婚約破棄された悪役令嬢ですが、怠惰と噂の隣国第二王子に拾われました ~国家の「心臓」だった私を捨てた王国は破綻しました~
王太子カイルの怒号が、華やかな舞踏会の音楽を叩き割った。
「エリシア・ローゼンベルク! 貴様との婚約を破棄する!」
一瞬で静まり返る会場。その中心で、聖女ミレーヌが勝ち誇った瞳を隠しもせず、弱々しく震えてみせる。
「……お姉様、どうして……。私の飲み物に毒を混ぜるなんて……」
毒見役が床に崩れ落ち、口から白い泡を吐いた。
会場が悲鳴に包まれる中、エリシアはそれを一瞥する。
「証拠を。私は一度も席を立っておりません」
エリシアの冷静な反論を、ミレーヌのさらなる追撃が遮った。
「それだけじゃありません……。お姉様、実は聖女の活動予算も、あなたが裏で使い込んでいたのでしょう? 帳簿が全然合わないって、文官の方が泣いていましたわ」
その言葉に、周囲の嘲笑が一段と激しさを増す。
「ローゼンベルク家の娘ともあろう方が、毒を盛った上に公金横領とは! 醜いにもほどがある!」
「聖女様が慈悲深く黙っていたのをいいことに、なんという悪女だ。国外へ叩き出せ!」
実の父さえも「我が家の泥をこれ以上塗りつぶすな」と冷たく背を向け、エリシアは一晩にしてすべてを失った。
会場の隅、極上のワインを揺らす男がいた。隣国の第二王子、レオナルト・ヴァルグレイ。
彼は隣国屈指の戦略家として知られているが、本人が極度の面倒くさがりのため、自国では「昼寝王子」と揶揄されている。
「……馬鹿だな、あいつら」
「何がです?」
問う側近に、レオナルトは退屈そうに黄金の瞳を細めた。
「あの女を捨てたことだ。夜会の連中は誰も気付いてねえがな……あいつ、断罪されている最中でさえ、右手の指が一定のリズムで動いてた。あれはそろばんを弾く動きだ」
側近が息を呑むのを余所に、レオナルトは愉快そうに喉を鳴らす。
「ミレーヌとかいう小娘が『予算を使い込んだ』という嘘を吐いた瞬間、悲しむより先に『計算が合わない』って顔で眉をひそめてやがった」
「け、計算が……?」
「ああ、悲しみじゃない。あの土壇場で、あいつはこの国の来月の修正予算案を組んでたんだよ。冤罪に絶望する暇があったら、数字の不整合を正そうとする……あんなバケモノ、手放したら国が終わるぞ」
「……では、殿下は」
「ああ。あの『心臓』、俺が貰いに行く」
数日後、降りしきる雨の中。国境の検問所に、みすぼらしい馬車がたどり着いた。
護衛たちは、追放されたエリシアを荷物のように扱う。
「おい、さっさと降りろ。ここから先は他国の土地だ。二度と戻ってくるなよ、横領令嬢」
泥を撥ね、エリシアが地面に降り立ったその時。
検問所の霧を割って、隣国王室の黄金の紋章を掲げた漆黒の馬車が静かに滑り込んできた。
「なっ……なんだ、あれは……!?」
震え上がる護衛たちの前に、優雅に姿を現したのは、レオナルト・ヴァルグレイ。
彼は大きな欠伸を一つ噛み殺すと、跪くことも、名乗ることさえも省略してエリシアの前に立った。
「レオナルト殿下!? なぜこのような、国境の僻地に……!」
「散歩だ。……と言いたいところだが、生憎と数日前からここでキャンプを張っていてな。腰が痛くてかなわん」
レオナルトは不敵に笑い、困惑するエリシアの腕を強引に引き寄せた。
「なっ……殿下! 彼女は罪人です! 王国を揺るがした横領犯で……!」
「その女は、俺が貰う。……文句はないな?」
レオナルトの黄金の瞳が、鋭いナイフのように護衛たちを射抜く。その圧倒的な覇気に、先ほどまでエリシアを罵っていた男たちは言葉を失った。
「しかし、罪人とは笑えるな。俺から言わせれば、お前たちがドブに捨てた『国家の心臓』だ。……さあ行くぞ、エリシア。俺が一生分昼寝する時間を増やすには、お前の力が必要なんだ」
呆然とするエリシアの耳元で、彼は誰にも聞こえない低い声で付け加えた。
「……あの夜会での『計算』、続きを聞かせてくれよ。天才」
その言葉に、エリシアの心臓が大きく跳ねた。
世界でただ一人、自分の価値を正しく見抜いていた男の手を、彼女は強く握り返した。
隣国ヴァルグレイの王宮、財務局の一室。
そこには、レオナルトが連れてきた「追放令嬢」を苦々しく見つめる重鎮たちが揃っていた。
「殿下、冗談が過ぎます。どこの馬の骨とも知れぬ、しかも横領の嫌疑をかけられた女に、我が国の帳簿を見せるなど……」
「……あー、うるさい。黙ってこれを見ろ」
レオナルトが面倒そうに顎でしゃくると、エリシアは一歩前へ出た。彼女の手には、昨夜一晩でまとめ直された数枚の羊皮紙がある。
「財務卿、および文官の皆様。まず、この三年間で累積した『計算ミス』の総計、一億二千万ルクスの返還計画案です」
「な……計算ミスだと!? 我らが精鋭がそんな初歩的な……」
「ええ、初歩的です。皆さんが三ヶ月かけて算出した昨年度の予算案、たった一箇所、三ページ目の流通税の掛け率が間違っているせいで、後ろの五百ページがすべてゴミに等しい代物になっていますわ。つまり、この国は三年間、存在しない金を使って予算を組んでいました」
エリシアの声は、冷徹なまでに静かだった。
「さらにもう一点。北部の鉱山開発費。予算の三割が、名もなき幽霊商会に流れていますね? 文官のどなたが私腹を肥やしているかは存じませんが……今すぐ吐き出すか、殿下に首を撥ねられるか、選んでいただけますか?」
室内が、氷を叩きつけたような静寂に包まれた。
あまりの精度。そして、一瞥しただけでは絶対に気づけない「構造的な不正」を、彼女は一晩で暴き立てたのだ。
「な、な……っ! 貴様、何者だ……!」
「私はエリシア。この国のレオナルト殿下に拾われた、ただの『計算機』です」
エリシアは、かつて王太子妃教育で叩き込まれた完璧なカーテシーを落とした。
「ただし、壊れた国家の修理は得意ですわ」
エリシアは、震える文官たちを見下ろして微笑んだ。それは、王太子カイルが一度も見ることのなかった、支配者の微笑だった。
「文句がある方は、私より正確な数字を今すぐお出しください。……できないのであれば、私の指示に従っていただきます。私は、数字の合わない無能な方と会話する時間は、一秒も持ち合わせておりませんので」
レオナルトは、ソファに深く腰掛けながら、愉快そうに鼻で笑った。
「聞いたか? こいつが『黒』と言えば、この国では太陽も黒くなる。……おい、お前ら。俺の『心臓』に嫌われたくなければ、さっさと計算し直せ」
これを契機に、この国でレオナルトの後ろ盾を得て、エリシアは高位の文官として上り詰めたのである。
エリシアが去った後の王国は、まさに砂の城のように崩れ去った。
「殿下! 帳簿が読めません! 全てエリシア様独自の暗号で管理されており、専門の官吏が総出でも解読不能です!」
「主要な商会が『エリシア様のいない国に未来はない』と、次々撤退を! 輸出入が完全に止まりました!」
「そんなはずはない! 事務作業など誰でもできるはずだ!」
紛糾する議会をよそに、王都の市場では、朝には山のように並んでいたパンが昼には消え、夕方には空の棚だけが残っていた。
「カイル様ぁ、お腹が空きましたわ。お茶もこれ、安物じゃない……ぐふっ!?」
甘えるミレーヌの背後で、近衛騎士たちが彼女の首根っこを掴み、床に叩き伏せた。
彼女の寝室から、証拠品が山ほど見つかったのだ。
「聖女ミレーヌ! 貴様の飲み物から検出された毒は自作自演、さらには王太子に投与していた『魅了の薬』……全て、証拠は揃っているぞ!」
「離しなさい! 私は聖女よ!? 汚い手で触らないで……っ!」
引きずり出されるミレーヌを、かつてエリシアを罵った貴族たちが、今度は「稀代の毒婦め!」と罵倒する。
カイルは魅了の毒が解け、真っ青な顔で膝をついた。
「嘘……だろ……? エリシア、私は、私はなんてことを……!」
だが、後悔はあまりに遅すぎた。
王国は、隣国に莫大な借金を負う「破綻国家」として、ついに頭を下げて支援を乞うことになったのだ。
交渉の場。
震えながら現れたカイルと父・ローゼンベルク公爵の前に現れたのは、隣国の最高級ドレスに身を包んだ、眩いほどに美しいエリシアだった。
「エリシア! ああ、無事だったか! 許してくれ、全てはあの女の仕業だったんだ。さあ、一緒に帰ろう。君を王太子妃として迎え……」
「……お黙りなさい」
エリシアの冷徹な一喝に、カイルは言葉を失う。
「あなたが私を捨てた損失は、現在利息込みで国家予算の三倍です。私は今、隣国の全権交渉官。不法投棄されたゴミが、自らゴミ箱に戻るとでもお思いですか?」
そこへ、レオナルトが背後からエリシアの肩を抱き寄せ、カイルを見下ろして言い放った。
「おい、俺の女に気安く触るな。お前たちに拒否権はないぞ。この支援の対価は、お前たちの国の全領土……そして、お前ら王族の終身労働だ。……最初から選ぶ相手を間違えたんだよ、お前は」
嵐のような交渉が終わり、王国が事実上の属国として再編され始めた頃。
隣国の王宮にある、日当たりの良いテラスでは、相変わらずの光景が繰り広げられていた。
「殿下。またサボって昼寝ですか? 財務諸表に目を通してくださいと言ったはずです」
エリシアが呆れた声を出すと、長椅子に横たわっていたレオナルトが片目を開けた。
「嫌だ。俺がわざわざ国境まで行って、お前という『最強の心臓』を奪ってきたのは、俺が一生分寝るためなんだからな」
「……奪ってきた、だなんて。人聞きの悪い」
エリシアは溜息をつきながら資料をまとめようとしたが、その手は素早くレオナルトに掴まれ、そのまま彼の胸元へと引き寄せられた。
「おい、どこへ行く。……今は休憩時間だ。俺の隣にいろ」
「殿下、近いです……ッ!」
至近距離で見つめてくるレオナルトの黄金の瞳には、かつての退屈そうな色は微塵もない。そこにあるのは、獲物を決して逃さないという、戦略家らしい独占欲だった。
「いいか、エリシア。俺はお前を、労働力としてだけ連れてきたわけじゃない」
彼はエリシアの腰に腕を回し、耳元で熱を帯びた声を落とした。
「国なんてものは、お前がいれば勝手に回る。……だが、俺の隣にお前がいないと、俺は退屈で死んでしまう。だから、どこにも行くな。……俺から逃げるなよ、エリシア」
「……っ、善処、します……」
真っ赤になって視線を逸らすエリシアを、レオナルトは満足げに抱きしめ直した。
かつての国では、身を削って尽くしても、得られたのは裏切りと冷笑だけだった。
けれど今は、自分の能力を必要とし、自分自身を求めてくれる男がここにいる。
(……ああ、そうか)
春の柔らかな日差しの中で、エリシアは静かに瞳を閉じ、その温もりに身を預けた。
あの国では、エリシア個人はただの歯車だったと今ならわかる。
そして、心の底から思ったのだ。
「あの時、追放されて本当によかった」
隣で「……ようやく大人しくなったな」と笑う、愛すべき「昼寝王子」の鼓動を、誰よりも近い場所で聞きながら。
もし少しでも「スカッとした!」「この二人の甘い続きが見たい!」と思っていただけたら、評価やブクマ、感想をいただけると泣いて喜びます。それが何よりの執筆のガソリンになります!
それでは、また別の物語でお会いしましょう!




