108話 大地が豆腐のように削れていく
兆の桁にも及ぶほどの数の蝶が織りなす素晴らしい眺望を堪能しつつ、紅茶の香りと砂糖の甘さで心身共に癒やされた。
旅に出て早々、こんな景色に巡り合えるなんて、寄り道した甲斐があった。だけど、想定外のことも露呈したのだ。
元々の考えでは、旅の最中、食事を用意するのにも、片付けるのにも、なにかと手間暇がかかると思われたので、基本的に昼食を摂ることはせず、多めの朝食と夕食で済ませる方針で決めていた。
それを考慮し、今朝なんかも、宿でみんなに多めの朝食を摂らせてきたわけだ。
ただ、にもかかわらず、普段よりも活動量が多いせいもあって、予想以上に腹が減ってしまったのだ。なかなか身体がすぐには食事サイクルの変化に対応してくれないらしい。
このくらいのことは見越して、慣れない初日くらいは、軽めの間食程度や甘い物なんかを用意してしかるべきであった。
まあ今回は、あま~い紅茶タイムで満足してくれたようだけど。
とはいえ、旅の生活サイクルに慣らしていくことも必要だから、少し様子見だな。
さて、エネルギー補給も軽く済んだところで、そろそろ旅を再開するとしよう。
即席で作ったテーブルと椅子は、そのままその場に置いていく。
蝶が渡りをしていなくとも、充分眺めがいい場所なので、もしかしたら誰かが休憩時に利用するかもしれない。
ティーセットの方に関しては、思いの外、スプライトが気に入ってしまったようなので、保冷庫の上の空きスペースに置いて運ぶことにした。
ただジンバル機構は天地逆転を防止するだけの仕組みなので、茶器のような割れ物を運ぶには、どうにも心配である。
そこで、転がっていた太めの枝を風魔法で薄く削って、更に細長く裁断して作った木毛を緩衝材として、麻袋の中に茶器と一緒にして詰めることとした。
これで、滅多なことでは輸送中に割れたりしないだろう。
さて、平坦な道のりということもあって、もう結構な距離を歩いてきた。
ユタンちゃんの脚力も未知数だったし、それ以上に、旅をすることが肉体を得たばかりのスプライトにどれほど負担となるか心配していたのだが、全くの杞憂に終わった。
そもそも、スプライトは四大妖精シルフ──普通にしていても自身が纏う風が自然に軽量化を図ってしまうほど、見た目以上に軽い。
いや、言葉が悪かった。見た目も充分軽そうなのだが、それ以上という意味だ。
あんまり自慢するので、さっき抱き上げさせてもらったから、確かだ。
お姫様抱っこするのも楽々……おじさんでもまったく腰を痛めないほど、羽毛布団のような軽さだった。
夢のような超得した気分に満たされて、重さがどうこうなんて、正直どうでもよくなってしまったけど。
普段からそんな状態なのに加えて、いざとなれば、移動する際に風のアシストがかかるもんだから、疲れ知らずというわけだ。
ユタンちゃんに関しては、スピード、クイックネス、タフネス、申し分ない……もう何も言うまい。
俺にしたって、齢四十五にして、地球での常識が音を立てて崩れ去るほど、非常識な身体能力を発揮している。
見た目としては、おっさん、美女、幼女の三人という頼りない外見ではあるものの、そのくせ実態はと言えば、個々人が人族の勇者に匹敵するほどの化け物集団なのではなかろうか?
そして……そして、ついに、初めて魔物と出くわし、それが証明されることに。
初め、俺は何が起こっているのか全くわからなかった。
悲鳴のような叫び声が聞こえたかと思えば、次の瞬間には歩いている右横少し離れたところに、ぐちゃぐちゃになった木材の固まりが落っこちてきたのだ──少ししてから、やっとそれが、かつて馬車であったものだと認識できたくらいの酷い有様で……。
街道はこの先で右に大きくカーブしているようで、ここからでは先が見通せない。
信じられないことに、どうやらその視界を遮っているこの林の上を飛び越えて、馬車が落下してきたようなのだ。
いったい何がどうすれば、そうなるのか見当も付かない。
落下に先立って聞こえていた悲鳴も今は聞こえない。急いで先へ進もうとした──その瞬間、【歩いてくボックス】から何かが飛び出し……いや何かではない。あれはまさしくユタンちゃんだ。
弾けるような勢いで飛び出し、もうカーブを曲がって見えなくなっていた。
『【疾風迅雷】』
スプライトが俺にも移動アシストの風魔法を掛けてくれたのを感じつつ、一緒に疾走して後を追う。
林を右に回り込むと、視界が開け、そこには今まで見たこともないような生物|(?)が街道に立ち塞がる光景があった。
それも、必死になって、なにかを圧し潰そうと腕を地面に叩きつけている姿だ。
熊を更に更にでかくしたような──肉と皮がぶよぶよに弛み、セイウチみたいにたくさんの皺ができた黒い巨体。
大きさが半端じゃない……アフリカ象を一回りくらい大きくしたでかさだ。
胸に見える歪な白斑紋が俺に何かを訴えかけている……。
それでいて、四肢はセイウチのヒレのようなかわいらしいものではなく、熊以上に太く、全てを切り裂きそうな強靭な五本の鉤爪……腕を大きく振り上げては下ろすと、大地が豆腐のように削れていく。
牙も太く長く、口から大きくはみ出し、肉を喰らうのが待ちきれないかのように涎を垂れ流している。涎まみれになっている黄褐色の鼻先もやけに目立つ。
でも、極め付きに目立っているのは、眼窩から血の涙を流しつつ、更に赤黒く怪しい光を放つ瞳……あれはいったい?!
いやいや、そんなことはどうでもいい。今はそれどろじゃない。なんせあのデカブツに近寄って、紙一重でちょこまかと避けているのが、あのユタンちゃんだってことの方が問題だ。
やばいよ。やばいよ。やばばば……やばいよぉ……どどど、どうすんのこれ? は、はよ、はや、早く助けないと……。
「ユタンちゃぁーん! 引いて、一旦引いてぇーっ!!」
えっ、あれ!? もう目の前にいる……そうかぁ! 魔法線で繋がっている効果か。今なら!!
「消えて無くなれぇぇぇーーーっ!」
ありったけの魔素を込めて、魔法をぶっ放した。




