第26話 世間知らずの男爵令息
「こちらが婚約破棄の同意書、こちらが示談に関する請求書、こちらが神殿への委任状となります」
「同意書と委任状は納得できますが、請求書とはどういうことかな?」
セバスチャンは書類を一枚、一枚、吟味すると請求書の額を見て顔をしかめた。
王国金貨で10枚。
金貨一枚あれば四人家族が一ヶ月は生活できる金額だ。
平民が稼ぐ賃金の約一年分が記載されていて、一般的な貴族であれば眉をしかめることもなく懐からぽんっと差し出される程度の金額。
でも、このノスタニータ男爵家は違う。
オランジーナはこの家には金がないな、と見抜いて密やかに目を細めた。
「相手は格下。婚約破棄を言い出したのも子爵家。なのになぜ、こちらが賠償金などと」
「示談金です、男爵令息様。婚約破棄には身分など関係ありません。いえ、関係はありますが――どちらが先にそれを行ったか、という点に問題があります」
「破棄をされたのはアクアだぞ!? 男爵家の対応が間違っていたと……いいたいのかな、神殿は? そんな戯言を聞くために婚約破棄を依頼したわけではない!」
拳を固めたセバスチャンが苛立ち紛れに椅子の肘かけを叩く。
ダンっ、と思ったよりも弾けた音がしてオランジーナは、あらあら、と肩をすくめた。
この椅子、重厚そうな作りにみえてその実、中身は空洞に近いのだ。
使われている資材が安っぽいことが分かる。
張り子の虎なのね、とつい口元で笑みを作りそうになり、慌てて法衣の袖で隠して誤魔化す。
「学院の外宛部で、子爵様が馬車の上から令嬢から婚約破棄をなさったことは大問題です。先のアーガイム元殿下の真似事をしており、感心されることではありません。いえ、もちろん。アクア様が無作法というわけではありません」
「‥‥‥引き受けたことに問題があると?」
「問題はそれより以前にアクア様がされた行為が抵触するかと」
オランジーナは、そっと婚約破棄の原因を持ち出してみる。
アクアがはっとなり、顔を赤らめるのが見えた。
やっぱり原因となったのはアクアの方が先だったのか、とオランジーナは察する。
「妹はなにも問題を起こしておらん!」
「いいえ、セバスチャン様。神殿の調査でアクア様がとある男性と懇意にされていたという事実が明らかになっております。子爵令息様は表立った理由として浮気の事実を明らかになさっておりません。それだけでも子爵家から男爵家への配慮がなされているかと」
「‥‥‥」
「金貨10枚ですべてが解決するのか?」
苦虫を嚙み潰したような顔をしながら、妹を庇うのをやめたセバスチャンは質問する。
彼の態度はころっと変化していて、知られたくない事実を暴かれそうになり、話題を早急に整えようとしていた。
「そうですね。神殿が間にはいりますので、秘密保持契約書を作成し双方にサインしていただきますと、そこから先には誰も口にしないと思います」
「話題に上がった場合には……? 例えば、関係者であって署名するほど関係が深くないが真実を知る者もいるだろう」
「その場合は、神殿と裁判所がそれぞれ動き、相応の処分となるでしょう」
「では、我が家の体面が汚される可能性もあるではないか!」
「もちろん、その可能性もありますが、子爵家としては秘密裏に行いたい、と考えているようです」
「馬上で婚約破棄をしておいてか?」
どうやら男爵家はまだ子爵家の内情を知らないらしい。
オランジーナは、双方にとって非が出ないように情報を小出しにして解決を図る。
「子爵令息カール様は謹慎を受けたとか。長男でありながら跡目を継げなくなったと聞いております。さらに謹慎は永年に及ぶようです」
「それは真実か? 巫女姫様」
「子爵家の縁戚に当たる東部の有力者の屋敷で生涯幽閉となるようです。まあ、禁じられたばかりの学院内で婚約破棄をしたのだから、当然といえば当然ですね」
「カール……っ、なんてこと!」
兄の後ろに立ち控えていたアクアが小さく悲鳴を上げた。
両手で口元を隠し震えた声で元婚約者、いやまだ婚約者……の名を呼ぶ。
彼女のなかでは愛が続いているのか、それとも枯れているのかオランジーナはよく分からなくなった。
「これはあくまで内々の話です。そのうち、誰もカール様のことは忘れてしまうでしょう。アクア様の次なる婚約には数ヶ月から一年はお待ちいただくようになると思いますが」
「ふんっ」
セバスチャンは忌々しい、という感じに鼻を鳴らした。
この婚約破棄騒動には彼が大きくかかわっているというのに、どうして尊大な態度を取れるのか、オランジーナは自分の常識を疑ってしまいそうになる。
ここは示談金支払いに関して約束を取り付けてさっさと退散しようと思った。
「金貨10枚でアクア様も男爵家の面子も守れます。そう考えたらお安い金額かと」
「……まあ、悪い提案ではない。しかし、こちらに非があると認めるようで面白くない」
「お兄様! 子爵様は我が家よりも位階が上です……アクアは争いにしたくはありません。カールも相応の罰を受けることですし……どうか、ここはひとつ」
「うむ……」
と、セバスチャンはまだ納得がいかないようだ。
彼は示談書の内容をじっと読み、天井に向けて視線を右上にあげた。
もう少しで墜とせる。
オランジーナはここぞとばかりに畳みかける。
「アクア様の浮気が問題の原因となっておりますから、通常であれば金貨10枚はあちらに出していただくのが筋、となりますが。神殿で債務をお預かりして、債権回収課を動かすという案もあります」
「債権回収だと!? ふざけたことを!」
「いえ、別に男爵家に債権回収をおこなうということではありませんので。債務者から取り立てるだけです。ですが、その債務者にセバスチャン様。あなた様のお名前があるのはかしこくありません。よね?」
「……くそっ! なんて交渉を持ちかけるんだ、神殿は!」
ばしっ、と示談書の内容が書かれた契約書の束を、セバスチャンがテーブルに叩きつける。
勢いあまって紙の束が室内にばさばさと飛んで行き、数枚がオランジーナの視界を覆った。
公然と浮気をする男はさすがにクソだなー、とオランジーナは肩を竦める。
そう。妹と浮気をしていたのは実兄なのだ。
……本当にクソ。どうして身分社会ではこうも非常識なことが当たり前に公然と行われるんだろう。
オランジーナははあ、と小さくため息を漏らし、飛び散った立ち上がってアクアと共に書類をかき集めた。
「神殿を愚かな者のようにおっしゃるのはどうかと思われます。女神メジェトは天からこの会話も聞いておられますので」
「脅迫する気か!? 女神など神話の存在! 近代文明が発達した現代に持ち出すなど、前時代的にもほどがある!」
「いえ、本当に見られておられるのです。先日の、スカーレットハンズ掃討作戦などはお聞き及びと存じますが、各神殿が足並みをそろえたのではなく、女神様たちが意見をまとめた総意の結果、ああいう形となりましたので」
「家を継ぐ長兄が、実妹や母親と関係を持ち、次代の当主となる際に妻にすることは法律でも認められている!」
「もし、そのお相手となる女性に婚約者がおられない状態でしたらそうでしょうね。でも、アクア様にはカール様という公然のお相手がおられました。どうして御手付きをされたのですか」
「やめて!」
書類を集め終えてオランジーナに手渡したアクアが両手で耳を覆い、叫ぶ。
その様子を見てああ、この二人の関係はカールと婚約する前からだったのだな、とオランジーナは察した。
「アクア様もこう申されておりますし、いかがでしょうか? 金貨10枚ですべてにカタがつきます」
「くそっ! 持っていけ! 署名はここだな……女神という暴力を振りかざすなんて、神殿も落ちたものだ!」
書斎に一度引っ込んだセバスチャンが金貨10枚をテーブルの上に投げ捨てる。
それを拾い上げ、数えている間に彼は書類に署名をしていた。
「ありがとうございます。セバスチャン様。これで今回の件は神殿が責任をもって処理させていただきますので」
「さっさと金貨を持って去ってもらおうか。もうこれで用はないはずだ」
「ええ、とりあえずこちらで退散いたします。また問題があれば……」
「メジェト神殿になどもう用はない!」
今度はすべての書類を掴み上げ、セバスチャンがオランジーナの顔面に叩きつける。
鋭利な紙のはしがオランジーナの頬に薄く赤い線を付ける。
熱いなにかが口元を伝えうのを感じて、オランジーナは困った人ね、と冷たい笑みを浮かべた。
「書類を受け付けました。こちらは金貨の受領書になります」
「アクア、受け取っておけ! 俺はもう知らん!」
「あっ、お兄様!」
「あーらら、怒らせてしまいましたね」
「……巫女姫様。兄の愚行をどうかお許しください。すべては兄と関係を持ってしまった私が悪いのです」
アクアは顔を俯き、しくしくと泣き出してしまう。
そんなことよりこっちの怪我を心配して欲しい。
もし、自分が治癒魔法を使えなければお嫁にいけないような傷が顔にできたかもしれないのだ。
ハンカチを取り出し、頬に当てるとオランジーナは書類を持参したバッグに詰め込み、男爵家のマンションをさっさと後にした。




