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アニメ

純血のマリア

作者: とびうお君

 この作品、声優桜井演じるキャラが理神論にたどり着いて終わりを向かえる。彼は原作には居ないまたは目立たない存在らしい。谷口監督のオリジナルかと思う。キリスト教の発展のように見えるが、私はこの理神論まずいとは思う。


 なんと言うか大衆にとっての神はもっと肌感覚であり、それは妖怪魑魅魍魎と近いと思う。根本的に多神教から神はやってきたというのは確かだと思う。原始アミニズムからの宗教の発展と言うのは結構説得力がある。


 理神論は確かに現代と相性が良い。でも、それは一部の知的エリートのみに納得できる神への信仰であり、そんなもので神は生まれはし無い。この点は宗教を客観的に捉えて無いからだと思う。だからっていつまでも異端審問のような事をしていたら駄目になってしまうし、やがて神への信仰は終わりを向かえる時代的なものだったんだなと思わされる。


 最後宗教的熱狂に包まれるこのキャラを見てなんとも言えない気持ちになる。彼が作品から排除される理由はもっとシンプルで理神論的世界では実在としての超自然的な神的存在は必要ないわけで、絶対の裁定者である天使が邪魔だと感じてしまったからになる。


 ただこの宗教的熱狂が今のなろうの問題と似てるなと。私が小数精鋭ランキングを求めるのはここにある。


 大衆=馬鹿って構図だが、なんともな。これは人のタイプにもよるだろう?おかしいんだよなこのキャラみたいな頭だけで神様の存在とか納得で来てしまう人って。これはエリートと言うより単純に変人だ。


 馬鹿とか頭が良いとかそういった2極化じゃなくて、感情なんだよな。訓練された馬が煩くてもまあ有る程度落ち着いていられるとか、そういうのって能力と言うよりそういう訓練によるものになる。大半の人間が理神論的に神を感じるようにするには相当な訓練が居ると思う。それが生まれたままの性質で自然に出来てしまうってのは頭が良いと言うより変人だとしか言いようがない。


 なろうも感情の問題なのか?と言うとそうでもない。確かに頭を使わない。ただ強制的に頭を使えとされるような環境でもないと大半の人間はそんな選択をし無い。その根幹部分は感情の問題なんだ。


 余暇の過ごし方娯楽というもので、疲れると本人が感じる選択をする人はあまり居ないんだ。じゃ変人なのか?と言うとそれも違う。アニメの話しからは随分ずれてしまったが、理神論は科学と融合したと過去見ていたが、今はそう見ないなって思って書いてる。


 これを見た当時は理神論で答えになっていた。今はそう思わない。こんな頭でっかちな宗教無理だ。元々プロテスタントが悪いんだろう。あれは聖書ってテキストを読み込むところから始まるから。


 妖怪モンスター魑魅魍魎はオカルティズムだが、神様も同根なんだよな。でも決して神はオカルティズムと言われない。神を相対的に見れる立場の人なら間違いなくオカルティズムだろう。


 大半の人にとって妖怪もモンスターも魑魅魍魎も居ない世界で神様だけがいるわけないじゃないか?と私は今なら思うのだが。ただ形を買えて相変わらずオカルティックな思考をする人はネットでも多々居るけど。


 今回の話、ファタンジーとなろうランキングって点でなろうに密接に関わってる話になる。

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