カワイソウニ、の段
かわいそう
と言う表現は誰しも知らないことはないだろう。
実際に耳にした人もいるのでは?
それは自分に向けられていた? あるいは他の誰かに向けられていたのか?
そしてその時、どんな気がしたか?
今日、久々に「カワイソウ」ということばを耳にした。
状況は、まあざっくり、こんな感じ。
大きな病院の待合室、すぐ隣には年老いた母とその娘らしきふたり組が座っていた。
娘が母に優しい口調で何かと話している。
母からの返事がないところを聞くに、認知症か耳が遠いのか。それでも娘は特に気にしていないようだった。
「先生、優しい人で良かったね。心配することなかったね、ホント、良かった」
穏やかで優しい口調に、聞いているこちらまで癒されそうだった。
が、しばらくして急に彼女が言った。
「あの子、見て」
少し遠くの誰かを指しているようだ。
続けてこう言った。
「ああ。かわいそう。見てよ、あの子、車椅子で、あんなに顔色も悪いし。横の立派な人たち、お父さんとお母さんかな。あんなに立派な人たちなのに、子どもは何の病気なんだろう、かわいそうに、内科だよねあそこ。腎臓が悪いのかな?ね、もう生きてるようにも見えないよね。、顔が真っ白だし、動かないし、悲しい顔して」
そしてまた、かわいそうに、と。
正直、近ごろ聞いた覚えのない、懐かしい言葉というイメージで耳に残った。
話は変わって。
うちの母があんがい早い時期から車椅子ユーザーだった(今は常時車椅子)。
もともと足が悪く、障害認定も受けていたので、当然のように外出時には車椅子を使っていた。
とある観光地の食堂で、何とか(無理やり?)車椅子で入店した時のこと。
店員さんたちも快く席に案内してくださって、料理も美味しくいただいた。
ありがたいお店だね、ご飯も美味いし、じゃ、そろそろ会計を、と席を立とうとしていた時、店員さんのひとりがわざわざ席にまで寄ってくれて、母の手を握りこう言った。
「ほんと……なんと言っていいか……かわいそうに、でも、がんばってくださいね」
ここで母と子とは、やや生ぬるい笑みを浮かべながらも、あまり失礼にならない程度に礼を述べ、会計を済ませて外に出て行ったのだった。
前述の「かわいそう」発言の方がもし自分の親しい人ならば、たぶんこう訊ねることができたであろう。いわく
「かわいそう、って誰のどんな部分が、どうかわいそうなのかなー?」
そう、カワイソウ、という言葉になぜか違和感を覚えていた。
確かに、車椅子で顔色の悪そうな若い娘さんは、『タイヘン』そうではあったし、娘さんを連れていらっしゃるご両親らしき方々も『タイヘン』そうではあった。
しかし、『かわいそう』という言葉が自然と出てしまうのはなぜなのだろうか?
その時しみじみと、対象の人物を「かわいそう」と思うのには大きくふたつの理由があるのでは? と感じたのだった。
まず
①自身にはまず降りかかることのない事象に見舞われている相手に対して憐れに感じる思い
②やや上から目線
極論かとも思ったのだが、少し昔のアニメやドラマでもセリフにありそうな感覚ではある。
身よりのない幼子や老人、親に見放された子、車椅子で転んでしまった人、努力の甲斐なく報われなかった人、身を持ちくずした人……
私たちはつい、「かわいそう」と感じる瞬間が日常のそこかしこにあるのではないだろうか?
そしてその時、自身には「かわいそう」という言葉で囲い込んだ人とは無関係であるし、無関係であると思いたい、自らにはそのようなことが降りかかりませんように、と心密かに念じているのではないだろうか?
そんな疾しさもあってか、私は個人的に決して『かわいそう』ということばを口に出せないでいる、のかも知れない。
どれもこれも、いつの日か自身にも降りかかるやもしれないという覚悟もあって。
幸いにも現在では、あまりこのことばを表で聞くことがなくなっているようだ。
子どもですら、車椅子で転んでしまった人がいたら「かわいそう」なんて言っている間にさっさと「だいじょうぶですかー?」と助けに走り出している(先日たまたま見たのだが)。
災害が増えてきたせいなのか、さまざまな立場の『社会的弱者』がより発言の機会を増やしてきたおかげなのか、「かわいそう」を言う側/言われる側の境界はかつてよりも更にあいまいになってきたように感じる。
つまり、いつかは我が身、と危機的思いを抱く人間が増えてきている、ということなのではないだろうか。
まあそれはそれで、不幸と云えなくもないのだが。
だから逆に、無邪気に「かわいそう」と口に出せる人は、ある意味幸せなのかもしれない。
私はぜんぜん知らない人から、遠くから「かわいそうに」ということばを浴びせられていると気づいたら、(元気があったら)走っていってアッパーカットを喰らわす、もしくは(それが無理なら)鼻先で笑い飛ばすだろうな。
カワイソウニ……
つい口にしてしまったあなた。
それは死語ですよ、とまでは言わないまでも、今では『懐かしの』表現であると感じる人もいるということをどうぞ、知っていただきたいものです。