第十話
怪物の変化が、元に戻り始める。ぶよぶよと、身体の筋肉や皮が、独自の生物であるように蠢いている。・・・やがて、止まった。
フィルは目をそむけた。
セフは地に伏したまま、まんじりともせず、遺体を見つめている。
洞窟の床に血と脳漿を撒き散らした惨状の真ん中には、小さな子供の骸が横たわっていた。
二人共、一言の言葉もない。
実験により、麻薬漬けにしたあげく、肉体操作をして無理やり大人の能力を引き出したのだ。
それがどれほど惨い状況だったかは、すぐに見当がつく。
闇のギルドは、人体実験から戦争の仕掛け人まで、およそ考えつく限りの非道を尽くす。
まさか、血縁の者が、その犠牲者になるとは・・・。
セフがようやく口を開いた。
「フィル・・・、頼みがある。
事の真相は、誰にも話さないでくれ・・・」
力なく、その声は悲痛なものだった。
フィルは、無言で頷いた。
セフの傷は重症だった。腕が、まったく上がらない。
「この先に新しい連れを残している、そこまで手を貸してくれ。」
フィルの肩を借り、ひどい激痛に苛まれながらも、なんとか歩を進める。
血は、止めどなく流れ続けている。
薄暗い洞窟の中、二辻に分かれた場所へ辿り着いた。
「セフ! ・・・ひどい怪我だ、すぐに横になって。」
金色の髪の少年は、フィルの手を借りて、怪我人を仰向けに寝かせた。
蒼褪めたセフの額には汗が浮かび、一刻の猶予もない事を知らせる。
少年は、フィルの目の前で、いきなりセフの唇に自分の口を合わせた。
「?!」
フィルはよほど驚いたらしく、仰け反って尻餅をついた。
「あ・・・。
ごめんなさい、驚かしましたか?」
一息吸うと、また、同じように口付ける。
よく見ると、口を合わせて、その中に息を吹き込んでいるのだと知った。
うっすらと、セフが目を開ける。
徐々に、その身体が柔らかい光に包まれ始めた。
「・・・ぼくは治癒の息を使うんです、」
息を吸う。
「じゃあ、魔族かい?」
フィルの質問には頷く。そして、口付ける。
何度か繰り返し、やがて、深呼吸をして治療を終えた。
「もう、大丈夫。」
・・・セフは寝息を立てていた。
「いつまで待っても戻らないから、まさかと思って心配していたんです。」
少年はフィルに事情を話した。
ガルバの屋敷で出会い、助けられた事。一緒に仲間であるフィル達に合流しようと宿を尋ねた事、この時、セフは知人の追放の事実を知り、ルシーダが城へ招かれた事を知って、この洞窟へ来たのだと言う。
「短気な女性だから、放っておくと危ないって・・・。」
セフが言っていたという言葉に、フィルも頷いてしまう。本人が聞けば怒るだろうが、確かに当たっている。
「・・・ところで、名前を聞いてなかったね。
僕はフィルだ。」
「アシュです。」
思い出したように、二人は自己紹介をした。
「・・・今、何時くらいだろう?
夜になる前にここを抜けないと・・・、」
フィルは死者の群れを警戒していた。
「ああ、それなら大丈夫。彼等は自分の腰より高い場所には登れないようです。階段のない洞窟出口からは、侵入出来ないはずだとセフが言ってました。
城の側の入口も、たぶん、何かで塞がれたままだろうから、大丈夫だって。」
フィルはその言葉に安心しかけて、はっ、と気付いた。
・・・あの子供。
さっき倒したあの子は、いまも奥の通路に放置されている。
憂鬱な気分になった。
「今日はここを動かない方がいい。
・・・とりあえず、明日、考えよう。」
たぶん、襲ってくるだろう。けれど、その時はその時だ。
フィルの言葉を受けて、アシュはザックを降ろし、中から簡易ボンベとランプ、それと小さな鍋に携帯食料をいくつか取り出した。
フィルは困惑の表情でその様子を眺める。
食事の用意をしてくれようというのは嬉しいが、とても、食べる気にはなれなかった。
どのくらいか、時間が過ぎる。
アシュは手早く食事の準備をし、眠っているセフの隣りへ腰を下ろし、スープを一口啜った。
フィルは溜息ばかりが出て、手をつける気になれない。
「・・・なんの音でしょうか?」
ふと、アシュは手を止めて、フィルの方を向き、尋ねる。
ずるずると、何かを引きずるような音。
「・・・来たな。」
憂鬱な面持ちで、ホルが答えた。
セフは昏睡状態が続いている。
フィルが立ち上がった。
暗がりの中から、人影がゆっくりと姿を見せた。
その姿を見とめた時、アシュは最初、目を見開き、そして、堪らずにそむけた。
・・・どうやれば、あんな惨い殺し方が出来るのだろう、
身体が震えた。
緩慢な動きで、死体はフィルに近付いてくる。
「どうしましょう・・・? セフがこれでは・・・、」
アシュは横たわる仲間の傍へ駆け寄り、身構えた。
フィルはと言えば、困惑の後に、思い掛けぬ行動を取る。
子供の死体を、強く抱きすくめた。
「僕はセフのような魔力を持たない。・・・だから、こうやって止める以外の方法を思い付かない。
アシュ、この子はちょっとした知り合いなんだ。だから、これ以上は傷付けないでやって。」
フィルの思い切った行動に、何かを感じたのだろうか、アシュは何も聞かなかった。
食事を片付け始め、時折、心配げにフィルに視線を送った。
フィルは、夜の間中、この子供の死体を抱いて止めるつもりでいるようだった。
死体が腕の中でもぞもぞと動く。
「・・・ゾンビというのは、生者の温もりを求めて動くと言われているけど、どうなんだろう?」
これだけ温めてやっていれば、そろそろ満足してくれてもいいのに、と思う。
「そうなんですか? ・・・ごめんなさい、・・・僕は長い間閉じ込められていたので、世間の事は何も知らないんです。」
申し訳なさそうに、アシュは答えた。
腕の中の死体は、小さくて、冷たくて、死んだばかりの為か、まだ柔らかい。
こびりついた血の跡が黒く変色し始めているくらいで、死んでいるのか生きているのかも、見ただけでは判断し難い。
柔らかいふさふさとした髪が、首の辺りを撫でてくすぐる。
小さな掌が、しきりに爪を立てて、あげくに生爪を剥がしてしまうため、さらに強く抱き締めてやる事で、それ以上の身動きを封じた。
こんな姿になって、これだけひどい目にあって、それでもまだ、安らかに眠る事さえ許されない子供。・・・せめて、変化しないでいてくれるのが救いだ。
僕の知る限りで、もっとも不幸な子供だ、と、フィルは思った。
その子は今、フィルの胸の固い皮の胸当てを、食い破ろうとしてしきりに歯を立てている。
顎を割られているため、ほとんど力は篭もっていなかった。
これほどに、酷い話があるだろうか? フィルは唇を噛んだ。
アシュはいつのまにか、寝入ったようだ。
フィルはぼやける思考をなんとか保っている。・・・一睡も出来なかった。
腕の中の感触は、相変わらず単調な動きでもぞもぞと暴れていたが、急に大人しくなった。
顔を上げ、映らぬ眼でフィルを見つめる。
何かの拍子に意識が戻ったか? 奇跡の到来を、フィルは期待している。
フィルはつい、手を緩めた。
やんわりと、その手を握って、子供はフィルから離れる。
掌の小ささが、胸を刺した。
背を丸め、地面に吸い込まれるように、子供の死体は岩の中へと溶け込んだ。
母の体内に戻ろうとするかのように見えた。
・・・朝が来たのだ。
どうか、このまま永久の眠りに誘われますよう・・・、フィルは祈った。
とりあえず、ここまでで。




