第九話
鋭い緊張で時が止まる。・・・フィルは自身の背を這い登る痛みに顔を歪め、微かな呼吸だけをなんとか繰り返していた。
・・・正直、グラントのこの策は巧い手だとは思っていない。
仲間であるセフが、時に冷酷な判断をも下せる男だという事は熟知しているから・・・瀕死の仲間と、無傷の自身たちとを天秤に掛けたりはしないと思っていた。
そして、フィルもそれがこの場合での正しい判断だと考えている。自分を見殺しにして、この、隙の生まれた敵を屠ることが最善の行動だ。
「・・・・・・、」
目前の・・・頼れる仲間だと思っていた男が、ここにきて様子がおかしいとフィルは感じる。
迷う必要もない状況のはず、それが、明らかな戸惑いを瞳に浮かべている。
・・・まずい・・・、
苦しい息の下にも、心臓は嫌な動悸を早めてゆく。
親友との思いがけぬ不幸な再会や、故郷の惨状などで、彼の判断力が著しく低下している事にようやく気付いた。迷う必要もない状況・・・もう、自分は助からない・・・。
セフの視線が、床に置かれたままのカップへと向かった。
声にならないまま、フィルの口だけが動く。
駄目だ、・・・それは飲んじゃいけない・・・、
乾き切った喉がしきりに上下し、全身を冷たい汗が濡らす。
彼が薬を飲んだところで、フィルが助かる見込みは少ない・・・。
いや、この敵は、最初からフィルを助ける気などない。それどころか、セフが彼の言うままにすれば、きっと、残るアシュをも殺すだろう。
チームは全滅だ。
駄目だ・・・、セフ・・・!
手に取られたカップが彼の口元へと運ばれる。
ほんの僅か、フィルを拘束するグラントの腕が、力を抜いた。
「・・・!!」
残された手は、これしかない、フィルの上体が大きく傾げ、自らの意思で兇刃を引き抜いた。
血が、霧のように吹き上がり、一気にアサシンの視界を塞ぎ、青年の命を削る。
「ちっ・・・!」
咄嗟に死に体の青年を前方へ突き飛ばし、グラントは後方へと飛び退る。
血の霧の中から、まっすぐにこのグラントの胸へと、セフの剣が延びた。
二人の動きはほぼ同時。
我がの胸を刺し貫く剣を片手で掴み、残る片手ではその持ち主の首筋にナイフを宛がっている。
相討ち・・・しかし、ナイフはセフの首の皮膚一枚で止まり、そのまま床へ落ちた。
心臓を貫かれてなお、グラントは余裕を残している。
「・・・馬鹿だな・・・、こういう時は、首を、落とすんだ・・」
アサシン相手に情けは無用、喉を掻き切られるだろう、と、忠告を残して。
ゆっくりと倒れる彼の胸から、血塗れた剣が、ゆっくりと抜けていった・・・。
「フィル・・! しっかり!」
一瞬の金縛りから逃れたアシュが、即座にフィルの蘇生を試みる。
完全に死んだわけではなく、彼は微かに息を継いでいる。セフの時よりさらに酷い状況・・それでも、アシュは懸命に努力した。
「絶対に・・・死なせない・・・!」
頼りなく見えたアシュが、毅然と死神に対峙する姿とは対照的に、打ちのめされたセフは蒼褪めた表情で、時折、力なく頭を垂れた。
張り詰めた緊張の糸が、ここへきて、切れてしまったようだった。
この国に戻って、色々な事が一度に過ぎた。・・・正直、気持ちが追い付かないでいる。
目をやれば不幸な形で失った親友の骸があり、今、また、連れ合った仲間が死にかけている。
成す術もない自身に、激しくかぶりを振った。
「セフ・・・、血が、血が止まらない・・・!
このままでは・・・、」
地下神殿にはある種の結界がある、それはアシュの魔力にも幾らかの影響を与えた。
アシュの訴えはこの男から弱気を払拭するに充分で、すぐにセフは行動に移る。
「よし、魔法陣のあった場所へ戻ろう。・・・あそこなら、たぶん、ゾンビどもも来ない。
なんとか蘇生魔法で時間を稼いでくれ、・・・なんとかする。」
ゾンビ化の魔法が内外で騒がれる中で、祭壇の人骨たちは動いた気配がなかった事を思い出した。あの魔法陣はきっとゾンビ化の魔法を遮断するのだろう。
・・・ここに居ると、夜が危険に思える。もし、あの骸が再び起き出してきたら・・アシュでは太刀打ち出来ない。フィルは今、アシュの魔力だけで生き長らえているのだ。
セフは小さく黙祷を捧げ、友の冥福を祈った。
不幸を嘆いている暇は、一刻とてない。
「魔法陣の真ん中で救助を待っていてくれ。・・・かならず、戻る。」
フィルを救える方法は一つ、兄を頼り、あの秘薬を手に入れる・・・それしかない。
どの道、この国へ戻った時から、顔を出せば刑死は免れまいと感じていたから、覚悟はある。
ただ・・自身を憎んでいるはずの兄が、その願いを聞き届けてくれるかどうか・・・無理な願いに思えた。
兄には、母を奪い、愛する女を奪い、さらに国まで奪おうとしている弟としか見えないだろう。
交渉するしかない、この命と引き換えに、あの薬を得る・・・。目の前で、命を絶ってみせようか。
今、嘆きの森を抜けられるのは自分以外にこの国にはない、と思い出して、セフは瞳に剣呑な光を宿した。・・・どの道、嫌われ者なのだ・・・無法者に徹するか、と。
「猶予はどのくらいだ?」
「・・・今夜いっぱい・・・、」
前方の闇を見つめる。
「充分だ。」
今度こそ、セフはなんの計算も抜きで王宮の門を潜る。
「兄王はどこだ!?」
突然の侵入者に、当然の事だが、居合わせた兵士の群れは抜刀で答える。侵入者、しかし、一目でその正体が魔族である事が知れる、強いオーラを纏っている。
どれだけの人数に囲まれようが、セフからすればどうという事もない。じろり、と一瞥してのけた。
挑発された形に、兵士たちが殺気立つ。イラ立っているセフも、今にも討って出そうな勢いだ。
慌てて登場した宰相が、一目でその正体を見抜き、鋭い声で場を制した。
「や、やめろ! 全員、剣を引くのだ!!」
あまりにも強い魔力の接近に驚き、とりもなおさず出てきたのだが。
その正体を知り、さらに驚いた。
セフを囲む無数の剣が切っ先を逸らす。
動揺が場を包むが、いっさい構わず侵入者はずかずかと奥へ突き進んでゆき、それに釣られて包囲の衛兵もあとずさって行った。
「セフ様!? まさか・・、本当に・・?」
宰相の前で、ようやく止まった。
「・・・久しぶりだな、兄は?」
どこか余裕のないその様子に、宰相は訝しむように眉を潜めたが、とりあえずとセフの腕を取った。5年ぶりに戻ってきた王族・・それも、ようやく出てきてくれた本物の末皇子だ。
「お久しゅう御座います、皇子。よくぞ、御無事で・・・!」
多少の疑問よりも歓喜が上回った。
兄王ラルフが再会を熱望して止まなかった末皇子・・・生きている事だけが、辛うじて伝わっていただけの、行方不明の末弟が、今、目の前に居る。
そして、現在急を告げるこの国を救うことが出来る、唯一の人物・・・。
ニナイの双眸がみるみる潤み、笑みの形に唇が開かれた。
セフは苦笑いを浮かべ、古い重臣の言葉より先に、用件を告げた。
「悪いが、話し込んでいる時間はない。・・・急いで、兄王に会わせてくれ・・!」
「ど、どうなされたのです? なにか・・? 火急の用件でも・・?」
一分一秒が惜しいセフは、曖昧に頷きながら王宮へと進んでいく。
奥にゆけば、そこに目指す人物が居るはずだ、と。
「セフ様・・! 兄君は・・、ラルフ様は、今、王宮にはお出でになりません・・!」
「・・・! なんだと・・・!?」
一瞬、耳を疑う。しかし、すぐに切り換え、明確な判断を下す。
意思は決していたが、とりあえずで尋ねた。
「何所へ?」
「兵を率い、塔へ行かれました。」
ニナイに向けられた視線が、西へと向かう。・・・ここから西にある、崩れ掛けた遺跡の塔を記憶から手繰り寄せた。今から行って、戻っていたのでは間に合わない・・・。
「ニナイ。責任は必ず取るから、宝物庫を開けてくれ。」
突然の来訪に続く、この唐突過ぎる願いに、宰相は絶句した。
かすかに横へと振られたその首の動きに、それでも皇子は食い下がる。
「頼む、俺の仲間が死にかけているんだ、・・助けてくれ、」
切羽詰ったその様子に、宰相はごくりと喉を鳴らし・・・やがて、頷いた。
宝物庫、死にかけ、・・・それらの言葉で推測出来る、この突然の来訪の目的。
王家の秘宝である『奇跡の虹』を求めてやってきたのだ。
一存で決める事は重大な裏切りかも知れない・・・。
皇子は家臣であるニナイに、深く頭を下げた。
「・・・恩に着る・・・!」
あとは迷いもない。まっすぐに、目指す場所へ。
進み続ける皇子の背を見遣り、ニナイは複雑な心境を持て余す。
王の許可もなしに、王家の宝が収められた宝物庫を開けようとしているのだ。
いくら、皇子の命とは言え・・・許される範囲ではない。
・・・しかし・・・。
仲間、というのは・・合流予定であった、あの若者・・・同じ王族の出と話に聞いていた、フィルとかいう者に違いない・・・。
再び、ニナイは喉を鳴らして、口内に溢れる唾液を呑み下さねばならなかった。
何が起きたのか・・・あるいは、絡み合う糸が、一本に繋がったものか・・・。




