第29話:血抜きの儀
巨猪が沈み、泥を跳ね上げる。
荒い呼吸が止まると、広場に不気味なほどの静寂が戻った。
カイは鉈を鞘に戻し、まずは大きく息を吐いて周囲の木々に視線を走らせる。
「……レン、二人を連れてまわりを固めろ。血の匂いが流れてる。何かが寄ってくる前に、周囲の『音』を拾ってくれ」
「わかったよ。……行こう」
レンが短く応じ、得物を構えた二人を伴って、音もなくシダの群生へと消えていった。
残ったカイとレイジ、そして他の数名の男たちは、山のような巨猪の死骸を囲む。
「……よし、始めるぞ。全部持って帰るぞ。今は『中』を出す」
カイの指示に、男たちが一斉に動き出した。
彼らが手にしたのは、喉元から尾の付け根までを一気に切り開くための、鋭利な剥皮刀だ。
「……重てぇな、こいつ。おい、足を支えてろ!」
レイジが毒づきながら、巨猪の太い後脚を力任せに押し広げる。
カイはその隙間に滑り込むように膝をつき、喉元に刃を立てた。
熟練の業で食道を切り離し、そこから腹部にかけて迷いなく刃を滑らせる。
溢れ出す熱気と、内臓特有の重苦しい匂いが鼻を突く。
だが、男たちは顔を背けない。
カイは両腕を血に染めながら、直腸から胃、そして食道に至るまでの長い消化器官を、一塊のまま傷つけずに引きずり出した。
「……よし、今だ! 川へ運べ!」
男たちが四人がかりで、切り離された内臓と、血を抜いた巨体の残りを近くの小川へと引きずっていく。
透き通った冷たい水に肉を沈めると、赤黒い血が煙のように水流に混じり、下流へと消えていった。
「……これで肉が締まる。血も抜ければ、腐るのも遅くなるはずだ」
カイは川の水で腕の血を洗い流しながら、水辺に横たわる巨体を見つめた。
川底の石に肉を固定し、冷気に晒す。
モールでじいちゃんに教わった、大きな獲物を無駄にしないための後処理だ。
「……カイ、水が冷たくて助かったな。これなら、持ち帰るまで持たせられそうだぜ」
レイジが濡れた顔を拭い、少しだけ表情を緩める。
だが、カイの視線は依然として森の奥、光の届かない闇へと向けられたままだった。
「油断するな。……冷やしている間に、周囲の果実を集めるぞ。一刻も早く、ここを離れるんだ」
川のせせらぎが、血の匂いを少しずつ薄めていく。
しかし、その静かな水の音に混じって、森の深部からは、獲物を仕留めた者たちを値踏みするような「視線」が、確かに突き刺さっていた。




