第一章 2
上下に揺れる、心地良い感覚。
夢うつつの中の、懐かしい感覚だった。
今よりもう少し幼かった頃、大きな背に負われ、寝かしつけてもらっていたことを思い出していた。
物心つく頃には神父の元で暮らすようになっており、他の孤児らと一緒に生活を送っていた。
湖の畔近くに小さな教会があり、そこで暮らす唯一の男性。赤茶けた髪に切り揃えられた髭をこしらえた縦に大きな体躯は、一般にいう『神父』とは在り方は違った。が、そんなことは他の神父らしい神父というものを知らない者にとっては、些細なことである。
教会で暮らす孤児らは10数名いた。捨て子であったり、預けられたまま迎えに来られなかったり、両親を失くした子であったりと、教会に暮らす理由は似たようなものであった。
本当の親を知る子も、知らない子も、揃って神父の情に育てられた。
神父は、誰かを特別に接することはほとんどなかった。どの孤児にも平等に、寡黙に接した。愛情いっぱいとはお世辞にもいえない振る舞いではあったが、決して無情ではない。どこか一線は引いた上で、弱き者の傍に在ることを決めている。
自分は決して父母のような特別な存在ではないのだと、暗に示していた。
ただ、そんな振る舞いであったとしても孤児らは揃って、神父が特別であった。
親を知らないまま育った少年はよく夜泣きをしていたそうで、シスターや年長の孤児らの手を煩わせていたらしい。
どうやっても愚図つく赤子にシスターも年長の孤児らも両手を上げていたところに、神父が気まぐれに抱き寄せあやしてみたところ幾分か落ち着いたようで、以降、夜になると寝かしつける為に神父は少年を抱いて夜空の下を散歩することが習慣となってしまった。
言葉を覚えるようになった頃からはその習慣はほとんどなくなったが、時折、どうやっても眠れないときは神父の元を訪れ、夜の散歩をねだった。
神父は困ったように溜息をつき、嗜めの言葉を口にするのだが、その口調は柔らかく、仕事をしていたであろう手の動きは、一段落に向かっていた。
「いい加減に寝られる努力をしろ」
そう言って、湖畔までの道を一緒に歩いてくれた。
手を引いてくれるなどはなく、寧ろ隣を歩くなどもしなかったが、先を行く自分の数歩後ろを遅れて付いてきてくれる。
振り返れば、不貞腐れたようにしながらも夜空をみて歩く神父がいてくれる。心がほっこりとする瞬間であった。
そして、歩き疲れる程の時間を歩いて瞼が重くなる頃、その大きな背中に体を預け、ゆっくりと孤児院へ帰っていく。
その時だけは、神父は自分だけのものの様に思えた。
父親の背に負われているのだと、そう感じることができた。
「おい、しっかりしろ」
頬を軽くはたかれて目が覚める。
どこか懐かしいような顔が、こちらをのぞき込んでいた。
「わかるか?ほら、水だ。飲めるか?」
木で彫られた椀の中に水が入っていて、口もとまで押し当てられる。
ごくごくと、喉が鳴った。
「落ち着け、ゆっくり飲め…って、言わんこっちゃない」
喉が性急に水を求めており、慌てて飲んだ結果、盛大に噎せた。椀に残っていた水もほとんどこぼしてしまったようで、地面の土がそれを吸っている。
彼は呆れ顔になりながらも、椀にもう一杯水を汲んでこちらによこしてくれた。
「十分あるから落ち着いて飲め。もうこぼすなよ」
ひとしきり噎せて呼吸を整えると、今度は両手でしっかりと椀を持って水を喉へと運んだ。
ゆっくりと喉が潤いを取り戻す。
二杯目を飲み干したところで人心地つき、隣に佇む彼の方を振り返った。
「ありが、とう…?」
自分で発した声のはずなのに、違和感を感じる。
果たして、自分の声色はこんなものだっただろうか?
不確かな感覚に戸惑いながらも、それを後回しにした。その感覚は妙なものではあったが、ちょっとした違和感程度であって、全く馴染みのないものではなかったので、後回しにすることが許容できたに他ならない。
改めて彼を見やる。
体躯はしっかりとしており、日に焼けていてがっしりとした身体だ。
神父に似ている…と思っていたが、似ているのは赤茶けた髪だけで、髭はどこにもなかった。そして何より、神父は確かに壮年であったが、目の前の彼は青年であった。
「神父さまじゃない…」
ポツリとこぼれた言葉。
それが何故か胸を切なく締め付けた。
「あぁ、それな。気になってたんだ。何なんだその『シンプ』ってやらは…って、おい。何で泣くんだよ」
「え?」
泣いている?
言われて、自分の頬に手をやると、先程飲んだ水程ではないが冷たいモノが触れた。
本当だ。自分は確かに泣いている。
「すみませ、あれっ…」
涙を拭って止めようとするが、意志とは裏腹に涙は後から後から追って出てきた。
「…ッチ。これだからガキは面倒なんだ」
彼は頭を乱暴に掻きながら、ドカッとその場に胡座をかいて座った。そして、手をこっちへ伸ばしたかと思うと、ガシガシと頭を揺さぶるように撫でた。
「え、ちょ、あの!?」
「さっさと全部出せ」
「わ、わ、やめ…!」
髪の毛をぐしゃぐしゃにされて、抵抗して彼の腕に手を伸ばす。伸ばした自分の腕は彼の一回りも細かった。
「もう止まりました!止まりましたから!やめてください!」
必死に抵抗していると、本当に涙は引っ込んでいった。
涙と共に突然溢れた謎の寂寥感は、乱雑な行為に払拭されてしまったようだ。
なぜ自分は彼を神父だと思ったのか、更に疑問に思ってしまった。
いや、顔の印象だけ見れば似ている部分もある…ようにも思えーーー
「…あれ?」
そこで、先程まで脳裏にあったはずの神父の顔が不確かになったことに気付く。
おかしい。さっきまで、あんなにハッキリと思い浮かべることができたのにーーー
ーーー忘れてしまう。
目覚めた時にも感じた、あの感覚。
確かに頭にあったはずのモノが揺らいでいく感覚に、動揺を隠せなかった。
「おい。今度は顔が青いぞ。大丈夫か」
そんな自分を見て、案ずる声をかけてくれた。
無骨な態度だけど、その声に労りの色があることは感じ取れる。
「まぁ、『忘却の湖畔』でいたんだ。わけが分からんっていうのも仕方ねぇか」
ーーーいま、何て?
「爺どもが騒がなかったら俺だってあんな所の散策なんてしてねぇからな。ギャアギャア煩ぇからサッと立ち入って帰るつもりでいたんだ。そしたら、ふらふらしながらお前が歩いてるのに出くわした。びっくりだ」
「…なんとなく、知り合いの神父さまに似ていたから」
それが一番しっくりくる言葉だった。
「ふーん。まぁ、じゃあ教会にでも行けばその神父さまとやらに会えるかな。俺はあまり信仰心が厚い方じゃないから、ほとんど行ったことないんだけど」
「神父さまは、星に逢いに行ったから、会えないんだ」
そのニュアンスで、青年は言葉に詰まった。
暗に、亡くなった、ということを言っているのだろう。小さな子どもに『死』を教えるとき、大人はそういった感覚で刷り込まそうとする節がある。
青年はそういった物言いを嫌っていた。
伝えること、教えることの難しさを、自分の力量の無さではなく受け取る側の器の小ささに逃げているようにしか思えなかったからだ。
「そいつは残念だったな。神父のこと、好いてたのか」
「うん。大好き」
「じゃあ、その神父は幸せに生きたさ。誰かに望まれることは命が輝くことなんだからな。輝く時間は人それぞれだが、最後の最後まで輝けるっていうのは、なかなか難しいんだ」
「…そうなの」
「あぁ。想いと願いが力になるこの世界じゃ、人の為に望むことは利益を生むか否かで考える奴も少なくない。純粋に望まれるってことは、思いの外難しいものなんだ」
「想いと願いが力になる…?」
首を傾げて言葉を繰り返す少年を見て、青年はふっと表情を崩した。
少年にはまだ難しい話だったか。
そう思った彼は、まだ少年の名前も年も知らないことを思い出した。
「俺はウォレス。今は開拓業者に雇われてこのライヴァールに流れてきてるんだ。もうあと2週間程で終わるがな」
「ライヴァール…」
「ここいら一帯、近いうちに何かを建立するんだと。ライヴァールはもともと人口も多くないし、手付かずで管理するというより放置されてる小山が多かったからな。ライヴァールの領主は温厚だけど馬鹿じゃないから、怪しいもんが出来ることはないだろう」
「ここはライヴァールという地なの?」
「まぁ、ライヴァールの領土だからな」
「ウォレスは、どこから来たの?」
「俺は…って、俺が答えてばかりじゃないか。順番だ。次はお前が答えろよ。名前は?どこから来たんだ?」
ウォレスはしゃがんで少年の前に顔を合わせた。
紅い瞳が見返してくる。が、その瞳は忙しく揺れていた。
「…ウィリウス。みんなは…ウィルって、呼んでる」
「何で嘘をつく?」
ウォレスは紅い瞳をじっと見つめた。
こいつは嘘をついている。それも、戸惑いながら騙ったところを見ると、知り合いの名前を使っている。でも、名前を騙るのはこれが初めてのことだろうと察しもついた。
先の言葉に揺らぎを感じたこともそうだが、ウォレスには子どもの話す真実と嘘を見分けることくらい簡単なことだった。
「本当のことを言え。曲がりなりにも、俺はお前を助けてやったんだぞ」
「…!」
ウィルと嘯く少年は、ビクリと強張った。
その後すぐ、犬の耳でも垂れたように肩を落としていく。
「ごめんなさい…嘘ついて。本当の名前は、ティモシー…」
「何で嘘なんかつくんだ。自分の名前で」
「みんな、弱虫ティムって呼ぶから…友達の名前を言ったの」
「ウィルはお前のこと、弱虫ティムって呼ぶのか?」
「ううん、ウィルはティムって。それだけで呼んでくれるよ」
「そうか。じゃあ俺はお前のこと嘘つきティムって呼べばいいのか?」
ティムはショックを受けた顔をした。
そして、泣きそうに顔をしかめる。
「おいおい。泣き虫ティムなのか?」
「違う!」
「お。今度は怒りんぼティムか。次は何だ?」
「僕はティムだよ!ただのティムだ!」
ティムは大きな声でそう言うと、しっかりとウォレスを睨めつけた。その瞳は薄っすらと涙を湛えているが、決して泣かまいとする意志が見て取れる。
「そうか。じゃあ、ただのティム。よろしくな。最初から普通に挨拶すりゃあいんだよ。めんどくせーだろ」
ウォレスはそう言うと、ニヤッと笑ってティムの頭をクシャクシャに撫でた。
抵抗しようと手を上げた時にはもうそこに腕はなく、ティムは立ち上がったウォレスを見上げていた。
「腹が減っただろ、ただのティム。飯を食いに行くけどお前もどうだ?」
ウォレスはニヒルに笑った。