いってきますの朝
「帰れる場所」があるから、
人は、外へ踏み出せるのかもしれない。
これは、その一歩を踏み出す日の物語。
朝の空気は、少しだけ冷たかった。
いつもと同じはずの森が、どこか違って見える。
昨日までと、何も変わっていないはずなのに。
それでも——
私は、知っている。
もう、ここを出るのだと。
小さく息を吐く。
胸の奥に残る、わずかなざわめき。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも。
「……大丈夫」
そう、言い聞かせるように呟いた。
外から、軽やかな足音が聞こえてくる。
土を踏む音と、草を揺らす気配。
聞き慣れた、小さな足音。
「おかあさん!」
弾む声と一緒に、勢いよく扉が開いた。
「セナ」
振り返ると、朝の光を背にした小さな影。
頬を少し赤くして、息を弾ませている。
「みて!」
差し出された手のひら。
その上で、風がくるりと舞う。
目には見えないはずなのに、そこに“いる”と分かる動き。
ふわりと、頬を撫でるやさしい気配。
「すごいね」
自然と、笑みがこぼれる。
いつもと同じ光景。
何も変わらない、朝。
——それなのに。
胸の奥が、少しだけ締めつけられる。
この時間も。
この景色も。
今日で、一度手放すことになる。
セナはそんなこと、少しも気にしていない様子で笑っている。
風とじゃれ合うように、くるくるとその場で回った。
その姿を見ていると——
不思議と、怖さが和らいでいく。
大丈夫。
この子は、ちゃんと——
守られている。
そのとき。
「ナナー!」
明るい声が、森の中に響いた。
思わず顔を上げる。
聞き慣れた、軽やかな声。
「……来た」
思わず小さく呟くと、セナがぱっと振り返る。
「アルス!」
次の瞬間には、外へ駆け出していた。
相変わらず、元気だ。
少し遅れて外へ出ると、木々の間からひょいと顔を出す影。
長い耳を揺らしながら、こちらに手を振っている。
「おはよう!」
「おはよう、アルス」
軽い調子は、いつも通り。
まるで、何も変わらないみたいに。
「朝から元気ねぇ」
「そりゃあね。いい天気だし」
そう言って、空を見上げる。
確かに、雲ひとつない青空だった。
「こういう日はさ、外に出るにはちょうどいいよ」
何気ない言葉。
けれど——
胸の奥が、わずかに揺れる。
「……聞いたの?」
「ん?」
「森を出るって」
少しだけ視線を逸らす。
アルスは、軽く首を傾げてから——
「あー、なんとなく」
「この前、リゼと話してただろ?」
「外のこととか、あの子のこと」
あっさりと言う。
「聞くつもりはなかったんだけどさ」
肩をすくめる。
「なんとなく、そうなるのかなって」
あっけらかんとした声。
「いいじゃん」
「外、面白いよ」
まるで、自分のことみたいに笑う。
その言葉に、ほんの少しだけ間を置く。
「……どんなところかしら?」
自分でも、少し意外だった。
怖いと思っているはずなのに。
それでも——
知りたい、と思っている。
アルスは一瞬だけ目を瞬かせてから、すぐに笑った。
「うーん、そうだなあ」
少し考えるように空を見上げる。
「森と違って、全部が“人のもの”って感じかな」
「人のもの?」
「道も、家も、店も」
「誰かが作って、誰かが使ってる」
「だから、にぎやかだよ」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「いいやつもいれば、嫌なやつもいるし」
「めんどくさいことも多いけどさ」
肩をすくめて、笑う。
「でも、その分、面白い」
その言葉は、どこかまっすぐで。
少しだけ——
心に残った。
「……随分、詳しいのね」
ぽつりと漏らすと、アルスは少しだけ肩をすくめた。
「まあね」
「何回か行ってるし」
軽く言う。
「外に出られるようになってから、ちょこちょこね」
あくまで、自然な流れで。
「森とは全然違うからさ」
「最初は戸惑ったけど——」
少しだけ、笑う。
「気づいたら、また行きたくなるんだよね」
「そのうちさ」
「向こうに、拠点持ってもいいかなって思ってたんだ」
「だから——ちょうどいいかなって」
にっと笑う。
「一緒に行くの」
*
リゼの家は、いつもと同じ匂いがした。
乾いた薬草と、少し甘い香り。
「どうしたの?」
振り返ったリゼが、静かに微笑む。
「森を出ることにしたの」
まっすぐに伝える。
ほんの一瞬だけ、沈黙が落ちた。
けれど——
「そう」
それだけだった。
驚きも、引き止めもない。
ただ、静かに受け止める声。
「あなたが決めたのね」
「ええ」
短く頷く。
「……あの子のために?」
その問いに、少しだけ言葉を探す。
けれど。
「それもあるわ」
「でも——」
息をひとつ。
「私が、そうしたいと思ったの」
リゼは、ほんのわずかに目を細めた。
「そう」
それ以上は、何も聞かない。
ただ、ひとつ頷いて——
「なら、いいと思うわ」
その言葉は、静かで。
けれど、しっかりと背中を押してくれるものだった。
リゼは、ゆっくりと立ち上がる。
棚の奥へと手を伸ばし、小さな箱を取り出した。
「これを」
差し出されたのは、細い腕輪。
淡く光を宿した、繊細な作りの魔道具。
「……これは?」
「あの子のためのものよ」
静かな声。
「精霊との距離が、近すぎるの」
あらためて言われて、胸の奥がわずかにざわつく。
「この森にいる分には問題ないわ」
「でも、外では——流れが偏りすぎるの」
「魔力も、精霊も」
「本来の在り方から、少しだけ外れてしまうことがあるわ」
「……それを、抑えるの?」
思わず、問い返す。
リゼは、ゆるやかに首を振った。
「いいえ」
「無理に抑えれば、いずれ歪みが出る」
「これは、そういうものじゃないの」
そっと、腕輪に触れる。
「魔力は、その子の体に見合った量に」
「精霊は、集まりすぎず、留まりすぎないように」
「自然な流れに、整えるためのものよ」
「……整える」
小さく、繰り返す。
「ええ」
「その子らしさを損なわずに、外でも生きやすくするためのもの」
*
家の中は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。
荷物は多くない。
持っていくものは、必要なものだけ。
それでも——
手を止めるたびに、視線があちこちへと向かう。
見慣れた棚。
使い込んだ道具。
何気ない日々の積み重ね。
そのひとつひとつが、ここで過ごした時間を思い出させる。
棚の奥から、小さな飾りを取り出す。
ふと、指先が止まった。
あの日のことを思い出す。
セナが生まれた日のこと。
『この子の名は、もう決めているの?』
『……うん』
『セナ』
『そう』
『呼び名は、そのままでいいわ』
静かな声。
そして——
『この森で生きるなら、もうひとつ名を持つの』
『精霊と共にある者としての名を』
少しだけ、戸惑ったのを覚えている。
『あなたにも』
そう言われて、思わず顔を上げた。
『ナナリエル』
『その子と共に、この森で生きる者の名よ』
あの日。
私は、この森に受け入れられた。
ただ迷い込んだだけの存在じゃなくて。
ちゃんと——
ここにいていい存在として。
小さく息を吐く。
胸の奥に、あたたかなものが広がる。
「……行ってくるね」
誰にともなく、呟いた。
返事はない。
それでも——
ちゃんと、届いている気がした。
*
荷造りを終えて、外に出ると、やわらかな光が森を包んでいた。
「セナ」
名前を呼ぶ。
少し離れた場所で、小さな背中が振り返った。
その隣に、静かに佇む白い鹿。
やわらかな気配。
木々の間に溶け込むような存在。
セナは、当たり前のようにそのそばに立っていた。
風と遊ぶように、くるくると回っている。
けれど——
その身に纏っているのは、見慣れた普段着ではない。
動きやすいように整えられた、旅のための装い。
まだ少しだけ大きく見えるそれが、これからの道のりを物語っていた。
「……そろそろ、行こうか」
「うん!」
迷いのない声。
鹿は、何も言わない。
ただ、静かにこちらを見ている。
その瞳に、なぜか分かる。
大丈夫だと。
そう言われている気がした。
風が、やさしく巡る。
セナの髪が、ふわりと揺れた。
鹿は、ゆっくりと目を細める。
まるで——送り出すように。
「セナ」
呼びかける。
その小さな背中が、こちらを振り返る。
ほんの一瞬、言葉が詰まった。
それでも——
「……セナリオス」
静かに、呼ぶ。
その名を。
ナナが与えた、もうひとつの名を。
「?」
セナは不思議そうに首を傾げて、それから、ぱっと笑った。
「うん!」
何も知らないまま。
それでも、まっすぐに応える声。
それで、十分だった。
小さく、息を吐く。
「行ってきます」
誰にともなく、呟く。
それでも——
ちゃんと、届くと分かっている。
*
森の入り口には、すでに人影があった。
軽く手を振りながら、アルスが笑う。
「待ってたよ」
その声に、少しだけ肩の力が抜ける。
「……お待たせ」
自然と、言葉がこぼれた。
そのとき。
「アルス!」
セナが勢いよく駆け出した。
そのまま、迷いなく抱きつく。
「一緒に行くんでしょ?」
見上げる瞳は、きらきらと輝いている。
アルスは一瞬だけ目を丸くして、すぐにくしゃっと笑った。
「もちろん」
軽く頭を撫でる。
「ちゃんと一緒に行くよ」
少し離れたところで、マルタが腕を組んでいた。
見慣れた、いつもの格好。
変わらないままの姿。
その前に立つのは、旅支度を整えた三人。
「ほんとに行くんだねぇ」
どこか呆れたような声。
けれど、その目はやさしい。
「ええ」
しっかりと、頷く。
「そうかい」
それだけだった。
引き止めることもない。
ただ——
「ちゃんと食べなよ」
「無理はするんじゃないよ」
それだけを、残す。
思わず、笑ってしまう。
「はい」
自然と、返事がこぼれた。
「リゼには言ったのかい?」
「ええ」
「そうかい」
短い会話。
それで、十分だった。
少しだけ、間が空く。
言葉にしなくても分かる。
ここは——帰れる場所だ。
「じゃあ、行こうか」
アルスが、軽く言う。
一歩、踏み出す。
見慣れた集落の景色が、少しずつ遠ざかっていく。
それでも——振り返らない。
もう一歩、森の奥へ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
森を出るという小さな一歩が、
ナナにとって大きな変化になりました。
この先のふたりの歩みも、見守っていただけたら嬉しいです。




