第三章 第一話
現在、宰相として力を揮っているのはニナイだ。
5年が経ち、彼ももう若くはない。王の右腕としての地位を、誰かに譲り渡す事を考えている。
・・・本来、その第一の候補はすぐ傍に居るはずだったのだが。
「セフ様・・・、今、何処におられるのか・・・。」
年を取ると、溜息ばかりが漏れてくる、と、宰相は頭を振った。
執務の為、机に向かいっぱなしの日々だ。
ラルフ王には腹の違う兄弟が大勢居るのだが、すでに半数は代が変わった。
現王は、兄弟の中でも下から数える方が早いほど、年若かった。
王より下の者といえば、セフと、数人の弟君だけだ。
神殿地区から、その弟の一人がニナイを訪ねてきた。
「国王は相変わらず、御病床の身か?
・・・呪いを解くに、専門の者が居ると聞くが、呼んでみてはどうだ?」
兄弟たちからは、あれやこれやと智慧が寄せて来られるのだが、どれも今一つ、王の心を動かす事が出来ない。
「ええ・・・。そうしたいとは存じますが、なにぶん、国王ご自身が・・・。」
うん、とは言わない。
腕を組んで考え込んでしまったこの若い神官長は、国王のすぐ下、セフより三つ年上の兄弟だった。王の事も、セフの事も、よく知っている。
彼は人間で、魔族の血はまったく入っていない。
アルザスの神官は、人間でなくては勤める事を許されなかった。
神殿地区に住まう事を許される魔力の持ち主は、巫女の少女ただ一人だ。
ニナイのような重臣も、旅人でさえ、立ち入る事を禁じられる場所もある。
「バドロア様、・・・神の御掲示が?」
神官、バドロアと呼ばれたその小柄な青年は、うむ、と頷いた。
「巫女が神託を受けた。
王の血が途切れた、と・・・。」
どういう意味かが解からん、と神官は答えた。
「先日は、王の命が途切れる危機。その前日は、運命の変転。
・・・近頃の神は、謎掛けが多う御座いますな。」
ニナイは皮肉な笑みを浮かべた。
「それだけ、道が細かに分かれている証拠。
我々の取る道筋次第で、運命はどのようにも転ぶと告げているのだ。
・・・とても険しい峠にかかったのだろう。」
バドロアは大きく息を吐いた。
運命の時。・・・後の歴史家はこういう時期を、そう呼ぶのだろう。
「死人たちには安らかな眠りが訪れるという事だ。」
「・・・それはよう御座いました。」
気休めのように、二人は笑い合った。
王の身辺の保障は一言も為されていないわけで、二人の笑いは諦めまじりのものだった。
「そうそう、さきほど、ザルディンに会ったぞ?
・・・珍しい事だ、近頃は城にも出ては来なかったのに・・・。」
とって付けたような神官の言葉に、ニナイはなぜか言い知れぬ不安を感じた。
もう年を取りすぎて、出仕が困難、と、財務の職を辞したのは何年前だったか。
確かに、最近はめっきりと年老いて、よぼよぼになってはいた。
・・・しかし、あいも変わらず、眼光は鋭く油断がならなかったのを覚えている。
そのザルディンが、今更、何をしに・・・? ニナイは席を立った。
「どこへ?」
呑気に若い神官が声を掛ける。
「いえ・・・、客人がたに挨拶もまだでして。」
これから向かうところです、とその場を誤魔化した。・・・もちろんそれは口実で、ニナイが向かおうとしている先は、ザルディンの居室だ。
「では、私もそろそろ戻ることにしよう。巫女がまた抜け出すかも知れんしな。」
ドアを開けかけたニナイの手が止まる。聞き捨てならない台詞に、彼は振り返って怪訝な目をバドロアに向けた。
「抜け出す・・・?」
「そう、最近とみに多くなってな。
訳を聞いても、頑としてお答えにならぬ。・・・まあ、そういう事は前々からの事。
気にする必要もなかろう。」
ニナイは首を傾げた。
確かに、巫女の娘は気難しい面があり、何を考えているのか計り知れないところもある。年端も行かぬこの娘が、神の言葉を聞き、王に助言を与えた事も数知れぬ。
しかし、自分の知る限り、神官たちに黙って奥の宮を抜け出たことなどなかった。・・・何か、重大な決意あっての事か・・・、ニナイは勘ぐっていた。
「案じる事はない、巫女には万が一にも間違いなどないのだから。」
神官長は、そんな宰相の不安を笑い飛ばして肩を叩いた。
「そうだ! 急いで戻る必要もあるまい、私もその客人たちに紹介してくれんか?
あの弟がどこで何をしていたのか、私にも興味がある。」
バドロアは気さくな笑顔を向けて、ニナイに申し入れた。彼はセフを悪くは思っていないのだ、あの独特の目も、さほど気にはしていない。
彼にしてみれば、巫女もセフも、異質という点では似たり寄ったりなのだろう。
話す機会こそなかったが、出来れば暖かく迎え入れてやりたい、と思っているうちの一人だった。
「はあ・・・、
では、一緒に参りますか・・・?」
どこか困惑した表情のまま、ニナイは開いたドアの外へと神官長を促した。
当初の思惑とは裏腹に、足は目的地とは別の方角へと向かって歩み始めるのだった。
「・・・ときにニナイ、お前の娘・・・アニタはいくつになった?」
渡り廊下を歩きながら、唐突にバドロアが尋ねた。ニナイの娘は沢山居る。首を傾げ、記憶を巡らせねばならぬほどに、彼の子供は多く居た。
「そう言えば、そろそろ年頃ですかな?」
嬉しそうにニナイは神官長を見る。こういう言い方をするくらいだから、お眼鏡に適ったのかも知れないと思った。沢山の子供たちを持つと、手放す事がさほど辛くはないのだ。
「そう、そこでだ・・・あの子を後宮に入れてはどうかと思うのだ。」
続くバドロアの言葉に、娘の父は絶句した。
思い掛けぬ言葉だった事は間違いない、しかし、この危急の時にそのような考えが浮かぶこの青年の神経を疑う。
「アニタも美しい娘に育った。毎日、神殿で見ているのだ、その瞳が輝く時に誰を映し込んでいるのかも知っている。」
笑みを浮かべてバドロアは答えた。
父のニナイすら知らなかった娘の恋心。幼い頃から一緒に居たが、親としては二人を兄妹のように育てたつもりだったのに、と、ひどく驚いた。
「王の為、・・・いや、アニタの為にもそうした方が良いと思う。
王はまた渋られるだろうが、私がなんとか言い含めてみよう。」
バドロアはそう言い、ニナイも素直にその好意を受ける事にした。病床の王に娘を献上するなど、通常の考えでは理解に苦しむだろう。
しかし、この二人の臣下には何の策略も陰謀もありはしない。純粋に、当人同士の事を想っての相談だ。亡き正妃に縛られ続ける今の王には、妃の替わりに愛を注いでくれる者が必要である事を、二人は痛感していた。
王は亡き妃を忘れはしないだろう、後添えとなるアニタにとってそれは重大な障壁となるに違い無かったが、それでもニナイはこの提案に賛同した。
若いラルフ王の後宮に、美しい妃たちは大勢居たが、真実、王の愛情を勝ち得た者は一人も居ないことを、この父親は知っている。それでもなお・・・。
娘のひたむきな想いが、あるいは王の心を動かすのではないか、と期待した。
廊下をいくつも渡り、大広間を抜け、階段を昇り・・・そして、王の居室へと辿り付いた。
王の傍には先客がいる。
正体を明かした、第二皇子の友人たち。
「ご紹介が遅れました、私はこの国の宰相を勤めさせて頂きます、ニナイと申す者です。
以後、お見知りおきを・・・。」
うやうやしく頭を下げる重臣に、ナッツとルシーダの方が逆に恐縮した。
「うへ、頭上げてくださいよ!
俺たちゃ、何の変哲もないただの冒険者なんだから!」
慌ててナッツがわめいた。
「貴殿らが、弟の面倒を見てくれていたのか?
・・・私はバドロア。神殿地区を任されている。これからも、宜しく頼むぞ。」
気さくに声を掛けられ、手を掴まれる。突然の高貴な人間からの握手に、ナッツは目を白黒させた。ルシーダはただただ、唖然とするばかりだった。




