序
プロローグ
闇が街を飲み込もうとしていた。
動物たちが怯え、一つ所に寄り集まって身を強張らせるほどに異質な闇だ。
いつもなら夜空を埋め尽くしているはずの星々の瞬きも、双つの衛星の輝きも、空を大きく分断しているはずの軌道リングの煌めきさえも、それは等しく覆い隠していく。
とうの昔にその名を忘れ去られ、単に『故郷』と呼ばれることさえなくなった生物学上の母星系に比べ、銀河系中心部にかなり近いこの星系で見上げる夜空は、通常なら溢れんばかりの光に満ちている。
だが今、地上に落ちてくるそれらの光を遮り、街にどろりと垂れ込めた重苦しい闇は、わずかな街灯りすらをも飲み込もうとするかのように広がっていた。さながら濃霧のように、音もなく速やかに。
その闇はやがて形をなし、光を奪うだけでは済まない現実の脅威として実体化する。それが分かっているからこそ、避難警報が発せられて自分たちが餌場に閉じこめられてしまったという事態を把握した人々は、我先にと最寄りの退避所へ急いでいた。
さすがに見苦しく先を争ったり押し合ったりするようなことはないものの、互いに道を譲り合う、という美徳めいた偽善はそこにはない。何をおいてもまずは自身の安全確保が最優先だ。他人を気遣う余裕など誰にもない。絶対的な死の前には誰もが平等なのだ。
人波に押され、また道に不慣れなこともあって逃げ遅れてしまったその家族も、そのことは嫌というほど分かっていた。ここが自分たちの出身都市なら、きっと同じようにしていただろう。
だからこそ混乱の中、不慣れな土地で家族が離ればなれになるという最悪の事態だけは避けるべく、互いにしっかりと抱き合って人波をやり過ごした後、ナビの指示に従ってまだ空きのある退避所へと急いでいたのだ。今はもう人混みはすっかり消え、あたりに人の気配は全くない。
「もうちょっとだからな、頑張れ」
父親らしき男が、手を引いた娘に声をかける。もうすぐ十歳になろうという頃合いだろうか、まだ幼い娘は荒い息を吐きながら必死に父親の顔を見上げ、笑みを作ろうとしてぎこちなく顔を強張らせると、こくんと小さく頷いた。
「あなた、こっちよ」
やや先行した母親らしき女性が、ナビに指示された先にある退避所の目印を指さした。闇の中にぼんやりと薄緑色に輝いて見えるその案内板は、まだ二ブロックほど先にある。子連れの身で駆け抜けていくには遠い。ここまで辿り着くのに時間を食い過ぎていた。
「まずいな…」
街灯があるだけマシだが、視界は決して明るいとは言い難い。周囲を用心深く見回しながら、男は呟いた。濃霧のような闇はさらにその濃度を増していて、今や視界を遮るほどになっている。その闇の中に、得体の知れぬ影のようなものがいくつも蠢いているのが其処彼処に見てとれた。彼ら自身の影のようにも見えるが、そうではないことはよく分かっていた。それらは人のようでもあり、獣のようでもある、言いしれぬ形状をしていた。
「お父さん…?」
「大丈夫だ。なにも心配しなくていい」
繋いだ手に力を込めながら不安げな声を洩らして己を見上げてくる娘を見下ろし、安心させるように微笑んで見せながら、その言葉を一番信じていないのは彼自身だったろう。
闇の中に蠢いているその〈影〉はこうして見つめている間も濃度を増し、輪郭も徐々に明瞭りしたものになっていた。磨り硝子越しにぼんやりと眺めていたものが、網戸一枚隔てたすぐ向こうまで近づいてきているような感覚だ。それらがこちら側に湧き出してくるのは時間の問題だった。
「お父さんがお前を必ず守るからな」
日に灼けた額にじっとりと脂汗を滲ませながらそう言うと、男は身を屈めた。片手に持っていたバッグをその場に置き、代わりに娘の体を抱き上げる。その体の温もりと重みに、いつの間にこんなに大きくなっていたんだろうかと感慨を覚えつつ、しっかりと腕の中に抱え込む。柔らかな髪が頬を擽り、汗の匂いが混じった甘い体臭が鼻先に漂ってくる。
「さ、もうちょっとだ。いくぞ」
これ以上、子供の足に合わせている余裕はない。これまでの道程で彼自身もかなり疲労していたが、この際、そんなことは言っていられなかった。先ほど置いたバッグを妻が抱え上げるのを視界の端で捉えてから、男は通りの先でぼんやりと輝く案内板を見つめ、短く息を吸い込んだ。
あちこちに乗用車が乗り捨てられたままになっていたり、荷物や片方だけ脱げ落ちた靴などが転がっている通りを、娘を抱え上げた男とその妻は黙々と駆け抜けていく。足音だけが異様に大きく響き渡るのは、彼らの他に動くものがないからだ。闇の中で彼らを嘲笑うかのように蠢く〈影〉どもは、全く音を立てない。
今にも闇の中から〈影〉がぬるりと湧きだしてきて襲いかかってくるような気がしてならないが、それが単なる妄想ではないことを男も妻も良く知っていた。この闇の何処かに、〈影〉を操っている母体がいる。街を飲み込んでいる闇が濃くなり、街灯の光さえも飲み込み始めると、クイーンが送り出した無数の〈影〉どもが湧きだしてくるのだ。
〈影〉は好んで人を襲う。それが分かっているからこそ、街の至る所に待避所への入り口が用意されているのだ。だが、一ブロックに必ず一つはあるはずの入り口は既に塞がっているのか、ナビには表示されない。案内板が消えているのもそのためだろう。
何度か転びそうになりながら、男と妻は通りを渡りきり、さらにその先にある案内板を目指して走った。酸欠寸前で目の前が薄暗くなり、その場にへたり込んでしまいそうになるのをぐっと堪えて、どうにか足を前に踏み出す。後ろを振り向くのも恐ろしかった。
闇の中にほんのりと輝く案内板のすぐ下に、気閘扉が設置されている。直径八〇センチほどの円筒が壁に埋め込まれた形で、これ自体が昇降機になっており、地下の待避所に繋がっているのだが、空いているのは一人乗りのものだけだった。近くにある大型の入り口は既に閉鎖されているらしく、防護扉が降りている。
ハッチ上部には無人であることを示すブルーの灯りが点灯している。強化ガラスに荒い息を吹きかけながら中が無人なのを確かめた男は、扉の脇にある操作パネルに掌を押しあててハッチを開くと、娘の体をしっかりと抱きしめた。
「お守りだよ」
そう言って、つけていたネックレスを外し、娘の首にかけてやる。
そして男は傍らの妻の顔を見やる。言葉は交わさずとも、意志は伝わったようだった。妻は涙を堪えるように顔をわずかに歪めて黙って頷くと、夫の体にそっと腕を回した。そのまま娘の髪を優しく撫でる。指先でそっと、愛おしむように。
「おかあさん…?」
「大丈夫よ」
にこりと微笑んだ母の言葉に、娘はわけが分からないというように小さく首を傾げる。だが、彼女の理解を待つより先に、男は娘の体を気密室の中に押し込んだ。
「え…?」
「大丈夫。後で迎えに行くからね。いい子で待ってるのよ」
少女の傍らに持っていたバッグを押し込んで、妻は娘の体をしっかりと抱きしめた。
「おい」
「…ええ、分かってるわ」
夫の声に名残惜しげに娘の髪を撫で、頬摺りをしながら言って、妻は少女の頬に優しくキスをすると、そっと立ち上がった。
「おか──」
少女の声は、両親には届かなかっただろう。その声が発せられるより先に、外側の気密隔壁がシュッと音を立てて素早く閉じたからだ。
少女が最後に見たのは、後ろを振り返りながら走り出そうとする両親の恐怖に引き攣った顔だった。しかしそれも内部隔壁が閉じて見えなくなった。
「お父さん、お母さんっ!」
少女は内部隔壁に取りすがって扉を開こうとしたが、無論開くわけもない。半透明の外部隔壁と違い、金属製の内部隔壁には継ぎ目も窓もなく、外の様子は全く分からない。少女は小さな拳を握りしめて内部隔壁をドンドンと何度か叩いたが、それでどうなるものでもなかった。仮に開いたところで、彼女に出来ることは何もなかったろうが。
しばらくして、少女は諦めたようにそっと手を下ろした。
微かな駆動音と共に動き出した昇降機が、少女の体を地下の待避所へと運んでいく。少女は床を見つめ、ぎゅっと唇を噛みしめて涙が溢れ出すのを必死で堪えた。
「…まってるから。わたし、いいこにしてるから」
そう呟いて、少女はその小さな掌をギュッと握りしめた。
その胸元で、蒼氷色の小さな石が静かに揺れていた。