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描けない手

掲載日:2026/08/04

誰かを好きになったとき、きれいな気持ちだけを抱けるとは限りません。


相手を見つめること。

知りたいと思うこと。

自分だけが知っているような気持ちになること。


そして、その人が自分ではない誰かの手を取ったときに生まれる、悲しみや嫉妬や、口にできないほど醜い願い。


これは、好きな人を描き続けていた一人の少女が、初めて自分の望まない姿まで描こうとする物語です。


静かな初恋の行方を、最後まで見届けていただければ幸いです。

 森川千紘は、人の顔を正面から見るのが苦手だった。

 話しかけられれば相手の目を見るようにしている。けれど、長くは続かない。気づけば視線は口元へ落ち、襟元を通り、机の上に置かれた手へ移っている。

 そのせいか、千紘は顔よりも手をよく覚えた。

 国語の先生は、教科書を持つときに小指だけが離れる。隣の席の女子は、考えごとをすると爪の横を親指でなぞる。母は包丁を使うとき、左手の指をきちんと丸める。

 美術部に入ったのも、見ていることを咎められない場所だと思ったからだった。

 美術室では、何かをじっと見つめていても不自然ではない。

 花瓶でも、石膏像でも、窓の外でも。

 人でも。

 放課後になると、千紘は窓際の席に座った。

 窓の下には校庭があり、その向こう側でサッカー部が練習していた。

 最初から相沢亮を見ていたわけではなかった。

 中学へ入学したばかりの頃は、ユニフォームを着て走る上級生の見分けなどつかなかった。誰もが同じような髪型で、同じような服を着て、同じボールを追いかけているように見えた。

 それでも毎日眺めているうちに、少しずつ違いが分かるようになった。

 大股で走る人。

 仲間を呼ぶとき、両手を高く上げる人。

 失敗するとすぐ空を仰ぐ人。

 亮は走るとき、右肩がほんの少し下がった。

 靴ひもを結ぶときは、いつも左足から膝をつく。水を飲んだあとは、手の甲で口元をぬぐった。練習の終わりには、誰かに言われなくても、ゴールの近くに残ったボールを拾いに行った。

 亮の名前を知ったのは、五月の終わりだった。

 窓を開けていると、校庭から声が聞こえてきた。

「相沢、右!」

 誰かがそう呼んだ。

 亮は顔を上げ、右側へ走った。

 その名前が彼のものだと分かったとき、千紘は声に出さず、口の中だけで繰り返した。

 あいざわ。

 りょう。

 名前を知ったからといって、何かが変わったわけではない。

 亮は翌日も校庭を走り、千紘は美術室の窓から見ていた。

 けれど、それまで大勢の中にいた一人が、名前を持った人になった。

 千紘が初めて亮を描いたのは、その数日後だった。

 自由に描いてよいと言われ、校庭全体を鉛筆で写した。ゴールとフェンスと、豆粒ほどの部員たち。その中に、亮もいた。

 大きさはほかの部員と変わらなかった。

 けれど、千紘にはどれが亮なのか分かった。

 右肩を少し下げて走っているからだった。

 二枚目の紙には、亮だけを描いた。

 ボールを蹴る瞬間の後ろ姿だった。

 三枚目には、水を飲んでいる横顔を描いた。

 次は、靴ひもを結ぶ姿。

 次は、ベンチに腰を下ろし、後輩と話している姿。

 千紘は、亮を描くための小さなスケッチブックを買った。

 美術部で配られたものではない。自分の小遣いで、駅前の文具店から買った。表紙は黒く、学校名も名前も書かなかった。

 机の引き出しの奥に入れ、朝になると鞄の底へ移す。美術室では、ほかの部員から見えないよう、作品用の紙の下へ置いた。

 誰にも見せたくなかった。

 絵が下手だと思われるのが嫌だったわけではない。

 見つかれば、誰かが言うだろうと思った。

 相沢先輩が好きなの。

 片思いなんだ。

 そんなふうに言葉にされると、自分が毎日見てきたものが急に小さくなる気がした。

 窓際の席に座り、遠くにいる亮を見つける時間は、千紘だけのものだった。

 亮はこちらを見ない。

 だから、千紘は好きなだけ見ることができた。


 亮と初めて話したのは、六月だった。

 雨が降った翌日で、サッカー部は校庭を使えず、校舎内で筋力運動をしていた。廊下を走ってはいけないため、部員たちは階段の上り下りを繰り返していた。

 その途中で使われていたボールが、美術室の前まで転がってきた。

 千紘が拾い上げたとき、亮が廊下の向こうから走ってきた。

「ごめん、それ」

 近くで見ると、思っていたより背が高かった。

 千紘はボールを差し出した。

「あ、はい」

「ありがとう」

 亮は両手で受け取った。

 そのとき、美術室の机に置かれた千紘の静物画へ目を向けた。

 白い布の上に、青い瓶と林檎を描いたものだった。まだ描きかけで、林檎の影は薄いままだった。

「これ、描いたの?」

 千紘はうなずいた。

「うまいな」

 それだけ言って、亮は廊下を戻っていった。

 千紘は何も返せなかった。

 ありがとうございます、と言えばよかったのだと気づいたのは、亮の足音が聞こえなくなってからだった。

 その日、家に帰ると、千紘は何度も亮の顔を描こうとした。

 近くで見たはずなのに、目の形が思い出せなかった。鼻も、口元も、校庭で見ていたものと少し違う気がした。

 一枚目は目が細すぎた。

 二枚目は口元が固かった。

 三枚目は、知らない上級生のようになった。

 本当の相沢先輩は、もっと優しい顔をしていた。

 そう思って、千紘は何度も消した。

 消しゴムをかけるたび、紙が少しずつ薄くなった。

 結局、その日の顔は完成しなかった。

 それでも、眠る前に布団の中で目を閉じると、

『うまいな』

 という声だけは、はっきりと思い出せた。

 亮にとっては、すぐに忘れる程度の言葉だったのかもしれない。

 千紘には、それでよかった。

 自分が覚えていれば、なくならないと思った。


 夏が過ぎ、制服が長袖になった。

 文化祭が近づき、美術部では一人一枚、人物を題材にした作品を出すことになった。

「家族でも友達でも、知らない人でもいいです。写真を参考にしても構いません」

 顧問がそう説明した。

 千紘はすぐに亮を描こうと思った。

 けれど、顔をそのまま描けば、誰なのか分かってしまうかもしれない。亮本人が美術室へ来ることはなくても、文化祭では廊下に作品が展示される。サッカー部員や、亮と同じクラスの生徒が見るかもしれない。

 千紘は、ゴールの前に立つ少年の後ろ姿を描くことにした。

 誰が見ても、ただのサッカー部員に見えるように。

 それでも、自分には亮だと分かるように。

 大きな画用紙へ、鉛筆で下描きを始めた。

 首筋。

 肩。

 背中。

 短パンから伸びる脚。

 何度も見てきた姿だから、迷わず描けると思っていた。

 けれど、紙の上へ置くと、どこか違った。

 肩が広すぎる。

 脚が長すぎる。

 顔の見えない後ろ姿なのに、亮ではないように見える。

 千紘は窓の外を見た。

 校庭で、亮が後輩と話していた。後輩が何かを言い、亮が笑って、その頭を軽く叩いた。

 千紘はその手を描いたことがあった。

 髪へ触れる直前の、力の抜けた指。

 それなのに、亮から触れられた後輩が、どんな顔をしていたのかは覚えていなかった。

 亮ばかりを見ていたからだった。

 描きかけの紙へ目を戻す。

 千紘が知っているのは、ほとんどが亮の後ろ姿だった。

 校庭を走る背中。

 廊下を通り過ぎる横顔。

 遠くにいるときの笑い声。

 誰かと向かい合ったとき、亮が相手をどのように見るのか、千紘は知らなかった。

 それでも、紙の上では好きなように描くことができた。

 少年の横顔を、ほんの少しだけ窓のほうへ向けた。

 実際にはこちらを見ていなかった亮を、絵の中でだけ振り向かせた。

 そうすると、さっきまで落ち着かなかった肩の線が、少しだけ正しく見えた。


 十一月のある日、美術部の活動がいつもより遅くなった。

 文化祭へ出す作品の締め切りが近づき、千紘は背景のフェンスを描き直していた。窓の外では、サッカー部が先に練習を終え、部員たちが校舎へ戻っていった。

 ほかの部員も一人ずつ帰り、最後には千紘と顧問だけが残った。

「森川さん、そろそろ終わりにしましょう」

「はい」

 筆を洗い、作品を乾燥棚へ置いた。

 少年の後ろ姿は、ほとんど完成していた。顔は見えない。それでも千紘には、亮に似ているように思えた。

 校舎を出ると、空はもう暗くなり始めていた。

 正門の近くでは、運動部の生徒が何人か集まって話していた。千紘はその中に亮がいないことを確かめてから、駅へ続く道を歩いた。

 商店街では、店先の照明が順番に灯っていた。

 八百屋の前に積まれた蜜柑。

 クリーニング店の回る看板。

 惣菜屋から流れてくる油の匂い。

 毎日通っている道だった。

 交差点の少し手前で、千紘は見覚えのある背中を見つけた。

 制服の上に、サッカー部の紺色の防寒着を着ている。鞄を右肩に掛け、歩くたびに少しずつずり落ちていた。

 亮だった。

 千紘は歩く速さを落とした。

 声をかけるつもりはなかった。何を話せばよいのか分からないし、そもそも亮が自分を覚えているかも分からない。

 ただ、帰る方向が同じなのだと思った。

 ほんの少し後ろを歩くだけなら、偶然だった。

 亮の隣には、女子生徒がいた。

 長い髪を後ろでひとつに結んでいる。千紘より背が高く、鞄に上級生の色の校章がついていた。

 二人は身体を寄せてはいなかった。

 亮はいつものように鞄を肩に掛け、女子生徒も前を向いて歩いていた。

 同じクラスかもしれない。

 部活の知り合いかもしれない。

 帰る方向がたまたま同じだけかもしれない。

 千紘はそう考えた。

 女子生徒が何かを言った。

 亮が笑った。

 校庭で後輩たちと笑っているときとは違う笑い方だった。

 大きな声を出すのではなく、少しだけ顔を伏せて、隣を歩く人にだけ聞こえるように笑った。

 千紘は、その横顔を知らなかった。

 信号が点滅し始めた。

 二人が少し早足になる。

 女子生徒の歩幅が乱れた。

 亮が左手を伸ばした。

 その手が女子生徒の右手を取った。

 二人はそのまま交差点を走った。

 信号を渡りきったあとも、手は離れなかった。

 千紘も信号へ近づいた。

 けれど、間に合わなかった。

 赤になった信号の前で足を止める。

 道路の向こう側を、二人はゆっくり歩いていく。

 重なった手だけが、身体のあいだで小さく揺れていた。

 千紘は、自分の右手を制服のポケットへ入れた。

 指先が冷たかった。

 二人が恋人同士なのかは分からなかった。

 信号を渡るために手を取っただけかもしれない。

 女子生徒が転びそうになったから支えたのかもしれない。

 そう考えようとした。

 けれど、渡りきったあとも、亮は手を離していなかった。

 青信号になった。

 千紘は歩き出した。

 二人の姿は、まだ見えていた。

 女子生徒の指は、千紘のものより細く長く見えた。爪の形までは分からない。制服の袖口と、手の甲の白さだけが目に残った。

 その手が、ひどく嫌なものに見えた。

 転べばよかったのに、と思った。

 足をくじけばいい。

 亮と喧嘩をすればいい。

 亮のことを嫌いになって、別の誰かを好きになればいい。

 亮が振られて、傷つけばいい。

 そのあとなら、自分にも何かできるかもしれない。

 絵を見せることができるかもしれない。

 自分がどれほど亮を見てきたのか、分からせることができるかもしれない。

 あの女子生徒よりも、自分のほうが亮を知っている。

 走るときの癖も、靴ひもを結ぶ順番も、水を飲んだあとの仕草も知っている。

 千紘はそう思った。

 けれど、女子生徒の隣にいる亮の笑い方を、千紘は知らなかった。

 二人の手がいったん離れた。

 千紘の胸が少しだけゆるんだ。

 女子生徒が鞄の中を探るために離しただけだった。

 何かを取り出したあと、また手が重なった。

 胸の奥が狭くなった。

 亮にも腹が立った。

 あれほど毎日見ていたのに。

 あれほど何枚も描いたのに。

 自分の知らないところで、自分の知らない人と歩き、自分の知らない顔で笑っている。

 裏切られたように思った。

 けれど、亮は千紘に何も約束していない。

 自分の存在さえ、ほとんど知らない。

 そう気づくと、怒りを置く場所がなくなった。

 千紘は少し離れたところから二人を追った。

 追いかけているわけではない。

 家へ帰る道が同じだけだった。

 そう何度も考えながら、二人の手を見続けた。


 家に着く頃には、二人の姿は見えなくなっていた。

「おかえり」

 台所から母の声がした。

「ただいま」

「遅かったね」

「文化祭の絵」

「もうすぐだものね」

 千紘は手を洗い、夕食の席に着いた。

 食卓には焼き魚と味噌汁が並んでいた。父がテレビを見ながら、学校はどうだったと尋ねた。

「普通」

 千紘はそう答えた。

 味噌汁には豆腐とわかめが入っていた。豆腐を箸でつまむと、途中で崩れた。

 母が明日の天気の話をした。

 父が週末の予定を話した。

 千紘はいつもどおり返事をした。

 喉が詰まって食べられないということはなかった。

 魚の味も分かった。

 全部食べ終えて、食器を流しへ運んだ。

 部屋へ戻ると、鞄を机の横へ置いた。

 しばらく制服のまま立っていた。

 窓の外には、向かいの家の明かりが見えた。

 亮はもう家に着いただろうか。

 あの女子生徒とは、どこで別れたのだろう。

 別れるときも手をつないでいたのだろうか。

 千紘は机の引き出しを開けた。

 奥から、黒い表紙のスケッチブックを取り出した。

 一枚ずつめくった。

 走っている亮。

 水を飲んでいる亮。

 靴ひもを結んでいる亮。

 後輩へ笑いかけている亮。

 廊下でボールを受け取る亮。

 昨日までは、どれも本人によく似ていると思っていた。

 今は、どれも少し違って見えた。

 描かれている亮は、一人でいた。

 千紘が見たいときにそこにいて、紙の外へ行くことはなかった。

 ページを閉じれば消え、開けば同じ姿で戻ってきた。

 千紘は新しい紙を出した。

 鉛筆を持ち、今日見た亮の横顔を描こうとした。

 少しうつむいて笑っていた顔。

 線を引く。

 消す。

 目の位置を変える。

 口元を少しだけゆるめる。

 女子生徒は描かなかった。

 亮だけを描こうとした。

 肩から腕へ線を伸ばす。

 そこで鉛筆が止まった。

 左腕をどこへ置けばよいのか分からなかった。

 身体の横へ下ろしてみた。

 知らない絵になった。

 鞄の紐を持たせてみた。

 今日、亮が鞄を掛けていたのは右肩だった。

 ポケットへ入れてみた。

 それも違った。

 左手は、女子生徒の手を取っていた。

 千紘は何度も消した。

 紙の表面が白く毛羽立った。

 消しゴムのかすが、机の上へたまった。

 描かなければいいと思った。

 腕を画面の外へ出してしまえばよい。

 胸から上だけを描けば、手は必要ない。

 けれど、それでは今日見た亮ではなくなる気がした。

 千紘は新しい紙へ替えた。

 今度は、二人の後ろ姿を描き始めた。

 顔は描かなかった。

 制服の袖と、腕だけ。

 亮の左手。

 女子生徒の右手。

 千紘は女子生徒の指を太く描いた。

 亮の手首へ絡みつくように、指を長く伸ばした。爪を不格好な形にした。力を入れて亮を引っ張っているように描いた。

 描き終えてから、紙を少し離して見た。

 違っていた。

 女子生徒は、亮を強くつかんでいなかった。

 先に手を伸ばしたのは亮だった。

 信号が点滅したとき、亮の左手が動いた。

 その指が、女子生徒の手を取った。

 千紘は、描いた線を消した。

 何度も消したため、女子生徒の手のところだけ紙が薄くなった。

 もう一度、細い線を引く。

 女子生徒の指を、見たとおりの長さにした。

 亮の指を、その上へ重ねた。

 うまく描けなかった。

 指の数がおかしくなった。

 どちらの手が手前にあるのか分からなくなった。

 千紘は自分の両手を重ね、机の上で角度を確かめた。

 右手と左手。

 指と指のあいだ。

 触れているところ。

 離れているところ。

 自分の手を見ながら、亮の手を描いた。

 途中で鉛筆の芯が折れた。

 削り器へ差し込み、ゆっくり回した。

 机の上に木の屑が落ちた。

 千紘は泣かなかった。

 泣けば少し楽になるような気もしたが、涙は出なかった。

 代わりに、奥歯へ力が入った。

 二人が別れればいいという気持ちは、まだ消えていなかった。

 女子生徒の手だけ、黒く塗りつぶしたかった。

 亮の指をほどきたかった。

 紙の上なら、できた。

 けれど、亮の手を身体の横へ下ろせば、嘘の絵になった。

 千紘は何度も線を引き直した。

 亮の指が、女子生徒の手を選んでいるように見えるまで。

 完成した絵には、二人の顔はなかった。

 夕方の道も、商店街も、信号もなかった。

 制服の袖。

 二本の腕。

 そのあいだで重なっている手だけが描かれていた。

 誰の手なのか、ほかの人には分からないだろう。

 千紘は絵を見た。

 うまく描けたとは思わなかった。

 見るたびに、胸の奥が冷たくなった。

 破りたいと思った。

 女子生徒の手の部分だけ切り取って、捨てたいと思った。

 けれど、千紘は破らなかった。

 黒いスケッチブックの最後のページへ、絵を挟んだ。

 表紙を閉じる。

 その上から手のひらで押さえた。

 見えなくなっても、中にあることは分かった。


 翌日の放課後、千紘はいつもの窓際へ座った。

 校庭ではサッカー部が練習を始めていた。

 亮もいた。

 昨日までと同じように走り、仲間へ声をかけている。

 右肩が少し下がっていた。

 靴ひもを結ぶため、左足から膝をついた。

 何も変わっていなかった。

 千紘は亮を嫌いになれていなかった。

 窓の外へ女子生徒の姿を探した。

 今日は一人で帰るかもしれないと思った。

 二人が喧嘩をしていればいいとも思った。

 昨日のことが、ただの一度きりであればいいと思った。

 机の上には、新しい紙があった。

 千紘は鉛筆を持ち、亮の輪郭を描こうとした。

 頭。

 首。

 肩。

 最初の線を引く前に、手が止まった。

 窓の外では、何人もの部員が走っていた。

 ゴールの近くにボールが転がっている。

 フェンスの影が、校庭へ長く伸びていた。

 千紘は紙の端から線を引き始めた。

 まず、ゴールを描いた。

 次にフェンス。

 地面に落ちた影。

 走っている何人もの部員。

 その中に、小さく亮を描いた。

 顔は見えないほど小さかった。

 それでも、右肩をほんの少し下げた。

 校庭から笑い声が聞こえた。

 亮の声かどうかは分からなかった。

 千紘は窓の外を確かめなかった。

 そのまま、紙へ線を引き続けた。

 机の横に置いた黒いスケッチブックの最後には、二人の手を描いた絵が挟まれている。

 千紘はまだ、その絵を好きにはなれなかった。

 それでも、描かなかったことにはしなかった。

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