水辺に寄るな
半分開けられた窓から、渓流のさわやかな音が水の香りとともに音楽のように入ってくる。
山で取れたもののみを使った朝食は、手焼きの小さな器に少しずつ盛られて絵のように美しかった。
「絵で言えば日本画だねえ。赤米のおかゆも炊き立て、おいしそー。いただきまあす」
こごみの天ぷらを口にして、んーおいしい、とおかゆをすすりかけた沖山真帆は、顔をあげて、箸を置いた。
「照之、起きた時から気になってたんだけど、なんか暗くない?」
「ん……」
味噌汁をすすると、照之は口元をふき、じっと真帆を見た。
「……真帆、聞いていい?」
「なによ改まって」
「昨夜のこと覚えてる?」
「突然なに? 昨夜のこと? 部屋付きの温泉入って日本酒飲んで、爆睡しただけじゃん。あ、何もしなかったこと怒ってる?」
「爆睡は俺が先だったからそれはいい。じゃなくて、きみ変だったよ。本当に覚えてないの?」
ぎょっとした様子で真帆は視線をうろうろさせた。
「わたしが変だった? 何それ。自分じゃ変なことした覚えはないんだけど、酔っぱらって何かしたとかじゃなくて? じゃあ、どこがどう変だったの」
「真帆、真夜中に一人で部屋を出ていっただろ」
「ええっ?」
「もちろん風呂もトイレも洗面所も部屋にあるよな。じゃ、何しに出ていったわけ」
真帆は目を見開いて、照之に顔を近づけた。
「マジで言ってる? そっちが寝ぼけてたんじゃなくて?」
「マジだよ。なんか、おうち、おうち、とか寝言言ってるから、なに? って声かけたらもそっと起き上がって、頭ぼりぼりかいて長い髪バサバサ振って、ふらっと立ち上がったと思ったら部屋から出て行った。ふらふらというより、すっすっと歩いて廊下に出た。ちゃんとつっかけ履いて」
「………」
「で。唖然として見てたんだけど、ちゃんとドア閉めてどこか行っちゃって。じき帰るだろう、自販機の飲み物でも買いに行ったのかなと思ってたら、30分ぐらいして戻ってきた」
「えと、あの、どんな様子で?」
おどおどと真帆は聞いた。
「髪はぐちゃぐちゃ、泣いたあとがあって、浴衣がはだけてて、ふらふらして布団の上にドターン」
「……うっそー」
「うっそーじゃないよ。
こっちもびっくりして、真帆、真帆、何があった? ってゆすったらくるっとこっち向いて、気持ちよく寝てたのに何で起こすのよ! って怒鳴られた。あとはグースカ寝てた」
「ええええ……」
真帆は泣きそうな顔になって黙り込んだ。
「あのさ。以前聞いた話だけど、小学校卒業ぐらいまで、実は夢遊病だった、って言ってたよね。部屋の中をぐるぐる回ったり、何か見えないものと喋ってたり、時には裸足で玄関から出て門のあたりで母親にとっつかまったこともあるって」
「うん……」
「今、真帆、二十六歳だよね」
「うん……」
「めちゃくちゃ久しぶりに再発したってこと?」
しばらく黙ってから、真帆はうつむいたまま言った。
「ごめん。照之には言ってなかったけど、完全には治らなかったの。一年に二、三回ぐらいの割合で、特に旅行とかに行くと、ここはうちじゃない、うちに帰らなきゃって、なんかそればかり思って、気が付くとわけわからない場所にいて、友達に連れ戻されたりしてたの。
夢遊癖が始まったのはそんなに小さいときじゃなくて、十歳位から。
学生になって、友だちと旅行行くときはわざとお酒を寝る前にたくさん飲んで、酔っぱらってやったことだって言い訳用意してた」
「真帆とは五回ぐらい旅行したけど、こんなの初めて見たよ」
「ごめんね。一応、それなりの薬は飲んでたの、いつも。でも、睡眠薬でも駄目だったみたい」
照之は突然真帆を抱きしめた。
「な、なに?」
「よかった……」
「え、何が?」
「俺、真帆が酔っ払って廊下うろうろしてて、なんか悪い奴にとっつかまって酷い目に遭ったんじゃなかったのかって、ほんとはそれが一番心配だった。何故あの時追いかけて止めなかったのかって」
「そんなこと思ってたの?」
「だってぐしゃぐしゃだったし、泣いてたし」
「あれはね、小さいころから同じで、ここはおうちじゃないからおうちに帰りたい、おうちはどこって、それで泣いちゃうのよ。で今回は、非常口、って緑のあかりがきれいで、これを追っかけて行けば非常口からおうちに帰れる帰れるってそればかり思って、気が付いたら布団に倒れて照之にゆすられてた」
はっと見ると、照之の目が赤かった。
「そこまで……」真帆は声を詰まらせた。
「いい、わかったから、もう食べよう。ほら、山女魚の塩焼きは熱いうちに丸かじりしないと」
「照之、ごめんね」
「いいから食べよう、ほら。どれもおいしいぞ」
この人で良かった。この人に会えてよかった。真帆は山女魚をかじりながら改めて今の幸せをかみしめた。
真帆はアパートで独り暮らしをしていて、職業は小学校の教諭だった。
美人で快活な彼女は保護者にも子どもたちにも評判がよく、また、恋人がいることを隠していたため、同僚の中にしつこく言い寄る男性もいた。
「あと二年してまとまった貯金ができたら結婚しよう」と、会社員の照之は言ってくれるのだが、できればもう少し早く実現したい、というのが真帆の本音だった。
なにしろ、「付き合ってる人はいない」と答えると、言い寄ってくる相手はなかなか諦めてくれないのだ。
「もし余計な手出しをしてくるようなら僕に相談しろよ。大事な従妹にストーカーしてんじゃないとかなんとか言って本気で相手になってやるからさ」
大学時代柔道部の主将だった照之はそう言ってくれる。が、
「そこまでしないで。照之本気出したら相手にけがさせちゃってお縄になりそうだから」
「あはは、そうかもね」
でも恋人が強くて優しくて自分を守ってくれる気満々なのは真帆には正直嬉しいことだった。
真帆の実家はH県w町にあり、周囲に知らぬひとはいない旧家で、資産家だった。広い家は畑と防風林に囲まれ、隣の家まで百メートルはある、そんな環境だった。
母から聞いたところでは、昔看護婦をしていた時期に、父に一目ぼれで求婚されたが、祖父も祖母も「家の格が違う」とそれだけの理由で大反対したという。
確かに家構えからして、真帆の実家は、蔵や母屋や立派な離れが点在し緑深い庭を抱える、堂々たる造りだった。
でも父は、それなら家を出る、と駆け落ち同然に母を連れて家を飛び出し、紆余曲折の末、これはもう仕方ないと結婚を認められたという。
その祖父はもう鬼籍に入り、今実家に住むのは母と父と祖母と、愛犬のジョリーだけだ。
ジョリーはジャーマンシェパードで、本来なら麻薬探知犬となるべく訓練を受けていたが、やんちゃで遊び好きで命令を聞かないわんぱく坊主だったので失格、となったところを、父が警察官の知り合いからもらい受けて家の犬となったのだ。
特に真帆になついていたので、彼女が一人暮らしを始めた当初は、寂しさから毎晩遠吠えして周り中のものを噛んで、大暴れしていた。
だから真帆も、気になって頻繁に実家に顔を出すようにしていた。
六月二日の土曜日。
真帆が愛車で帰ると、もうそのエンジン音を聞いただけで家の中からキャンキャンという声が聞こえてくる。玄関を開けると、ジョリーが飛び出してきてちぎれんばかりにしっぽを振って、真帆の顔と言わず首と言わず舐めまわした。
「わかったわかった、わかったってこら」とジョリーを抱きしめながら、
「あんたが人間の男だったら今頃照之と決闘になってるぞー」と真帆はジョリーに笑いながら言った。
奥から母の純子が顔を出し、「あいかわらずねえ。わたしがどこへ何泊で出かけようと見向きもしないのにこのワンコは」と笑った。
「そういえばお母さん、明後日から職場の旅行で中国の上海へ行くのよね」と真帆が言うと
「そうなのよお。でもあまり楽しみにしてルンルンしてると、お父さんがね……」と声を低くした。
「大体世の中のお父さんって、妻が職場旅行に行くといい顔しないよね。自分たちは平気で飲みに行ったりゴルフ行ったりするのにねえ」
そう答えながらも、父の不機嫌の原因が、妻の旅行ルンルンのせいばかりではないらしいことも、真帆は薄々知っていた。
母は看護婦をやめた後長年農協で働いていたが、飲み会や、以前にもあった職場の旅行で、なんだかいつも隣り合って写っている男性の写真が目に付いた。母に言わせると、上司だという。
「とってもよくしてくれるのよ。今の会社が居心地いいのもこの人のおかげ」と母は屈託なく言うが、
「ほらお父さん、北海道の写真、集合写真の後ろの摩周湖がきれいよ。見ないの?」と真帆が言うと
「そういうものを俺に見せるな」といつも昭三は不機嫌丸出しで言う。
「なんで」
「なんでもない、興味がないだけだ」
しかし、母とその上司の仲が「普通ではない」ということは、口にせずとも周囲に広がっていた。事実、母は二人でうつった写真だけを集めて、ミニアルバムに入れ、化粧棚に隠していた。
「ちょっとお母さんのパフュームかして、あの百合の香りのやつ」と真帆が化粧棚を開けようとすると、すっ飛んできて
「触っちゃダメ!」と大慌てで閉めたのだ。その間から、ミニアルバムの端が飛び出した。
真帆は見なかったふりをして、「なによお、ケチ」と膨れて見せた。
男女の仲はそりゃあ、いろいろあるだろう。
父だって以前、勤めている建設会社の新入社員さんといい仲になって母と喧嘩していたこともある。
「あっちがしつこいだけだ、俺はお前と違う。お前とは」と物騒なことを言っていたこともある。
でも真帆から見れば、一目ぼれの末に駆け落ちしただけのことはあって
結局、お父さんの方が今もお母さんに惚れこんでいると確かに感じられた。
母は娘の自分から見ても美人だった。年齢こそもう五十一歳だが、若々しく、社交的だ。無口で武骨な父は、家の中でよりも外でのひと付き合いや異性との付き合いを楽しんでいる妻が、眩しいのと同じぐらい忌々しい、という感情を持っているのかもしれない。
そう思うと、むしろ大声をあげて喧嘩をしない父が、なんだか余計に危なく思えることもあった。
「今日は泊っていくのかね」風呂から出てきた祖母の千代が、真帆に声をかけた。
「うん、明日は日曜参観なの。あと事務的なあれこれを片付けて、夜は親睦会。帰りは遅くなるわ」
「そうかい。ここらあたりは夜は真っ暗だから、運転は気を付けるんだよ」
「うん、わかってる」
翌日の日曜参観は、いつも通り、見に来ているのは父親母親、ほぼ同数だった。
真帆は子どもたちの父親にとってもアイドル的存在であったのだ。
担当は一年生。真帆はオルガンの前に座った。
「さあ、覚えたばっかりの歌を歌いましょうねー。
♪あ~なたのおなま、え、は」一人の子を指さす。
「しょうたー!」
「♪あ~なたのおなま、え、は」
「あやめでーす!」
「♪あ~なたのおなま、え、は」
「市井勇三郎!」男性のだみ声が混じった。
「♪あら素敵なお名前ね~」で一応終わらせてから、
「ご父兄の皆さん、お名前を答えてほしいのはお子さんの方なんです」と真帆が苦笑しながら言うと、せっかく指さされたのに答えを奪われた男の子が後ろを向いて
「爺ちゃんのバカ!」
周囲からどっと笑い声が上がった。
その夜の親睦会では、「年を問わずもてるというのもよしあしですなあ」と教頭先生にからかわれ、
「全然相手にされないアタシたちなんか楽でいいですわよ。口説いてみませんかあ」と、四十半ばの学年主任が焼酎ロックをあおりながら絡んでいた。
いったんお酒が入るとくだらない話題も延々続いて終わるところを知らない。
このうち何人かを車で自宅まで送らなければならないことを覚悟していた真帆は、ソフトドリンク以外飲まなかった。
結局宴会は午後九時半まで続き、やっとお開きになった頃、千鳥足になっている学年主任と女性の同僚二人を、真帆は車で自宅まで送り届けることになった。
「おせわになりまふー」と言いながら乗ってきたとたんいびきをかいて熟睡する三人を見て苦笑している
と、携帯が鳴った。
……照之だ。
ちょうど目の前に現れたコンビニの駐車場に車を入れると、いったん切れた電話を真帆の方からかけなおした。
「ごめんね、運転中で出られなくて」
『え、今運転中じゃないだろうね』
「コンビニの駐車場に止めてる。もう疲れたわ。やっと宴会終わった。これから、酔っぱらい三人をそれぞれのお宅まで送ってから実家に帰る予定」
『大変だねえ。今日はもう実家に泊まるんでしょ』
「そうねえ、明日から学校だし、勤務に必要なものはアパートにあるし、実家に化粧品置いてあるから、それとりに行かなきゃならないし」
『えとね。ちょっといいかな。こんなこと、今さらっということじゃないとは思うけど』
「なに?」
『うさん臭く感じるかもしれないけど、僕の友達に、陰陽師の子孫だってやつがいるんだよ、自称ね。で、今除霊の仕事してるんだ』
「はあ。よくお客が食いつくもんだわね。胡散くさー」
『そう言うと思った。だから、戯言だと思って聞いていいよ。きみの夢遊病がどうしても気になるんで、彼に相談してきみの写真見せて、これただの病気か、ほかの何かかな? って聞いたんだ』
「それで何? 変なこと言うんでしょ。今あたり真っ暗なのよ」
『悪いけど変なこと言うよ。大事なことだから。
そいつ、しばらく写真を手にして目を閉じてから、これ夢遊病とは違うと思う、って言うんだ。髪の長い小さな女の子が、キミを気に入って、くっついてる。その子は迷子で、いっしょにいればいつか本当の家に帰れると思ってるって』
「うわー、サイテー」
『起きてるときは好きにできないけど、眠ってしまうときみの自我を盗める。そして、体ごとどこかに持ち去ろうとしてるって』
「どこかって」
『水の底』
「………」
『いいか。水に近づくな。それが彼からの助言だ。負けると水に引っ張り込まれる、とにかく水辺によるなって』
「とっても迷惑で怖いおはなしを、ありがとうございました」
『怒った? でも、注意してほしいんだよ。いい? 安全運転するんだよ、気を付けてね』
「住宅地を時速100キロで走り抜けたい気分だわ」
真帆は携帯を乱暴に切った。
照之のバカタレ。覚えてろよ。