第15話 生きる選択
夜明け前の空気は冷たい。
竹林の間を抜ける風は、夏の名残をわずかに含みつつも、秋の気配を運んできていた。
私は膝の上に木剣を置き、深く息を吐いた。
昨夜の試練の余韻が、まだ胸の奥で燻っている。
——また「選べ」と迫られた。
だが、私は拒んだ。
死神であった頃、無数の命をただ「数」として扱ってきた。
だが今の私は人間だ。
人間は迷い、苦しみ、それでも諦めずに「守る」と決められる。
その違いを突きつけるように、影たちは私を試し続けている。
私は、ふと視線を落とした。
腰の傍らに置いてある袋。その中には、かつて死神であった頃に授けられた「鎌の欠片」が眠っている。
人間に転生した直後、夢とも現実ともつかぬ夜に手渡されたもので、実体は曖昧なのに確かな重みを持つ。
刃こぼれし、歪んだ鉄。
それは私にとって、過去と呪縛の象徴だった。
スミレが目を覚ましたのは、まだ東の空が白み始めた頃だった。
布団を押しのけ、眠そうな顔で私を探しに来る。
竹林の端に座る私を見つけると、心配そうに駆け寄ってきた。
「兄さん、また起きてたの?」
「眠れなかった」
「昨日のこと?」
私は小さく頷いた。
スミレは私の隣に座り、夜露で濡れた裾も気にせず膝を抱えた。
彼女の体温が近くにあるだけで、胸の圧迫感が少し軽くなる。
「兄さんは選ばなかった。だから生きて帰ってきた。それでいいんだよ」
彼女はそう言って微笑んだ。
「死神じゃなくて、人間だから。人間は迷って、泣いて、守りたいって思うから」
その言葉は、私の胸に深く刺さった。
やさしさは欠陥——帳方の声が脳裏に蘇る。
けれど、スミレの言葉はその真逆を告げていた。
欠陥ではなく、証。
それこそが、人間として生きる道だと。
昼。
私は父と共に畑を耕した。
陽の下で額に汗を滲ませ、土を割る鍬の音に耳を澄ませる。
その単純な作業の中に、確かな生の感覚があった。
ふと、父が言った。
「ナギ。……お前はもう村の枠には収まりきらないのかもしれん」
私は鍬を止め、父を見た。
父の顔は土に焼け、深い皺が刻まれている。
だが、その目はまっすぐだった。
「人々はお前を恐れる。だが同時に頼っている。……だからこそ、お前はこの先を選ばねばならん」
「選ぶ……?」
「ああ。死神として戻るのか、人間として生きるのか。お前自身が決めるんだ」
父の言葉は、心の奥に沈んでいた決断を掘り起こすようだった。
夜。
私は再び竹林へ向かった。
袋の中から「鎌の欠片」を取り出す。
月光に照らされ、鈍く光ったそれは、かつて無数の命を刈った刃の名残だ。
私は木剣と並べて地面に置き、しばらく黙って見つめた。
ひとつは死神としての過去。
もうひとつは人間としての未来。
風が葉を揺らし、かすかな囁きが聞こえる。
「戻れ」
死神たちの声が耳に忍び込んでくる。
私は息を吸い込み、鎌の欠片を両手で握った。
冷たい。だがその冷たさは、過去にしがみつこうとする弱さそのもののように思えた。
「もう要らない」
私は石に打ち付けた。
甲高い音が夜を裂き、欠片は砕け散った。
火花のように飛び散った破片が地に散り、光を失って消えていった。
胸の奥に重くのしかかっていた鎖が解けた気がした。
涙が自然と溢れた。
人間としての弱さ、迷い、やさしさ。
それらを抱えたままでもいい。
いや、抱えているからこそ、人間なのだ。
「俺は……人間として生きる」
声は震えていたが、確かな誓いだった。
翌朝。
村人たちは私が鎌を砕いたことを知らない。
だが私の眼差しを見て、誰もが言葉を失った。
冷たい眼ではなく、確かな炎を宿した眼になっていたからだ。
スミレが私に微笑んだ。
「兄さん……選んだんだね」
「ああ。俺はもう迷わない」
彼女の瞳に涙が浮かび、頬を伝った。
その涙は、悲しみではなく安堵の色を帯びていた。
こうして私は、死神の過去を捨て、人間として生きる選択をした。
この先、どれほどの血と涙を背負うことになるかはわからない。
だが、私は決して「刈る者」には戻らない。
守るために剣を振り、やさしさを盾にして歩んでいく。
朝日が竹林を照らし、影を淡く染めた。
それは、死神ではなく人間としての私の、新たな一歩を祝福しているかのようだった。