自分と完全なる同一性を持った他人
自分と完全なる同一性を持った他人がいたとして、果たしてそれは他人と言えるのか。もはやそれは『自分』なのではないだろうか。
自分と完全なる同一性を持った他人。それは肉体においてはクローンのように遺伝子学的に同一で、かつ他の要素も然りな物であり、精神においても全く同一の物。これは一種の分裂。一つから二つ、三つ、——あるいはそれ以上かもしれないが——と、完全に同一な物の生成。
果たしてそのような物が実現可能かは分からないが、もし可能だったとして、本当の『自分』とは何だろうか。
もしこのような事が可能だった場合、どちらが本当の『自分』なのだろうか。
コピーの元になったオリジナルが本物か? それはおかしい。そも、どのようにオリジナルとコピーを見分けるのか? オリジナルとコピーが見分けられるような物は、完全なる同一性を持っていない。完全なる同一性を持った物は、どこをどうみようと見分けがつかない。
ならば本人達に聞くか? いや、それも不可能だ。オリジナル——仮に神の視点から見たとして——にとってコピーはコピーであるが、そのコピーからすれば、オリジナルこそが自身のコピーであるよう思えるだろう。
あるいは、オリジナルからコピーを作った者がいるとして、その者にならば分かるか? これもまた否である。その者がコピーを作った時点でそのコピーはオリジナルでもあり、オリジナルはコピーでもある。
そも、複製された者の意識はどうなるのだろうか。
完全なる複製ならば、二者——あるいはもっとたくさんだが——の記憶、性格、その他は全て同じである。この時、何が起こるのだろうか。いま私たちは自分の視点で人生を謳歌している。それが、二つとなる。二つの視点を持った同一な物。元々あった意識はどちらに宿るのだろうか。元々あった肉体に残るか? だが、その元々あった肉体と複製された物は全く同じな物である。全く同じ意識が二つになる。それは、どちらがオリジナルでどちらがコピーなのだろうか。自分の持っていた世界はどうなるのか。ここに境界は存在しない。
もし、この、完全なる同一性を持った二者を会わせたらどうなるのだろうか。
どちらがオリジナルなのか、コピーなのかの口論にでもなるだろうか? これは、全くの的外れだろう。なぜならば、どちらもオリジナルであり、同時にコピーである事を一番よく知っているのはその者らなのだから。
ではどうなるか。これは全く予想できないが、恐らくどうにもならないだろう。なぜなら、その者らは精神まで同一なのだから。その者らの精神は混ざりあっている。お互いが『他人』ではなく『自分』である感覚。コピーはオリジナルであり、オリジナルはコピーであるように、『自分』は『他人』であり、『他人』は『自分』である。
自分と、自分と完全なる同一性を持った他人は区別することが出来ない。それは当事者にとってもそう。此処に於いて、『自分』と『他人』は同一である。