


「ごめん、気づいてやれなくて、お前が悩んでたのに……。お前だけにそんな思いさせて、本当に、悪かった……」


 マキは拳を握り潰してしまいそうなほど、力を込め、肩を震わせていた。


「私が、我慢すれば、でも、ちょっと目を離した隙に……。あんなにちょっとの時間でッ、こんな事になるなんて思わなくて……!!」


 不注意とも言えない不注意を責める彼女の肩に、修真はそっと手をやった。


「マキ、探そう。あいつ財布も置いて行ったし、昼飯も食べてなかった。たぶん腹減って困ってると思う」


「……」


「見つけたら、びしっと文句言ってさ、みんなでラーメンでも食いに行こう」


「……はい」


「大丈夫、すぐに見つかるからな」


「……はい」


 修真はマキと共に、走り出した。どこにいるとも知れないポチを見つけ出すために。

 が、事態は重くなりつつあったのである。





 大空へと舞い上がった天使は、更に天へとブライゼルを掲げる。

 凄まじい力の発揮はっきの後に、周囲に浮かぶ入道雲の形が奇妙に崩れた。

 そこにブラックホールでもあるかのように、大気が集束していく。

 動き出した大気の流れに吊られて、渦のように雲が集まった。

 刹那。

 青い光が激しく明滅し、莫大な衝撃波が空に広がって、

 光が弱まると、

 膨大な物量を持った氷の塊がそこに浮いていた。



 街を走る修真とマキは、突然に吹き荒れる突風に目を瞑った。



 家で皆の帰りを待つミュランダは、打ち上げ花火を間近でぶっ放されたような感覚に素早く顔を上げ、縁側に転がり出た。



 三者は全く違う場所にいながらも、同じ物を見た。

 雲と同じ高さに浮かんだ、巨大な青白い物体を。





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