心の壁にかかる静止画、の段
個人的にもたいそう仲よくしていただいている、とあるお店の店主さんが今年、いったんお店を閉じることになりました。
十五年続いていたお店でしたが、家主さんのご都合やら何やらで、とりあえずいったん撤収とのこと。
フェイスブックでたまたま、ちょうど片付けも済んで家主さんを待つ店主さんの淡々とした横顔の写真が載っておりました。
横顔のさりげなさの中にみえる何とも言えない寂寥感が、ずしんと胸に響き、思わず『いいね』も『悲しいね』も押せず、なにも伝えられず記事を見送ってしまったのでした。
たまに写されたその写真には、ぎゅっと十五年の歳月がつまっているように感じたのです。
写真というものは、多くを語ります。
特に私が好きなのは、昔日の白黒に閉じ込められたその一瞬かと。
今日、たまたま機会がありまして、すぐ近くの古い街並みを、ガイドさん付きで歩くというイベントがありました。
その街並みは昔、すぐ浜の近くに位置しており、台風や低気圧が来る度に高波に襲われたとのこと。
見せていただいたモノクロの写真には、電信柱をはるか越えた高波が写っておりました。
そしてそれを、少しだけ高い場所から見守る人びとの後姿。
諦観、というのはこういうのを言うのでしょうか。
波がしらとしぶきの一粒ひとつぶまでがあざやかに残されているのがまた、心に刻まれました。
その地域はそこからずっと波と闘い、波と暮らし、そして現在があるのだなあ、と感慨もひとしおでした。
写真ではないのですが、近ごろたまたま見かけた一枚絵。
近所のお店が、店主ご夫婦ご高齢のため閉店することになりました。
十一月で店じまい、と店頭に貼り紙がありました。
それまでずっと、地元のファッションリーダーとして、地元中学の制服・その他グッズ取扱店として、頑張って来たお店でした。
私が知っている限りお店があったので、すでに半世紀はその場で商いをされていたかと思います。
ご主人が認知症となり、それでもお店番としていらっしゃったのですが、奥さまのご負担も多くなったようで、苦渋の決断だったかとお察しします。
今月に入り、たまたま店先を通った時の話です。
お店の前で、前の車の右折待ちで停車したのですが、たまたま高齢のご夫婦が店先におられました。
お店の名前が入った軒の看板は半分剥がれ、シャッターがきっちりと閉まった状態でした。
認知症のご主人は、停車中の車に寄りかかるように立ち、その脇で、奥様が背をかがめ、丁寧に店先を掃き清めておりました。
それがまるで、ひとつの静止画のようで。
ひとつの時代が終わったのだ、とその瞬間ずしんと胸に飛び込んできて、何だかきゅーっとなってしまいました。
今でもまだ、それぞれの画が胸のどこかの壁に掛けられている気がします。
そんなものがいくつも、思い出の部屋に残されていつか語られる日を待っているのでしょうか。