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モーターの微かな回転音と、タイヤが路面を擦る音だけが静かに薄闇に響く。
壁面の照明灯がかなりの勢いで後方に流れていく。六十キロ近くは出ているだろうか。パネルの速度表示を見やり、想像とそれほど離れていない速度で安定していることを確認して、当真はそっと身じろぎをした。
シートはお世辞にも快適とはいえない。スプリングは固く、長時間座っていると躯が強ばってくる。
運転はリーリャによる遠隔誘導のため、乗っている方はただ運ばれているだけで、やることはほとんど何もない。坑内のセンサーはあてに出来ないため、周辺への警戒をするくらいだ。
そもそも操作盤が申し訳程度についているだけで、手動操縦するための機構は最初から用意されていない。神経リンクで接続すれば自分の体のように動かせるだろうが、そこまでする必要は今のところなかった。
坑内移動にそれほど自由度はない。途中でいくつか合流地点があったが、ルートを選ぶのもリーリャなので、当真には何もすることがなかった。
とはいえ、戦闘に入ればリーリャ任せには出来ない。そのときは自分がいつでもコントロールを握れるよう、当真は備えていた。
一方、助手席に座った弓夏はというと、決して座り心地がいいとはいえない固いシートに躯を預け、腕組みをして目を閉じている。眠っているわけではないようだが、警戒していないわけでもない。無駄な体力を極力使わないようにしているだけだ。
後部座席の和も、今は大人しくしていた。動き出した当初はドライブ気分ではしゃいでいたが、トンネルの中の風景などそうそう変化があるわけでもないので、すぐに退屈したらしい。寝息が聞こえるような気がするが気のせいだろう。貨物積載スペースに胡座をかいたリュードも、同じように目を閉じて躯を休めていた。
当真も身を休めていればいいかもしれないが、そうは出来ないあたり、損な性分だった。といっても常に気を張っていられるわけではなく、気がつくと眠り込んでしまいそうになり、慌てて頭を振って目を覚ます、という動作を何度か繰り返す。
「眠いなら眠っていてもいいですよ」
「いや、そうもいかんだろ」
リーリャの言葉をまるで悪魔の囁きのように聞きながら、当真は苦笑した。
「休めるときに休んだ方がいい。私が代わるから寝てろ」
今まで目を閉じていた弓夏が不意に口を開いた。漆黒の瞳がこちらを見ていることに気づき、当真は一瞬驚いたように目を見開いていた。まさか弓夏の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。
「……あ、ああ。いや、大丈夫だ」
「いいから寝ろ。居眠りされても困る」
当真の言葉を信用する気ははじめからないらしく、弓夏の声音には反論を許さない断固たる響きがあった。実際、何度か居眠りをしていたこともあって、当真も反論は諦めた。五分程度でも眠れば頭もスッキリするだろう。
「わかった。何かあったら起こしてくれ」
言って、当真は固いシートに躯を預けると、そっと目を閉じた。
「両班隊ともに坑道を移動中。今のところ、敵との遭遇はありません」
それぞれ三体ずつ機巧人形を従え、〈メネラーオス〉の周辺警備を行いながら、クラウディアとヴァネッサはリーリャからの報告に耳を傾けていた。それぞれ自分の担当の班隊の挙動から目を離せないようだ。
「先ほど、坑内の再スキャンが完了しました。クイーンの位置は依然として特定できませんでしたが、〈影〉の侵入を確認。少なくとも十体は入り込んでいるようです」
坑道マップ上に点滅する赤い光点がいくつも表示されていく。それらは二~三個体からなる群集団を形成しつつ、各々の速度で無秩序に動いていた。警備行動ではない。また、特に戦略目標があって移動している様子もなかった。単に獲物を探して彷徨いているだけのようだ。
「イリーナたちの方が近いな」
「はい。全体として連携して動いているという様子はありませんが、近いのは第二〇四四班隊です」
「向こうも気づいているだろうが、念のためだ。知らせてやれ」
「分かりました」
リーリャからの警告がくるより先に、イリーナたちは〈影〉との遭遇戦に突入していた。
最初に〈影〉に気づいたのは先行しているアレンだ。防御力は低いが、感知能力が極めて高く、索敵範囲の広い彼がいち早く敵に気づき、戦闘態勢をとった。
前衛は長槍を構えたヘルミーナと多節棍を手にしたマティアス。後衛は拳銃を構えたアレンと領巾を手にしたイリーナである。トンネル内部で化身をフル展開すると被害が予想できないので、武器のみの展開だ。防御自体は結界に任せる。〈影〉相手ならこれで充分だろう。
接近してくる〈影〉は三体。虎か豹のような姿形で、見るからに強力そうな大ぶりの牙と爪を備えているのが一目で分かる。あたりをうろうろと見回し、パイプやケーブルの臭いを嗅いだり引っかいたりしている様は、餌を探している野生動物さながらだ。だが、その餌となるのが自分たちとなれば、黙って眺めているわけにもいかない。
壁際に身を寄せ、視線と手信号で攻撃手順を確認したイリーナたちは、タイミングを見計らって一気に飛び出した。
アレンが飛び出しざまに床に身を伏せ、銃撃を叩き込む。不意打ちを食らって体勢を崩した敵にヘルミーナとマティアスが肉薄し、それぞれ攻撃を仕掛けた。勢いよく突き出された長槍が敵の喉を貫き、破壊の唸りを上げて振り下ろされた棍が頭部を粉砕する。
残った一体が反撃のために跳び上がったところを、イリーナが優美に身をくねらせて振るった領巾がしゅるりと蛇のように絡みつき、その身をギリギリと締め上げていった。骨を砕き、肉を千切る勢いで。
これが生まれて初めての実戦であることを全く感じさせないほどの呆気なさで、戦闘はものの十数秒で終わった。始まったのと同じくらいあっさりと幕を閉じた戦闘の終了を、〈影〉たちの崩壊音が告げる。
だが、それは別の戦いの始まりでもあった。この戦闘音が他の〈影〉たちを一斉に呼び寄せることだろう。そしてクイーン自身をも、もしかしたら。
「さぁ、鬼ごっこの始まりだよ。まずは鬼を呼び寄せないとね」
視界に誘導ポイントへのルートを示す矢印が表示される。意識の隅に表示させたマップ上を、敵を示す赤い光点が一斉にこちらを目指して動き始めるのを確認したイリーナは、何事もなかったかのように立ち上がった班隊員たちとともに走り出した。
追いつかれ過ぎず、さりとて離れ過ぎもしないように。つかず離れずの距離を保ちつつ、敵を誘導するのは、訓練でやったより難しいかもしれない、とイリーナは頭の隅で思う。
訓練で敵役を演じたのは学校の管理電脳だったが、当然ながら彼女は実戦を経験していない。実戦に出ている強襲揚陸艦の管理電脳たちと経験を共有しているとはいっても、訓練と実戦のあいだには容易に乗り越えられない壁があるようだった。
「戦闘が始まったようです」
「らしいな」
リーリャの声に頷いて、ヴァネッサは戦略マップに今更ながら意識を振り向けたふりをした。実際には先ほどからマップを食い入るように見つめていて、ずっと目が離せないでいる。襲撃を受ければ真っ先に危うくなる自分の身より、教え子たちの方が心配だった。
マップ上を光点が一斉に移動していく。青の光点は当真たちを示す。こちらは他の光点には一切目もくれず、敵砲塔を示すオレンジの光点への最短ルートを驀進している。一方、緑の光点はイリーナたちだ。当真たちとは反対方向、敵砲塔と〈メネラーオス〉の中間地点に設定したポイントへと敵を誘導するように動いている。
今のところ、上手くいっているようだ。敵を示す赤い光点は一斉に緑の光点を目指して集まっている。ただし、その中にクイーンが含まれているかどうかは分からない。敵の位置情報は正確に把握出来ていないからだ。あの坑道の中に今も潜んでいるのか否か、それすら定かではなかった。
緑の光点は坑道の分岐点に差し掛かろうとしていた。比較的開けた空間なので動きやすくはなるが、それは敵にとっても同じことだ。しかも敵は周りの坑道から次々に雪崩れ込んでくる。
どうするのかと思いながら見ていると、分岐点の手前で停止した。ここで敵を迎え撃つつもりらしい。開けたところから狭いところに入ろうとすれば、どうしても渋滞が発生する。そこを各個撃破していけば無駄がない。
「教科書通り、か」
弓夏なら迷わず突っ込んでいただろう。それが彼女の戦力を最大限発揮できる戦い方だからだ。敵群の中に一人切り込み、周囲から襲いかかってくる敵を片っ端から縦横無尽に斬り伏せていただろう。周りに仲間がいたらそんな戦い方は出来ない。フォローする仲間の方にも、彼女の動きを邪魔しないようにするだけの伎倆がいる。
「流石だな、クラウディア。よく躾けている」
そのような危なっかしさはイリーナたちにはない。基本戦術に忠実に従い、可能な限りリスクを減らしつつ、最大限の戦果をあげるよう努力する。無駄のない動きだった。よく訓練された猟犬の狩りを眺めているかのようだった。
「そりゃ、あたしの生徒だもの、無茶はしないわ。そんなのは馬鹿のすることだって教えてるもの」
「……手厳しいな」
クラウディアの自慢げな言葉に、ヴァネッサは苦笑した。
教官としての任に就いて三年になるが、良くも悪くも、クラウディアの育てた生徒はみんな同じような感じになる。ヴァネッサの教え子とは大違いだ。
教官としてはクラウディアのやり方の方が正しいのだろうが、自身も型に嵌められるのが苦手なヴァネッサには、生徒を『兵士』という型に鋳込むことは出来なかった。それをするとせっかくの個性を殺してしまうことになるような気がして。
とはいえ、生徒の個性を最大限に伸ばすような教育が自分に出来ているのかと問われれば、そんな自信は全くない。
クラウディアと違い、彼女の教え子たちの実戦配備後の戦績は決して芳しいとは言い難かった。良くも悪くもアクが強いままで、黙って命令に従う猟犬に慣れた指揮官にとっては些か使い勝手の良くない兵士ばかりだ。個々の能力は突出して優秀だが、作戦行動に混乱をもたらすとされることも少なくはないと聞く。
個性を大事にしたい、などというのはヴァネッサの我が儘でしかない。無論、そんなことは彼女だって分かっている。
毎日、世界の何処かで都市がゾーンに飲み込まれる。だが、それを解放するために送り込まれる降下猟兵の絶対数は足りていない。そのための少数精鋭だ。だからこそ忠実な猟犬であるべきだ、という考えは理解できる。昔のように、訓練にたっぷり時間をかけていられるほどの余裕もない。
しかし、彼女は兵士ではなく狩人を、猟犬よりは狼を育てたいと思っていた。かつて、彼女を教育してくれた恩師がそうであったように。
そう思い、無意識のうちに腰に巻いた連刃鞭のグリップに指を這わせる。数々の卓越した技とともに師から受け継いだものだ。いつか、彼女もこれを教え子に引き継がせることが出来るだろうか。
「あんたが甘いのよ。そんなやり方を許してたらあの子、そのうち死ぬわよ」
「かもしれん」
イリーナたちが淡々と敵を撃破していくのを眺めながら、ヴァネッサはそっと呟いた。このままでいいかどうかは、この戦いの結末が教えてくれるだろう。
マップの中では、青の光点がオレンジの光点とほぼ重なりつつあった。戦闘もなく所定のルートを抜けた弓夏たちは、敵砲塔の真下近くまで辿り着いたのだ。
だが、敵砲塔周辺はネットワークが寸断されているか、何らかの障害があるのだろう、リアルタイムの情報が全く入ってこない。〈影〉の配置はもちろん、弓夏たちの状況も、こちらからは全く把握できない。
通信不能エリアに入る直前にそう知らせてきたのを最後に、彼らからの連絡は途絶えている。ヴァネッサは半ば祈るような思いで動かなくなった青の光点を見つめた。
リーリャからの誘導が途切れたため、電動車《EV》は路肩に身を寄せるようにしてそっと停車した。地図上では目標地点は目と鼻の先だが、これ以上は先に進めない。
道が塞がっているからだ。
誘導が途切れた理由は、目の前に聳え立って道を塞いでいる漆黒の壁にあると思われた。それがパイプやケーブルたちを丸ごと飲み込んでいる。
あたりの壁にも細い毛細血管のように広がり、深々と食い込んでいた。まるで巨大な生き物の体内に潜り込んだような錯覚すら覚える。
恐らく、これが敵砲塔の根本部分なのだろう。地面に深々と食い込んだ黒い棘は、都市のエネルギーケーブルから電力を吸い上げているように見えた。あの苛烈極まる砲撃の源泉は、ノイエラグーネの地下深くに設置された主動力炉だったのかもしれない。
ネットワークケーブルも同様に飲み込まれているため、信号の品質が明らかに落ちている。とはいえ、敵が暗号化された通信内容を理解しているかどうかまでは分からなかった。単にエネルギーの流れと思っているのかもしれない。少なくとも、〈敵〉が人類とコミュニケーションをとろうとした形跡は今のところなかった。
「……凄いな、こいつは」
トンネルには収まりきらないほどの巨体を呆然と見上げて、当真は呟いた。天井部分には大穴が空いていたが、外の方が暗いのでどうなっているかは全く分からない。
「リュード、ここから狙うっていうのは可能か?」
「やれないことはないですが、あまり意味ないと思いますね」
当真の問いに、リュードは小さく首を振って答えた。すでに破壊されたもう一つの敵砲塔の構造モデルを提示しながら続ける。
「こいつは奴の根のひとつでしかないんです。こういうのが周辺にいくつも根を下ろして本体重量を支え、都市からエネルギーを吸収してる。だから、こいつだけ破壊しても効果は薄い。やるなら全部吹っ飛ばすか、本体を破壊しないと」
「なるほどな。じゃあ、他の根も全部爆薬を仕掛けるというのはどうだ? 持ってきてるんだろう?」
「一応持ってきてはいますけど、こいつに使うのを想定したものじゃありませんからね。何処まで効果があるかも分かりませんし、それをするには人手も爆薬も足りません。根は他にもあるわけだし、そんなことやってる暇はないと思いますよ」
当真の提案に、トンネルを半ば崩落させながら深々と地面に食い込んでいる『根』を示して、リュードは小さく首を振った。この先には進めないから別のルートを探すしかないが、それにはかなりの遠回りを強いられる。
「こいつを吹っ飛ばすだけでも正直厳しいでしょうね。この調子だとルートも多分寸断されてる筈ですから、他の根の位置まで移動も出来ませんし」
「そうか、じゃあ仕方ない。こいつには爆薬を仕掛ける程度にしておくか。何もしないよりはマシだろう。遠隔で起爆させれば牽制くらいにはなるはずだ。タイミングはお前に任せるよ」
「分かりました」
頷いて、リュードは背嚢から吸着爆弾をいくつか取り出すと、爆破制御チップに設定を記憶させて挿し込んだ。それを漆黒の壁面に放り投げるようにしてやると、ぴたりと貼り付いて離れなくなる。
一見無造作に見えるが、爆発の破壊力を最大限発揮する配置になっている。とはいえ、反対側へはこちらから回り込めないから、根の全周を破壊することは出来ない。
「こちらから上がれるようだな」
電動車から離れて周辺を見回していた弓夏が壁面の一角を見上げた。抗道に入った時に使ったのと同じ細い梯子が、壁面に張りつくようにして上の方に伸びている。
「上の様子は分からんか……ともかく出てみるしかないな。和、先行しろ。弓夏は和をバックアップ。くれぐれも現時点での戦闘は避けろよ。これでも隠密行動だ」
「それは相手次第かな。まぁ、努力はしてみる」
当真を一瞥して小さく頷き、和に続いて梯子にとりついた弓夏は、そのままするすると登っていった。その姿を見送って小さく溜息を吐くと、当真は爆弾設置作業を終えたリュードを先行させ、最後に周囲を見回してから梯子に手をかけた。
艦との連絡が絶たれ、ネットワークから切り離されても、作戦行動に支障はない。元々の地図データに光学観測の結果を加えた最新の地図は文字通り頭の中にローカルファイルとして入っているし、自分の絶対座標を確認するだけならネットワークとの接続は必須ではない。ネットワークが寸断されていても街の其処彼処にある結節点は生きているから、その位置座標を使えばいいのだ。
もちろん、不安がないと言えば嘘にはなる。だが、こういう事態を想定した抗ストレス訓練は経験済みだ。班隊員同士の連絡に用いる近接通信に支障が出ていないのは幸いだったが、それすら使えない状況も経験しているので、どうということはない。
当真が梯子を登りきって外に出ると、弓夏たちは周辺の索敵をすでに終えていた。この近くに敵はいないが、敵砲塔への接近は容易ではないようだ。予想通り、ルートにはすべて近衛隊が配置されているらしい。
地図によれば、ここは市の東端にある市場の中だ。普段なら農場でとれた新鮮な食材などを売る市が並んでいるはずだが、今は全く人の気配がない。クイーンの襲撃を受けたのが市場を開く前の時間だったのだろう、カフェや屋台も前日に片づけられたままになっている。荒らされた様子は特にない。
目の前に聳えている時計塔の他には、七階建て以上のビルは建っていない。煉瓦づくりの建物が広場を取り囲むようにずらりと並んでいる。この街のほぼ全域がそうであるように、どれもルネサンス様式のデザインで統一されていた。足下は歴史を感じさせる石畳に覆われている。凝ったデザインの瓦斯灯を模した街灯が、今にも消えそうな弱々しい光を辺りに放っていた。
「あれか……こうして見るとでかいな」
街の外縁部に広がっている農耕地帯の手前、橋のたもとに、目標となる敵砲塔がそそり立っているのがはっきりと見えた。近くから見ると雲をつくような大きさで、時計塔と比べると一層その高さが際立っている。こちらを睥睨するその禍々しい姿を見上げて、当真は苦々しげに顔を顰めた。
敵砲塔は、先に破壊されたものと同じく川の手前に聳えている。その意図は明確だ。二つの川の間に街があるのだから。侵入者が街を取り戻そうとするのを防ぐとともに、街の至る所に睨みを利かせることも出来る。そして何より、街の上にある丘陵地に築かれたクイーンの営巣地の防御としての役割も果たす。
「さて、どうしたものかな」
腕を組みながら頭の中に周辺の地図を呼び出した当真は、索敵結果と重ね合わせていきながら、下唇を指先でゆっくりとなぞった。考え事をするときの癖だ。
川に架けられた橋は二つ。ひとつは敵砲塔の背後で、もう一つは三キロほど下流にあるが、直線の道がないため、かなりの遠回りを強いられる。広場から直接敵砲塔に接近するためには、広場の出口となっている通りを封鎖している近衛隊を排除するしかない。
広場から出る道は三つ。うちひとつは観光名所ともなっている時計塔の足下を抜ける目抜き通りで、こちらは市の中心部へと向かうことになる。もう一本の橋へ行くにもこの道を辿る。残る二つの道は、市場へ荷物を搬入するためのものと、地元民が使っている細い路地だ。
何気なく目の前の時計塔を見上げていた当真は、同じように時計塔を見上げていたリュードを手招きして囁いた。
「こいつの上からあれを狙えるか?」
「出来るでしょう。僕も射撃場所はここしかないと思います」
「じゃ、頼む。和、リュードの護衛を」
狙撃手にとって、一番無防備なのは射撃の瞬間だ。標的に集中している瞬間を狙われてはどうしようもない。多分狙われないだろう、などという甘い期待に命を委ねるわけにはいかないから、万が一に備えて護衛をつけるのは当然だ。たとえそのために戦力が減ったとしても。
「いいけど、弓夏ちゃんと当真くん二人だけで大丈夫?」
「なに、どうにかするさ」
なんといっても、こちらは囮でしかない。本命のリュードが目的を果たすまで、可能な限り敵を引きつけて時間を稼ぐのが役目だ。
「問題ない。当真が私の足を引っ張らなければな」
そう言って刀の柄に手をやった弓夏は、挑戦的な笑みを口元に浮かべて当真を見やった。
「私とお前で三体ずつやれば問題なかろう。その後は敵次第ということでどうだ」
「いいぜ。どっちをやる?」
「手前は譲ろう。私は奥のやつを」
「分かった」
簡単な打ち合わせをしただけで、二人は路地の方へと歩き出した。その背中を見送って、和は傍らのリュードを見上げ、軽く肩を竦める。
「んじゃ、ボクらも行こっか」
それはさながら黒衣の騎士だった。
全長五メートルほどの竜人型で、いかにも強靱そうな顎と鋭い牙、捻れた角、太い尻尾を持つ。鎧状の甲殻に身を包み、両手は戦斧のようになっていた。完全に戦うためだけの形態だ。
仮に先端が武器のようになっていなくても、丸太のようなその腕自体が凶器だ。普通の人間なら殴られただけで即死だろう。その巨体だけでも脅威と言える。
その証拠、というわけではないが、騎士たちの手前には都市の防衛機構の一端をなす自律戦車が三輌、無惨な姿を晒していた。装甲がざっくりと切り裂かれ、半ばひしゃげてひっくり返された状態で黒い煙を上げている。
歩兵型装備に身を包んだ機巧人形たちのバラバラになった残骸もあちこちに転がっている。ジェーニャとは別の、拠点防衛に使用されているモデルだ。敵うはずもない戦いにわざわざ挑むような趣味は管理電脳にはないから、逃げ遅れた住民が避難する時間を稼ぐために投入されたのだろう。
敵は路地の入り口と出口を塞ぐように手前に三体、その奥に三体。底辺の長さの異なる三角形を二つ重ね、より大きな三角を描いた魚鱗陣形をとっていた。見るからに攻撃的な形状の通り、容赦なく敵を叩き潰すことを好むのが窺える。見た目通りなら動きは鈍重そうだが、そんなことを敵に期待して戦うのは無謀にすぎる。
刀を鞘走らせながら悠然と歩み寄る当真に気づき、黒騎士たちが一斉に臨戦態勢に入るのとほぼ同時に、当真の背後に姿を隠していた弓夏が一気に駆けだした。
ほっそりした影が少年の脇から飛び出したかと思うと、そのまま勢いに任せて宙に跳び上がる。壁を蹴って方向を変えると、前衛の上を軽々と越えていった。
反射的にその動きを追って振り返りかけた前衛の騎士の視界の隅に、太刀を下段に構えたまま滑るような足取りで迫り来る青年の姿が飛び込んでくる。仄蒼い結界の燐光を纏った刃が閃くのは見えたが、防御は間に合わなかった。高密度に圧縮されて刃を強化した結界が、騎士の障壁を鎧のような甲殻とともに易々と斬り裂く。
斬撃の音がふたつ、ほぼ重なるように響き渡った。壁を蹴って飛び降りる勢いをのせて抜き打ちされた弓夏の刀尖が振り下ろされる音と、足下で軽く円を描くようにした当真が剣先を鋭く斬り上げる音だ。数瞬遅れて、どすんという音をたててふたつの首が石畳の上に転がり、崩壊音とともに崩れていく。
「……ふんっ!」
黒騎士の首を刎ねた弓夏は、石畳の上で猫のように躯を丸めて着地の衝撃を受け止めた。そのまま鋭く息を吐きつつ手首を捻って刀を引き上げ、体を反転させながら肩を支点にして腕を振り下ろす。
ざしゅっ、と小気味いい音を立てて、少女に向かって斬りかかってきた後衛右側の黒騎士の腕が宙に舞う。崩壊音を上げて空中に熔け崩れていく二本の腕が地面に落ちるより先に、弓夏はさらに一歩踏み込み、返す刀で黒騎士の胴を半ば真っ二つに薙ぎ払ってとどめを刺した。
二体の巨体がザァッと音を立てて崩れていく最中、後衛左側の巨人がドスドスと足音も荒く斬りかかってくる。見た目ほど鈍重ではなさそうだが、弓夏に対応を許さないような俊敏さはそこにはない。
ぶおんっ、と勢いよく空気を切り裂きながら振り下ろされた戦斧のような右腕の攻撃を、素早く引き抜いた脇差しで手首ごと斬り飛ばして、弓夏はそのまま踏み込みざまに右の刀尖を引き戻し、騎士の胸目掛けて鋭く突き込んだ。
背中まで一突きで貫かれた黒騎士が数歩後ろによろけ、やがて突き飛ばされたように仰向けに倒れ込みながら熔け崩れていく。
汗ひとつかかず、まるで何事もなかったかのように立ち上がった弓夏は、虚空に溶け消えていく巨人たちを見やりながら、大小の刀を静かに鞘に収めた。
一方、一体目の首を斬り飛ばした当真は、独特の流れるような足取り《ステップ》で滑るように歩きながら一見無造作な動きで刀を振るい、瞬く間に残る二体の黒騎士を斬り伏せていた。
両脇から一斉に襲いかかってくる二つの敵に対し、振り下ろしたままの左下段から刀尖を摺り上げ、さらに踏み込んで斬撃を躱しながら躰を半回転させて、右下段からもう一度斬り上げるという一瞬の動作で対処する。
最初の剣が左側の腕を斬り飛ばし、次の剣が深々と右側の敵の胴を薙ぎ払っていた。そのままさらにもう一歩踏み込んで半身を捻り、上段から振り下ろして左側の敵を肩口から両断する。
その一連の動作に迷いは一切ない。鍛錬に鍛練を重ねた結果、脳が処理するより先に躯が勝手に最適な行動をとる域に到達している。動きや技の正確さにおいては弓夏より勝っていると言っていいだろう。
彼が弓夏の後塵を拝しているのはただ一点、速度である。当真には弓夏のように縦横無尽に戦場を駆け巡り、手当たり次第に斬りまくるといった戦い方は出来ない。
だが、当真のように一切無駄のない最小限の動きで素早く敵を仕留めることは弓夏には出来ない。また、戦場全体を把握し、必要なところに適切な攻撃を加えるという能力も、彼女にはなかった。
「こっちは一段落ついた。そっちはどうだ?」
生きている動物と異なり、〈敵〉は斬っても刃が血に塗れるということがない。血のついた武器の後始末をしなくていいのは楽なものだ、と思いつつ刀を鞘に収めた当真は、弓夏が何事もなかったかのように立ち上がるのを視界の隅で眺めやりながら、時計塔に向かったリュードたちを近接通信で呼び出した。この距離なら特にノイズは乗らないし、遅延もない。
「狙撃ポイントに向かってます。エレベーターがないんで階段登りが大変ですけど」
「そいつは何よりだ。こっちはせいぜい派手にやらせてもらうよ。そっちはそっちで頑張ってさっさとあいつを片づけてくれ」
「了解」
どうやら二人は時計塔内部の階段を駆け上がっている真っ最中らしい。何かと懐古趣味の激しい街だという印象はあったが、そんなところまでこだわらなくてもいいだろうに、と当真は思う。
なんといっても、本物をこの目で見たことのある人間など、この星系には今も昔もいた試しがないのだから。〈エスポワール〉の記録庫にあった資料を基に再現しているだけで、それが忠実に再現されているかどうかなんて誰も知りようがない。大事なのは『それっぽい』かどうかだけなのだ。
「あっちはまだ時間がかかりそうだ」
「かまわんさ。退屈で死ぬ心配は要らんだろうからな」
当真の言葉に小さく頷いて、弓夏は路地の入り口に視線を向けた。こちらから聞こえてきた戦闘音に気づいたのだろう、増援部隊の騒々しい足音が近づいてくる。
「……そのようだな」
当真に近い路地の入り口の方からも、同様の足音が聞こえてくる。恐らく、広場から出るもう一つのルートを警備していた部隊が物音に気づいて駆けつけてきたのだろう。
「敵をここで足止めしてればいいんだろ? あまり早く片づけてしまうのはまずいかな」
「……あー、下手な手加減はしなくていいぞ。どうせ次から次に涌いてくるんだから、あんまり無理もするな。雑魚相手に本気を出してもつまらんからな」
「本気など出してないぞ、私は。もう少し楽しませて欲しいところだ」
初めての実戦で興奮しているのだろうか、珍しく弓夏の口数が多い。驚いたことに、口許には笑みさえ浮かんでいる。白皙の美貌にも仄かに朱がさしていて、凄絶な色香を醸し出していた。悔しいことに、こういう時の彼女はすごくいい表情をする。
(……またえらく楽しそうな顔してやがるなぁ、こいつ)
滅多に見たことのない弾けようの弓夏にやや驚きつつ、当真は一抹の不安を覚える。獣牙型の〈影〉と違って歯応えがある所為か、ややハイになっているようだ。この調子だと何をするか分からんな、と思いながら、当真は再び剣を鞘走らせた。
彼自身とて、訓練とは明らかに異なる実戦の緊張感に沸き立つ心を抑え切れていない。日々の鍛錬で鍛えた技を、敵に対して何の遠慮もなく振るえるのは嬉しいことだ。戦いを望んでいるわけではないけれど、努力が報われた思いがする。
死ぬほど理不尽な思いをさせられることもあるが、訓練なら斬られても死ぬことはない。目玉が飛び出るほどの苦痛を味あわされたりするが、「その程度で死にはしないから立て」と言われ、敵を完全に倒すまで何度でも続けさせられる。徹底して苦痛や恐怖、不安といったストレスへの耐性をつけ、正しく対処するための術を躯に覚え込ませるのが訓練の目的だ。諦めたときに人は死ぬのだ。
実戦なら、斬られれば死ぬのだろうか。訓練ではない現実のもたらす痛みを進んで味わってみたいとは思わないが、この緊張感こそが実戦の醍醐味ではないのか、とさえ思う。
そんな物思いに耽りかけた意識を頭の隅に追いやって、当真は、路地の内側から出口を固めている黒騎士たちの群れを眺めやった。
先ほどは斬り込んでいった路地に、今は追いつめられているように見える。前後を固められ、身動きできなくなった二人が背中合わせになって立ち往生。そんな風に見えているのだろうか。
もしそうならこっちのものだ。この狭い路地では、敵は一度に二体ずつしか攻撃できない。各個撃破のチャンスだ。それが分かっているから、弓夏も飛び出していったりはしない。腰の刀に手を伸ばし、鯉口を隠し切りしていつでも居合いを放てる体勢を整えている。
まずい状況になるとしたら、前後の敵が示し合わせ、後のことを一切考えずに突進してくることだ。あの巨体と数がもたらす突進力で攻められたら勝ち目はない。
さて、どう出るか――。
そう思っていたら、敵も多少は頭が回ると見えて、戦列を揃え、前後からジリジリと距離を詰めてくるような動きを見せてきた。こちらが一歩踏み込むと止まる。が、そのまま攻撃してこないと見ると、またジリジリと前進してくる。
このまま距離を詰められれば、そのうち当真と弓夏の攻撃範囲が重なってしまい、思うように動けなくなる。そうなればアウトだ。
「どっちにする?」
弓夏に近接通信で短く問うた。前か後ろ、どちらに戦力を集中させるか、という意味だ。この状況を打破するためには、各個撃破という当初のプランは捨てて打って出るしかない。そのためには戦力を一ヶ所に集中させる必要がある。その旨を簡潔にまとめた短文メッセージを送ると、すぐに反応が返ってきた。
「広い方がいいな。動きやすい」
弓夏は短く答えた。広場側、つまり当真の側に向かって突破するということだ。
「一人頭三体ずつだ。私が右のをやる」
「分かった」
頷いて、当真は下段に剣を構え、わずかに身を沈めた。路地の中央に陣取っていたのを、少しだけ左にずらす。視界の右後方に弓夏がゆっくりと入ってくるのが見えた。
「カウントしろ、当真。お前のタイミングでいい」
「了解。カウント零で行く。三、二、一」
零、と同時に二人の躯が動く。当真は右に一瞬身を振ってから左に動き、弓夏は前進すると見せかけて躯を捻ると、反転して当真の右側を駆け抜けていった。
虚を突かれた黒騎士たちは、その動きに反応してかえって混乱を起こした。反射的に一歩下がって間合いを取ろうとしたのが災いし、後方で渋滞が発生する。そこへ二人が同時に斬り込んでいった。擦れあう刃が激しい火花を散らす。
血風の嵐、というべきか。銀光一閃、一太刀舞う度に勢いよく噴き上がる血潮が空中で結晶化して舞い散りながら虚空に熔けていく。
斬り込んだ当初の速度は減じることなく、むしろ加速していく。渋滞を起こしていた騎士たちに立ち直る隙など与えない。こちらの姿が視界に入った時にはすでに刃が疾っている。こちらはとにかく斬りまくっていればいい。
隣にいる相棒以外はすべて敵、というのは実にわかりやすい。弓夏はこういうシンプルなのが好きだった。他人に気を使いながら戦うのはどうも苦手だ。だから自分以外は全部敵、という状況に飛び込むのを彼女は好んだ。余計なことを考えなくても済むからだ。ただ敵を斬り伏せることだけ考えていればいい。
弓夏にとって、当真は、肩を並べて戦う相棒としては申し分なかった。少なくとも後ろから間違えて攻撃してきたり、うっかり彼女の攻撃範囲内に飛び込んでくるということはない。それに何より、自分のことは自分で始末をつけてくれる。
自分でミスしておいて、フォローをこちらに押しつけてくるようなやつは最低だ。敵と一緒に斬り捨ててやろうと思ったことは何度もある。あまりに邪魔だったので、実際に斬り捨てたことも二回ほどあった。無論、訓練での話だが。
何の迷いもなく敵と一緒に思い切りぶった斬ってやったので、さぞかし痛い思いをしたのだろう。後で猛烈に文句を言われたし、教官にも味方を斬るなと叱られたが、弓夏は一切気にしなかった。相手の顔すら覚えていない。
教官に叱られたので、次からは斬り捨てるのはやめて蹴り飛ばす程度にとどめることにしたが、それでもやっぱり恨まれたし、叱られた。納得いかない。
無論、そんなことばかりしていた弓夏と組める相手など、そうそう見つかるわけもない。他の訓練生たちが次々にチームを組んでいく中、弓夏はずっと一人だった。
弓夏自身はそれでも一向に構わなかったが、一人では出撃させられない、という軍の服務規程はどうすることも出来なかった。出撃できなければどれだけ訓練しても意味がない。さりとて他人に上手く合わせるなど、どうやっていいかさえ分からなかったから、当惑するしかなかった。
彼女にとって救いだったのは、和と当真がいたことだろう。二人は幼年学校からずっと一緒だったから、それなりに気心も知れていたし、弓夏の行動も理解してくれていたので邪魔をすることはなかった。だから、彼らとチームを組むことはとても自然だった。問題は最初から四人目だったのだ。
「……ふっ!」
血風を巻いて突き込まれる腕を躯を捻って躱しつつ、躯の回転を利用して斬撃を叩き込む。黒騎士の躯が崩壊していくことすら待てない勢いで駆け抜けた弓夏は、先ほど斬り伏せた敵が最後の一体だったことに気づき、石畳の上を滑りながら勢いを殺した。そうしながら反転し、背後からの攻撃に備える。
隣を見ると、当真が同じように石畳の上を滑りながら身を翻し、刀尖をゆっくりと左右に払っていた。後背からの敵が投げつけてきたナイフ状の投射兵器を弾いているのだ。
そのような攻撃に弓夏は覚えがなかったので、いつから彼が自分の背中を守ってくれていたかは気づかなかった。だがその分、前方の敵は自分が屠っていたのだからおあいこだ。そう思うことにして、弓夏はグッと踏み込んだ。