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第六章 制度を戻す

第六章 制度を戻す


戦時特例は解除された。


その決定は、広場の中央で淡々と告げられた。かつて戦争を支えた巨大な評価体系は、静かに巻き戻されていく。掲示板に貼られていた無数の細則が剥がされ、帳簿の項目が書き換えられ、記録係たちが一斉に動いた。


混乱はなかった。


むしろ、整然としていた。


それが逆に不気味だった。


ケシカは再び、三つの評価に戻る。


収入。

裏付け。

無事故。


そして、社会維持行動。


戦時に無限に拡張された評価は削ぎ落とされ、「日常」という前提に戻されていく。


井戸の整備も、子供の世話も、補給も、戦場の判断も、すべてが一度は同じ重みで扱われていた世界は終わった。


再び、分類が始まった。


何が価値で、何が補助か。

何が中心で、何が周縁か。


それが、再び決め直されていく。


その瞬間――


不完全な人間が戻ってきた。


最初に現れたのは、小さな“ずれ”だった。


記録の遅れ。

帳簿の記入ミス。

物資の過不足。

指示の聞き間違い。


戦時特例の間にはほとんど見られなかった現象が、日常に戻った瞬間から再び現れ始めた。


それは混乱ではない。


「人間らしさ」と呼ばれていたものだった。


サボる者。

失敗する者。

迷う者。


井戸の管理を任されていた男が、朝の点検を一度だけ忘れた。パン屋の仕込みが遅れ、列が一時的に長くなった。記録係が数字を誤記し、訂正作業が発生した。


以前なら問題とされたそれらは、戦時の緊張の中で一度消えていた。


しかし今、それらは再び“戻ってきた”。


そして人々は気づき始める。


完璧ではない世界の再来に。


広場では、不満の声が上がった。


「前の方がよかった」


「なんで戻したんだ」


「戦時の方がスムーズだった」


その言葉には、正直な戸惑いがあった。


戦時特例は確かに過酷だった。しかし同時に、あまりにも効率的だった。すべてが見え、すべてが繋がり、すべてが即座に処理された。


ミスは減り、衝突も減り、流れは途切れなかった。


それに比べて今は――


「遅い」


「分かりにくい」


「面倒だ」


そうした感情が、徐々に町を満たしていった。


人は効率に慣れると、非効率を苦痛として感じる。


それが問題だった。


阪田はその声を、広場の端で聞いていた。


彼の前には、再び簡素化された掲示板が立っている。余計な項目は削除され、評価は単純化された。


だがその単純さは、かつての単純さとは違う。


一度広がった世界を、縮め直したものだった。


パン屋が隣で呟く。


「戻して、よかったのか?」


阪田はすぐには答えなかった。


広場では、子供たちが以前のように自由に動き回り始めていた。だが同時に、その自由の中には小さな混乱も混じっていた。


誰かが列を抜かす。

誰かが作業を忘れる。

誰かが約束を忘れる。


それらは小さな歪みだった。


だが、その歪みは確実に広がる可能性を持っていた。


阪田は静かに言った。


「戻したんじゃない」


パン屋は眉をひそめる。


「じゃあ、なんだ?」


阪田は掲示板を見た。


そこには三つの評価項目が並んでいる。


収入。

裏付け。

無事故。


そして、社会維持行動。


「一度広げすぎたんだ」


阪田は言った。


「だから、一度戻す必要があった」


パン屋は納得できない顔をする。


「でも、前より効率は落ちてる」


「落ちていい」


その言葉は短かった。


しかし重かった。


広場の音が一瞬だけ遠のく。


阪田は続けた。


「楽な社会は、長く続かない」


その一言に、周囲の空気がわずかに変わった。


パン屋は黙ったままだった。


阪田は視線を上げる。


「戦時特例は、異常だった。全部を評価に入れた。全部を最適化した。その結果、確かにうまく回った」


少し間を置く。


「でも、それは“人間を減らした社会”だった」


風が吹いた。


掲示板の紙が揺れる。


その揺れは、かつての町では“誤差”だった。今は“許容される揺らぎ”として存在している。


阪田はゆっくりと歩き出した。


「失敗があるから、学べる」


「迷いがあるから、選べる」


「サボりがあるから、強制が見える」


パン屋は小さく言った。


「それは、非効率だ」


「そうだ」


阪田は即答した。


「でも、それが人間だ」


その言葉に、広場のざわめきが重なる。


遠くでは、記録係が帳簿を直している。誰かがミスを指摘し、誰かが謝っている。戦時のような完璧さはない。


だが、その代わりに会話がある。


調整がある。


やり直しがある。


「前は全部うまくいってたのに」


若者の一人が言った。


その声は不満というより、喪失感に近かった。


阪田はその言葉に振り返る。


「うまくいっていたんじゃない」


静かに言った。


「止まっていただけだ」


一瞬、誰も反応できなかった。


止まることと安定することは、似ているようで違う。


戦時特例の町は、確かに安定していた。


しかし同時に、変化も失っていた。


阪田は広場の中心を見た。


そこでは、子供が転び、また立ち上がっていた。


今度は誰も即座に記録しない。


少し遅れて、誰かが笑いながら助ける。


その“遅れ”が、今の町だった。


阪田は小さく息を吐いた。


「これでいい」


パン屋はまだ納得していない顔だったが、何も言わなかった。


広場には、完全ではない音が戻っていた。


笑い声。

怒声。

失敗。

やり直し。


それらは戦時の秩序に比べれば、確かに不格好だった。


だが同時に、それは生きている音だった。


阪田は最後にもう一度だけ言った。


「この不完全さを許せるかどうかが、次の社会を決める」


誰に向けた言葉でもなかった。


しかし町は、確かにそれを聞いていた。


そして、まだ答えを出せずにいた。

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