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第一章 1

藁の乾いた匂いと草花の青々しい匂いが鼻の奥を擽る。



匂いを自覚したのは唐突だった。


そして、そこから思考が呼び戻される。

ただ、先程まで確かに思い描いていたはずの情景だけは、淀んで霞がかっていて見ることができない。

思い出してみようと記憶を追い掛けるが、触れようとすればする程にそれは不確かなものになり、小波のように遠ざかっていく感覚に溺れた。


暫くの間、身動ぎもせずに不鮮明な記憶に思いを馳せていたが、それも無駄なようだった。

何を見ていたのか、それはきっともう思い出すことは叶わないだろう。

そうやって気持ちに区切りをつけると、鈍くなっていた感覚が戻ってきた。


嗅覚だけだった感覚は、ぼんやりと視覚を取り戻し、カサカサと風の揺らぐ音が耳に届き、次いで触覚をたぐり寄せる。

五感が戻ってみると、やけに温かで穏やかな気持ちになっていった。



いつまでも包まれていたいような柔らかな空気。

これは覚えのある感覚だ。

途絶え途絶えだった全ての感覚が、一つに繋がっていく。

痺れるようなむず痒さの後から、遅れてせり上がってきた感じがした。



「あ、さ…?」



言葉を紡ぐこともできた。

ただ、喉の奥がかさついていて、ひどく掠れた音となる。


キラキラと優しい陽の光が顔を照らしていた。


柔らかく沈んだ体を包んでいたのは、乾いた藁の山と春の木漏れ日だった。



ゆっくりと体を起こす。

途端ら何時間も寝ていた時のような、ひどい体の怠さが全身にのしかかった。


周囲を見やると、そこは放置されたような物置跡だった。

工具や農具は今は使われていないと分かるほどに傷んでいたし、体の下にある乾いた藁も保管しているというより、ただそこに置かれた結果、天日干しになったという表現が正しいと思えるほど乱雑な状態だったが、まだそう遠くない期間で人の出入りがあったのだと思われる程度に古ぼけている。


放置されている、という点は否めなかった。



一部剥がれたらしい屋根の部分から、陽の光が差しこんできていた。

少年が先程感じたように、それは麗らかな春の光であった。



「…みず、」



周囲に藁や朽ちかけたロープ、農耕具類しかないことが判ると同時に、喉の乾きを思い出す。

ここには口にできそうな物はなにもなかった。

重い体を、腕を踏ん張るようにして支え起こし、出入り戸へ向かう。


ーー外に出れば、湖の水がある。


そう思いながら、戸を押し開けた。




ふらつく膝を手で抑えながら外に出ると、草木が生い茂っていた。

知る湖畔に似ているが、どこかが違う。

生まれてからの多くの時間を湖畔近くで過ごしていたことで、違和感を感じることはできていたが、不思議と、どこが違うのかは明言することができない。

ただ、何かが違うことだけは解った。







辺りを見渡すと、踏みしめられた跡が続いて自然と道になったような細い線を下手に見つけることができた。


ーーーそうか、道が、違っているのだ。


匂いや、この場所一帯が孕む空気、木々の囁きはほとんど変わらない。ただ、そこに在る道は覚えのないものだ。


その道に足を向け、小屋から離れていく。



10分程歩いたところで草が刈られただけの、それでも人の手で整備された道に開けた。

草や木の根に足を取られなくなったのも手伝ってか、歩みは多少早くなる。が、それでも下り坂のようになっている山道は決して歩きやすいとは言えないものだった。


じっとりとした汗が出て、背中にシャツが貼りついてくる。

喉の乾きもそろそろ限界に達しようとしていた。

目の前がまた霞んでくる。目覚めたときは心地良いと感じた暖かな気候は、ゆっくりと少年を蝕み始め、脱水症状がじわじわと侵蝕していった。



「おや、珍しいな」



ふと、声が聞こえた。


自然と下ばかり向いて歩いていたのか、顔を上げるまで数十歩先に人がいることにも気付かなかった。




汗で滲んだ視界を擦り、しかめるように先の人物をみる。

木こりの格好をした赤茶けた髪の壮年が少年を見やってた。


途端、全身の力が抜け落ちる。

思った以上に緊張していたらしい身体は、その緊張感をもってして鞭打ちながら動いていたのだ。

安心したと同時に、その場に崩れ落ちてしまった。



壮年は駆け寄ってくると、体を支えてくれた。

その時には、もう意識は中半沈んでいて、彼の顔は歪んで見えた。












黒髪に白い肌の線の細い少年だった。

その顔にかかった長い前髪を払い、青白くなった顔をのぞき込んだ。



「おい、大丈夫か?」



少年が瞼を開けると、ルビーのような紅い瞳が焦点定まらずにぼんやりと見返してきた。



「…これは…また、なんと」



一瞬、その瞳の色に驚いて額においた手を離そうとした。

が、その手を少年は離さなかった。

掴まれた手に震えが伝わる。少年は泣いていた。

くしゃくしゃに顔をしかめながら、静かに泣いていた。




「会いたかった、神父さま…!」



少年の手は震えていたが、それでも離すまいという意思がそこにあった。

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