最終章 第一話
「影縫い!!」
女の声が場に響く。
とたん、駆け寄ろうとした姿勢のまま、ルシーダもナッツも、もとより動けぬ兵士達も、ぎしり、と奇妙なままで動きを止めた。
自由を保っているのは、今や、術者の女と王家の兄弟だけ。
「・・・手を放せ、セフ。
二人共、死ぬ必要はない・・・。」
声を落とし、王は冷静に対処を示す。自身を見捨て、反撃せよ、と。
魔族と同じだけの力を持つ弟であれば、この状況であっても、この、兄の手を離しさえすれば、打開するに違いない、と。
セフは苦しい下から、笑みを浮かべた。
「・・・嫌です、」
「セフ・・・!」
女がまた、高く笑い声を響かせた。
周囲の者たちは凍り付いたように動きを止めたままだ。
影縫い、と女が叫んだ瞬間から、身動きを封じられている。
「・・・さぁ、観念する時が来たようね・・・。貴方には、幾つか聞きたい事があるわ。」
「そうかい? 俺はないな。」
女の足の細いつま先が、セフの痛めた腹の傷を蹴り付けた。
「うぐ・・、」
「減らず口ね。・・・ヘタな事を言うなら、貴方のお仲間を一人ずつ殺すわ。」
まだ何か言おうとしていたセフの唇が、呪詛の言葉を呑み込んだ。
軍務将、カラルの率いる一軍も、戦闘態勢を整え、息を潜めて森の全面に展開していた。
夜まで待って仕掛けろ、との厳命だ。じきに、あの末皇子が合流する・・・。
全員がじりじりと夜を待っていた。
嘆きの森の黒い木々は、人間を寄せ付けず、不気味な静寂を保っている。
「・・・・・?」
軍を率いる将軍は眉を潜めて前方を見遣る。
首をかしげつつ、所在無さげに引き返してくる斥候の姿を、カラルは認めた。
「どうしたのだ? 敵は発見出来たのか?」
「そ、それが・・・、」
斥候の背後から、巫女の少女が姿を見せた。
時間を少しだけ、戻さねばならない。
暗い地下神殿に残され、アシュは心細くセフの到着を待っていた。
フィルの容態は次第に悪化していく・・・もう、セフの帰る頃には手遅れである気がした。
涙をこぼしながら、それでもアシュは懸命に努力を重ねていたのだ。
「うわ!?」
突然、目の前にふわりと少女が舞い降りた。
「お静かに。・・・ここから、離れてくださいませ。」
少女とは思えぬ怪力で、アシュはいとも簡単にフィルの身体から引き剥がされる。
有無も言わさず、少女はアシュを魔法陣から放り出した。
そして、自身もするりと陣から抜け出る。
少女の意図を、その瞬間に把握した。
「やめて! 彼はまだ生きてる!!」
生贄の儀式が行われたはずの、陣だと、アシュは蒼褪めた。
黒い霧が、フィルの身を包み込む。少女に抑えられ、もがきながらアシュはワケも解からず喚いている。得体の知れない何かが、死にかけた仲間の足元へと忍び寄ってくる恐怖を感じた。
居竦んでしまったアシュの背を、巫女の少女はようやく離す。前へ回って、言葉を紡ぐ。
「儀式が復活したのです・・・ただ、一度きりの。」
恐ろしい行為を行いながら、平然とした少女の目に、アシュははっきりと恐怖を感じた。
ゆらりと宙に浮く、死に掛けの青年。
何者かが乗っ取っている・・・。
アシュは全身の冷たい汗と、微細な震えをどうしても抑えられない。
この恐怖・・・心臓を鷲掴みにされたような、すぐに逃げ出したくなるような、この恐怖は。
何も知らされず生きてきたアシュには、その存在を言い表す言葉もまた、知らされていない。
再び目を開いたフィルは・・・生者の目ではない、どんよりと曇る死人の目をしていた。
畏れがピークに達した。
少女がアシュの手を取らねば、そのまま失神していただろう。
はっ、と我に返り、噛み合わず鳴る歯を、無理に止めようと顎に力を込めた。
「さあ、今度は陣の中へ・・・」
入れ替わりで、青年の身体を乗っ取った何者かが中空で歩を進め、外へ出た。
「死に近付くことによって、我が君は呼び出されるのです。
・・・彼は、この国を救ってくださったのです。」
少女の言葉に、改めてアシュは神殿の暗い天井を見上げた。
ここは・・・、そう、セフに聞いた。
ここは、『冥界神』の、神殿・・・。
どんよりと死人の目になった青年の両手が、ゆるやかに広げられた。
黒い霧が、果てもないほどに急速に周囲を呑み込んでいった・・・。
森の外には、未だカラルの軍勢は姿も見せず、王も塔の頂きで精鋭たちと交戦中の折り。
静かに進軍し、この将軍が到着したのはそれからまもなくだった。
森の手前で陣形を整えた将の前に、少女は現われた。斥候の背後から。
「・・・薬を届けてあげてくださいまし。
あの方々は、神殿の入口にいらっしゃいます。」
一刻も早く、と少女は付け足した。
何の事かは解からなくとも、カラルも兵も、この少女の言が疑いない事実しか語らぬ事だけは熟知している。カラルの指揮のもと、全軍が移動を始めた。
森の、道なき道を進むうちには数名のアサシンと行き会ったが、彼等はみな死んでおり、交戦の必要は一度たりともなかった。
胸部を掴むように息絶えた姿に、従軍の医師が心臓発作ではないか、と告げる。
一様に、皆、苦悶の表情を浮かべ、僅かにもがいた形跡を残して、事切れていた。
巫女の少女はまったく関心すら見せることなく、その横を平然と通りすぎる。「死」というものが、彼女にとっては何ら畏怖すべき事ではなく、当たり前の事象でしかないらしかった。
なぜギルドの者達が死んでいるのか、・・・どうやら全滅しているらしい事は、この大群が移動していてなお、一度たりと、生者との遭遇がないことからも覗える。
冷たいものがカラルの胃に落ちてくる。感覚的なもの、どうにも得体の知れない恐怖がそのような錯覚を覚えさせるのだとカラル自身は判断していた。
兵たちの足取りも重い・・・言いようのない恐怖で、彼等の進軍は徐々にスピードを落とした。
何者が、この状況を作り出したのか・・・アサシン・ギルドがほんの僅かな時間で全滅した、などと・・・誰が信じようか。進路のそこここで見掛ける死骸は、数を増してゆく。
およそ人間とは思えない怪物まで含めて・・・この数を、いったい誰が。
抵抗の痕跡さえありはしない、おそらく反撃の暇もなく、命を奪われたのだ。
絶対的な力の差が、そこにありありと見えて、兵の士気を鈍らせる。
ギルドを遥かに凌駕する、新たな敵の出現であった。
嘆きの森は変わらず静寂している。生き物の気配さえなく・・・。
先頭の少女が、時折、振り向いて首をかしげる。
恐る恐る進む兵達を眺め、不思議そうな顔をしていた。
少女の言葉通り、神殿の入り口付近には生きた人間の姿を見付ける。
ようやく出会えた生者の姿に、人々はほっ、と胸を撫で下ろす。・・・これでようやく、文字通りの「嘆きの」森ではなくなった・・・。
「これはいったい、どういう事なのだ?」
駆け寄ったカラルが、唯一の生存者である二人・・瀕死のフィルを見、傍らのアシュに問う。
すぐさま大切に仕舞っていた薬を、アシュに手渡して、先に治療を促した。
奇跡を呼ぶ薬がフィルの塞がらぬ傷に塗りこめられる。・・・セフの時同様に、僅かにフィルも呻いて、そして、今度こそゆっくりと瞼を開いた・・・。
「・・・う・・・、ここは・・・?」
蒼褪めて、冷たい汗の浮く額に従軍の医師が手を置いて、さらに塞がった傷と首にも手を置き、症状を検める。手際の良い仕草に、フィルは戸惑いながらも身を任せていた。
「・・・少々、貧血がひどい程度で、命の危険は去りましたな。もう大丈夫でしょう。」
その言葉に一番安堵してみせたのは、怪我を負ったフィルよりむしろ、傍らのアシュだった。
緊張が解けたのか、へたり、と石の床に転がってしまった。すぐに兵の一人が抱え起こし、支える。疲れ果てたアシュは体力も限界で、その肩に体重のすべてを預けているから、まるで引きずられる囚人のように見えた。
「よし、では全軍引き上げだ。すぐに王宮へ戻り、塔への援軍を編成せねば・・!」
カラルの指揮で、兵たちは一斉に進路を変える。
屈強な兵士がもう一人、前へ出て、負傷したフィルをおぶってくれた。
辞退しようにも、まったく手足に力が入らず、動ける状態ではない事に、遅れ馳せでフィル自身も気付く。自身の自殺行為があり・・・あの後、なにが起きたのか解からない。
アシュに目を向けると、苦い笑いを浮かべて、涙も浮かべていた。




