名前をつけて
「ジョリーが止まったわ!」
純子がフロントガラスの向こうを指しながら言った。どうやらダム湖への入り口まで来たようだ。
だが湖への入り口には当然、立ち入り禁止のコーンが立っている。
ダム湖の近くまで車で下りるのは不可能だ。だが一見車道が途切れたかに見えるその横に、作業用の狭い道があるのを、信三はここの仕事をしたときに知っていた。
「ジョリーを車に乗せろ。ここから先は作業用の道を行く」信三が言った。
妻は外に出ていって、そこらをうろうろしながら湖面に向かって吠えるジョリーを車に連れ込んだ。
木々の向こうに、真っ暗な水面がかすかに見えた。
「おい」
「……はい」
前を向いたままで信三は妻に声をかけ、妻は震え声で答えた。
「お前と農協の上司との仲は知っていた。お前は真帆が小学校四、五年のころ、体調が悪い吐き気がすると言ってしばらく離れで寝込んでいたな。
こっそり流産した後、このダムに娘を捨てたのか」
「そんなこと、……してません」
純子の声は震えていた。
「そうやって嘘を吐き通すのか、娘の命が奪われかけても」
「言い争っている場合じゃない。真帆さんを探しに下におります」
車が湖の近くでとまると、まるで男のような声で「千代」は言い、車から降りた。
「何? お義母さんおかしくない?」
「どうやら本物だったようだな」信三は言うと、妻の目を見て言った。
「俺にはこれ以上我慢する理由もない。お前を許す義務もない。今だから言う。お前には愛想が尽きた」
「あなた、真帆を連れ戻さないと」
「その原因を作ったのは誰だ。いいからそこに座ってろ」
ジョリーは純子の顔をぺろぺろと嘗めた。純子は涙を流しながら、その大きな体を抱きしめた。
もうすぐだよ、もうすぐおうちだよ。
自分の手を引く少女の手は、幼い娘から、十代に成長したティーンの手になっていた。
湖への坂道を、どんどん走る。走っている。長い黒髪をなびかせて。
……お姉さん。
なあに。
これからはずっといっしょだね。わたし、寂しかった。
いっしょにどこにいくの?
わたしのおうち。わたし、水の底にいるの。もう二度と、離さない。
ふと真帆が目をあげると、二十代半ばと思える長髪の青年が、両手を広げて、ダムの湖面すれすれに立っていた。
色白で、一重の目は涼しく、優しげな表情をしている。そして……
闇夜の中、湖を背にしたその姿は、白いシャツがぼうと光ってはいるものの、自分から発光しているようでもあり、なかば背景に透けているようでもあった。
少女は後ずさった。
「……こっちにおいで、きみのいく場所はそこじゃない。
行くべきところに帰ろう」
真帆が隣を見ると、少女はさらに成長していた。もう身長も真帆と変わらないぐらいだ。
『わたしはどこにも行かない、ここにいるの。ここでおとなになるの、お姉さんと一緒に』
そのあたりから、周囲が霧のようなものに包まれ始めた。もう、少女と自分と、目のまえの青年しか見えない。遠くから、ジョリーの吠える声が聞こえる。
すると、霧の中からぼう、と背の低い老女の姿が現れた。
……お婆ちゃん?
「すまなかったねえ。あたしがわかるかい? あんたのお祖母ちゃんだよ。
何もしてやれなかったね。自分以外、みんなが、楽しく暮らしているのを見るのはつらかっただろうねえ。
でももう一人じゃない。あんたは一人じゃないよ。一緒にいこう、みんなが待ってるよ」
祖母は真帆の隣の透き通った細身の少女に向かって、そう優しい声で話しかけた。
『みんな?』
「そう、お母さんも車で待ってるよ。お母さんに抱かれて、お眠り。あたしもそばを離れないよ」
『お姉さんは?』
ほとんどど同じ背丈になった少女は、真帆を見た。
ああ、姉妹なんだ。ほんとに、よく似ている。真帆は長髪の少女を見て素直にそう思った。
「お姉さんには、大事な人がいるんだ」優しげな青年は近寄ってきて、少女の肩を抱いた。
「お姉さんがいないと生きていけない大事な恋人がいる。お姉さんは、その人のものだ。だけどきみには、家族がいる。もうひとりぼっちじゃないんだよ」
『家族……』
少女は犬の声がする方を見た。
『あの犬もわたしの犬ね?』
「そうだ。きみの犬だ。車に乗るね?」
『うん、乗る』
青年と祖母に抱えられるように、少女は湖面に続く道から、車の方に向かって歩いて行った。そして振り返ると、ひとこと言った。
『さよなら、お姉さん。しあわせになってね』
美しい妹は、長い髪を揺らしながら手を振った。
真帆の目から涙がこぼれた。
そう、これは夢よ。いつもみたいに、とてもリアルな夢。
でも、どうしてどうして、こんなに悲しい夢をわたしは見ているの……
「降りるな」
犬を抱いて車から出ようとした助手席の妻に、信三は言った。
「ここにいて、運命に従え」
「せめてジョリーを……」
霧に包まれた車の周りに、音もなくぼうと三つの影が現れた。
すっと後部ドアが開き、最初に座席に入ってきた少女を見て、純子は叫び声をあげた。
「真帆? 真帆…… じゃ、ない!?」
『おかあさん』少女はエコーのかかったような低い声で後ろから囁いた。
『わたしに名前をつけて』
そして、絡みつくように背後から母親に抱き着いた。冷水につかってでもいたように冷え切った体で。
純子は恐怖のあまりまったく身動きできなかった。
ジョリーが、恐ろしいものを見た時のような声で、激しく吠えた。
『おかあさん。……わたし、寂しかった』
ワンワンワン、キャンキャンキャン!
「怖がってるみたいだよ。ぼくが預かろう」
青年が助手席のドアを開けると、ジョリーは飛び降りて青年の陰に隠れた。
反対側から後部座席に乗り込んだ千代が、青年に頭を下げた。
「本当にお世話になりました。あとはわたしが連れて行きますから。
あたしが名前を付けてやろう、可哀相な孫、あんたは美帆。ずっとお祖母ちゃんが一緒だよ」
『ありがとう、お祖母ちゃん』少女は祖母の頬に口づけた。
「みなさん降りてください」青年が声をかけた。
「あたしゃ降りないよ。この子が二度と迷い出ないよう、守ってあげるんだからね」きっぱりと千代は答えた。
「あなたがそう決心なさっているならそれは仕方ありません。
純子さん、信三さん、今降りないと、この車は自然に湖に落ちますよ」
美帆は後ろから母親に再び絡みついた。
『おかあさん、わたしの名前を呼んで……』
その姿は、だんだん崩れていったかと思えば、肌は解け落ち、髪はバサバサと抜け、眼球がみるみるむき出しになった。
「ぎゃああああ!」
『ナマエヲ…… ヨンデ……』
すさまじい力で絡みつく腕は肌がドロドロと落ち、骨がむき出しになっていく。
「離して! やめて! あんたなんか知らない、誰か助けて!」純子は狂ったようにもがき叫んだ。
「そうやってまた娘を捨てるのか」信三は前を向いたまま凍ったような声で言う。
「あたしがいるよ、何も怖くない。美帆ちゃん、あと少しで、家族は一つだよ」
千代の動じない声が続いた。
車はニュートラルの状態だった。
信三はサイドブレーキを解除した。
車は坂道をゆっくりと湖面に向かって進んでいく。
遠い薄闇の中、何か大きなものが湖に落ちる音が響き、頭上でカラスが鳴き騒ぎ、そしてその方向から響いていた叫び声がだんだん小さくなっていくのを、真帆は呆然と聞いていた。
ふと隣を見ると、あのいきなり現れた青年が、同じように湖面を見ている。
霧はいつの間にか消えていた。
「……こんな結果になるとは、残念だ」
そうつぶやくと、青年は真帆にはっきりと言った。
「いいかい。きみは今生きている。それが全てだ。それ以外は忘れていい。
じきにきみの彼が、車で迎えに来るだろう」
「あなたは、夢の中の人なの?」
「そう思っていいよ。おいワンコ、ジョリーとか言ったな。
きみの大好きなご主人を守るんだぞ、車に轢かれないように、湖に落ちないように」
ジョリーはワン! と答えて、薄れて闇に溶け込んでいく青年の姿を首をかしげて見つめ続けた。
それから道まで、ふらふらと身体を揺らすご主人を押し上げるように進み、車道に出たとたん、膝から崩れるように倒れた真帆の顔をぺろぺろと嘗め続けた。
素封家の沖山家一家四人と飼い犬が、ある朝突然、全員行方不明になった事件は、謎の失踪事件として世間を騒がせた。
台所のあかりはついたままで、翌朝の朝食の準備がしてあり、蝿帳がかぶせてあった。
家から消えていたのはパジャマとサンダル。そして信三の自家用車。
その日職場旅行で上海に行く予定だった純子が用意した旅行用のスーツケースも現金も携帯もそのままで、普段着はきちんと畳んで布団の脇におかれていた。
無理心中説、拉致殺人説、いろいろと推測がされたが、室内に争った形跡もなく、正面玄関は施錠されており、普段はく家族の靴もそのままだ。勝手口のカギはあいていて、サンダルが消えていた。この状況に、誰も納得のいく説明ができるものはいなかった。
なぜ夜中にパジャマとサンダルで、家族全員が夜中に犬まで連れて行ったのか?
七十九歳の千代、息子の五十六歳の信三、五十一歳の妻純子、娘の二十六歳の真帆。近所づきあいもよく、家族内に争いごとは伺われず、仲のいい一家と思われていた。
純子の不倫はひそかに噂になっていたが、それが犬まで巻き込んでの夜中の突然の失踪につながるとは考えにくかった。
一年後、近くのダム湖の湖底から、一家の車が発見された。
日照りが続いたせいでダム湖の水位が著しく低下し、そのせいで、バス釣りに来ていた釣り人に発見されたのだ。
車の中からは四人の白骨死体が見つかった。
フロントガラスは粉々に割れていたが、それぞれが座席に座ったような状態だった。
歯型でどうやら一家四人の白骨であると鑑定されたが、真帆と思われる骨は歯型さえわからないほどボロボロになっていた。
謎は今も謎のままとして、不可解な失踪事件として語り継がれている。
そして真帆の恋人の照之も、事件から数日後忽然と姿を消したままだ。
今は遠い地に引っ越し、記憶の消えたままの真帆と照之が新たに生活を始めて、飼い犬とともに穏やかに暮らしていることは、もちろん誰も知らない。