描けない手
誰かを好きになったとき、きれいな気持ちだけを抱けるとは限りません。
相手を見つめること。
知りたいと思うこと。
自分だけが知っているような気持ちになること。
そして、その人が自分ではない誰かの手を取ったときに生まれる、悲しみや嫉妬や、口にできないほど醜い願い。
これは、好きな人を描き続けていた一人の少女が、初めて自分の望まない姿まで描こうとする物語です。
静かな初恋の行方を、最後まで見届けていただければ幸いです。
森川千紘は、人の顔を正面から見るのが苦手だった。
話しかけられれば相手の目を見るようにしている。けれど、長くは続かない。気づけば視線は口元へ落ち、襟元を通り、机の上に置かれた手へ移っている。
そのせいか、千紘は顔よりも手をよく覚えた。
国語の先生は、教科書を持つときに小指だけが離れる。隣の席の女子は、考えごとをすると爪の横を親指でなぞる。母は包丁を使うとき、左手の指をきちんと丸める。
美術部に入ったのも、見ていることを咎められない場所だと思ったからだった。
美術室では、何かをじっと見つめていても不自然ではない。
花瓶でも、石膏像でも、窓の外でも。
人でも。
放課後になると、千紘は窓際の席に座った。
窓の下には校庭があり、その向こう側でサッカー部が練習していた。
最初から相沢亮を見ていたわけではなかった。
中学へ入学したばかりの頃は、ユニフォームを着て走る上級生の見分けなどつかなかった。誰もが同じような髪型で、同じような服を着て、同じボールを追いかけているように見えた。
それでも毎日眺めているうちに、少しずつ違いが分かるようになった。
大股で走る人。
仲間を呼ぶとき、両手を高く上げる人。
失敗するとすぐ空を仰ぐ人。
亮は走るとき、右肩がほんの少し下がった。
靴ひもを結ぶときは、いつも左足から膝をつく。水を飲んだあとは、手の甲で口元をぬぐった。練習の終わりには、誰かに言われなくても、ゴールの近くに残ったボールを拾いに行った。
亮の名前を知ったのは、五月の終わりだった。
窓を開けていると、校庭から声が聞こえてきた。
「相沢、右!」
誰かがそう呼んだ。
亮は顔を上げ、右側へ走った。
その名前が彼のものだと分かったとき、千紘は声に出さず、口の中だけで繰り返した。
あいざわ。
りょう。
名前を知ったからといって、何かが変わったわけではない。
亮は翌日も校庭を走り、千紘は美術室の窓から見ていた。
けれど、それまで大勢の中にいた一人が、名前を持った人になった。
千紘が初めて亮を描いたのは、その数日後だった。
自由に描いてよいと言われ、校庭全体を鉛筆で写した。ゴールとフェンスと、豆粒ほどの部員たち。その中に、亮もいた。
大きさはほかの部員と変わらなかった。
けれど、千紘にはどれが亮なのか分かった。
右肩を少し下げて走っているからだった。
二枚目の紙には、亮だけを描いた。
ボールを蹴る瞬間の後ろ姿だった。
三枚目には、水を飲んでいる横顔を描いた。
次は、靴ひもを結ぶ姿。
次は、ベンチに腰を下ろし、後輩と話している姿。
千紘は、亮を描くための小さなスケッチブックを買った。
美術部で配られたものではない。自分の小遣いで、駅前の文具店から買った。表紙は黒く、学校名も名前も書かなかった。
机の引き出しの奥に入れ、朝になると鞄の底へ移す。美術室では、ほかの部員から見えないよう、作品用の紙の下へ置いた。
誰にも見せたくなかった。
絵が下手だと思われるのが嫌だったわけではない。
見つかれば、誰かが言うだろうと思った。
相沢先輩が好きなの。
片思いなんだ。
そんなふうに言葉にされると、自分が毎日見てきたものが急に小さくなる気がした。
窓際の席に座り、遠くにいる亮を見つける時間は、千紘だけのものだった。
亮はこちらを見ない。
だから、千紘は好きなだけ見ることができた。
亮と初めて話したのは、六月だった。
雨が降った翌日で、サッカー部は校庭を使えず、校舎内で筋力運動をしていた。廊下を走ってはいけないため、部員たちは階段の上り下りを繰り返していた。
その途中で使われていたボールが、美術室の前まで転がってきた。
千紘が拾い上げたとき、亮が廊下の向こうから走ってきた。
「ごめん、それ」
近くで見ると、思っていたより背が高かった。
千紘はボールを差し出した。
「あ、はい」
「ありがとう」
亮は両手で受け取った。
そのとき、美術室の机に置かれた千紘の静物画へ目を向けた。
白い布の上に、青い瓶と林檎を描いたものだった。まだ描きかけで、林檎の影は薄いままだった。
「これ、描いたの?」
千紘はうなずいた。
「うまいな」
それだけ言って、亮は廊下を戻っていった。
千紘は何も返せなかった。
ありがとうございます、と言えばよかったのだと気づいたのは、亮の足音が聞こえなくなってからだった。
その日、家に帰ると、千紘は何度も亮の顔を描こうとした。
近くで見たはずなのに、目の形が思い出せなかった。鼻も、口元も、校庭で見ていたものと少し違う気がした。
一枚目は目が細すぎた。
二枚目は口元が固かった。
三枚目は、知らない上級生のようになった。
本当の相沢先輩は、もっと優しい顔をしていた。
そう思って、千紘は何度も消した。
消しゴムをかけるたび、紙が少しずつ薄くなった。
結局、その日の顔は完成しなかった。
それでも、眠る前に布団の中で目を閉じると、
『うまいな』
という声だけは、はっきりと思い出せた。
亮にとっては、すぐに忘れる程度の言葉だったのかもしれない。
千紘には、それでよかった。
自分が覚えていれば、なくならないと思った。
夏が過ぎ、制服が長袖になった。
文化祭が近づき、美術部では一人一枚、人物を題材にした作品を出すことになった。
「家族でも友達でも、知らない人でもいいです。写真を参考にしても構いません」
顧問がそう説明した。
千紘はすぐに亮を描こうと思った。
けれど、顔をそのまま描けば、誰なのか分かってしまうかもしれない。亮本人が美術室へ来ることはなくても、文化祭では廊下に作品が展示される。サッカー部員や、亮と同じクラスの生徒が見るかもしれない。
千紘は、ゴールの前に立つ少年の後ろ姿を描くことにした。
誰が見ても、ただのサッカー部員に見えるように。
それでも、自分には亮だと分かるように。
大きな画用紙へ、鉛筆で下描きを始めた。
首筋。
肩。
背中。
短パンから伸びる脚。
何度も見てきた姿だから、迷わず描けると思っていた。
けれど、紙の上へ置くと、どこか違った。
肩が広すぎる。
脚が長すぎる。
顔の見えない後ろ姿なのに、亮ではないように見える。
千紘は窓の外を見た。
校庭で、亮が後輩と話していた。後輩が何かを言い、亮が笑って、その頭を軽く叩いた。
千紘はその手を描いたことがあった。
髪へ触れる直前の、力の抜けた指。
それなのに、亮から触れられた後輩が、どんな顔をしていたのかは覚えていなかった。
亮ばかりを見ていたからだった。
描きかけの紙へ目を戻す。
千紘が知っているのは、ほとんどが亮の後ろ姿だった。
校庭を走る背中。
廊下を通り過ぎる横顔。
遠くにいるときの笑い声。
誰かと向かい合ったとき、亮が相手をどのように見るのか、千紘は知らなかった。
それでも、紙の上では好きなように描くことができた。
少年の横顔を、ほんの少しだけ窓のほうへ向けた。
実際にはこちらを見ていなかった亮を、絵の中でだけ振り向かせた。
そうすると、さっきまで落ち着かなかった肩の線が、少しだけ正しく見えた。
十一月のある日、美術部の活動がいつもより遅くなった。
文化祭へ出す作品の締め切りが近づき、千紘は背景のフェンスを描き直していた。窓の外では、サッカー部が先に練習を終え、部員たちが校舎へ戻っていった。
ほかの部員も一人ずつ帰り、最後には千紘と顧問だけが残った。
「森川さん、そろそろ終わりにしましょう」
「はい」
筆を洗い、作品を乾燥棚へ置いた。
少年の後ろ姿は、ほとんど完成していた。顔は見えない。それでも千紘には、亮に似ているように思えた。
校舎を出ると、空はもう暗くなり始めていた。
正門の近くでは、運動部の生徒が何人か集まって話していた。千紘はその中に亮がいないことを確かめてから、駅へ続く道を歩いた。
商店街では、店先の照明が順番に灯っていた。
八百屋の前に積まれた蜜柑。
クリーニング店の回る看板。
惣菜屋から流れてくる油の匂い。
毎日通っている道だった。
交差点の少し手前で、千紘は見覚えのある背中を見つけた。
制服の上に、サッカー部の紺色の防寒着を着ている。鞄を右肩に掛け、歩くたびに少しずつずり落ちていた。
亮だった。
千紘は歩く速さを落とした。
声をかけるつもりはなかった。何を話せばよいのか分からないし、そもそも亮が自分を覚えているかも分からない。
ただ、帰る方向が同じなのだと思った。
ほんの少し後ろを歩くだけなら、偶然だった。
亮の隣には、女子生徒がいた。
長い髪を後ろでひとつに結んでいる。千紘より背が高く、鞄に上級生の色の校章がついていた。
二人は身体を寄せてはいなかった。
亮はいつものように鞄を肩に掛け、女子生徒も前を向いて歩いていた。
同じクラスかもしれない。
部活の知り合いかもしれない。
帰る方向がたまたま同じだけかもしれない。
千紘はそう考えた。
女子生徒が何かを言った。
亮が笑った。
校庭で後輩たちと笑っているときとは違う笑い方だった。
大きな声を出すのではなく、少しだけ顔を伏せて、隣を歩く人にだけ聞こえるように笑った。
千紘は、その横顔を知らなかった。
信号が点滅し始めた。
二人が少し早足になる。
女子生徒の歩幅が乱れた。
亮が左手を伸ばした。
その手が女子生徒の右手を取った。
二人はそのまま交差点を走った。
信号を渡りきったあとも、手は離れなかった。
千紘も信号へ近づいた。
けれど、間に合わなかった。
赤になった信号の前で足を止める。
道路の向こう側を、二人はゆっくり歩いていく。
重なった手だけが、身体のあいだで小さく揺れていた。
千紘は、自分の右手を制服のポケットへ入れた。
指先が冷たかった。
二人が恋人同士なのかは分からなかった。
信号を渡るために手を取っただけかもしれない。
女子生徒が転びそうになったから支えたのかもしれない。
そう考えようとした。
けれど、渡りきったあとも、亮は手を離していなかった。
青信号になった。
千紘は歩き出した。
二人の姿は、まだ見えていた。
女子生徒の指は、千紘のものより細く長く見えた。爪の形までは分からない。制服の袖口と、手の甲の白さだけが目に残った。
その手が、ひどく嫌なものに見えた。
転べばよかったのに、と思った。
足をくじけばいい。
亮と喧嘩をすればいい。
亮のことを嫌いになって、別の誰かを好きになればいい。
亮が振られて、傷つけばいい。
そのあとなら、自分にも何かできるかもしれない。
絵を見せることができるかもしれない。
自分がどれほど亮を見てきたのか、分からせることができるかもしれない。
あの女子生徒よりも、自分のほうが亮を知っている。
走るときの癖も、靴ひもを結ぶ順番も、水を飲んだあとの仕草も知っている。
千紘はそう思った。
けれど、女子生徒の隣にいる亮の笑い方を、千紘は知らなかった。
二人の手がいったん離れた。
千紘の胸が少しだけゆるんだ。
女子生徒が鞄の中を探るために離しただけだった。
何かを取り出したあと、また手が重なった。
胸の奥が狭くなった。
亮にも腹が立った。
あれほど毎日見ていたのに。
あれほど何枚も描いたのに。
自分の知らないところで、自分の知らない人と歩き、自分の知らない顔で笑っている。
裏切られたように思った。
けれど、亮は千紘に何も約束していない。
自分の存在さえ、ほとんど知らない。
そう気づくと、怒りを置く場所がなくなった。
千紘は少し離れたところから二人を追った。
追いかけているわけではない。
家へ帰る道が同じだけだった。
そう何度も考えながら、二人の手を見続けた。
家に着く頃には、二人の姿は見えなくなっていた。
「おかえり」
台所から母の声がした。
「ただいま」
「遅かったね」
「文化祭の絵」
「もうすぐだものね」
千紘は手を洗い、夕食の席に着いた。
食卓には焼き魚と味噌汁が並んでいた。父がテレビを見ながら、学校はどうだったと尋ねた。
「普通」
千紘はそう答えた。
味噌汁には豆腐とわかめが入っていた。豆腐を箸でつまむと、途中で崩れた。
母が明日の天気の話をした。
父が週末の予定を話した。
千紘はいつもどおり返事をした。
喉が詰まって食べられないということはなかった。
魚の味も分かった。
全部食べ終えて、食器を流しへ運んだ。
部屋へ戻ると、鞄を机の横へ置いた。
しばらく制服のまま立っていた。
窓の外には、向かいの家の明かりが見えた。
亮はもう家に着いただろうか。
あの女子生徒とは、どこで別れたのだろう。
別れるときも手をつないでいたのだろうか。
千紘は机の引き出しを開けた。
奥から、黒い表紙のスケッチブックを取り出した。
一枚ずつめくった。
走っている亮。
水を飲んでいる亮。
靴ひもを結んでいる亮。
後輩へ笑いかけている亮。
廊下でボールを受け取る亮。
昨日までは、どれも本人によく似ていると思っていた。
今は、どれも少し違って見えた。
描かれている亮は、一人でいた。
千紘が見たいときにそこにいて、紙の外へ行くことはなかった。
ページを閉じれば消え、開けば同じ姿で戻ってきた。
千紘は新しい紙を出した。
鉛筆を持ち、今日見た亮の横顔を描こうとした。
少しうつむいて笑っていた顔。
線を引く。
消す。
目の位置を変える。
口元を少しだけゆるめる。
女子生徒は描かなかった。
亮だけを描こうとした。
肩から腕へ線を伸ばす。
そこで鉛筆が止まった。
左腕をどこへ置けばよいのか分からなかった。
身体の横へ下ろしてみた。
知らない絵になった。
鞄の紐を持たせてみた。
今日、亮が鞄を掛けていたのは右肩だった。
ポケットへ入れてみた。
それも違った。
左手は、女子生徒の手を取っていた。
千紘は何度も消した。
紙の表面が白く毛羽立った。
消しゴムのかすが、机の上へたまった。
描かなければいいと思った。
腕を画面の外へ出してしまえばよい。
胸から上だけを描けば、手は必要ない。
けれど、それでは今日見た亮ではなくなる気がした。
千紘は新しい紙へ替えた。
今度は、二人の後ろ姿を描き始めた。
顔は描かなかった。
制服の袖と、腕だけ。
亮の左手。
女子生徒の右手。
千紘は女子生徒の指を太く描いた。
亮の手首へ絡みつくように、指を長く伸ばした。爪を不格好な形にした。力を入れて亮を引っ張っているように描いた。
描き終えてから、紙を少し離して見た。
違っていた。
女子生徒は、亮を強くつかんでいなかった。
先に手を伸ばしたのは亮だった。
信号が点滅したとき、亮の左手が動いた。
その指が、女子生徒の手を取った。
千紘は、描いた線を消した。
何度も消したため、女子生徒の手のところだけ紙が薄くなった。
もう一度、細い線を引く。
女子生徒の指を、見たとおりの長さにした。
亮の指を、その上へ重ねた。
うまく描けなかった。
指の数がおかしくなった。
どちらの手が手前にあるのか分からなくなった。
千紘は自分の両手を重ね、机の上で角度を確かめた。
右手と左手。
指と指のあいだ。
触れているところ。
離れているところ。
自分の手を見ながら、亮の手を描いた。
途中で鉛筆の芯が折れた。
削り器へ差し込み、ゆっくり回した。
机の上に木の屑が落ちた。
千紘は泣かなかった。
泣けば少し楽になるような気もしたが、涙は出なかった。
代わりに、奥歯へ力が入った。
二人が別れればいいという気持ちは、まだ消えていなかった。
女子生徒の手だけ、黒く塗りつぶしたかった。
亮の指をほどきたかった。
紙の上なら、できた。
けれど、亮の手を身体の横へ下ろせば、嘘の絵になった。
千紘は何度も線を引き直した。
亮の指が、女子生徒の手を選んでいるように見えるまで。
完成した絵には、二人の顔はなかった。
夕方の道も、商店街も、信号もなかった。
制服の袖。
二本の腕。
そのあいだで重なっている手だけが描かれていた。
誰の手なのか、ほかの人には分からないだろう。
千紘は絵を見た。
うまく描けたとは思わなかった。
見るたびに、胸の奥が冷たくなった。
破りたいと思った。
女子生徒の手の部分だけ切り取って、捨てたいと思った。
けれど、千紘は破らなかった。
黒いスケッチブックの最後のページへ、絵を挟んだ。
表紙を閉じる。
その上から手のひらで押さえた。
見えなくなっても、中にあることは分かった。
翌日の放課後、千紘はいつもの窓際へ座った。
校庭ではサッカー部が練習を始めていた。
亮もいた。
昨日までと同じように走り、仲間へ声をかけている。
右肩が少し下がっていた。
靴ひもを結ぶため、左足から膝をついた。
何も変わっていなかった。
千紘は亮を嫌いになれていなかった。
窓の外へ女子生徒の姿を探した。
今日は一人で帰るかもしれないと思った。
二人が喧嘩をしていればいいとも思った。
昨日のことが、ただの一度きりであればいいと思った。
机の上には、新しい紙があった。
千紘は鉛筆を持ち、亮の輪郭を描こうとした。
頭。
首。
肩。
最初の線を引く前に、手が止まった。
窓の外では、何人もの部員が走っていた。
ゴールの近くにボールが転がっている。
フェンスの影が、校庭へ長く伸びていた。
千紘は紙の端から線を引き始めた。
まず、ゴールを描いた。
次にフェンス。
地面に落ちた影。
走っている何人もの部員。
その中に、小さく亮を描いた。
顔は見えないほど小さかった。
それでも、右肩をほんの少し下げた。
校庭から笑い声が聞こえた。
亮の声かどうかは分からなかった。
千紘は窓の外を確かめなかった。
そのまま、紙へ線を引き続けた。
机の横に置いた黒いスケッチブックの最後には、二人の手を描いた絵が挟まれている。
千紘はまだ、その絵を好きにはなれなかった。
それでも、描かなかったことにはしなかった。




