最後に耳は残る、の段
誰に聞いたのか忘れてしまったのですが、人が最期を迎える時、最後まで残るのが聴覚だ、と。
ことの真偽は定かではないのですが、ああ、もしかして、と思いあたる節が今までいくつかありました。
そのひとつ。
ずいぶん若い頃、車の免許がまだ無くて、原付であちらこちら走りまわっていた時代のことです。
脇から急に出てきた貨物トラックに撥ねられたことがありました。
その時覚えているのはまず
(寒い)
次に
(空が青いなあ)
(おや、放射状に人がみえる。こちらをのぞき込んでいるのかな)
そしてフェイドアウト直前に誰かの声。
「動くな! 頭打ってるぞ!」
救急搬送された病院で、まず気づいたのが
「あー、これは縫った方がいいなー」。
意識が飛んでいるというのは、死んでいる状態にかなり近いようで、その前後に一番自分に寄り添ってくれていた感覚が『聴覚』だった、という認識がありました。
まあ、後あと冷静になってから気づいたことではあったのですが。
面白いことに、痛みはけっこう最後の方で気づいた感じでした。
だから、もし自分が最期を迎える時には
「死なないで!」
と絶叫されたり泣かれたりされると、結局自身の状態がよく分かっていないまま
(なんかこれ、メッチャやばいんちゃう??)
という思いばかりが先立ち、かなり不安なまま天に召されてしまうのでは?? と。
なので、ご家族の方々にも切にお願いしたいのですが、いまわの際にお医者さまが
「どうぞ、何かお声をかけてさしあげてください」
と告げたら、どうか
「○○さん!!」
「まだ逝かないで!!」
などではなく、どちらかと言えばごく日常会話に近い感じで
「そう言えばさあ、目玉焼きは塩だっけ醤油だっけ?」
程度の語りかけを希望したいです。
なぜ急にこんな話になったかと言うと。
高齢の母が、寝しなにラジオつけっ放しで寝入ってしまうせいで、『朝までガンガンとラジオの音が響く暗がり』という空間が始終発生しておりまして、たまに夜中に部屋の前を通りかかると、かなりぎょっとしてしまうのです。
なぜラジオが消せないのか、本人に尋ねても
「寝ちゃったら消せないに決まってるら!?(いくぶん方言)」
と逆切れされるだけで、詳しい心理についてはよく分かっていなかったのですが、ふと、
「最後に耳が残る」
という観点から考えると、
最後まで励ましていてほしい、
最後まで笑わせてほしい、
最後まで、楽しく安らかに過ごさせてほしい、
という思いがごく安易に実現できるからでは? と思い至ったのでした。
彼女らが幼少の時代はまさに『ラジオ』が家庭の主役であったようで、ラジオが聴けない宵は、家族や一宿一飯の旅人らそれぞれの語りが娯楽の中心だったようです。
その頃の思い出に一番近いのが、そのラジオの音なのかもしれない、と。
そう言えば、日常生活でも『ラジオが友だち』という方がけっこう身近に多く、何故なんだろうと思っていたのですが、聴覚というのはあんがい自身の原初の思いに近く、余分な感覚的情報が無く安らぎを覚えると同時に、独特の感覚を研ぎ澄ますことができるようで、芸術家肌の人にこういうタイプが多いようです。まあ、余談ですが。