いってきますの朝(3作目)
「帰れる場所」があるから、
人は、外へ踏み出せるのかもしれない。
これは、その一歩を踏み出す日の物語。
朝の空気は、少しだけ冷たかった。
いつもと同じはずの森が、どこか違って見える。
昨日までと、何も変わっていないはずなのに。
それでも——
私は、知っている。
もう、ここを出るのだと。
小さく息を吐く。
胸の奥に残る、わずかなざわめき。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも。
「……大丈夫」
そう、言い聞かせるように呟いた。
外から、軽やかな足音が聞こえてくる。
土を踏む音と、草を揺らす気配。
聞き慣れた、小さな足音。
「おかあさん!」
弾む声と一緒に、勢いよく扉が開いた。
「セナ」
振り返ると、朝の光を背にした小さな影。
頬を少し赤くして、息を弾ませている。
「みて!」
差し出された手のひら。
その上で、風がくるりと舞う。
目には見えないはずなのに、そこに“いる”と分かる動き。
ふわりと、頬を撫でるやさしい気配。
「すごいね」
自然と、笑みがこぼれる。
いつもと同じ光景。
何も変わらない、朝。
——それなのに。
胸の奥が、少しだけ締めつけられる。
この時間も。
この景色も。
今日で、一度手放すことになる。
セナはそんなこと、少しも気にしていない様子で笑っている。
風とじゃれ合うように、くるくるとその場で回った。
その姿を見ていると——
不思議と、怖さが和らいでいく。
大丈夫。
この子は、ちゃんと——
守られている。
そのとき。
「ナナー!」
明るい声が、森の中に響いた。
思わず顔を上げる。
聞き慣れた、軽やかな声。
「……来た」
思わず小さく呟くと、セナがぱっと振り返る。
「アルス!」
次の瞬間には、外へ駆け出していた。
相変わらず、元気だ。
少し遅れて外へ出ると、木々の間からひょいと顔を出す影。
長い耳を揺らしながら、こちらに手を振っている。
「おはよう!」
「おはよう、アルス」
軽い調子は、いつも通り。
まるで、何も変わらないみたいに。
「朝から元気ねぇ」
「そりゃあね。いい天気だし」
そう言って、空を見上げる。
確かに、雲ひとつない青空だった。
「こういう日はさ、外に出るにはちょうどいいよ」
何気ない言葉。
けれど——
胸の奥が、わずかに揺れる。
「……聞いたの?」
「ん?」
「森を出るって」
少しだけ視線を逸らす。
アルスは、軽く首を傾げてから——
「あー、なんとなく」
「この前、リゼと話してただろ?」
「外のこととか、あの子のこと」
あっさりと言う。
「聞くつもりはなかったんだけどさ」
肩をすくめる。
「なんとなく、そうなるのかなって」
あっけらかんとした声。
「いいじゃん」
「外、面白いよ」
まるで、自分のことみたいに笑う。
その言葉に、ほんの少しだけ間を置く。
「……どんなところかしら?」
自分でも、少し意外だった。
怖いと思っているはずなのに。
それでも——
知りたい、と思っている。
アルスは一瞬だけ目を瞬かせてから、すぐに笑った。
「うーん、そうだなあ」
少し考えるように空を見上げる。
「森と違って、全部が“人のもの”って感じかな」
「人のもの?」
「道も、家も、店も」
「誰かが作って、誰かが使ってる」
「だから、にぎやかだよ」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「いいやつもいれば、嫌なやつもいるし」
「めんどくさいことも多いけどさ」
肩をすくめて、笑う。
「でも、その分、面白い」
その言葉は、どこかまっすぐで。
少しだけ——
心に残った。
「……随分、詳しいのね」
ぽつりと漏らすと、アルスは少しだけ肩をすくめた。
「まあね」
「何回か行ってるし」
軽く言う。
「外に出られるようになってから、ちょこちょこね」
あくまで、自然な流れで。
「森とは全然違うからさ」
「最初は戸惑ったけど——」
少しだけ、笑う。
「気づいたら、また行きたくなるんだよね」
「そのうちさ」
「向こうに、拠点持ってもいいかなって思ってたんだ」
「だから——ちょうどいいかなって」
にっと笑う。
「一緒に行くの」
*
リゼの家は、いつもと同じ匂いがした。
乾いた薬草と、少し甘い香り。
「どうしたの?」
振り返ったリゼが、静かに微笑む。
「森を出ることにしたの」
まっすぐに伝える。
ほんの一瞬だけ、沈黙が落ちた。
けれど——
「そう」
それだけだった。
驚きも、引き止めもない。
ただ、静かに受け止める声。
「あなたが決めたのね」
「ええ」
短く頷く。
「……あの子のために?」
その問いに、少しだけ言葉を探す。
けれど。
「それもあるわ」
「でも——」
息をひとつ。
「私が、そうしたいと思ったの」
リゼは、ほんのわずかに目を細めた。
「そう」
それ以上は、何も聞かない。
ただ、ひとつ頷いて——
「なら、いいと思うわ」
その言葉は、静かで。
けれど、しっかりと背中を押してくれるものだった。
リゼは、ゆっくりと立ち上がる。
棚の奥へと手を伸ばし、小さな箱を取り出した。
「これを」
差し出されたのは、細い腕輪。
淡く光を宿した、繊細な作りの魔道具。
「……これは?」
「あの子のためのものよ」
静かな声。
「精霊との距離が、近すぎるの」
あらためて言われて、胸の奥がわずかにざわつく。
「この森にいる分には問題ないわ」
「でも、外では——流れが偏りすぎるの」
「魔力も、精霊も」
「本来の在り方から、少しだけ外れてしまうことがあるわ」
「……それを、抑えるの?」
思わず、問い返す。
リゼは、ゆるやかに首を振った。
「いいえ」
「無理に抑えれば、いずれ歪みが出る」
「これは、そういうものじゃないの」
そっと、腕輪に触れる。
「魔力は、その子の体に見合った量に」
「精霊は、集まりすぎず、留まりすぎないように」
「自然な流れに、整えるためのものよ」
「……整える」
小さく、繰り返す。
「ええ」
「その子らしさを損なわずに、外でも生きやすくするためのもの」
*
家の中は、いつもと変わらない静けさに包まれていた。
荷物は多くない。
持っていくものは、必要なものだけ。
それでも——
手を止めるたびに、視線があちこちへと向かう。
見慣れた棚。
使い込んだ道具。
何気ない日々の積み重ね。
そのひとつひとつが、ここで過ごした時間を思い出させる。
棚の奥から、小さな飾りを取り出す。
ふと、指先が止まった。
あの日のことを思い出す。
セナが生まれた日のこと。
『この子の名は、もう決めているの?』
『……うん』
『セナ』
『そう』
『呼び名は、そのままでいいわ』
静かな声。
そして——
『この森で生きるなら、もうひとつ名を持つの』
『精霊と共にある者としての名を』
少しだけ、戸惑ったのを覚えている。
『あなたにも』
そう言われて、思わず顔を上げた。
『ナナリエル』
『その子と共に、この森で生きる者の名よ』
あの日。
私は、この森に受け入れられた。
ただ迷い込んだだけの存在じゃなくて。
ちゃんと——
ここにいていい存在として。
小さく息を吐く。
胸の奥に、あたたかなものが広がる。
「……行ってくるね」
誰にともなく、呟いた。
返事はない。
それでも——
ちゃんと、届いている気がした。
*
荷造りを終えて、外に出ると、やわらかな光が森を包んでいた。
「セナ」
名前を呼ぶ。
少し離れた場所で、小さな背中が振り返った。
その隣に、静かに佇む白い鹿。
やわらかな気配。
木々の間に溶け込むような存在。
セナは、当たり前のようにそのそばに立っていた。
風と遊ぶように、くるくると回っている。
けれど——
その身に纏っているのは、見慣れた普段着ではない。
動きやすいように整えられた、旅のための装い。
まだ少しだけ大きく見えるそれが、これからの道のりを物語っていた。
「……そろそろ、行こうか」
「うん!」
迷いのない声。
鹿は、何も言わない。
ただ、静かにこちらを見ている。
その瞳に、なぜか分かる。
大丈夫だと。
そう言われている気がした。
風が、やさしく巡る。
セナの髪が、ふわりと揺れた。
鹿は、ゆっくりと目を細める。
まるで——送り出すように。
「セナ」
呼びかける。
その小さな背中が、こちらを振り返る。
ほんの一瞬、言葉が詰まった。
それでも——
「……セナリオス」
静かに、呼ぶ。
その名を。
ナナが与えた、もうひとつの名を。
「?」
セナは不思議そうに首を傾げて、それから、ぱっと笑った。
「うん!」
何も知らないまま。
それでも、まっすぐに応える声。
それで、十分だった。
小さく、息を吐く。
「行ってきます」
誰にともなく、呟く。
それでも——
ちゃんと、届くと分かっている。
*
森の入り口には、すでに人影があった。
軽く手を振りながら、アルスが笑う。
「待ってたよ」
その声に、少しだけ肩の力が抜ける。
「……お待たせ」
自然と、言葉がこぼれた。
そのとき。
「アルス!」
セナが勢いよく駆け出した。
そのまま、迷いなく抱きつく。
「一緒に行くんでしょ?」
見上げる瞳は、きらきらと輝いている。
アルスは一瞬だけ目を丸くして、すぐにくしゃっと笑った。
「もちろん」
軽く頭を撫でる。
「ちゃんと一緒に行くよ」
少し離れたところで、マルタが腕を組んでいた。
見慣れた、いつもの格好。
変わらないままの姿。
その前に立つのは、旅支度を整えた三人。
「ほんとに行くんだねぇ」
どこか呆れたような声。
けれど、その目はやさしい。
「ええ」
しっかりと、頷く。
「そうかい」
それだけだった。
引き止めることもない。
ただ——
「ちゃんと食べなよ」
「無理はするんじゃないよ」
それだけを、残す。
思わず、笑ってしまう。
「はい」
自然と、返事がこぼれた。
「リゼには言ったのかい?」
「ええ」
「そうかい」
短い会話。
それで、十分だった。
少しだけ、間が空く。
言葉にしなくても分かる。
ここは——帰れる場所だ。
「じゃあ、行こうか」
アルスが、軽く言う。
一歩、踏み出す。
見慣れた集落の景色が、少しずつ遠ざかっていく。
それでも——振り返らない。
もう一歩、森の奥へ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
森を出るという小さな一歩が、
ナナにとって大きな変化になりました。
この先のふたりの歩みも、見守っていただけたら嬉しいです。




