5話 風前の灯火
〔エピソード1──時は遡り、現代日本〕
深夜、静まりかえった東京某所のオフィスで、最後の残務整理に追われている。
大学を出てからこの歳になるまで、昇進もしなかったせいで、肩書きもそのままに使い続けていた社員証──やや薄くなりかけた伊藤崇の文字が物悲しい。
この歳で部下がいないなんて、この会社じゃ俺だけだ。
まあ、世間で云うところの、うだつの上がらないサラリーマンってやつだな。
こうしてキーボードを叩く手、その甲に浮き出た血管を見るにつけ、自分が年を取ったことを実感してくる。もう四十五か……。
がんばる理由なんて、もうとっくの昔に無くしちまった。
いつもどおりながら、なかなか作業に終わりが見えてこない。
人より仕事が遅い自覚はある。
本当にな……随分と清算するのに時間がかかっちまったもんだよ。
毎回、上司から「周りにもっと仕事を振れ」とも言われてるが……どうしても、それができなかった。
いつものように一人きりになった深夜──仕事中、一人っきりになったときには大抵つけているラジオ──そこから聞こえてくる声が、いつもの番組とはちょっとばかし雰囲気が違っていた。
どうやら尊厳死法の是非を問う、国民投票に関する特集番組が組まれているみたいだ。
「ある一定の条件の下、治療方法の選択と同様に、自分の意志で死を選ぶ権利を認めてあげるわけですよ。患者の意思を第一に尊重する──尊厳死はですね。家族の不安やストレスを軽減するという側面もあるわけで……」
まだしばらく仕事も終わりそうにないので、席を立った。
キーボックスの中にぶら下がった、赤いタグ付きの屋上扉の鍵を引き抜いて、階段を上り、屋上へと向かう。
そう、俺の唯一の逃げ場、深夜だけの……。
定時なら分煙ルームに行かされるところだが……正直、ヤニの臭いが染みつき、あんな空気が淀んだところで、煙草を吸っても、ちっとも旨くはない。
そもそも、「煙草なら、なんの銘柄だっていい」なんて奴がいるか?
他人が漂わせた煙草の臭い。それも、それらが雑多に混ざり合った臭いほど、嫌なものはない。
喫煙は空気のきれいなところに限るんだ。
自分の肺を汚し、副流煙で周りに散々迷惑をかけている手前、こんなことを言うと、「何を勝手なことを!」と、怒られかねないがね。
自分の好きな香りに、他の臭いを混ぜられたら、誰だって嫌だろう? 香水だって、混ぜて使う馬鹿はいない……そういうもんだ。
扉の鍵を開けて、見晴らしの良い屋上へ。
深夜の冷たい空気が、鈍った頭に心地好い。
ただ、ここに来ると、毎回……。
──束の間の一服を終え、戻って仕事を続けていると、つけっ放しにしていたラジオから、某国での恩赦報道が流れてきた。
ふんっ! 仕事に集中できそうにないので、間髪容れず、ラジオのスイッチを切った。
力が籠もりすぎたのか、指先がちょっと疼く。
途端に静けさを増し、時折、パソコンの冷却ファンの音だけが妙に響く仕事場で、黙々とキーボードを打ち続けた。
──未明まで続く残業だったが、俺が抱えている仕事が、やっと全て終わった……ふぅ。
最後の一服を決意して、再び屋上へ。
……なにやら見晴らしが悪い。
それにしても、いつの間に、こんなでかい看板なんて設置しやがったんだ!?
まあ、深夜に仕事してるのも、俺だけじゃないってことか……。
「ふっ、ご苦労さん」
……でも、これじゃあな……。
見晴らしの悪さに怒りを覚えると同時に……考えていたことができなくなって、意気消沈……するも、心のどこかで、ほっとしている自分がいた。ふぅ。
ライトアップされた大きな看板が邪魔で、いつも見下ろしていた景色が遮られている……けど、むしろ、この方が落ち着くようだ。
お気に入りの煙草にライターで火を点け、一息する。
「ふぅ~」
紫煙を吐いた瞬間、軽いめまいに襲われた。
うっ、やばい─────────────────────────
「暗っ!」
なんだ!? 停電か? あれっ?! 煙草どこいった?
自分の足下も見えないほどの暗闇だ。いつの間にか、煙草の火まで消えている。
刹那、寒気に襲われ、急に身震いが。
「おいおい、風邪でも引いたか?」
辺りのビルも軒並み暗い。
この辺一帯で大規模停電のようだ。
おおっ! きれいな星空……東京でもこんなに星が見えるもんなんだぁ。ははは、たまの停電もいいもんだな。
それにしても、なんだ!? この違和感──あんなにも星が密集しているところもあれば、抜け落ちたように、一つの星さえ見えないところもある!?
なにかが……変だ……。
どこか遠くで、遠吠えが聞こえた。
ふと急に思い出す──子どもの頃によく行った、ど田舎にあった祖父の家で過ごした夜を。東京の明るい夜とは違って、照明を消すと、こんな感じで怖いほど暗かったっけ……なんか途端に心細くなってきた。
とりあえず、屋内に入ろう。
扉があるはずの方へ歩きかけて、バランスを崩し、ようやく足下が平らでないことに気づいた。
そればかりか、なにか柔らかい物の上を歩いているような変な感触だ。
慌てて膝を突き、足下を窺おうと、ポケットからライターを取り出して、火を点けてみた。
「なっ!?」
途端に、火の玉!? いや、かなり小さな光の珠のようなものが、視界の端に浮かび上がった。
薄気味悪い人魂とか、青白くて怪しく燃える鬼火とかといった印象ではなく、なにか不思議と懐かしさを伴ったような、暖炉のように柔らかく、暖かい古巣に戻ったような印象を受ける炎だ。
それでいて無邪気に揺らめく蛍火、赤い色の小さな小さな炎の宝石の珠、とでも言ったらいいのか?!
そう、ファンタジーに登場する火のエレメント! もしくは火の精って、呼ぶのが一番相応しい。
ライターの火を仲間と勘違いしてやってきたのだろうか?
ゆらゆらと空中を漂い、少しずつこちらに近づいたり、遠ざかったりしている。
ふと、なにか小さく小さく音が響いているような。囁いているような。
耳を澄ましたが……聞き取れない。
確かに、なにかをささめいている気がするものの、都会の雑踏の中での喧噪のように──大人数が同時に話しているようで、一つ一つの言葉をなかなか聞き分けることができない感じで……もどかしい。
それでも、聞き耳を立てていると、最後に何となくだが、『助けて』と言われたような気がして、思わず「助けてほしいのこっちだよ」と、こぼしてしまった。
すると、次の瞬間、幾重もの炎の円環が俺を取り囲んだ。
紅蓮の業火に包まれているにもかかわらず、焦燥は一切覚えず、心地好い暖かさから、かえって安心感に満たされていく。
ただ連日の残業の疲れもあってか、その後、急に深い眠りに誘われ、意識が──