火曜日
「それでどうしたいの?」とわかりきったような笑みを浮かべながら僕に問う
僕は僕でその笑顔の意味や胸の内をわかるはずもなくたじろぐ
ニコニコしながら君はアイスコーヒーのストローを――僕が異性を見る時には一番に気にしてしまう――そのきれいな指で弄んでいる
どうしたらいいのかもわからぬままに僕は僕でその笑みとその指に見とれたままでいる
時間が止まったような感覚でありながら止まらぬ時間や何も言えない自分にやきもきしている
「うふふ」と君が笑う
いったいどうしてこんなことになったのだろう?
君とどこで再会した?
どうして僕の思いを知っている?
色々な「どうして?」が浮かんでは消えていく
もちろん何一つとして答えはわからない
あの日に何も言えなかったことも忘れていた
環境が変わることでこんなにも楽になれることを知ったのはあの日だった
しかし楽になったはずの出来事も時間がたてばやはり苦しさとして僕に返ってきた
間違いなく君は僕の前で笑っている
全てを見透かしたようなそれでいて――思い込みを承知で言えば――よく思ってくれているようなそんな笑顔
指は相変わらずストローを弄んでいる
僕はと言えばその笑顔とそのきれいな指に弄ばれどこに視線を合わせればいいのかをわからぬままに君の前に座っている
「とりあえず行こうよ」と君が言う
どこに行くんだ?
これからどうなるんだ?
そんなことを思いながらも「行こうか」と僕は返す
君は弄んでいたストローを離すとおいてあったカバンに手を伸ばす
君が立ち上がる
僕も少し遅れて立ち上がる
君は持ち上げたカバンを左手に持ちかえると僕の左側に移動した
僕の心臓が高まり続け呼吸が苦しくなる
立っていた時に君の頭は僕の胸あたりにあった
そんなことを思いながらも僕は呼吸の苦しさに戸惑い隣の君を見ることはできなかった
君の右手が僕の腕をつかむ僕はつかみやすいようにそっと腕を君に寄せる
静かに君が言う
「手つながなくていいの?」と
僕は言う「つなぎたい」と
もう頭の中は真っ白だ
しかしながら僕はこの状況を悪いと思えることもなく君の――どうすることもできないほどにひきつけられてしまう――指が僕の手にくる
君の指と僕の指が絡まる
美しい指というのはこんなにもやわらかいのだろうか?
その感触や温度に僕の心臓はさらに高まっていく
「楽しみだね」と笑みをこぼす
その笑みは――間違いなく――僕の全てを見抜いている笑みだった
僕はたじろぐ
どうしていいのかわからないままに君が隣にいるという事に混乱している
何を思ったか僕は左側を向く
僕を見上げた笑みは――考えるまでもなく――美しかった
「いいよ」と君が言う
僕の心臓の高まりは最高潮に達した
いつもの部屋に僕はいる
スマホで時刻を確認すれば4:37と表示されている
いったいあれだけリアルな夢を見たのはいつ以来だろうか?
本当に心臓が高まっていて僕は少し呼吸の苦しさを覚えていた
起き上ると水を飲みもう一度布団へ入る
久しぶりに嫌な夢を見た気がした
そのままもう一度眠り直し次に目が覚めた時にはスマホの時刻は8:45を表示していた
眠りなおしたからかリアルすぎる夢の嘘か本当かわからない感触や鼓動の高まりなどは一切なくどこか寂しいような気もしたがやっぱり嘘でよかったとしか思っていない
今日は部屋の片づけをする予定でいる
そういえば冷蔵庫も備え付けの物だから中身を空っぽにして掃除しなければならない
とはいえ一人暮らしだとそこまでため込むことはなく今はペットボトルの水とアイスコーヒーくらいしか入っていない
スマホで部屋の写真をいくらか撮影すると着替え近くのファーストフードへ向かった
がらんとしたイメージとを裏切るかのように年配者たちが笑い合っていた
平日の朝なのにと思いつつもそういった集いは日常的にあるのかもしれない
大したことではないのに楽しそうに笑っている年配者たち
他人との接点が楽しさというものに変えていくのだろうか?
他人と接することが少し苦手な僕にとってはその重要性は理解しつつもどこか斜に構えてしまうときが多かった
流し込むようにハンバーガー2個を平らげるとコーヒーを一口飲む
持ってきたノートを広げ部屋の間取りを書きだした
そしてスマホで撮影した部屋の写真を眺めながら片づけていく順番を書き足すことにした
本は捨てる本と残す本で迷いが出そうだからたっぷりと時間を使いたい
洋服は3日分くらい持ち出せば何とかなりそうだから一番早く終わるかもしれない
日用品や薬は使い切れるものは使い切り他は処分してしまえばいい
そういえば依頼した粗大ごみは水曜日にくることになっている
という事は棚は今日中に中身を空けなければならない
それならば10時前くらいまでに洋服を終わらせその後はキャリーケースを買いに行けばいい
集中力が切れふと意識をお店に戻すと年配者たちがやはり楽しそうに笑っていた
他人に頼れることも大事ではあるのだろう
ぬるくなったコーヒーを一口飲むと視線をまたノートに落とした
新しい町はどんな様子なのだろう?
そういえばこの町に来たときは土地勘も何もなかったからすぐに用意できたのはカーテンと布団と机だけだった
(洗濯機も購入こそしたがすぐには持ってこれないと言われ後日設置まで含めて対応してもらえた)
「これから先一人で暮らしていけるのだろうか?」という不安を感じていた
あの日の夜久しぶりに食べたスーパーのお弁当は冷たく忘れたくなるような二度と経験したくないような味だった
そんなことも思いだしぬるくなったコーヒーを飲みノートに段取りを書き足していくそんな作業を続けていた
全てを書き終え最後にコーヒーを飲み干すと年配者たちは店を出た後だった
僕も荷物をしまいトレーを片付けると店を出た
スマホで時刻を確認すると9:45と表示されている
さっそく流れを変更し先にキャリーケースを購入することにした
ここからキャリーケースを扱っているお店までは10分くらい
少しだけゆったりした気持ちで歩く
久しぶりに何にも追われずに生活できている
ストレスがないことを強く望みながら――どうしてだろう?ストレスのない生活がこんなにも単調でそれをストレスに感じてしまうのは
お店の前に着くと既に開店していてスマホで時刻を確認すると10:05と表示していた
急ぐ理由もなく2階のカバンコーナーに併設されているキャリーケース売り場へ向かう
どこかわくわくしていてほんの少しだけ足取りも軽い
何より「ごつごつした感じのがいい」とか「色はシルバー系統がいいな」とかそんなことを考えていた
キャリーケース自体はぴったりと表現できるくらいのものを購入した
さっそく転がしながら帰宅する
一番大きいサイズを買ったせいか「少し大きかったかも」とは思ったがいざ荷物を詰めてみたら少し足りないくらいに思うかもしれないとやはりわくわくしていた
帰宅して気づいたのだが大きいごみ袋が部屋にはない
スーパーでもらえる袋で十分に間に合っていたからだ
(最近では袋も有料になりつつあるがこの地域では袋を断るといくらか値引きをしてもらえるシステムを導入していた)
仕方ないとキャリーケースを置き近くのスーパーへ90Lのごみ袋を買いに行った
準備が整い今度こそ予定通りに作業を始める
最初は洋服から
こちらは予想通りにというか予想以上に速いペースで進んでいった
ファッションに疎かった僕は年間通して無難な格好におちついておりそのためかあまり洋服が増えることはなかったからだ
そして買い足したりするのが面倒くさくもあり下着などは一定のスパンで入れ替えるようにしていた
数年に一回くらいのペースでしか洋服やへ行くことがなかったのだから当たり前と言えば当たり前かもしれない
それでも90Lのごみ袋で一袋分の量を処分することになった
次は本棚へ向かう
全ての本を床に出す
忘れてはいないが再読しようと思いつつ読んでいなかった本がたくさん出てくる
色々な思いがよみがえってくる
気が付けば無理やりに近い就職をしてからどこかあがき続けてきた
あるときには自分の思い通りの生活を手に入れたいと
またあるときには会社で通用するための人間になりたいと
色々なことを求めすぎたせいかもしれない――今の僕が何者でもないのは
やはり本は手ごわいのかもしれない
そんな思いに囚われながらもこれから先を考え処分する本と残す本を決めていった
まさかとは思ったが処分する本はきゃりケースに詰めたところ容量の7割くらいまでになっていてやはり一番大きいサイズでも少し足りなくなるかもしれないという懸念事項は間違っていなかったと気付く
そのまま古本屋へ持ち込むと幸いにしてすべての本に値段をつけた形で引き取っていただけた
少し疲れたと思いつつも部屋に戻る
今度は棚を解体しなければならない
久々にドライバーを握りねじを外し始める――簡単に作れた棚は簡単に解体することができた
既製品の良さは誰でも取り扱えるような設計にあると思っていたがそれは同時に何も残してくれない事を意味するようにも思えるしそこに愛着を持てばやはり残るものはあったのかもしれない
いずれにしても棚が一つなくなった部屋は思いのほか広く感じた
一区切り付きスマホで時刻を確認すると11:15と表示されている
このまま棚の解体まで終わらせてしまおうと残り2つある棚の中身を整理することにした
棚の中には日用品のストックや薬などが入っているがそれらはできる限り処分することに決めていたのでどんどんごみ袋へ入れていく
そういえば一人暮らしになって風邪をひいたときに市販の薬は嫌だと病院で処方されていた物を飲むことが多かったが引きはじめならば市販薬で構わないと考え直し気が付けば少しだけ常備しておくようになったこともスプレータイプだと処分が大変だからと購入しなくなったことも小さくても変化だったのかもしれない
そんなことを思いながらも日用品も薬も処分が終わった
書類スタンドの中に色々な書類が入っている
「こいつは厄介だな」と思いながら広げると部屋を借りたときに備え付けられていた説明書や契約書が出てきた
そのまま返せばいいとやはりまとめておいた
あとは家電品の取り扱い説明書が数冊と契約している駐輪場の書類が出てきた
家電の取り扱い説明書は保証期間こそ切れているもののどこかの中古品販売店に引き取ってもらえればと残しておいたのだろうか?少なくとも使っていくうえで必要性を感じたことがなかった
気が付けば普段より散らかった部屋になりつつあるが仕方ないと割り切り2つの棚も同じようにドライバーで解体した
一区切りついたところで昼食を摂ることにする
何より部屋はもう片付け始めているので外食してしまおうと外へ出た
「そういえばこの町を出ていくんだ」と改めて思う
今までは経験しなかった日昼下がりの日常
比較的自然の多いこの町で太陽が優しく降り注ぎ木々はのんびりした空気を作り出す
地域猫なのかは知らないが道路や塀の上で寝転んでいる猫を数匹見かけた
少し歩き交通量の少ない幹線道路の交差点を渡ると全国チェーンのファミレスがある
そこで昼食を摂ることにした
そういえば僕は食には関心が薄い
どちらかと言えば美味しいものよりも食べなれたものがいいと思ってしまう
そうなると幼少期より食べなれてきたものばかりを選んでしまいデートや仕事で食事をする時には不慣れな感じがして普段よりも食べているのになぜか食事をした気になれないことも多かった
これから先もそんな日々を続けては行くのだろうと全国どこでも内装も変わり映えしないファミレスの中でふと思う
そしてこれもまた全国どこでも変わらないメニューを注文し運ばれて来ると黙々と食事を済ませた
一人のファミレスも案外に慣れてはいなくて早々とお店を出ると少し散歩してから帰宅することにした
交通量の少ない交差点を渡らずに左へ曲がる
幹線道路に沿って歩く
個人経営の赤提灯が並ぶ(もちろん昼下がりからやっているわけもなく軒並みシャッターが下りていた)
歩き続ければ普段は行かないような場所になり意外な場所に感じる
それは僕自身が慣れた場所にしか行かないからかもしれないしその土地にずっと住んでいたとかでもなければ自然な話なのかもしれない
そんなことを感じつつ新鮮さを味わい帰りがけにスーパーで缶コーヒーを3本ほど購入して帰宅した
部屋に戻れば少し散らかった書類が――当たり前だが――そのまま散らかっている
少しばかりの休憩と散歩が気晴らしになったのか先ほどよりは思い切りよくそれらをごみ袋へ捨てていく
不思議なくらいにわけなく終わった
書類が終わると一番触れたくない場所をやることに決めた
思い切って押入れを開ける――雪崩は起きない
ここには普段使う布団と僕の果たせなかった過去が置いてあるだけ
布団は捨ててしまうことにしていたから問題はない
(幸いにして昔キャンプにあこがれた時期があり何を思ったのか寝袋を購入していたからたとえ明日布団を失っても寝袋で寝ることはできた)
それでは一番触れたくないもの――僕の果たせなかった過去――との対峙が始まる
通常より少しページ数を多くしているノートが何冊か出てくる
そこには色々と書き込まれているようで――今となっては――何も書かれていないに等しい
昔に小説家になりたかった
新しいノートを買っては構想を練っては書いている途中でわけが分からなくなることや行きづまりを感じることが多く結局書き上げられたのは作品はあまりなかった
たとえ苦し紛れに書き上げ勢いでコンテストに応募したところで一次選考さえも通過することは当たり前だがなかった
学生時代に気付いた僕自身のこと
それは会社のような組織に縛られるのではなく一人で粛々と物語を紡ぎだしていくことに憧れていたこと
世の中との接点なんてインターネットやSNSを使えば何とかなる時代が来る前だった
(当時のSNSは犯罪や援助交際の温床になると批判されていることが多かった)
周りのいわゆる“まともな”友人たちは皆就職を決めるとそんな僕に対してどこか勝ち誇ったように
「お前も現実と折り合いつけていけよ」なんてありきたりなアドバイスをしてくるばかりだった
社会を嫌がったわけではない
ただ「社会人=会社員」という考えに違和感を拭うことはできないままだった
その違和感が僕の就職活動を鈍らせた
親に泣かれてからすこしばかりの就職活動をするようになりどこかでその違和感を受け入れるようになっていった
世の中では内定率は高い状況にはあったらしいが僕自身はなかなか決まらなかった
今ならばきれいにわかるがその時の僕は仕事よりも生活状況の変化を最小限にとどめることを考えていながら実現させるための具体的な考えまでわからなかった
「定時退社を続け夜には小説を書き続けること」を実現させたかっただけだった
いつからかその夢が嘘に思えてきた
何もわかっていなかった
残業が多かろうが仕事に生きがいを見出して夢は飲めないお酒片手に語るものにしてしまいたかった
夢を語りながらその夢から――僕はいつしか逃げていた
そして今なら認められること――その夢に対して覚悟も責任も持ち合わせていなかった
将来なんていつだってぼんやりしたものだから自らがピントを合わせていかなければけないのにそのぼんやりした物を思い浮かべながら流れた日々
その後は幸いにして中小企業へ就職した
その時にも新しいノートを買っていた
久しぶりにルーズリーフにしていた
会社の歴史や業界の歴史をまとめるのはもちろんのこと仕事に関わることを記していくはずだった
気が付けば目の前の業務に夢中になり終われることでいつしかそんな時間をなくしていた
どこへ向かえばいいのかわからぬ日々
夢を語ることはもちろんのこと“夢”という言葉を忘れていた日々
その後世界的な不況が始まった
いつしか不況から逃げることを考えていた
どういうわけだか僕は「表面上は上手くいく人間のようだ」と思い始めたのもこのころだった
同級生たちが会うたびに卑屈になっていく
昔格好よく思えた人々が格好悪く見えてくる――もちろんスーツを着ているとかそんな話しではない
会社員としてそこそこの生活が続いていた
神様が僕に与えた「あきらめの悪さ」はいい方向に傾き始めた
小説ばかりがはいっていた本棚にはいつしかビジネス書しか入っていなくなった
何冊も読み具体的な行動が見いだせないままに過ごしていた
いつしか時間的自由を求めるようになっていった
気が付けば同級生や学生時代に付き合っていた人間と疎遠になった
それでも楽しかった
「夢なんていくらでも書き換えてしまえばいい」とそう思うようになっていただけの話だ
振り返ればやはりぼんやりとした日々を送っていただけにしか過ぎないのだが今度は少しばかりピントが合っていた
捨てることのできなかった数冊のノート――それは捨てることも書き換えることもできない僕の過去――を眺めていくことにした
会社で使っていた物から始める
転職も経験したがその時に思ったのは職種を変えてしまえば積み重ねたものは嘘になりかねないという事
新卒で入社した会社ではシステムエンジニアという職種だった
文章を書くことが好きだったこととモノづくりに関心が強かったことからシステムエンジニアを目指しただけ
当時はテスト行程を担当しており
仕様書の文書を読みテスト項目を設定するという作業を続けていた
業界特有の話ではあるが行程はいつもタイトで時には弾丸スケジュールになることも珍しくはなかった
いつしか会社に泊まることへも抵抗がなくなりむしろそれを楽しめる自分に驚いていたりもした
帰宅するときでも朝から終電までずっとパソコンとにらめっこを続けていた
文書を書くことが好きとはいえそれは文学のような含みを持たせたものでもなく解釈に違いが出ないものを求められ当たりまだが読み終えた後の余韻などは必要とされないものであった
いつしか時間がないことが当たり前になりその時にはさすがに疲れを感じていたのかすぐに読み終えることのできる短編小説や絵本に触れる機会が多くなったこと
あまりやらなかったゲームに触れる機会も多くなった
(当時はまだゲーム機を使うことが当たり前でその進化に少し驚きそして映像の進化にはさらに驚くばかりであった)
そこで感覚を取り戻すことは少しだけあったのかもしれない
いくらか仕事が落ち着き町が動いている時間に帰宅できるときには本屋に通い続け絵本や短編小説や漫画などを探し続け僕も少しばかりの小説を書いたりするようにもなっていた
「あの頃には戻りたくない」とふと思う
それは時間のコントロールができなかったことや仕事と小説の間で文書に対する乖離を感じていたこと
何よりどこかで自分をだますような働き方に嫌気を感じたからかもしれない
幸いにしてルーズリーフだったこともありバインダーと使っていない部分は持っていこうかと思ったが――そのすべてが僕の過去だと感じるから――新しく用意したごみ袋に入れた
2冊目は夢を描くために使っていたノート
高校生の時にも学校になじめず不本意な進学が決まるとすぐにすべての教科書とノートを処分していた
大学も最初はあまりなじめずにいたがサボることへお咎めがないことが災いしてズルズルと卒業まで右肩下がりの生活を送っていた
何よりここに残っているのはそんな本業とは関係のない僕が夢をとらえきれていなかった面でしかない
あの頃は何もわからぬままに根拠なき自信だけで過ごしていた
色々な作家の本を読んだ
刺さるような人もいれば僕には合わない人もいた
それは言ってしまえば作家とぼくの人間関係のようなものでしかなかったと思う――要は相性でしかないのだろう
ジェットコースターのような展開の小説よりも静かな小説が好きだと気付いたのもこの時だ
いつしか僕はそんな静かな小説を描きたいと考えていた
舞台は小さな町でいい――僕にはなじみがなくても――商店街があって小さくてもしっかり生活している
そんな作品を作りたいと構想を練っていた
あるときには東京を舞台にしたかった
上京した人に聞いた田舎の苦しさを描くよりは東京という冷たさを描き切りたかった
時に「冷たさが優しさになる」という事を小説で描き切りたかった
それは僕自身が静かな小説を好むのと同じでドライな人間関係を求めたからなのかもしれない
当時は東京に――隣人の顔を知らなくても問題ない世界に――住みたかった
そんな色々な構想は構想のままで終わっていた
数ページに殴り書きした構想のメモを眺めながら当時を思い出す
どうやら僕の基本的な性格はあまり変わることはなかったようだ
それでも確実に変わった部分もある
この世界は冷たい訳ではないことを知った
東京に今は済んでいるが当時描いていた東京は実は一面でしかないという事
東京という街は広くはなくても深くはあって色々な顔を持っていること
世界は広いようで実は自分の見たものでしか世界として映らないこと
今の僕が思う世界は――あの頃から少しだけ年を重ねて少しだけ見えた世界が増えた今は――悲しみとマイノリティの集合体でしかないという事
常識とか世間とか実体のないものに囚われることで苦しむ人々が多い
僕はどこかでそれらを冷めた目で見てきた気がする――だからいつも周囲から浮くことが多かった
そんなことを思いながらそのノートをごみ袋に入れた
少し休もうと冷蔵庫を開ける
缶コーヒーを三本買ったがパックのアイスコーヒーが残っていた
パックのアイスコーヒーをコップに注ぎブラックのまま飲む
苦みが広がる――昔は苦手だったこの苦味もいつしか好むようになっていた
どうやら今日は長くなるかもしれないと思いながら味わえるようになったコーヒーの苦みを楽しんだ
3冊目のノートも夢を描くために使っていたノート
こちらには5作品ほどの構想やら一部分が殴り書きされている
全てが恋愛作品のようだ
高校生の時にほんの少しばかりした恋愛に懲りていたのか当時はそういった話に関心を持つことはなかった
何よりすべてが中途半端で過去に対しても暗い思いしか抱いておらずコンプレックスと戦っていたような気もする
そういえば今朝の夢は久しぶりに女性が――昔好きだった人が――出てきたことを思い出す
結論から言えば何もなかった
ただ同じところでアルバイトをしていた
そこで世間話をする機会があるでもなくお互いに知っている人程度の関係だった
いわゆる一目ぼれをしただけにすぎないだろう
今はどこにいるのかさえ分からないし何をしているのかも知らない
言ってしまえば何も知らない人でしかなかった
その人を思い描いたことは一度もない
多分恋愛小説も読んでいたから誰か影響を受けていたのだろう
今の僕も恋愛小説を書く気にはなれないし申し訳ないが読む気もない
これもまた相性や好みの問題に帰結するだけの話でしかないのかもしれない
このノートはすぐにごみ袋に入れた
それだけ思い入れにも程度が出るのだろう
4冊目のノートも夢を描くために使っていたノート
いきなり名前が羅列してあるから少し驚きはしたがすぐに気付いた
ペンネームを考えていただけの話だ
懐かしさを感じながらいったいなぜこれだけのペンネームを考えていたのかがわからなくなる
そういえばインターネットで画数なども調べながら作り上げていた
確かにペンネームを複数持つ作家は珍しくはないはずだしコラムと小説でペンネームを変えることなども珍しくないから当時はそれを考えていたのかもしれない
その後は数ページに殴り書きがしてありこちらの作品等を思い出すことはできなかった
日の目を見ることのなかった僕の分身に別れを告げそれをごみ袋に入れる
5冊目を開いた時に驚いたのはそれが日記になっていたことだ
ざっと全体を見渡したところノートを使い切っていた
しっかり読み込むことためによけておき残りのノートもざっと眺めると全てが日記になっていた
一度台所へ向かう
やかんを火にかけるとインスタントコーヒーを用意した
いったいなぜこれだけのものを僕は捨てずに残しておいたのだろう?
引っ越しをする時にもどさくさに紛れて荷物に入れたことを覚えている
引っ越し先の条件としてかなりこだわった“押入れ”は実家の部屋にはなかっただけではなく過去を封印するために無意識に考えていたのかもしれない
ぼんやりとほんの少しだけ混乱しながら引っ越した時のことを整理する
案外に時間が過ぎていたようで気が付けばお湯が沸いていた
少し熱いからとインスタントコーヒーを入れると飲まずにノートを読み始めることにした
残りのノートは6冊ある
つまり僕は10冊のノートをずっと捨てずに――あきらめが悪く――いつか来るかもしれない夢見ただけの未来に妄想していただけなのだろう
日付を確認しようと思ったが入っていない
言われてみれば日付を入れる癖がついたのは新卒で入った会社の先輩に教わってからかもしれない
仕方なしに片っ端から読み直すことにした
5冊目にあたるノートはどうやら僕が大学生になったころのようだ
高校生から電車通学をしていたが大学に入ると高校とは逆の方向へ電車に乗るところから始まった
とはいえ昔から使っていた路線だから迷うことはあまりなかった
新しい経路にいくらかの戸惑いを覚えながらも時間がたてば慣れていくものだと思っていた
日記ではそんなことやオリエンテーションのテンポの悪さや授業の履修方法について説明を受けたこと
周りと打ち解けることがなく一人でいる時間が長いことなどを記していた
GWにはどうやら高校時代の友人たちに会うことが残されていた
不確かさの中にいると――たとえ暗かった時代の出来事だったとしても――確かなものにすがりつきたくなっていたのだろうか?
それは今でもそうかもしれない
会社員という生活に疲れはて抜け出すことを真剣に考えたが実行はしなかった
或いは実行してもすぐに結果が出ないことを言い訳に3日坊主になっていた
それだけつまらない人間になってしまったのかもしれない
GW明けからはバイトを探し始めたようだ
そういえば高校生のころにはバイトができず色々とストレスを抱えていた気もする
本が買えないとか校則の厳しさなどでよく周りともめていた
今になってしまえば全てどうでもいいような話でしかないのだが当時としてはそれだけ大事な話だったのだろう
夏前には初めて髪を染めたと書いてあった
本当にどうでもいいとその後は適当に読み流しごみ袋に入れた
6冊目にあたるノートはどうやら大学生後半のころのようだ
かなり時間が飛んでいるという事はどうやらそこまで熱心に書くようなことはしなかったようだ
どうして自分のことなのに忘れているんだろう?
そこには大学中退を考えていたことやそれが原因で親と喧嘩したことが記されている
奨学金を使って専門学校への転向を考えていた時期がたしかにあった
あの頃はまだ非常識でしかなかったのだろうが色々なことに取り組むような生活を考えていた
美大に行けるほどのセンスは持ち合わせておらず小説家という道も覚悟を決めておらずどこか宙ぶらりんなままで色々なことをやるから色々なところからお金がもらえて小さく生きていく――そんな未来を本気で信じられなかったのは若すぎたからだと思いたい
結局3年生になりキャンパスが変わり通学時間が長くなったことや午前中に授業を入れずに履修したことが記されていた
どうやら怠惰な生活が続いたようでその後は本を読んだとかバイト先に対する不満だとかそんなものばかりを書いていた
恥ずかしい気持ちになりながらあの時の苦しさを思い出しながらもやはり若さは武器にも仇にもなってしまうことを痛感していた
少し冷めたコーヒーを一口飲み静かにごみ袋にノートを入れた
7冊目にあたるノートは6冊目の少し前の時期になるようだ
少しだけ悩んでいたようだ
どうやら大学生活に抱いた疑問を拭いきれずに退学を考え始めていた
そういえば2年生の後期にそんなことを考えていたことを思い出す
退屈な授業に変わり映えしない毎日
友人は増えずとも部屋の文庫本だけが増えていく日々
(当時はアルバイトで稼いだお金は文庫本につぎ込んでいた)
当たり前だが大学に通っていて大学を辞めたい人に出会うことなどは難しいはずだった
大学という響きの恐ろしさに「通えることが幸せなのに何を言っているんだ」という誤解が生まれやすいこと
当時はそんな世間体に苦しんでいたのかもしれない
或いはそんな苦しみがあったからこそ社会人になってしまった時に「嫌なら辞めれる」という事実が僕の背中を押してくれたのかもしれない
なんだか読んでいてむずがゆくなるような世間知らずなことばかりを羅列しているそのノートをごみ袋へ入れた
残りのノートは3冊
ぬるくなったコーヒーをすすり一気に読んでしまえばいいと思いながらもそうすることなく3冊をごみ袋に入れた
この際すべてを忘れてしまえばいいと思ったからだ
それはどこかでずっと思っていたこと
時間が流れる一方ならば時代が変わることくらい自然な話でしかない
対応できなくなるならばそれはやはり感情が思い出に負けたことになるのだろう
気が付けば空が茜色に染まり始めていた
スマホで時刻を確認すると16:53と表示していた
だいぶ増えたごみ袋
回収は木曜日だから明日もこのままだろう
昔書いた小説に「転がっていた誰かの思い出」なんてフレーズを使った気がする
それは今の僕の部屋がまさにそれを表現していて――そして“出ていく”という共通項があるのはやはりそれを使ったのが僕自身だからかもしれない
会社から支給された定期券は払い戻しができず結局そのまま残ることとなった
まだ期限も少しある
隣の駅まで電車に乗ることにした
服を着替え駅に向かう
その町には駅から少し歩くと大きなショッピングモールがありそこでは映画も見れるし食事もできる
スマホで上映されている作品を調べるも面白そうな作品がなく映画はあきらめた
結局ショッピングモールでは全国展開している洋服屋を眺めたり本屋に入ったりして終わった
どうやら一人で過ごす時間は意外と下手なのかもしれない
何をするでもなく電車に乗り最寄駅へ戻る
一時には田舎で暮らすことを考えてみたりもしたが車が必需品になることや電車でふらりと出かけられるかわからないことや何より近所の人との生活圏が重なり過ぎるという事を聞いて僕には無理だと感じた
「やらなければわからない」とはよく言うが「やらなくても予想することができるならばより楽しそうな方向を目指せ」と一度も言われたことがないのはなぜだろうか?
そんなことを思いながらこの町には溢れるほどにあるラーメン屋へ入った
千円札を一枚券売機に入れ無難そうな名前のボタンを押す
出てきた食券を店員さんに渡しお冷を口にする
一人での外食も結局慣れることはなかったそしてこれからもないだろうと思う
「周りにどう思われているのか」を気にしているわけではない
どこか落ち着かないままなのだ
手際よく作られたラーメンを渡されるとそれを黙々と平らげていく
いつだって外食の時には楽しむよりとか食事するという考えがないままに店を出ていく
食べ終えるために食べているような気がしてしまうのだ
それは幸いにして自炊という事に落ち着いたからまぁ悪くはないのだろう
帰宅ラッシュが始まりそうな19:30過ぎにあまり通う事のなかった小さな本屋へ僕は入った
一通り眺め終えると小さな本屋はどこかしらで個性を持っていると感じた
それは対応なのかもしれないし品ぞろえにチェーン店ではできないようなラインナップを盛り込むことかもしれない――僕自身が会社員ではなく僕自身で勝負するとしたらどのような個性で行くのだろうか?
振り切れない思いが頭をよぎる
案外に時間は過ぎていたようで僕は数回通った赤提灯に入ることにした
「久しぶりだね?どうしたの?」と聞かれる
この世界では寄り添えることが大切になってくるのだろう
きっと色々な事情を抱えた人たちがオアシスとして通うことも想像に難くない
入った瞬間に感じる独特の空気はどこか掃き溜めのような感じもするがもうそんなことはどうでもいい
今の僕自身もそんな掃き溜めに捨ててしまいたい感情を持っているわけだし楽しみたくて来たわけではないのだから
「引っ越すことにしました」と言うと
「いいところ見つかったの?」と嬉しそうに聞いてくる
「いいところ」が会社なのか部屋なのかと感づいてしまうあたり僕自身にいくらかの動揺は残っているのだろう
「会社が倒産することになって他社へしょうかいしてもらえるんですがここからだと通うのが大変になるので」と詳しく話してしまった
「そうなんです」の一言でごまかしてしまえばよかったのだがそうできなかったことは――僕自身がこの町に過去を捨てて逃げるように出ていこうと考えてしまっているからなのだろうか?
「そう」と神妙な顔で言うとぱっと取り繕った笑顔で「じゃあ門出に乾杯しよう」と言われた
その後は久しぶりに飲んだのとどこかでそうしたかったのかもしれないがひどく酔っ払ったこともありあまり覚えていない
気が付けば駅前のベンチに腰かけていた
「平日の夜中はこんなにも静かなのだろうか?」と思えるほどに静かでところどころに24時間営業のコンビニの不自然な明かりが灯っているだけだった
タクシーをつかまえ帰宅する
飲み過ぎたのか頭が少し痛い
明日は色々と捨てる日だから遅くまでは寝ていられない
流れるように過ごした今日をほんの少しだけ後悔しながらどこかでこんな日を時々は取り入れていたら今とは違う生活になっていたのかもしれないと別の何かが僕の頭を痛くする
運転手に行先を変更してもらい「ここからだと遠回りのルートになってしまいますが」と気遣いをされるも
「少し家の遠くに降りたくなったので構いませんよ料金もちゃんと払いますから」と答えた
流れる景色は通いなれたはずの道なのに夜だからなのかタクシーで移動しているからなのか普段とは異なる印象を僕に与えてくれる
「来週にはもうこの町に僕はいない」とか「その時にはちゃんと笑えているのだろうか?」などとほんの少し先の未来を案じているうちに「着きましたよ」と言われた
精算を済ませタクシーを降りる
ほんの少しだけ寒く感じる
僕はゆっくり歩き出すと風が僕の頬に冷たい
おぼつかない訳ではないがしっかりしない足取りで見慣れた建物の前にたどり着く
体が覚えたであろう足取りで住み慣れた部屋に僕は戻る
頭が痛い
水道をひねると薬品の独特なにおいが残っている水をそのまま口に流し込む
そうだと思い出したかのように僕は押入れの中に布団を敷くとそこに寝ることにした
ずっとどこかで憧れていた押入れで眠ること
すぐにでもできたはずなのにと思いながらそんなことする年でもなくなったのかもしれないなどと常識じみた考えが頭をよぎる
どうやら思っていたよりも相当酔っているようだ
そのまますぐに僕は眠ることができた