16話 後ろ! 後ろ!
夜は嫌いだ。日が昇って、やっと明るくなってくると、ほっとする。
ベッド脇の置き台に、レイノーヤさんが用意してくれたであろう手ぬぐいがあるのが目に入った。
シャツを脱ぎ、全身にかいた汗を拭い去る。
この世界に転移してから、三日目の朝──エルフの郷にある館で二泊後の朝、聖樹様と再度お話できる機会が設けられた。
前と同じく、控え室にて待機後、しばらくして、以前と同様、地下にある奥の間に案内される。
今回は最初から御簾が取り払われた形での会談のようだ。
『疲れはしっかりと取れましたか? ゆっくりと寛げています?』などと、練習を兼ねて、社交辞令的な会話に対して、喋らずに念話で応答していく。
今日はかわいらしいお声バージョンの聖樹様のようだ。
前回も最後に御簾を上げての対面があったが、そのときには緊張のあまり、実はお顔をよく拝見できていなかった。
想像していたよりもずっとお若く見える。まるでうら若き乙女、いや、天女様のようだ。
衣装も羽衣のように薄く、透き通った水色のドレスをお召しになっておられる。
着る者の美しさを損なわず、更に引き立てる逸品であることが素人目にも分かった。
余すところなく、可憐な聖樹様の魅力を際立たせている。
仄かな光を帯びた──まさに輝くような肌……。
いかんな。また要らぬ思念が伝わってしまったようだ。
なかなか念話のコツが掴めなくて困る。
それにしても、頬を赤らめる若い女の子というのは、目の保養になるものだ。
いや、エルフという見目麗しい容姿だからこそなのだろうけど。
しかし、なんというか、こちらが念話初心者ということもあって、そんな聖樹様とじっと目を合わせて、見つめ合うような形で会話を続けているのだから、これはもう……うん、どうしようもない。
なんだか恋人同士にでもなった気分とでもいうべきか……そんな錯覚に陥りそうで……非常にやばい。胸が高鳴る。
まあ、俺的にはかなり得した気分であるのだが……。
ちょっとした合間に見せる愛嬌ある仕草にも、ついつい目を引かれてしまう。
それに、なにより御声が魅力的なのだ。耳が蕩けてしまうのではと錯覚するほどに。
念話でのそんな楽しい時間も終わり、前回先送りになっていた話の続きと相成った。
このエルフの郷からも高々と聳え立っているのが見える世界樹。そのほど近くには、【虹色の園】と呼ばれるエルフにとっての聖域があるそうだ。
元々、魔素に富み、妖精に好かれる地ではあったのだが、二十年ほど前から、少し奇怪な自然現象に見舞われているという。
魔力を帯びた何かが無数に集まってきているらしいのだ。
古い記録によれば、それは【精霊】と呼ばれている存在だ。
精霊は非常に小さな光の粒──よくよく観察してみれば、どれもが上下に少し潰れた三角柱の形をしていて、まるで雪の結晶のように透き通っている感じらしい。
とはいえ、あくまでもこれは妖精視点での話であって、ウッドエルフには夜以外、ほぼ視認することはできないほどなのだとか──このことからも、精霊は妖精と同様、霊魂と精神体のみで構成されていると目されている。
ただ、その小さな見た目に反して、含有する魔力量が生物としては考えられないほど圧倒的に多いらしい。加えて、意思のようなものを示さないということから、自然現象とされているというわけだった。
話を聞く限り、それこそファンタジー小説やRPGなどに登場する風の精や水の精みたいな感じを想像した。
それがこの森に棲む妖精と仲良く戯れているのだとか。
妖精の種族によって、特定の色の精霊との相性のようなものがあるみたいだ。
これらはその妖精たちから齎された貴重な情報──同じ妖精種であるエルフだからこそ、知り得た情報である。
ふと、頭を過ぎったのは、この世界に迷い込んだ夜に遭遇した不思議な火の珠のことだ。
その話を聖樹様にしてみると、きょとんとしたえらくかわいらしくも、不思議そうな表情に変わった。
なんのことか分からず、こちらも同じように首を傾げると。
途端に周りからくすくすと忍び笑いが広がっていく。
聖樹様が顔いっぱいに微笑みを湛えながら、俺の後ろの方を指さして、「ふふふ、そこにいるのは、いったい全体なんでしょうかね?」と言ってきた。
『なにかいるのか?』と、振り向いても、なにもいない。
『あぁ、からかわれたのか?』と思って、正面を向き直すと、またまた周囲からの笑いがこぼれた。
みんなからの「後ろ! 後ろ!」との掛け声がかかる──ドリフのコントかと内心では思いつつも、若い子、それも異世界の子には分からんか、と心の中で反省する。
いや、そんな場合じゃなかった。
今度はできるだけ素早く、くるっと半回転し、背後に何がいるのか確認してみる。
すると、どうだろう。うっすらとではあるが、火の粉のような淡くて小さな光の粒が視界に入った。
それを認識した瞬間、光の粒の火力が心なしか強くなった気がする。
今、挨拶をされたような……気のせいか?
いつもの習慣で、無意識に頭を下げてしまっていた。
すると途端に、俺を取り囲むように、ごくごく薄くではあるが、幾重にも重なった火の円環が光のエフェクトとなって、姿を現した。
あぁ、そうだ。これは今までもずっとここにあったものだ。
あまりにも自然すぎて、当然のようにここに存在していたものだから、今まで視界に入っていたにもかかわらず、気にもかけていなかっただけ。
そう、目からの情報はあっても、当たり前すぎて、意識にも上らない感じとでも言おうか。
だけど、意識し出すと、俺の周りを守護する結界のように、暖かく守ってくれているのが確かに感じられた。
いつから?
あぁ、あの夜からずっと……か。
そういえば、思い直してみると、お世辞にも肝が据わっているとは言えない俺が、異世界にたった一人で迷い込んだのに、これまでそれほど不安を覚えてこなかったというのも不思議と言えば、不思議だ。
この子が陰ながらずっと守ってくれていたからなのだろう。
なんの根拠もないのに、なぜだかそう確信できる。




