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第十章 阪田の遺言

第十章 阪田の遺言


阪田は老いていた。


かつてミリミリ町を崩壊寸前から立て直し、ケシカという概念を生み出し、戦争を管理し、社会を二分し、そして「選べる社会」へと導いた男は、今や広場の奥にある小さな住居で静かに過ごしていた。


彼の髪は白く、歩幅は狭くなっていた。だが、目だけはまだ鈍っていなかった。


その日、彼は王と呼ばれる立場の者――制度運用の最終責任者と対面していた。


かつての町長でも、軍の指揮官でもない。ケシカ制度そのものの管理権を継承した存在だ。


王は若かった。


ユウトの世代が制度の中枢に入るようになった時代の象徴でもあった。


「阪田さん」


王は静かに頭を下げた。


「今の社会は、安定しています」


阪田はすぐには答えなかった。


窓の外では、ケシカ区域の整った街並みと、非ケシカ区域の揺らぐ人の動きが同時に見えていた。二つの世界は、今や衝突ではなく並存として成立している。


それは確かに、成功だった。


だが阪田の表情には、満足はなかった。


「安定はな」


ようやく彼は口を開いた。


「終わりの形にもなる」


王はわずかに目を伏せる。


「しかし、制度がなければ混乱します」


「制度は人を守る」


阪田は静かに頷いた。


その言葉には否定がなかった。


むしろ、それは彼自身が最も深く理解していることだった。


ケシカは人を救った。

戦争を止めた。

社会を繋いだ。


それは疑いようのない事実だった。


だが阪田は続ける。


「だがな」


窓の外を見たまま、彼は言った。


「最後に国を守るのは、自分を疑える人間だ」


王はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。


「自分を……疑う?」


阪田はゆっくりと頷いた。


「そうだ」


彼は机の上に手を置いた。その手は細くなっていたが、まだ確かだった。


「制度は正しさを積み上げる」


「だが人間は、正しさだけでは動かない」


王は黙っていた。


阪田は続ける。


「自分は正しいのか。今やっていることは、本当に必要なのか」


「その問いを止めた瞬間、制度はただの機械になる」


部屋の空気が少し重くなる。


外では、若者たちが行き交い、記録係が淡々と帳簿を更新している。非ケシカ側では笑い声が聞こえる。どちらも正常だった。どちらも機能していた。


しかし阪田には、その“正常さ”が気になっていた。


「私はな」


彼は静かに言った。


「制度を作ったんじゃない」


王が顔を上げる。


「え?」


阪田は少しだけ視線を落とした。


「揺れを残しただけだ」


その言葉に、王は沈黙する。


阪田は立ち上がり、窓の方へ歩いた。足取りはゆっくりだが、迷いはない。


「完璧な制度なんてものは、存在しない」


「存在したように見えるだけだ」


彼は外を見た。


ケシカ区域では、人々が整然と動いている。非ケシカ区域では、人々が自由に動いている。


どちらも、正しく見える。


だからこそ危うい。


「だから残した」


阪田は言った。


「もう一つの仕組みを」


王は眉をひそめる。


「それは……?」


阪田は振り返った。


「毎朝5時の観察だ」


部屋の中に静けさが落ちる。


「観察……?」


阪田は頷いた。


「支配欲。地位欲。承認欲求。合理化。正当化」


「そういうものを、自分で見つめる時間だ」


王は困惑していた。


「それは……制度ですか?」


阪田は少しだけ笑った。


「違う」


即答だった。


「それは“壊すための習慣”だ」


王は言葉を失う。


阪田は続けた。


「人はな、権力を持つと忘れる」


「自分が、何を欲しているかを」


「気づかないうちに、“正しいことをしている”と信じるようになる」


窓の外で、風が揺れた。


「だから毎朝5時だ」


「一番静かな時間に、自分を見る」


阪田は王を見た。


「今日、自分は何を支配したいと思ったか」


「誰より上に立ちたいと思ったか」


「誰を見下したいと思ったか」


「それを記録する」


王は息を呑んだ。


「それは……苦しいだけでは?」


阪田は小さく頷いた。


「そうだ」


「だが、それが必要だ」


沈黙。


その沈黙は、これまでの制度のどの議論よりも重かった。


やがて阪田はゆっくりと席に戻った。


「制度はいつか必ず固まる」


「固まった制度は、人を守るが、同時に人を眠らせる」


彼は王を見た。


「眠ったままの社会は、崩れたときに気づけない」


王はようやく小さく言った。


「では、この観察は……何のために?」


阪田は静かに答えた。


「目を覚ましておくためだ」


朝5時。


それは特別な時間ではない。


ただ、人が最も静かで、最も自分に近い時間。


その時間に、自分の中の“欲”を見つめる。


支配したいと思ったか。

正しく見られたいと思ったか。

評価されたいと思ったか。


それを否定するのではない。


ただ、見る。


阪田は最後に言った。


「人間はな」


「欲を持つ生き物だ」


「それを消すな」


「ただ、忘れるな」


その言葉は遺言のように静かだった。


王は深く頭を下げた。


部屋を出るとき、外はもう夕方に近かった。


ケシカの整然とした流れと、非ケシカの揺らぎが同時に存在している。


そのどちらも、阪田が残した世界だった。


だが同時に、それは完成ではなかった。


「毎朝5時」


王は小さく呟いた。


それは制度ではない。


命令でもない。


ただ、人間が人間であり続けるための、最も静かな習慣だった。


そしてその瞬間から、この社会にはもう一つの時間が生まれた。


記録されない時間。

評価されない時間。

しかし、最も重要な時間。


阪田はそれを残して、静かにその役目を終えようとしていた。




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