第28話 後悔の朝
「うっ……うう、ん――」
そして、夜明け。
南向きのガラス窓からうっすらと差し込む陽の光が、ベッドに潜り込んだまま寝てしまったオランジーナの顔を照らし出す。
瞼の奥に飛び込んできた陽光を浴びた巫女姫は、可愛らしい声を出して胸元にある毛布を頭まで引き上げた。
「だめ、あと二時間……30分でもいいですから……」
と、眉根を寄せて苦しそうな顔でオランジーナは懇願する。
普段の彼女は早朝5時起きである。
寝起きも悪くなく、こんな風に寝言でわがままを口にすることはほとんどない。
オランジーナの朝を知っている同僚たちが見たら、寝起きの悪さにさぞや、驚くことだろう。
「うわっ、聖女様、もう起きてらして……許して下さい、オランジーナだって罰を与えたかったんです……! ううっん――」
どこかしんどそうな顔つきなのに、口元は緩んでしまい、よだれが枕に跡をつけてしまっていて、見るからにだらしがない。
ここにエレンシアがいたら「なにしているの? もう神殿の朝は始まっているのよ? さっさと起きなさい!」と、しかりつけたことだろう。
しかし、今朝は誰もいない。
邪魔するものが一人もこの部屋にはいないのだ。
「うう、ん。天国……だはっ――!」
オランジーナはうっすらと開けた両目で見覚えのない室内で目覚めたことを理解し、瞬時に頭を切り替える。
それまで朦朧として夢見心地を楽しんでいた脳が、一気にお仕事モードへと切り替わる。
たるんでいた口元がいっきにキリっ、と引き締まり手は左耳の聖鎚に添えられていた。
オランジーナは今が何時で、ここはどこなのか、という疑問を解消すべく、ベッドをごそごそと這い出して窓へと向かう。
頭は冴えたって、肉体はまどろみの中にいたいのだ。
まだ冬先で冷え込んでる室内では、息を吐くたびに白いもやとなってどこかに消えてしまう。
神殿の自室には冷暖房が魔法で完備されているから、ここ数年近くオランジーナは寒い朝を経験したことが数えるほどしかない。
そんな彼女にとって、寝たときと同じままの格好――長い法衣に厚手のジャンパー、下は厚めのタイツを履きその上から厚手のワンピースをまとっている――は、寒さを防いでくれる大切な装備だ。
ヒュンッ、と聖鎚を手ごろな大きさに戻して窓までそっと歩く。
こちらの姿を外にいる敵に見せないように、壁伝いに歩きガラスが嵌め込まれた窓枠越しに外を警戒……してみたのだが、向こう側にあるのはどこかの建物のレンガの壁で、陽光はその隙間から差し込んでいるに過ぎなかった。
「なら、あちらは――!?」
と、もう1つの壁に設えられた窓に足を伸ばす。位置的に西側にあり太陽の恩恵はまだ受けていない窓からは、まだ消滅していない冬の夜空が見て取れた。
三連の月の最後の1つ。
蒼の月が西の空に向かって消えゆこうとしている。
蒼と藍色、薄いベージュが重なりあい神話のような幻想的な光景に見入るのも束の間、オランジーナはベランダに続く窓の外に目をやった。
「この光景――貧民街……? なぜ」
敵の気配はない。
それどころか、高さからここが4から5階くらいだろうと察することが出来る。
外に続く街路にはもっと早起きの連中が露店を立て、これから労働に向かう人々が列を並んで作っていた。
中には幼い子供が大きな皿やボウルを持って並んでいるのも見て取れる。
王都の平民は朝食を露店で購入し、自宅で食べるのが一般的だ。
窓を開けてみると、通り抜ける北風が頬を撫で、首筋を刺すように感じる。
寒さにオランジーナは「ひっ……寒っ」、と亀のように首を竦め身を縮めた。
薄く開いた窓からは続いて、パンを長く捻じ曲げて油で揚げたモノや、肉を焼く香ばしいかおりが鼻腔をくすぐる。
「あー……家出したんでした、あたし」
昨晩の騒動が走馬灯のように脳裏をまわりめぐる。
エレンシアとの口論、その後に起こった幽霊騒動。
ぶっちゃけ幽霊が怖くなって気を失うように寝てしまったこと――。
思い出す度に恥ずかしさと羞恥心で頬が赤く染まり、窓から侵入した北風がそれを覚ますかのように吹き付けて去っていく。
巫女姫だというのに、幽霊が怖くて逃がしてしまったなんて、世間に知られたらいい笑い者だ。
まちがいなく、エレンシアは頭が痛くなるような高音の高笑いを響かせて嘲笑することだろう。
「ほら、みなさい。おまえは神殿にいなくてはなにもできないただの能無しなのよ!」と。
本来のエレンシアはそんなに性格は悪くない。
それどころか、聞けば「おまえ大丈夫なの?」と心から心配してくれるだろう。
でも、昨夜の物言いを受け、オランジーナのなかではエレンシア=他人に対して労りの心を持てない独善的な聖職者・悪女。というイメージがなぜか先行していた。
「あんな聖女の元になんて絶対に戻れない。それどころか秘密を知られては――」
聖鎚を握るオランジーナの左手がプルプルと震える。
エレンシアに知られるくらいなら、あの二人。確か男の方が「レストレード侯爵令嬢エリザベスとハミルタス男爵令息エドワードです」と述べたか――。
あいつらをこの手で亡き者にしなければ、自分の威厳は保たれない。
「よし、消そう!」
オランジーナの聖鎚を握る手に力がぎゅっと込められた。
聖鎚オルビオルは主の意志に「おいおい、ちょっと待てよ」とでも言いたげに、キンっ、といった透明な金属音を響かせる。
音を聞いたオランジーナは「おまえまで、そんなこと!? この裏切りモノ……」と呆れたように言い、自分のお腹が外からの食べ物の匂いに負けて、ぐうっと鳴ったから、さらに呆れてしまった。
安宿の部屋を出て古ぼけたエレベーターに乗ったことで、オランジーナはようやくこのビルが12階建てだということを知る。
昨夜は4階のボタンしか見えていなかったことに気づく。
エレンシアとの口論は、自分にとって他のことが気にならないほど衝撃的だったのだ、と今更ながらに理解してしまう。
十年に渡って仕えてきた主。
愛の女神メジェト神殿の長たる聖女エレンシアは、ここ最近、めっきりと無口になってしまった。
スカーレットワンズとの一戦いからこちら、思考に耽ることが多くなり、必要最低限の指示しか下さない。
それでいて、自分の責務出る愛に関する事項……婚姻から結婚。離婚から再婚に至るまで、恋人同士のささいな諍いにいたるまで、きめ細やかな対応をして法に則り裁くこともある日々。
自分は今までと同じように聖女を支えてきたはずなのに、どうしてこうなってしまったんでしょうか、と口癖のようにぼやき、オランジーナは露店を冷やかしては朝食を何にするか決めかねてしまい、端から端まで1ブロックに渡って道を歩いた。
「おかゆもいいですね。揚げパンもいい、ああでも……包み系も侮りがたし。蒸し物も寒い朝には最高ですね……どれにしようかしら」
と、懐に手を入れて財布の中身と相談しながら、オランジーナは再度、アパートの方へと踵を返す。
結局、購入したのは両手で抱えるほどもあるドーナツ状の揚げパン、コーヒーを持ち歩いている携行用のボトルに満タン、蒸した牛肉を辛味のあるソースで和えて薄く伸ばした小麦粉の皮で巻いたもの――春巻きのようなものを購入して、路地に設置されている長椅子へと腰を下ろした。
普段の神殿の朝食は焼いたトーストにゆで卵、サラダにナッツ類かくだものといったものが定番で、育ち盛りのオランジーナにしてみれば物足りず、任務で外に出ることが多いものだから、こういった露店で食べ歩きをすることが多い。
巫女見習いのローブはさすがに脱いでいくのだが、神殿の行事ではエレンシアのお側にいることが多いオランジーナは、顔が知られていてどこで買い食いをしていた、なんてことがその日のうちに、聖女の耳に届いてしまう。
「いつもならわたくしの分もなぜ買ってこないのです、とか怒られて買いに行く羽目になるのに。聖女様――どうして、ああも貴族が嫌いになってしまわれたのかしら」
エレンシアは二言目には女神神殿の威厳、という。
しかし、長年仕えてきたオランジーナにはなにか別の理由があるような気がしてならない。
そう――まるで女神から授けられた神力に制限があるかのような……。
と、考えてみるもそんなはずはない、と自問自答してしまう。女神の能力は計り知れないから、人間の物差しではかることなど不可能なのだ。
「となると国王陛下の退位もそう、王家に都合よく利用されるのに疲れたとか? だとしたら、他の三神殿に国教の地位が渡る日もそう遠くない?」
考え出すと悩みが尽きない。長椅子の上に置いた紙袋に巻かれたパンを黙々と消費しながら、熱いコーヒーを飲み、春巻きを一口ガッツいてその辛さが脳裏を縦横無尽に走り回り、涙を流しながら口元をハンカチで拭いて、ふう、と大きくため息を漏らす。
いつもの食事はゆうに百人が入れる大食堂でわいわいと雑多な雰囲気の中で、気の合う巫女見習いや巫女姫、武装巫女たちと食事をして情報交換したりしていたのが、今朝はまるで嘘のように静かで大気は透き通っていて、似ているのはこれから一日を始めようとする人々の活気だけだった。
「さて、どうしましょう。まずは男爵令息を武装巫女から守る――いや待って、……幽霊は?」
オランジーナは見たところ生まれ育った王都の貧民街になぜ自分がいるのだろうと、首を傾げ、エレンシアと喧嘩して神殿を出てきたことや、昨夜の幽霊騒動を再度、思い出した。
あの男女二人一組の幽霊たちは、意志を持って言葉を操り、足がしっかりと地についていて、うっすらと輪郭をにじませながら透明になって消えてしまった。
「あれ? 透明……消えた?」
幽霊。もしくは亡霊が消えるときは空間に消えていくものだ。
正確には輪郭を薄め、この世とあの世の間にある「影」の世界へと存在を移行するためにそうなるのだ、と言われている。
早い話がこの世に対する存在感を希薄にしてしまうことによる、空間転移だ。
意識をはっきりと保てない怨霊などは、自らの存在に対して認識が低いからどちらの世界にも行き来が出来る。
けれど待って。とオランジーナは考えた。
昨日の夜の二人――きちんと意識があったし。
何より……聖鎚で打撃を与えても効果がなかった。
「ん? なんで効果がないの? 幽霊なのに? 浄化されない――つまり、魔族ってこと?」
魔族は幽霊なども含まれるが、厳密的には魔族ではない。
魔族とは瘴気を空気のように取り込んで生命活動をするモノたちの総称だ。
その意味で、瘴気に触れれば狂乱してしまう霊魂は、魔族とは分類されないのだ。
「レストレード侯爵令嬢エリザベスとハミルタス男爵令息エドワードです」、と彼らは名乗った。
「私たちは、こうして夜にほんの少しだけしか会えないのです」
「もう、翌日がくる……。巫女姫様、どうかこのことを秘密にしてください。そうでないと僕たちは――」
とも言っていた。
オランジーナはまだこのことが恥ずかしくて誰にも話していない。
もしかしたら二人は今夜もあの部屋に現れるだろうか?
もし、そうなら――夜までにやることがある。
ノスタニータ男爵令息セバスチャンを、神殿の魔の手から守り抜くこと……。
けれどもそのためには情報が要る。
オランジーナは身に着けている通信用魔導具と取り出すと、四角いコンパクト状の物体をパカっと開いた。
上面には薄く加工した魔石板が、下面には数字と幾つかの記号が細やかに描かれたキーボードがある。
キーボードを叩き魔石板の画面に連絡先の一覧を表示する。相手を見つけて発信を押すとコール音が数度鳴った。
「はい……誰よ、こんな朝っぱらから――武装巫女ナメてんとぶっ飛ばすよ」
「あたしよ、イゼッタ。そろそろ朝礼の時間じゃないですか? 起きないとまた、朝ごはん抜きにされてしますよ?」
「……っ、え? 姉さま!?」
画面に向こうに映ったのは赤銅色の肌に金髪と広いおでこ、丸い眉にくりくりっとした猫目がお似合いの、眠たそうな目をした、15、6歳の美少女だった。
「イゼッタ、おはようございます。寝起きのところ、ごめんなさい。あなたに頼みたいことがあるのだけど」
「はいっ、起きた! 起きましたよ、姉さま! 聖女様と喧嘩して出てしまわれたって聞いてイゼッタは心配だったのです! なんですか、殺人ですか? 誘拐ですか? 拷問ですか? 姉さまの言うことならイゼッタはどんなことだって――っ」
と、ガバっと跳ね起きた少女は、寝ぐせのついた髪を振り乱しながら物騒な話題を持ち出してきて、オランジーナは思わず苦笑してしまったのだった。




