一話
ある日、ある時、ある場所で、青年は重大な違法行為をした。
青年の背中を押したのは恐怖であり、故意ではない。しかし、この言い訳ではどうしようもないほど、重い罪を背負った。
絶望を色濃く瞳に浮かべた青年は、魅入られる。業を重ねる人間の本能は、背徳の快楽に身を委ねて行く。そして、幻の光を見出す。
人は環境をより良いものにする為に、急激な変革・改革を行おう事がある。しかし、その変化が必ずしも正しいとは言い切れない。そして、変わろうとする力には、必ず元の形を維持しようとする反発した力が働く。おおよそ人が辿り着くのは、少しだけ表面が変化した同じ場所だ。
つまり、どれほどの年月が過ぎようとも、人間の本質は変わらない。
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第三ガルーラ高等学校。校舎の三階は、全てが二年生の教室になっている。
そのフロアにある、金属で出来た扉の一つ。C組とプレートが付けられた教室から、声が聞こえた。
壁に取り付けた大型ディスプレイの前に立つ男性教諭が、地球の歴史について解説している。
「これが第三次世界大戦だ。この戦争で、人間は二十三世紀に滅びかけた。今考えると、馬鹿な話だ」
一列毎に高くなっていく扇状の席に座った生徒達から、教諭の皮肉に笑いが漏れた。
「だが、人間も捨てたもんじゃない」
笑いがおさまったのを見計らって、教諭はディスプレイの端にあるタッチパネルを操作した。すると、画面が切り替わる。
「苦境の中で、人間はある希望を見つけた」
濃い緑色をしたブレザータイプの制服を着た生徒達は、リラックスして聞いている。現在説明されているのは、小学生で習う内容であり、常識なのだ。
「お前達もよく知っている魔法を、科学的に解明したのがこの時代だ」
生徒達は当然知っていると、余裕の表情を浮かべている。高校生である彼らには、メモを取る理由すらないのだろう。その為、各机に内蔵されているコンピューターのキーボードに、手を触れる者はいない。
「まあ、今更説明される必要もないよな?」
首を大きく左右に振る教諭の大きな動作に、再び教室の生徒達は笑う。
教室内で笑顔になっていないのは、たった一人。髪が伸びすぎて、目元が隠れている生徒。寺崎大介だけだ。
窓際の席に座る彼は、気怠そうに外を眺める。髪で隠れる瞳は、生気を感じさせない暗い色をしていた。
「連休明けのウォーミングアップはここまでだ。大戦後の地球で、国がどう動いたか」
他の生徒は真面目な顔になるが、大介だけは金属板に映し出された仮想の空を見つめ続ける。
人間が生きるために作られたドーム状の町では、空も大地も全てが金属製だ。空の景色も映像でしかない。
それでも大介は、ただ空を見る。
****
「では、今日はここまで」
チャイムの音が、スピーカーから流れた。この学校では、旧日本式のスタイルを採用している。
「起立! 礼!」
委員長である女性の声で生徒達が立ち上がり、頭を下げた。
一時間弱続いたその日最後の授業は終了し、生徒は各々据え付けのコンピューターから自分の端末を取り外す。そして、友人達との会話に花を咲かせる。
ここでも大介は一人だけ、いち早く帰り支度を済ませると帰路についた。彼を気に掛ける者は、誰一人いない。それが彼にとって当たり前であり、日常だ。
大介は、特筆して人から劣る所は無い。それどころか、運動も勉強も人並み以上。学生として必要な事は、おおよそ器用にこなす。他人とのコミュニケーションも、下手ではない。
彼に欠けているのは、気力。人間として最低限である、生きる以外の気力が不足していた。より良い生活に対して、興味を抱けないでいる。
そんな彼は今日も生活の為に、倉庫整理をする。裏方の仕事で体力は使うが、時給のいいバイトだ。そこでも、彼は最低限の会話しか交わさない。
午後九時に勤務を終えると、夕食を買って家に帰る。
これが大介の日常だ。
八畳一間の学生寮には、ほとんど荷物がない。金銭的に余裕がないのもある。だが、それ以上に彼が興味をしめす物が少ないのが理由だ。趣味にも娯楽にも、彼は楽しみをほとんど見いだせない。
私服に着替えると、自室の机と一体化されたコンピューターに端末をつなぐ。そして、学校の宿題を始めた。無表情の大介は黙々とキーボードを使い、入力作業に没頭している。
****
一年と少し前から、余計な考えがなくなった彼を変えたのは、些細なミスが始まりだった。
(ここは?)
ディスプレイに、ドットで描かれた小鬼が表示された。眉間にしわを寄せた大介は、タッチパネル式になっている画面を操作する。そして、プログラムの誤記を見つけた。
「ここか。間違えた」
(おい! 小僧!)
呟いた大介に、小麦色の肌をした、しかめっ面の小鬼は怒鳴りつけていた。
久方ぶりの人間との接触。それを間違えたと言う大介に、小鬼には不満を覚えたようだ。
「ごめん。間違えた」
(お前! ふざけてんのか!)
鼻の頭を掻く大介は、表情を変えない。
「ゴブリンの召喚プログラムを作ったつもりだった。ごめんよ。間違えたんだ」
ゴブリンは緑色の肌で、頭髪がある代わりに角は生えていない。今ディスプレイに表示されている小鬼とは、全く別物だと一目でわかる。大介自身も、自分の失敗を認識できている。
(久しぶりの呼び出しがこれかよ! 勘弁してくれよ)
「悪かったって。魔力あげるから、大人しく帰ってくれない?」
左目を見開いた小鬼は、大介を上から下へ舐めるようにじっくり観察する。縦に走る大きな傷がある右目は、潰れているのか開かない。
(小僧。異界の住人を呼び出して、その余裕はなんだ?)
毛が生えていない小鬼の言葉で、大介は首を傾げる。
コンピューター内で行う仮召喚は、会話は可能でもお互いに影響は与えない。それは、異界の住人達の中でも常識となっている。
しかし、この名前も知らない小鬼は、それを理解していない。
「だって、仮召喚だからお互いに何も出来ないでしょ?」
(舐めるなよ! 小僧!)
ドット絵の小鬼が、ディスプレイの中で徐々に大きくなる。大介に向かって、走り寄っているらしい。両手を伸ばし、掴みかかろうとしているようだ。
(おふぅぅ!)
顔面をぶつけた小鬼は、ディスプレイの中で倒れ込んだ。
小鬼を召喚したのは仮想世界の中であり、現実の世界ではない。ディスプレイの中から、何の処理もなく抜け出す事は不可能だ。
大介はこの小鬼が、めったに召喚されない種族なのだとその行動から推測する。そして、面倒だと考えて溜息をついた。
(お前! こらあぁぁ! なんだよ! これ!)
「仮の召喚なんだって。面倒だけど、説明するから」
小鬼はおでこを擦りながら、ディスプレイの中で正座をする。
(頼むぞ。この野郎)
「コンピューターは分かる?」
****
腕組みをした小鬼が、きょとんとした顔をする。
(なんだそれ? マジ?)
「嘘なんてつく意味がないよ」
大介は小鬼に三十分ほど、現代の魔法について説明をした。
(つまり、魔力の元を科学的に解明したんだな?)
「そう。で、呪文や儀式は、コンピューターのプログラムで代用してるの」
腕組みをしていた小鬼が、膝を叩く。
(人間も行きつくとこまでいったもんだなぁ。なあ?)
「僕に聞かないでよ。僕にとっては、常識なんだって」
(で? 今は何世紀だ?)
「えっ? 三十五世紀だけど」
大介の言葉を聞いた小鬼は、何故か肩を落とす。
「あの、かなり呼ばれてないの? 前にこっちに来たのは?」
(二十世紀くらいだった……)
明らかな悲しみが、小鬼の声から読み取れた。
異世界の住人を召喚するには、何らかの代償が必要になる。その代償になりえるのは、異界の住人にも十分な価値がある魔力が一般的だ
古い時代に悪魔と呼ばれた者が人間の魂を求めたのは、魂が魔力の塊だからであり、魂に固執したわけではない。悪魔としては、報酬としてだけでは無く、呼び出した人間の願いを叶え、元の世界に帰る為に魔力が必要だった。
ただし、人間数人分の魂でも、魔力の量が願いに見合わない事が多かったらしい。その上、契約不成立により、元の世界へ帰還するにも魔力は消費される。
つまり、悪魔にとって召喚は、あまりメリットがない。さらに悪魔と直接会話のできる現代では、人間が悪魔を忘れても、悪魔に何の影響もないと分かっている。好んで人間の世界に来る異世界の住人は、異例なのだ。
大介は、長年召喚されなかった事で落ち込むこの小鬼が、人間に好意的なのではないかと考える。
「もしかして、人間が好きなの?」
(別に好きじゃない)
「じゃあ、なんで落ち込んでるの?」
(これでも、人間の生活に密接した存在だったんだ。忘れられると思わなかった。ちょっとショック)
少しだけ興味がわいた大介は、この小鬼ともっと話がしたいと思い始めていた。瞳に少しだけ光が戻る。
「人間が嫌いなら、悪い事はしたの?」
(嫌いって程でもないが、悪戯はよくした)
「悪戯?」
「計器を狂わせたりとかな」
異世界の住人にも個性があり、代償に物品や現世での快楽を要求する場合がある。その中でも人間に害を及ぼすのは、半分以下。力の弱い異世界の住人には、ほとんどいない。大きな影響を及ぼす力がない上に、無駄に魔力を消費すると命取りになるからだ。
だからこそ、大介にはこの小鬼が特異だと分かった。
****
「ここも地球じゃないよ」
(マジで!?)
「マジで」
(人間の科学は、とんでもない事になってるな。こえぇよ)
一時間ほど会話を楽しんだ大介は、机の小さなカバーをスライドさせる。
(なんだ? それ? 電池か?)
「そうだよ。でも、中身は魔力を溜めこんでるけどね。これで、帰りの魔力を送り込むから」
小鬼を口に手を当てて、何かを考え込む。
(小僧? 短期間でいいから、俺と契約しないか?)
「はっ?」
(ああ、命なんて取らないからな)
「何? 正式に召喚しろと?」
(そうだ。願いを叶えてやるぞ。どうだ?)
大介の瞳から、光が消えていく。
「願いって、どのレベル?」
(まあ、俺もそっちを見たいだけだからな。それに見合った物なら、何でもだ)
「じゃあ、遠慮するよ。何より、直接召喚は違法だしね」
(はぁ? 違法?)
机に置いてあったペットボトルの水を、一口飲んだ大介は言葉を続ける。
「常に制御できる、使役契約召喚は許されてるけど、最初の契約以外に縛れない直接召喚は禁止なんだよ」
(なら、使役されてやるよ。解除は出来るよな?)
「それは出来るけどね。やっぱり、いいよ」
(ちょ! なんでだよ!)
声のトーンを少しだけ下げた大介は、ディスプレイから目線を外す。
「欲しい物なんて何もないんだよ」
(お前、本当に人間か?)
「多分ね」
(その目は、嘘はついてないな。何故だ?)
小鬼は目をむいて、大介を睨む。
「人生を諦めたんだよ。少し前に」
(じゃあ、なんで死なないんだ? 絶望した人間は、自殺するんじゃないのか?)
「それでも、死ぬ勇気がない臆病者。だからかな?」
(生きる屍だな。情けない)
俯いた大介は、返事をしない。小鬼とのこのやり取りを、他人としたくないから大介は喋らなくなった。
彼にとっては、返事をする事すら面倒で仕方がない。絶望し全てを諦めた人間は、同情が欲しいわけではないからだ。生きる為に必要な事以外で、自分に干渉してほしくない。ただ、それだけになる。
(お前、それで楽しいのか?)
「別に、楽しみなんていらない」
……現実が僕に関係なく動いていく。そう感じた日から、現実は僕に関係ない世界になったんだ。
俯いたままの大介は、自分の思いを声に出さない。
(分かった。じゃあ、魔力をよこせ)
「ああ。ごめんな」
大介は電池型の魔力が詰まった小さな棒を、二本セットした。そして、エンターキーを押す。
(そう言えば、まだ教えてなかったよな?)
「何を?」
(俺の種族だよ)
小鬼は目を細める。
(グレムリンだ)
部屋の明かりが明滅を始め、消えてしまった。そして、ディスプレイの淡い光だけが大介の顔を照らす。
「えっ? はっ?」
あり得ない物を見た大介は息をのみ、椅子に座ったまま固まる。
(グレムリンってのは、金属や機械を好きなように操作できる力がある。油断したな?)
ディスプレイが放電を始め、グレムリンの手が現実世界へと抜け出してくる。そして、大介の顔を両手でがっちりと押さえつけた。
ゆっくりと、小柄なグレムリンの顔がディスプレイから抜け出す。にやりと笑うグレムリンに、大介は顔を引きつらせる。
魔法が使える現代でも、何の準備もなく異世界の住人と相対して、生き残れる人間はいない。
感情の起伏が少なくなった大介にも、恐怖が襲いかかってくる。大きく目を見開き、全身を強張らせた大介の額に、冷たい汗が流れた。
(さあ、契約だ。小僧)
「えっ?」
(俺がお前を楽しませてやる。代わりに、こっちで活動する魔力を供給しろ)
動転している大介の頭は、正常に機能しない。
(おっと、お前に拒否権はないぞ。頷けばいいだけだ)
恐怖で震え始めている大介は、言われるがままに頷いた。
「あれ?」
部屋に光が戻ったと同時に、グレムリンはディスプレイの中へ戻っていく。
(よし。これで、契約完了だ。お互いに約束を違えれば、死ぬからな。気をつけろよ)
生唾を飲み込んだ大介は、鳥肌の立った頬を擦る。まだ、頬に先程の手の感触が残っていた。
(んじゃ、まあ。使い魔? か? まあ、それ的な契約しようぜ。それを結べば、留まれるんだろ?)
……楽しませる? グレムリン?
(おい。早くしろって。結ばないと、ここ出れないんだろ? 俺、帰ったら、お前死ぬぜ?)
「あっ、ああ。分かった」
キーボードを操作して、大介は使役契約のプログラムを立ち上げる。
大介の頭は真っ白になりかけており、正常な思考をしているか怪しい。
(で? お前の名前は?)
「はっ? えっ?」
(名前だよ! お前、馬鹿か?)
「寺崎大介」
ディスプレイに、「承認」のソフトスイッチが表示される。二人はそれを、ディスプレイの内と外で同時に押した。
すると、グレムリンの画像は端末へ移動する。使役契約の完了だ。
(俺は、一。天目一だ)
「あまのめいち?」
(そうだ。イチさんとでも呼べ。これからよろしくな)
「はぁ」
こうして青年は、忘れ去られた異界の住人と契約を交わした。これが全ての始まり。