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夢遊病

 

 三人の同僚をそれぞれの家まで送って実家につくと十時半を超えていた。


「お帰り真帆、遅かったねえ。いつもお疲れさま。夜食食べるかね」祖母の千代が顔を出した。

「ううん、宴会の料理でもうお腹いっぱい」

「そうかね。あんたは何かと男連中に口説かれがちだから、あまり酒がらみの席には出ない方がいいよ」

「こちらも気は進まないんだけど、仕事上断れないこともあるのよ」台所に入ると、もう朝食の用意がしてあり、蝿帳がかけてあった。

 パジャマ姿の母親が出てきた。

「明日から私中国旅行だから、早くからバタバタすることになるのよ。だから朝食は用意しておいたの。

 あなたの分もあるわ」

「ありがとう、お母さん」

 廊下の戸を開けて、信三が入ってきた。

「やっと帰ったか。こんな街灯の少ない道を深夜車で、危険極まりない」

 足元では愛犬のジョリーがしっぽをバタバタさせながら真帆のスラックスに食いついている。

「あすは早く起きて、車でアパートに大急ぎで帰って通勤準備整えるわ。今日はもうくたくた。あ、お父さん、エビスビールとか、ない?」

「なんだ、くたくたとか言っといてビールをねだるのか。そうか、運転係だから酒は飲めなかったか」

 父は台所から、好物のエビスビールを出してきて、缶をふたつ自分と真帆の前に置いた。


「照之君とはうまくやってるか」

「うん、とっても優しい人よ」

「守ってもらうんだぞ、一生」


 二人で飲みかわしているうちに、お祖母ちゃんは別棟に引っ込み、母親も旅行のために早く寝ると言って寝室に向かった。

 酔いが回ると、父は愚痴りだした。


「あのバカはなあ……」


「え?」


「顔ばかりで男をひっかけるのがやたらうまいせいで、俺もひっかけられた。だが、顔は顔だ。性根は性根だ。一生治らん。俺ではこと足りんという性根もだ」


「……お父さん」


「見ないふりして人生送る。屈辱飲んで、我慢我慢の人生を。だがそれも、いつまで持つか」

 いつの間にか持ち出していた焼酎を勢いよくコップに注ぐ。

「お前も飲め」

「お父さん、もうそれぐらいにした方が……」


「お前は美人だな。母さんの若い頃にそっくりだ」

 

 充血した目で、じっと娘を見つめる父。

 その視線に、真帆は何とはなしの恐怖を感じた。


「彼氏を、泣かすんじゃないぞ。お前は亭主を裏切るなよ。一生仲良くやるんだぞ」

「うん、わかってる」

 真帆は注がれた焼酎を勢いよく飲んで、むせた。


 テーブルに突っ伏したままいびきをかき始めた父に上着をかけて、真帆はふらふらとした足取りで自室に向かった。

 

 疲れた。眠りたい。

 照之に言われた、あの薄気味悪いこと……

 父の苦悩……

 何もかも忘れて、ただ眠りたい……



「おい。おい!」


 夫の大声で純子は目をさました。

「なんですかこんな夜中に、お父さん」パジャマの胸元を整えて布団から身を起こすと、部屋の引き戸を開けて夫が仁王立ちになっていた。

 背後ではジョリーの、ワンワンという吠え声が続いている。


「真帆がおらんぞ!」


「ええっ、トイレじゃないんですか」

「いやトイレも見た、寝室も見た、どこにもおらん。少なくとも家の中にはいない」

「じゃあ、考えを変えて車でアパートに帰ったのかしら」

「馬鹿を言え、俺と飲んだビールでしこたま酔っていたし、俺がテーブルで寝こけて、目が覚めた時はもういなかった。

 見ろ、ガレージにはあの子の車が置きっぱなしだ」

 見れば確かに娘の白い車がある。


 ワンワン、キャンキャン。

 ジョリーは外に出ようとして勝手口をがりがりひっかいている。


「どうしたね、何の騒ぎかい」起きてきた千代が寝ぼけ顔で息子に聞いた。

「母さん、真帆がどこにもおらん。しかも、バッグも財布も携帯も置いたままだ。玄関には靴がある、しかもカギが閉まったままだ」

「なんだねそれは。家の中にいるんじゃないのかね」

「だからくまなく探したよ、とにかくどこにもおらん。ジョリーを見ろ、あれだけ真帆になついていたジョリーが、必死に外に向かって吠えているんだ。きっと勝手口から外に出たんだ」

「どうしましょう、じゃあ外を探さなくちゃ。でも今はもう、夜中の一時だわ」妻の純子がおろおろと言った。「どこまで行ってしまったのかしら。だってあの子……」


「……夢遊病か」信三が呟くように言った。


「ああ恐ろしい、何かに連れていかれたのかもしれん、夢遊病なんかじゃないよ、闇の世界にさらわれていくよ」千代が手を合わせて祈り始めた。

「母さん、こんなときにくだらんことを言うな。ジョリーが勝手口に向けて吠えてるってことは、ここから出たのかもしれん。あいつは警察犬の落第生だが、あいつに任せよう」


 父以外はパジャマのままだったが慌てて勝手口のサンダルをはくと、とりあえず庭に出た。

 真っ暗で、何も見えない。湿気でぼうとかすむ月が、空にかかっている。六月の生ぬるい夏の夜風が庭を旋回していた。

 ジョリーは真帆の歩いた後を辿るように、あちらの茂み、こちらの庭池と、鼻を地面にくっつけながら彷徨っている。

「しばらく庭をうろうろしていたってことかしら」純子はそう言うと

「真帆ちゃん、真帆ちゃん、いたら返事して」と呼びかけた。

 突然ジョリーは顔をあげると、小さな竹林を抜けて、街道に出た。


「そっちか!」父親が慌てて後を追いかける。

 と、いきなりジョリーは道を走り出した。その走りに、迷いはなかった。

「おい、おい! 待てジョリー、それじゃ追いつけんぞ」

 ジャーマンシェパードの成犬の本気の走りに、人間が追いつけるはずもない。慌てていたので、リードはつけていなかった。

 ジョリーの姿は、あっという間に夜の闇の中に消えた。


「これはいかん、仕方ない、車で追いかけよう。純子は助手席に乗れ」

「あたしも行きますよ。そうだ、念のために真帆ちゃんの携帯も持っていきましょ」千代は真帆の白い携帯を手にすると、後部座席に乗り込んだ。

 大急ぎでエンジンをかけると、そのまま闇の中に滑り出す。寂れた山の中で街灯は殆どなく、見えるのはヘッドライトで照らされた道路のみだ。やがてそのライトに、ジョリーの茶色い後姿が映った。


「いたぞ!」

「すごい勢いで走ってるわ」妻が心配そうに言う。

「いくら夢遊病でも、ここまで遠くに出たことはなかったわ。特にここ二、三年は」

「本当にこの道を、真夜中にまっすぐ歩いて行ったということか」

「まるで目的地があるみたいね」

「のうまくさんまんだばーざらたんせんだん、まーかろしゃーだそわたや」

 千代が両手を合わせて真言を唱え始めた。

「母さんそのお気に入りのまじないをやめてくれ、クソの役にも立たん」信三がイライラと言った。


「あの子は夢遊病なんかじゃない、憑かれているんだよ。精神科医になんか治せやしないよ。今までの薬だって何の役にも立たなかったじゃないか」

「お義母さん、これでも子どものころよりはましになったのよ」純子は慰めるように声をかけた。

「そして今、これかい。ごらん、ジョリーを。あの犬、走り続けてるだろう。真帆ちゃんは夢遊病でフラフラ歩いてるんじゃない。今たぶん、走っているんだよ。誰かに手を引かれて、宙を飛ぶようにね」

 その異様な光景を頭に浮かべて、純子は身震いした。


「うちが先祖代々、所有している裏山があるだろう。あそこは神隠しの山として有名なんだ、それは知ってるね。

 連れていかれるのは昔から、若い綺麗なお嬢さんばかりだった。あの子はとりわけ美人だから……」

「その話やめないと車から落とすぞ」信三が怒鳴ると年老いた母は黙った。

 

 ……力になってやれるのはあたししかいないのに。

 小さなつぶやきが純子の耳に残った。


 もうどれだけ車を走らせただろう。


「お父さん、このまままっすぐ行くと、もしかして」純子はおずおずと夫に声をかけた。

「ああ、右側にダム湖がある。俺も工事を手掛けた、Kダムだ。農業用水専用のダムだ」

 

 純子はぶるっと身を震わせた。


「そんなところに、行く必要はないはずよね……」


「家から五キロはあるぞ。ほら、ジョリーも疲れてもう歩きはじめてる」

「止まってしまったら、じゃあ、どこを探せば……」

「また走り始めた。まだあきらめるな!」

 信三はハンドルを握る手に力を込めた。

「まーかろしゃーだそわたや・うんたらた・かんまん」

「婆さんやめろったら!」


 そのとき、車内に携帯の呼び出し音が鳴り響いた。

「真帆? 真帆の携帯が鳴ってるの?」純子は後ろを振り向いた。

「ああ、出てみるかね。真帆からかもしれん」

「馬鹿なこと言わないでお義母さん。かけてきた人が表示されてるじゃない、彼氏の照之さんよ」

「ならなおさら出にゃいかん」

 純子が受け取る間もなく、義母の千代は携帯を耳に当てた。


「はいはい、いつも孫がお世話様で」

『あ、あれ? 僕かけ間違えましたか? 真帆さんは……』慌てた様子の青年の声が答えた。

「ああ、あたしゃ真帆の祖母ですよ。物騒なことをお知らせしなくちゃならないんだけど、あの子は夜の夜中に姿を消して、今家族で車に乗って行方を捜してるところなんですわ」


『ええっ?』


 照之は息をのんだ。そのあと、『やっぱり……』とつぶやくように言った。


「あんた今やっぱりって言ったね」いつになく厳しい声で千代は言った。


『いやあの、へんな、いやな夢を見てうなされて、泊まりに来てた友人に揺り起こされたんです。彼はその、陰陽師の子孫だとかで、いろいろ見える体質のやつでして、僕と同じ夢を見てたんです』

「……どんな夢か教えてもらえるかい」


『真帆が、真っ暗な道を、小さな少女に手を引かれて走っている夢です。行こう、行こうって誘われていて、おうちに帰ろ、一緒に帰ろって……』


「ああ」小さな声でうめくように千代は言った。


「大体の見当はついていたよ。とにかくすぐ止めなくちゃならん」

『止めるってどうやって……』

「あんたの隣にいるという、その能力者さんを出してくれないかね」

『あ、はい』

 電話の向こうでごそごそとやりとりがあって、青年がおずおずと電話に出てきた。


『お電話代わりました、綾小路 勲と申します』

「ああ、こりゃ頼りになりそうだ。よし』


 人が変わったように背筋を伸ばしてシャキシャキしゃべる母を、信三は驚いた様子で振り向いて見た。


「いいかね、これから話すことをよくお聞きな。

 あたしゃ、実は代々巫女の家系でね。家は落ちぶれたけど、うちの母も婆ちゃんも、神隠し山と言われる裏山のI山で、多くの子供を見つけたもんだ。半分は生きていなかったけどね」

『あ、W町のI山……ですか』

「そうそう、よくご存じだね。だけどうちの息子家族は、あたしのこんな昔話は信じちゃくれないのさ。でもどっこい、口には出さずとも、あたしにもその力は伝わっているんだよ。

 真帆ちゃんの手を引いてるのは、おそらく真帆ちゃんの妹だと思うんだが、どうかね」

『妹? 真帆さんに妹さんがいたんですか?』

 電話の向こうで、いやそんな話聞いたことないよ、という照之の声が聞こえた。

『真帆の彼氏さんの携帯でもいい、真帆の映っている画像を見せてもらっておくれ。そして、あんたの頭に浮かぶ情景を教えておくれ。あたしも、できるだけ思念を集中させるから』


 しばらくして、勲と名乗った青年が静かな声で答えた。


『ああ。手を引いているのは、たぶん妹さんですね。髪の長い、十歳ぐらいの。言っていいのかわからないけど、水子だと思います』


 千代は目を閉じると、俯いた。


「そうか、やっぱりか。あんたの波長のおかげで、あたしにもしっかり伝わってくるよ。

 髪の長い綺麗な女の子が、真帆ちゃんの手を引いてるね。たぶんその子はいつも真帆ちゃんにまとわりついてて、一緒にいたがってる。父親違いの、真帆ちゃんの妹だよ」

「お祖母ちゃんでたらめはやめて! こんなときに、悪い冗談だわ!」純子が金切り声で叫んだ。信三はハンドルを握ったまま、細かく身を震わせている。


「なんだい、あんたたち夫婦で黙認し合ってきたことだろ。ろくでもない。でもその子の魂は誰が救ってやるのさ。誰もいないなら、あたしが救うしかないんだよ、真帆が連れていかれる前にね。それであんた、イサオさん」


『……はい』


「今さらだが、あんたはどうやら本物のようだ。

 唐突なことをお願いするよ、生霊を飛ばせるかね。形はさだかでなくともいい。あたしにあんたの持つ力をじかに分けてほしいんだよ」

『つまり、その少女の霊を説得して、真帆さんから引き離す……』

「そう。永遠にね」


 しばらくしてから、青年は答えた。


『言いにくいことですけど、やれるだけやってみますが多分ある程度犠牲が出ますよ』

「それは仕方ない。あたしの命なら少しも惜しくなくくれてやれるさ」千代はきっぱりと言った。


『……あなたがそこまでおっしゃるなら、僕もできる限りのことはしてみます。どういう形になるかわからないけど、そちらに合流しますね』

「ありがたいねえ。お願いしますよ」


 純子も信三も凍り付いたように黙りこくっていた。


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