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神無き異世界の神殿では婚約破棄を承っております!  作者: 秋津冴
第一部 王家の婚約破棄騒動

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第19話 解放と秘められた愛

 



「ほらっ、さっさと出ろ! おまえは邪魔なんだよ!」


 ドンっと鈍い衝撃音がして罵声と共に女性が一人、こちらに向かって倒れこんでくる。

 会話の内容とかれらの行動があまりにも意味不明で、リンドネルたちは一瞬、思考停止に陥った。

 エレベーターから飛び出てきたのは誰でもない、ニーシャの侍女、アイネだった。 

 床に倒れ伏した侍女は、廊下に堆積していたホコリまみれになっていた。

 鈍い灰色の髪が乱れ汗で顔にはりつき、ぼろぼろのいでたちだ。


「‥‥‥きさま、騙したのかバッカニア!」

「騙した? 人聞きの悪い。俺はちゃんとお前のために尽くしたさ。ほら、こうして殿下も無事だ」


 あざ笑うように言い、黒猫はエレベーターから歩み出る。

 彼が一歩また一歩と滲みよるたびに、アイネは尻餅をついたまま床を這って後ずさりした。

 二人はリンドネルたちが見えていないようだった。

 それもそのはず――異常な事態を察知したナウシカが、オランジーナとリンドネルを自身が展開した異空間である星路に格納したからだ。


「なにがどうなった?!」

「リンドネル様、お静かに。ここはまだ敵地です。聖女様のお力添えでこの空間を維持していますが、そんなに長くは持ちません。撤退しましょう」

「ちょっ、ちょい待ちなさいよナウシカ! そこに敵がいるではないですか! おまけにニーシャ殿下まであそこにいる! これを奪還しない手はないですよ?」

「可能性を求める段階ではないんだって、オランジーナ。ボクの能力はもう限界なの!」

「おい、やめろ! 揉めるな! 聖女様には負担が重いだろうがもう少し、この場を維持していただく」


 三人の脳裏に『げっ!?』とエレンシアの悲鳴が上がる。

 普段からの激務に加えてここ最近の婚約破棄騒動でエレンシアはあまり寝ていないのだ。

 いつ魔力が途切れるかもしれない、という不安は口に出さず聖女は使命を伝えた。


『奪還なさい。侍女ともに』


 誰を、とは言わない。わかっているからだ。その対象であるニーシャは、バッカニアの魔法から離れたのか、今度は黒ずくめのひとりが抱きかかえていた。

 黒猫とアイネの舌戦は続き「おまえが裏切るなら『魂の楔状』がその身に罰をあたえわ!」とアイネが叫ぶ。


「はっは! 俺に罰? おまえの望みはニーシャの無事だ。そのためになら、なんでもすると約束したことは覚えているぞ。だが‥‥‥道具としないとは約束していない」

「このタイミングで一体、なにをしろと言うんだ、バッカニア……敵なんていないじゃないの!」

「視えないだけだ。ここは囲まれている。そして、地下には腐蝕の連中が潜った。愚かなやつらだ、俺たちが魔導列車に乗り込んだと勘違いして、急襲した気になっているだろうな。盲目にもほどがある!」


 残り数名のスカーレットハンズの面々がエレベーターから降りてくる。

 人数はバッカニアも含めて六人。この倉庫に入り込んだときよりも数が増えている、とリンドネルとオランジーナは視線で確認しあう。

 魔導列車がもぬけの殻であることに、腐蝕の盗賊団が気づくまであと少しかかるだろう。

 彼らはそのまま地下を追走するはずだ。

 多数の神殿から派遣された神殿騎士たちの包囲からどうやって逃走する気なのか。

 リンドネルはそこが気になった。


「おまえだって盲目になるだろう!」

「いいや、ならないね? 思い出せ、俺たちの約定はニーシャ様が本部に到着するまでの期間、その無事を保証するというものだ。おまえについてはなにも触れてない。俺が契約のあとに口約束をしただけさ。だが、おまえは俺を裏切らないと約束した! お前の願いはニーシャの安全だ。だから死ね」

「なっ―――っ!」


 アイネの脳裏にあのときの約束が思い浮かぶ。


「俺はアイネを裏切らない。ニーシャの命を組織の本部に戻るまでは保証する。腐蝕の女神ルーディア、この誓いを約束を破ったときには、貴女に我が左目を捧げる。審議を」

「わたしはニーシャ様の安全が保障される限り、バッカニアを裏切らない。この誓いを破った時には子宮を捧げる。腐蝕の女神ルーディア、審議を」


 自分の願い、託した希望をバッカニアは確かに破っていない。

 そして、ニーシャのために死ね、と言われるならば約定には違反しない……しくじった。

 アイネは音が倉庫に響くほど激しく奥歯をかみしめた。

 優勢に立っていると信じて疑わない黒猫が、アイネを倉庫の壁へと追い詰める。

 たまたま――と、いうべきか。

 黒猫の真横にはオランジーナが、ニーシャを抱きかかえている黒ずくめの前にはリンドネルが立っていた。

 

「これって――」

「絶好の機会だ! 逃がすな!」


 リンドネルは剣をななめに構え剣先に意識を高める。

 複数の敵を同時に切り裂く彼の独自スキル『千剣』が起動する。

 同時にオランジーナは聖鎚を頭上に構えた。

「今です!」とナウシカの合図により、二人は星路の空間から飛び出していく。

 それはさながら、なにもない空間から人が出現したように、敵には見えたことだろう。


「覚悟なさい!」

 

 オランジーナの怒声一閃、意表をつかれた黒猫は銀色の聖鎚によってその身を大きく打ちぬかれてしまい、地面へと激しくぶつかってバウンドした。聖鎚はそのまま、アイネの腹部を殴打する。

 侍女は衝撃に肉体を震わせたまま、その場に崩れてしまった。


「ふんっ!」


 リンドネルの独自スキル『千剣』は使用者の意志に準じ、ニーシャを抱いている男以外の標的を的確に切り裂き、無効化した。返す刃で男の首を跳ねた彼は、崩れ落ちる遺体からニーシャを回収する。


「ぐ……っ、一体、どこから出てきやがった……」


 スカーレットハンズのうち、まだ反撃できる余裕があるのはバッカニアだけだった。

 他の者たちは全員、急所を裂かれて致命傷を追うか気絶してしまっている。

 バッカニアと『魂の楔状』でつながっているアイネを使い、うまくこの場を逃れようと黒猫は思案する。


「残念だったな。転送魔法を応用して奇襲をかけるのはスカーレットハンズだけの得意技じゃない。逃げるなら早くしたらどうだ? この倉庫を覆う、各神殿の張った結界を抜けられるなら……の話になるが」

「『魂の楔状』なんて使おうとしても無駄ですよ。解除しましたから!」

「はああっ!? な――そんな簡単に解錠できるはずが……まさか、聖具なのか、それは――」


 アイネを肩に担ぎあげたオランジーナは、ふふんっと得意げに鼻を鳴らすと、聖鎚をびしっと構えてバッカニアに向かう。


「あなたの悪行もこれまでですよ! スカーレットハンズ!」

「だが――おまえを裁くのはあちらに任せるさ」

「‥‥‥!」


 ニーシャを宝物のように抱き上げたリンドネルは用心しながら、オランジーナと後ろへと下がる。

 バッカニアの周囲には、影から抜け出てきた腐蝕の盗賊団の面々が彼を見下ろしていた。



 

「ナウシカ、エレンシア様の元に戻るぞ」

「え、でも―――いいんですか、あれ?」

「‥‥‥放っておけ。遺体も遺らんだろう」

「そんな」

「哀れですね。悪行の限りを尽くしたからああなるんですよ」


 ナウシカによって星路に再び格納されたリンドネルとオランジーナは、バッカニアの最後を見届けようとしない二人に不満そうだ。

 自分たちをこれほどまでに翻弄したのだから、メジェト神殿が裁くべきだと考えているのかもしれない。

 リンドネルは「これ以上関わると、俺たちまで腐蝕の盗賊団と敵対することになる」と言い、神殿への帰還を促した。

 その言葉に素直に従うナウシカが最後に見たのは、いつの間にか黒猫から黒髪の男へと変貌したバッカニアに、数本の剣先が刺さる瞬間だった。

 うっ、とその光景から目を反らすと続いて視界に訪れたのは見慣れた場所――神殿の大広間だった。

 神殿騎士や神官、巫女たちがわっとやってきて、ニーシャとアイネをどこかへと運んでいってしまう。

 賑やかさが去ってしまうと、三人はそれまでの疲れが出たのか、一気に疲労を感じ脱力してしまった。


「ご苦労でした。目的が達成できたようでなによりだわ」

 

 と、ルーディアの神殿に功績を移譲することになっていたものだから、それがなくなったことをエレンシアは満面の笑みを浮かべて喜び、三人をねぎらった。


「聖女様、まだなにも片付いてないとオランジーナは思うのですが……特に、あたし!」

「あなたは巫女見習いだから仕方ないわね。これからわたくしの手伝いをなさい」

「ああ、やっぱり……リンドネル様、この血も涙もない上司をどう思われますか?」

「俺はノータッチだ。そっちは管轄外なんでな」


 泣きつくオランジーナをすがめつつ、すまんなとリンドネルは片手を上げた。

 そんあああっ、と休みが欲しい巫女見習いは続けてナウシカのほうを見やる。

 だが、視線の先では聖女が腰に手を当てて、お怒りだった。

 

「あなた、ナウシカ! まだ見習いだというのに、オランジーナとリンドネルの手を焼かせてどういうつもりなの!」

「‥‥‥ごめんなさい、エレンシア様。ボク、リンドネル様の役に立ちたくて」

「だからといって、戦場にでていいという指示は出していないわ! 立場をわきまえなさい!」

「‥‥‥ごめんなさい」

「あなたになにかあったら、あなたのお父様にどう言い訳すればいいの? 困るわ、ナウシカ。理解しなさいな」

「はい……聖女様。オランジーナだけだと力不足だなって――」

「言い訳しない!」


 エレンシアはある知人から彼の娘の面倒を見て欲しいと、頼まれているのだ。

 しゅんっとうなだれたナウシカをエレンシアはやりやれ、と頭を振り抱擁する。

 力不足と言われ後ろでオランジーナが「はあっ? 誰が力不足!?」と憤慨するがエレンシアは相手にしない。

 リンドネルがよしよし、とその頭を撫でオランジーナは静かになる。

 抱擁からナウシカを解放したエレンシアは、オランジーナに「ついてきて」とだけいい執務室に戻った。


「あ――で……、どうなったのですか? もう一人の殿下は?」

「アーガイム様のこと? ちょっと言いにくいのよね」


 執務室。

 聖女は蘇生が終わった第二王子のもとを訪れた人物が意外だと語る。


「王太子妃様ァ?」

「しっ! 声がおおきい! そうよ、彼が生き返ったことを知ったナミアがお忍びで来てるの。もちろん、夫のイズマイア様には内緒でね」

「え、えええっ。じゃ、あの噂、本当だったんですか?」

「さあ、どうかしら。それはこれから先、判明するんじゃない?」


 それよりも、とエレンシアは別の人物の名を挙げる。

 

「ニーシャ様、意識は戻っているみたいね」

「いつからですか。戦闘中はずっと眠っているみたいに見えましたけれど」

「いつからかしら? 魔法使いのなかには身に危険が迫れば、意識を失ったように見せかける魔法を使う者も、少なくないわ」

「‥‥‥あの侍女が憐れではないですか。命賭けで主人を守ろうとしたというのに」


 オランジーナは嘆息する。

 もし、黒猫が倉庫に現れたときから意識があったとすれば、アイネは守り損ではないか、と。

 あのままエレベーターから出てきたときに侍女が殺されていたら、ニーシャは意識を回復したのだろうか? と疑問すら浮かんでくる。


「王族なんてそんなものってことでしょ。全員がそうだとは言わないけれど――王太子イズマイア様が、二人をどう裁くかまた、貴族連盟が荒れるわね」

「婚約破棄、認めたのでしたっけ?」

「まあ、一応ねー。認めたけれど、アーガイム様もニーシャ様も王位継承権を失い、王族から離籍させられるだろうし。守ってくれる後ろ盾が無くなった以上、誰が救うのかしらね?」


 いまからそれを決めてくるから、溜まった書類を片付けておいて。とエレンシアは言い残し去ってしまう。

「そんなあああっ! あたしの休暇、ご褒美、休みー!」と、オランジーナは執務椅子に腰掛けながら書類を前にして泣くのだった。



 神殿の奥まった一室。

 そこは聖女や大神官、一部の高位神官や巫女姫たちが住まう場所だ。

 エレンシアは客室の一角を、アーガイムの診療に当てていた。

 いま室内には四人の男女がいる。

 聖女エレンシア、王太子妃ナミア、アーガイム、そしてニーシャだ。


「ナミア。もう話した方がいいと思うの。ニーシャ様には知る権利があるわ」


 一度に返した4人のうち気まずい雰囲気を破ったのは聖女だった。

 エレンシアは、法律学院の同期でもある王太子妃ナミアを斜め前にして「秘密はいつか漏れるものよ」と自白を促すように言う。

 王太子妃はどこか悔しそうな顔をしながら唇を噛んでいた。

 ニーシャにはその仕草の意味が分からない。 

 

「聖女様、それはどういう意味でしょうか? 私はもう婚約破棄された身。これ以上の罰をあたえるおつもりですか?」


 と、ニーシャは怪訝な顔をしてアーガイムを見やる。

 まだベッドに寝かされたままの元第二王子は、ナミアから差し出された手をそっと握りしめた。

 ニーシャはそれだけで理解してしまう。

 彼は新しい婚約者として連れてきたナミアだけでなく、この王太子妃とも秘密の関係にあったのだ、と。

 

「あなたたち、そのお腹……ナミア様、まさか! 生まれてくるお子は――まさか……」


 王太子妃がまとう柔らかなロングドレスのお腹は大きく膨れていて、もういつ出産してもおかしくないように思えた。

 ニーシャは信じられない、と頭を激しく振る。

 愛した男性が裏切りつづけたその代償が、これほど大きいなんて。

 非難の視線にさらされた二人は、手を取り合ったまま無言で顔を反らす。

 答えは明白なようだった。


「まさか、なにもなかったで済ますつもりじゃないでしょうね、アーガイム!」


 スカーレットハンズの魔の手から助け出された侯爵令嬢はと叫ぶと立ち上がり、アーガイムの胸元を乱暴に掴んで振り乱す。

 元第二王子は抵抗もせず、なされるままだった。

 

「なにか言いなさいよ、卑怯者! あなたのためにどれだけ私が苦労したと思っているの? 学園の販売網だって、あのクオンタムのせいで――。私とアイネがあなたの地位を守るためにどんな惨めな思いをしてあいつらの言いなりになったか、あなた知っていらっしゃるの!?」

「やめなさい! ニーシャ様。あなたにはそのクオンタム伯爵のことで話があります」

「なっ――! ……話すことなどなにもないわ」


 エレンシアが制止の声を上げ間に割って入ると、ニーシャは黒い瞳に明らかな動揺の色を浮かべ黙り込んでしまう。

 クオンタム伯爵。かつて学院に在籍し、ニーシャとアーガイムを利用して違法霊薬の販売網を大々的に立ち上げた男。スカーレットハンズの頭目と目される男。そして、王太子と王太子妃、エレンシアが同席した時代に、学院で同期だった男。

 だが、エレンシアはクオンタム伯爵と関わる前に神殿大学へと移籍しており、彼との明確な接触はすくなかった。

 夜会で数度、会話した程度の仲でしかない。


「ナミア。アーガイムを愛しているのなら、イズマイア様への愛も忘れないで。王太子妃としての責務も――友人としての忠告よ」

「待って! 待って……エレンシア。いいえ、聖女様。おねがい、お慈悲を、この子には! この子だけは! 生まれてくる子供だけにはどうか、女神メジェトの祝福を――っ! あなただって、もし同じ立場なら――そうした、でしょう。エレンシア……お願い!」


 ガタっと席を立ち、石畳の床に両膝をついて王太子妃は懇願する。

 それはつまり、このままメジェト神殿に彼女を匿い出産させてほしいという、歎願だった。

 生まれてくる赤ん坊の為に。

 無垢な命に罪はない、と言いたい王太子妃の言葉はエレンシアの胸奥に深く突き刺さった。

 もし同じ立場なら、と問われそうね、と答える義理はない。

 友人であっても、相手は王族だ。

 個人と公人は扱いが違う。そこに義理の弟との不義理まで関わってくるならば、メジェト神殿としてできることはほとんどなかった。

 ただ、一点。

 エレンシアの秘められた過去を知るナミアの悲哀に満ちた切望を、エレンシアは見捨てることができなかった。

 それをすれば、メジェト神殿の根幹にかかわる一大事にもなりかねないからだ。


「ナミア。なら誓いなさい。この場で永遠に愛を失うことを受け入れる、と。産まれてくる父親からも夫からも、子供からも――あなたは一生、愛されない。それでもいいなら……」


 受け入れるわ、と一言が出てこない。

 ニーシャの悲しみに見開かれた瞳を見てしまったから。

 彼女の漆黒の瞳はこれからなにをすればいいのか知ってしまい、絶望に彩られていたのだから。

 王太子妃は迷いなく、うなずく。


「いいわ、この子のためなら――どのような目に遭っても……いい」

「そう。なら、外で話をしましょう。まだ二人には納得のいく話ができていないはず」

「わかりました」


 聖女が手を叩くと二人の巫女姫がやってきて王太子妃を外に出るように促す。

 その後に続いたナミアが振り返ることはなかった。

 エレンシアも後を追って立ち上がり、思い出したかのように背を向けたままニーシャとアーガイムに告げる。


「ベッドの脇にある小物入れにあるものが入っています。王族の誇りは己で守るべきかと」


 パタンっとエレンシアが扉を閉じると、動けないアーガイムにかわって、ニーシャがおそるおそる小物入れの扉を開く。


「―――っ!」

「どうした? なにがあるんだ、そこには? ‥‥‥ニーシャ?」


 中に入っていたのは、二振りの短剣だった。

 王族の自死にふさわしく緻密な細工がほどこされた短剣を抜くと、刃は漆黒に染まっている。

 致死性の毒魔法がかかっている――声には出さないが、ニーシャはそれを理解した。

 アーガイムが横を向いても短剣の姿はニーシャの背中によって見えない角度にある。

 ぐっと強く身を屈めた彼女の異変にアーガイムが気づいた時、すべては遅かった。

 

「いいえ。なんでもないわ、あなた。私、やっぱりあなたが好きよ……殿下でなくても、大好き。愛してる……私のアーガイム様」

「ニーシャっ! なんだ、なにが起こっている、ニーシャ……お前……!」

「でん、か。まだ――まだ……学院にはまだ――のこっ、てる。あな、たにだいじな……もの、どうか偉大なる王に……」

「ニーシャっ!」


 ぱたっ、と力なく手が落ちてニーシャの左胸から血がしたたり落ちる。

 必死に彼女を支えようとするアーガイムだが、ずるりと床に倒れこむ肉体を支えるには至らない。

 もがき、あがいて自らも床に落ち込んだ元第二王子は、初めて自分を愛した女がもうこの世にはいないのだと知った。

 悲しみ、嘆き、自戒の念、くやしさ、寂寥感。

 そんなものが胸内からあふれ出てくるが、アーガイムは涙を流さない。

 ――偉大なる王に。

 最愛の家臣の最後の願い。

 それを叶えることが、これから生き抜いていくただひとつの意地のようなものになる、と感じたからだ。

 鮮血にまみれ、ぬるぬるとした血が全身を汚すのも厭わず、アーガイムはニーシャの遺体を抱きしめる。


「俺が王に――俺が……」

「なら、手を貸すぜ? これまで貯めた貸しも回収しないとな」


 そんな彼のまえに立ったのは、悪辣な笑みを浮かべた一匹の黒猫だった。



 

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