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もう一度、人生を

いってきますの朝

作者: かめぽん
掲載日:2026/04/07

「帰れる場所」があるから、

人は、外へ踏み出せるのかもしれない。


これは、その一歩を踏み出す日の物語。

朝の空気は、少しだけ冷たかった。


 いつもと同じはずの森が、どこか違って見える。


 昨日までと、何も変わっていないはずなのに。


 それでも——


 私は、知っている。


 もう、ここを出るのだと。


 小さく息を吐く。


 胸の奥に残る、わずかなざわめき。


 怖くないと言えば、嘘になる。


 それでも。


「……大丈夫」


 そう、言い聞かせるように呟いた。


 外から、軽やかな足音が聞こえてくる。


 土を踏む音と、草を揺らす気配。


 聞き慣れた、小さな足音。


「おかあさん!」


 弾む声と一緒に、勢いよく扉が開いた。


「セナ」


 振り返ると、朝の光を背にした小さな影。


 頬を少し赤くして、息を弾ませている。


「みて!」


 差し出された手のひら。


 その上で、風がくるりと舞う。


 目には見えないはずなのに、そこに“いる”と分かる動き。


 ふわりと、頬を撫でるやさしい気配。


「すごいね」


 自然と、笑みがこぼれる。


 いつもと同じ光景。


 何も変わらない、朝。


 ——それなのに。


 胸の奥が、少しだけ締めつけられる。


 この時間も。


 この景色も。


 今日で、一度手放すことになる。


 セナはそんなこと、少しも気にしていない様子で笑っている。


 風とじゃれ合うように、くるくるとその場で回った。


 その姿を見ていると——


 不思議と、怖さが和らいでいく。


 大丈夫。


 この子は、ちゃんと——


 守られている。


 そのとき。


「ナナー!」


 明るい声が、森の中に響いた。


 思わず顔を上げる。


 聞き慣れた、軽やかな声。


「……来た」


 思わず小さく呟くと、セナがぱっと振り返る。


「アルス!」


 次の瞬間には、外へ駆け出していた。


 相変わらず、元気だ。


 少し遅れて外へ出ると、木々の間からひょいと顔を出す影。


 長い耳を揺らしながら、こちらに手を振っている。


「おはよう!」


「おはよう、アルス」


 軽い調子は、いつも通り。


 まるで、何も変わらないみたいに。


「朝から元気ねぇ」


「そりゃあね。いい天気だし」


 そう言って、空を見上げる。


 確かに、雲ひとつない青空だった。


「こういう日はさ、外に出るにはちょうどいいよ」


 何気ない言葉。


 けれど——


 胸の奥が、わずかに揺れる。


「……聞いたの?」


「ん?」


「森を出るって」


 少しだけ視線を逸らす。


 アルスは、軽く首を傾げてから——


「あー、なんとなく」


「この前、リゼと話してただろ?」


「外のこととか、あの子のこと」


 あっさりと言う。


「聞くつもりはなかったんだけどさ」


 肩をすくめる。


「なんとなく、そうなるのかなって」


 あっけらかんとした声。


「いいじゃん」


「外、面白いよ」


 まるで、自分のことみたいに笑う。


 その言葉に、ほんの少しだけ間を置く。


「……どんなところかしら?」


 自分でも、少し意外だった。


 怖いと思っているはずなのに。


 それでも——


 知りたい、と思っている。


 アルスは一瞬だけ目を瞬かせてから、すぐに笑った。


「うーん、そうだなあ」


 少し考えるように空を見上げる。


「森と違って、全部が“人のもの”って感じかな」


「人のもの?」


「道も、家も、店も」


「誰かが作って、誰かが使ってる」


「だから、にぎやかだよ」


 言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。


「いいやつもいれば、嫌なやつもいるし」


「めんどくさいことも多いけどさ」


 肩をすくめて、笑う。


「でも、その分、面白い」


 その言葉は、どこかまっすぐで。


 少しだけ——


 心に残った。


「……随分、詳しいのね」


 ぽつりと漏らすと、アルスは少しだけ肩をすくめた。


「まあね」


「何回か行ってるし」


 軽く言う。


「外に出られるようになってから、ちょこちょこね」


 あくまで、自然な流れで。


「森とは全然違うからさ」


「最初は戸惑ったけど——」


 少しだけ、笑う。


「気づいたら、また行きたくなるんだよね」


「そのうちさ」


「向こうに、拠点持ってもいいかなって思ってたんだ」


「だから——ちょうどいいかなって」


 にっと笑う。


「一緒に行くの」



 リゼの家は、いつもと同じ匂いがした。


 乾いた薬草と、少し甘い香り。


「どうしたの?」


 振り返ったリゼが、静かに微笑む。


「森を出ることにしたの」


 まっすぐに伝える。


 ほんの一瞬だけ、沈黙が落ちた。


 けれど——


「そう」


 それだけだった。


 驚きも、引き止めもない。


 ただ、静かに受け止める声。


「あなたが決めたのね」


「ええ」


 短く頷く。


「……あの子のために?」


 その問いに、少しだけ言葉を探す。


 けれど。


「それもあるわ」


「でも——」


 息をひとつ。


「私が、そうしたいと思ったの」


 リゼは、ほんのわずかに目を細めた。


「そう」


 それ以上は、何も聞かない。


 ただ、ひとつ頷いて——


「なら、いいと思うわ」


 その言葉は、静かで。


 けれど、しっかりと背中を押してくれるものだった。


 リゼは、ゆっくりと立ち上がる。


 棚の奥へと手を伸ばし、小さな箱を取り出した。


「これを」


 差し出されたのは、細い腕輪。


 淡く光を宿した、繊細な作りの魔道具。


「……これは?」


「あの子のためのものよ」


 静かな声。


「精霊との距離が、近すぎるの」


 あらためて言われて、胸の奥がわずかにざわつく。


「この森にいる分には問題ないわ」


「でも、外では——流れが偏りすぎるの」


「魔力も、精霊も」


「本来の在り方から、少しだけ外れてしまうことがあるわ」


「……それを、抑えるの?」


 思わず、問い返す。


 リゼは、ゆるやかに首を振った。


「いいえ」


「無理に抑えれば、いずれ歪みが出る」


「これは、そういうものじゃないの」


 そっと、腕輪に触れる。


「魔力は、その子の体に見合った量に」


「精霊は、集まりすぎず、留まりすぎないように」


「自然な流れに、整えるためのものよ」


「……整える」


 小さく、繰り返す。


「ええ」


「その子らしさを損なわずに、外でも生きやすくするためのもの」



 家の中は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。


 荷物は多くない。


 持っていくものは、必要なものだけ。


 それでも——


 手を止めるたびに、視線があちこちへと向かう。


 見慣れた棚。


 使い込んだ道具。


 何気ない日々の積み重ね。


 そのひとつひとつが、ここで過ごした時間を思い出させる。


 棚の奥から、小さな飾りを取り出す。


 ふと、指先が止まった。


 あの日のことを思い出す。


 セナが生まれた日のこと。


『この子の名は、もう決めているの?』


『……うん』


『セナ』


『そう』


『呼び名は、そのままでいいわ』


 静かな声。


 そして——


『この森で生きるなら、もうひとつ名を持つの』


『精霊と共にある者としての名を』


 少しだけ、戸惑ったのを覚えている。


『あなたにも』


 そう言われて、思わず顔を上げた。


『ナナリエル』


『その子と共に、この森で生きる者の名よ』


 あの日。


 私は、この森に受け入れられた。


 ただ迷い込んだだけの存在じゃなくて。


 ちゃんと——


 ここにいていい存在として。


 小さく息を吐く。


 胸の奥に、あたたかなものが広がる。


「……行ってくるね」


 誰にともなく、呟いた。


 返事はない。


 それでも——


 ちゃんと、届いている気がした。



 荷造りを終えて、外に出ると、やわらかな光が森を包んでいた。


「セナ」


 名前を呼ぶ。


 少し離れた場所で、小さな背中が振り返った。


 その隣に、静かに佇む白い鹿。


 やわらかな気配。


 木々の間に溶け込むような存在。


 セナは、当たり前のようにそのそばに立っていた。


 風と遊ぶように、くるくると回っている。


 けれど——


 その身に纏っているのは、見慣れた普段着ではない。


 動きやすいように整えられた、旅のための装い。


 まだ少しだけ大きく見えるそれが、これからの道のりを物語っていた。


「……そろそろ、行こうか」


「うん!」


 迷いのない声。


 鹿は、何も言わない。


 ただ、静かにこちらを見ている。


 その瞳に、なぜか分かる。


 大丈夫だと。


 そう言われている気がした。


 風が、やさしく巡る。


 セナの髪が、ふわりと揺れた。


 鹿は、ゆっくりと目を細める。


 まるで——送り出すように。


「セナ」


 呼びかける。


 その小さな背中が、こちらを振り返る。


 ほんの一瞬、言葉が詰まった。


 それでも——


「……セナリオス」


 静かに、呼ぶ。


 その名を。


 ナナが与えた、もうひとつの名を。


「?」


 セナは不思議そうに首を傾げて、それから、ぱっと笑った。


「うん!」


 何も知らないまま。


 それでも、まっすぐに応える声。


 それで、十分だった。


 小さく、息を吐く。


「行ってきます」


 誰にともなく、呟く。


 それでも——


 ちゃんと、届くと分かっている。



 森の入り口には、すでに人影があった。


 軽く手を振りながら、アルスが笑う。


「待ってたよ」


 その声に、少しだけ肩の力が抜ける。


「……お待たせ」


 自然と、言葉がこぼれた。


 そのとき。


「アルス!」


 セナが勢いよく駆け出した。


 そのまま、迷いなく抱きつく。


「一緒に行くんでしょ?」


 見上げる瞳は、きらきらと輝いている。


 アルスは一瞬だけ目を丸くして、すぐにくしゃっと笑った。


「もちろん」


 軽く頭を撫でる。


「ちゃんと一緒に行くよ」


 少し離れたところで、マルタが腕を組んでいた。


 見慣れた、いつもの格好。


 変わらないままの姿。


 その前に立つのは、旅支度を整えた三人。


「ほんとに行くんだねぇ」


 どこか呆れたような声。


 けれど、その目はやさしい。


「ええ」


 しっかりと、頷く。


「そうかい」


 それだけだった。


 引き止めることもない。


 ただ——


「ちゃんと食べなよ」


「無理はするんじゃないよ」


 それだけを、残す。


 思わず、笑ってしまう。


「はい」


 自然と、返事がこぼれた。


「リゼには言ったのかい?」


「ええ」


「そうかい」


 短い会話。


 それで、十分だった。


 少しだけ、間が空く。


 言葉にしなくても分かる。


 ここは——帰れる場所だ。


「じゃあ、行こうか」


 アルスが、軽く言う。


 一歩、踏み出す。


 見慣れた集落の景色が、少しずつ遠ざかっていく。


 それでも——振り返らない。


 もう一歩、森の奥へ。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


森を出るという小さな一歩が、

ナナにとって大きな変化になりました。


この先のふたりの歩みも、見守っていただけたら嬉しいです。

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