修理単価が安すぎる。キズがなければゴルフボールで叩いてでも作れ」と統括部長が言うので
七月の酷暑。
埼玉県郊外の国道沿いに、巨大な看板が聳え立っている。
蛍光色の派手な配色で『アクセル・モータース』と書かれたその看板の下には、見渡す限りの在庫車両が並んでいた。
アスファルトからの照り返しが、蜃気楼のように空間を歪めている。
その敷地の奥にある整備工場の中は、さらに過酷な熱気に包まれていた。
油と排気ガス、そしてゴムの焦げた臭いが入り混じった独特の空気。
だが、ここで働く整備士たちの額を流れる汗は、単なる暑さのせいだけではない。
恐怖による冷や汗が、背中を伝っていた。
カツ、カツ、カツ。
コンクリートの床を叩く、革靴の音が響く。
その音が近づくにつれ、インパクトレンチを回す音が止み、整備士たちの動きが凍りついたように止まる。
現れたのは、仕立ての良い紺色のスーツを着た男だった。
鮫島レイジ。
この北関東エリアを束ねる統括部長であり、社内では『死神』と恐れられる男だ。
彼はハンカチで鼻を押さえながら、汚いものを見る目で工場内を見回した。
「……おい、工場長。鉄山はどこだ」
低い声が、熱気を切り裂く。
リフトの下から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
油にまみれた作業着。白髪混じりの短髪。無骨な手には、使い込まれたラチェットレンチが握られている。
この工場の責任者、鉄山だ。
「ここにおります、統括部長」
鉄山の声は、錆びた鉄のように低く、太かった。
鮫島は鉄山の前に歩み寄ると、いきなり手にしたバインダーを投げつけた。
バシィッ!
プラスチックの角が鉄山の頬を掠め、床に落ちて乾いた音を立てる。
頬から一筋の血が流れたが、鉄山は眉一つ動かさない。
「なんだこの数字は」
鮫島が低い声で唸るように言った。
「今月の車検単価、平均五万円? 修理単価、三万円? ……舐めてんのか?」
「……必要な整備を行った結果です。過剰な部品交換は、お客様の負担になりますので」
「客の負担? 違うだろ。お前が心配すべきなのは、会社の利益だ!」
鮫島が鉄山の胸倉を掴み、強引に引き寄せた。
高級な香水の甘ったるい香りが、工場の油臭さに混じって鼻をつく。
「いいか鉄山。俺たちはボランティアじゃない。営利企業だ。車検ってのはな、宝の山なんだよ。客は素人だ。ブレーキパッドがまだ残っていようが、オイルが綺麗だろうが、『交換時期です』と言えば金を払うんだよ」
「使える部品を捨てることは、整備士の誇りが許しません」
「誇り? そんなもんで飯が食えるか! 俺が欲しいのは数字だ! 一台あたり最低でも十五万、いや三十万は乗せろ!」
鮫島は鉄山を突き飛ばした。
鉄山はよろめきながらも、足を踏ん張って倒れるのを堪える。
その目は、静かな怒りを湛えていた。
だが、鮫島にはそれが反抗的な態度にしか見えない。
「その目が気に入らねえんだよ。……おい、あれを持ってこい」
鮫島が指を鳴らすと、後ろに控えていた若い部下が、一つの紙袋を恭しく差し出した。
鮫島はその中から、ある物体を取り出した。
それは、白いスポーツソックスだった。
だが、その先端には何かが入っており、重そうに垂れ下がっている。
ゴルフボールだ。
工場の空気が、一瞬で凍りついた。
整備士たちは皆、その意味を知っている。
業界の闇。公然の秘密。
「鉄山。お前の工場は、入庫車両のキズが少なすぎる。保険金請求額がエリア最下位だ」
鮫島は靴下の端を持ち、ブラブラと振り回した。
ブン、ブン、と風を切る音がする。
「雹害って知ってるか? 空から氷の塊が降ってきて、ボンネットや屋根が凹む自然災害だ。あれはいいぞ。パネル一枚につき十万円以上の板金塗装費用が請求できる」
「……この地域では、ここ数年、雹など降っておりませんが」
「だから! 降らせるんだよ、お前の手で!」
鮫島は靴下に入ったゴルフボールを、近くにあった預かり車両のボンネットに叩きつけた。
ドガンッ!
鈍く、重い音が工場内に響き渡る。
美しい塗装面に、クレーターのような無惨な凹みが生まれた。
それは、車を愛する者にとっては、悲鳴にも等しい音だった。
「見ろ。これで修理費十五万円の確定だ。簡単だろ?」
鮫島はニヤリと笑い、その靴下を鉄山に押し付けた。
「やれ。今ここにある預かり車両五十台、全てに『雹害』を発生させろ。それと、ヘッドライトの取り付け部も割っておけ。あれも交換単価が高いからな」
「……断ります」
鉄山は短く答えた。
「これはお客様の大切な財産です。それを故意に傷つけるなど、犯罪です。器物損壊、および詐欺罪にあたります」
その瞬間、鮫島の表情から感情が消えた。
彼はゆっくりと鉄山に近づき、耳元で囁いた。
「犯罪? 違うな。これは『教育』だ」
「……教育」
「そうだ。会社に貢献できない無能な社員への教育的指導だ。……鉄山、お前には娘がいたな? 来年、大学受験だったか?」
鉄山の肩が、ビクリと震えた。
「この業界は狭いぞ。俺の一声で、お前をこの業界で働けなくすることなんざ造作もない。退職金なしでクビになり、路頭に迷うか? それとも、娘の進学を諦めさせるか?」
卑劣。
あまりにも卑劣な脅し。
鉄山の手が震えている。恐怖ではない。沸騰するような怒りを、必死で抑え込んでいるのだ。
だが、鮫島はそれを恐怖による服従だと解釈した。
「わかったらやれ。明日の朝までに全車の見積もりを作っておけ。一台平均三十万円だ。……できなかったら、わかってるな? 『教育』が足りないとして、お前の部下全員を地方の僻地に飛ばしてやる」
鮫島は部下の肩を叩き、高笑いを残して工場を出て行った。
残されたのは、凹んだボンネットの車と、靴下を握りしめた鉄山。
そして、絶望的な顔をした若い整備士たちだった。
「こ、工場長……どうするんですか……」
入社二年目の若手、ケンタが泣きそうな声で尋ねた。
「俺、こんなことするために整備士になったんじゃありません。でも、飛ばされるのは……」
鉄山は答えなかった。
ただ、凹まされたボンネットを優しく撫でた。
その手つきは、怪我をした子供をあやす父親のように慈愛に満ちていた。
鉄山には聞こえていた。
鉄の悲鳴が。
オーナーが大切に乗ってきた愛車が、金儲けの道具として傷つけられた無念が。
許さない。
絶対に許さない。
鉄山の中で、何かが決壊した。
それは、三十年間守り続けてきた「我慢」という堤防が決壊し、代わりに「復讐」という名の濁流が流れ込む音だった。
彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もはや職人の穏やかさはなかった。
あるのは、冷徹な狩人の光。
「……ケンタ。全員を集めろ。今すぐにだ」
「えっ? は、はい!」
数分後。
十名の整備士全員が鉄山の前に整列した。
鉄山は、手にしたゴルフボール入りの靴下を、ゴミ箱に放り込んだ。
ドスッ。
「統括部長の命令は絶対だ」
鉄山が低い声で告げた。
整備士たちがざわめく。まさか、本当にやる気なのかと。
「部長は仰った。『修理単価を上げろ』と。『不具合を見つけろ』と。『なければ作れ』とは言われたが……そうだな、我々はプロだ。探せば必ずあるはずだ」
鉄山は工場の入り口にあるシャッターを指差した。
「シャッターを閉めろ。そして、看板の照明を落とせ。今から『緊急特別点検』を行う」
「て、点検……ですか?」
「ああ。鮫島部長は『徹底的にやれ』と仰った。表面上のキズを作るなんて、三流の仕事だ。我々は一流の整備士として、もっと深い、車の心臓部までチェックする義務がある」
鉄山は工具箱から、一本の工具を取り出した。
それは、エンジンを分解するための特殊工具だった。
「一台平均三十万? 安すぎる。どうせやるなら、一台三百万の仕事をしようじゃないか」
鉄山の口元が、微かに歪んだ。
「入庫している五十台、および在庫車両三百台。その全てを対象とする。エンジン、トランスミッション、足回り、内装。……ネジの一本に至るまで、全て分解しろ」
「え……? ぜ、全部分解って……元に戻せるんですか?」
ケンタが目を白黒させる。
鉄山はニヤリと笑った。
「さあな。異常がないか確認するためには、バラバラにするしかないだろう? 元に戻す工数は見積もりに入っていない。……我々の仕事は『点検』だ。後のことは知らん」
整備士たちの顔色が、恐怖から驚愕へ、そして次第に狂気じみた興奮へと変わっていく。
彼らもまた、鮫島に虐げられてきた被害者だ。
上司の理不尽な命令を逆手に取り、合法的に、かつ物理的に会社を破壊する。
その意味を理解した瞬間、彼らの目にも暗い炎が灯った。
「やれますね?」
「……はい! やります! 俺、エンジンのオーバーホールなら誰にも負けません!」
「僕、内装の剥がし作業、得意です! クリップ一つ残さず外します!」
鉄山は頷き、ラチェットレンチを握り直した。
「よし。これより、アクセル・モータース北関東支店、史上最大の『大分解祭り』を開催する。……一台も逃がすな。骨の髄までバラせ」
カチリ、カチリ。
ラチェットの音が、静かに、しかし力強く鳴り始めた。
それは、巨大な不正組織へのレクイエムの始まりだった。
外はまだ明るいが、工場の中では、終わりのない夜が始まろうとしていた。
深夜二時。
国道沿いの喧騒は消え、世界は静寂に包まれていた。
だが、アクセル・モータース北関東支店の整備工場だけは、異様な熱と光の中にあった。
水銀灯の白く冷たい光が、コンクリートの床を照らし出している。
そこには、十人の男たちが、憑かれたように手を動かす姿があった。
シュバッ、シュバッ。
ガガガガッ!
キン、カン。
エアーコンプレッサーの唸り声。インパクトレンチがボルトを高速で緩める打撃音。そして、外された金属部品がトレーに置かれる硬質な音。
それらの音が重なり合い、不協和音のシンフォニーとなって夜の闇に吸い込まれていく。
工場長の鉄山は、一台の高級セダンの前に立っていた。
いや、それを「車」と呼ぶことは、もはや難しかった。
ボンネットは取り外され、エンジンルームは空洞になっている。タイヤはなく、サスペンションのアーム類も全て外され、リフトの上で吊るされているのは、ただの鉄の骨格だけだった。
鉄山の手には、オイルに塗れたラチェットレンチが握られている。
彼が見つめる作業台の上には、摘出された心臓――V型六気筒エンジンが鎮座していた。
だが、その心臓もまた、解剖の最中だった。
「……シリンダーヘッド、取り外し完了」
鉄山が独り言のように呟く。
ヘッドボルトを緩め、重厚なアルミの塊を持ち上げる。
その下から、六つのピストンが露わになった。
燃焼の痕跡を残すピストントップ。シリンダーの壁面には、微細なオイルの被膜が光っている。
美しい。
機械としての機能美がそこにあった。
だが、鉄山は手を止めない。
彼はピストンリングコンプレッサーを手に取り、コンロッドのボルトを緩め、ピストンを一つずつ引き抜いていく。
ヌルリ、という感触と共に、エンジンの奥底からピストンが抜き出される。
「一番シリンダー、ピストン及びコンロッド、異常なし。……念のため、メタルの摩耗度をマイクロメーターで測定する」
鉄山は呟きながら、測定器具を当てた。
1000分の1ミリ単位の数値を読み取り、記録簿に書き込む。
異常はない。メーカーの基準値内だ。
当然だ。この車はまだ走行距離三万キロ。エンジン内部が摩耗しているはずがない。
しかし、鉄山の目は冷徹だった。
異常がないなら、さらに奥へ。
クランクシャフトを外し、ブロックだけにする。
それでも異常がなければ、トランスミッションを分解する。
ギアの一枚、ベアリングの一つに至るまで。
「工場長! こちらのハイブリッドカー、バッテリーユニットの分解が完了しました!」
若手のケンタが、煤と油で顔を真っ黒にしながら叫んだ。
彼の足元には、数千個のセルに分解されたバッテリーが、まるで幾何学模様のように整然と並べられている。
「電極の腐食、確認できません! インバーターも開封して基盤チェックに入りますか?」
「ああ、やれ。ハンダ付けのクラック一つ見逃すな。電子顕微鏡を使え」
「了解です! 徹底的にやります!」
ケンタの声には、疲労よりも一種の昂揚感が混じっていた。
今まで「時短」と「手抜き」を強要され、整備士としての魂をすり減らしてきた彼らにとって、この狂気じみた「完全分解」は、ある種のカタルシスをもたらしていたのだ。
車を知り尽くしたい。
機械の深淵を覗きたい。
その純粋な欲求が、上司への復讐心と混ざり合い、彼らを暴走させていた。
工場内の光景は、刻一刻と変貌していった。
最初は車が並んでいたスペースが、次第に「部品の海」に侵食されていく。
バンパー、フェンダー、ドア、シート、ダッシュボード。
エンジンブロック、ピストン、カムシャフト、バルブスプリング。
数万、いや数十万点に及ぶ部品が、ブルーシートの上に分類され、タグを付けられ、整列していく。
それはまるで、巨大な生物の体内を裏返したような、グロテスクでありながら神聖な光景だった。
足の踏み場など、とっくになくなっていた。
人間が歩けるのは、部品と部品の間に作られた、わずか三十センチ幅の獣道だけだ。
朝が来るまで、その作業は止まらなかった。
彼らは食事も忘れ、水も飲まず、ただひたすらに「点検」という名目の破壊を続けた。
鮫島部長が望んだ「徹底的な調査」のために。
午前九時。
朝の光が工場のシャッターの隙間から差し込み、舞い散る埃をキラキラと照らした。
工場の空気は、鉄の匂いとオイルの香りで飽和していた。
ウィーン。
事務所側の自動ドアが開き、鮫島レイジが出勤してきた。
彼は上機嫌だった。
昨日、鉄山に命じた「雹害」の工作が完了していると信じていたからだ。
五十台分の板金修理。しめて一千万円以上の売り上げが、今日一日で計上される。
その数字を見れば、本社も自分の手腕を評価するだろう。
「おい鉄山! どうだ、進んだか! 見積書はでき……」
鮫島は工場の扉を開け、一歩足を踏み入れようとした。
だが、その足は空中で止まった。
彼が踏み下ろそうとした場所には、床がなかったからだ。
そこには、銀色に輝くトランスミッションのギアが、城壁のように積み上げられていた。
「……あ?」
鮫島の喉から、間の抜けた音が漏れた。
彼は目をこすり、もう一度前を見た。
視界が狂ったのかと思った。
だが、何度見ても同じだった。
車がない。
昨日までそこにあったはずの、高級セダンも、SUVも、軽自動車も。
車の形をしたものは何一つない。
あるのは、見渡す限りの金属の荒野。
まるで爆撃を受けた後のスクラップ工場のようであり、あるいは未来都市の遺跡のようでもあった。
その迷宮の奥、リフトの支柱の影から、油まみれの男が現れた。
鉄山だ。
彼の作業着は黒く汚れ、目の下には深い隈ができているが、その瞳は異様に爛々と輝いていた。
「おはようございます、統括部長」
鉄山の声は、低く、しゃがれていた。
「な、な、な……なんだこれは……」
鮫島は震える指で、目の前の惨状を指差した。
「車は……車はどうした!? 泥棒か!? テロか!?」
「いいえ。そこにありますよ」
鉄山は足元のブルーシートを指差した。
そこには、タグ付けされた無数のボルトとナットが、数珠のように並べられている。
「これは田中様のプリウスの、左後輪サスペンションのボルトです。その隣にあるのが、鈴木様のN-BOXのエアコンコンプレッサーの内部部品です」
「はあ!? 何言ってるんだお前! なんでバラバラなんだよ!」
「ご指示通り、『徹底的に』点検しましたので」
鉄山は平然と言い放った。
「部長は仰いましたね。『不具合を見つけろ』と。『なければ作れ』と。ですが、我々はプロです。捏造などしなくとも、探せば必ずあると信じて、調査を進めました」
鉄山は一枚の記録簿を鮫島に突きつけた。
「ですが、残念です。エンジンを開け、ミッションを割り、デフを分解しましたが……今のところ、決定的な故障個所は見つかっておりません」
「だ、だからって……ここまでやる馬鹿がいるかッ!」
鮫島の顔が赤黒く変色した。
血管が切れそうなほどの怒りが沸き上がる。
「元に戻せ! 今すぐだ! 客にこんなもん見せられるか!」
「戻す? それは無理ですね」
鉄山は首を横に振った。
「これだけの部品数です。洗浄し、規格を測定し、再度組み上げるには……そうですね、熟練工総出でも、一台につき一ヶ月はかかります。五十台ありますから、単純計算で四年ほどでしょうか」
「よ、四年……!?」
「それに、多くの部品は『再使用不可』です。ガスケット、シール類、ボルトの一部……これらは一度外したら新品に交換しなければなりません。部品代だけで一台数十万はかかりますが、発注してもよろしいですか?」
鮫島がよろめき、背後の壁にぶつかった。
四年。数十万。
利益が出るどころか、大赤字だ。
いや、それ以前の問題だ。
「お、おい……待て。今日、納車の予定がある車はどうした」
「そこにあります」
鉄山は、バラバラになったドアパネルと、配線の束を指差した。
「午後一時に引き渡し予定のクラウンです。現在、ハーネスの導通チェック中です」
「ふ、ふざけるなあああ!」
鮫島が絶叫した。
彼は足元のギアを蹴り飛ばそうとしたが、革靴の爪先が硬い金属に当たり、逆に悲鳴を上げてうずくまった。
「痛ってえええ! くそっ、くそっ!」
「お気をつけて。そこは精密部品の山です。蹴って傷でもついたら、部長の仰る『器物損壊』になりますよ」
鉄山は冷ややかに見下ろした。
その視線には、もう上司に対する敬意など微塵もなかった。
あるのは、獲物を追い詰めた狩人の冷酷さだけだ。
「さて、部長。ご報告があります」
「な、なんだ……これ以上何があるんだ……」
「これほどの分解整備です。当然、通常の車検費用では賄えません。工賃だけで一台三百万円は請求させていただくことになります」
「払えるわけねえだろ! 客が納得するわけがない!」
「ええ。ですから、保険を使います」
鉄山はニヤリと笑った。
「部長のご指示通り、保険会社に請求書を作成しました。『雹害』の代わりに、『特約条項に基づく精密分解検査費用』として」
「は……?」
「そして、あまりに高額になるため、保険会社のアジャスター(調査員)を呼びました。……ああ、ちょうど来られたようですね」
工場の入り口に、一台の黒塗りの車が止まった。
降りてきたのは、スーツを着た鋭い眼光の男たち。
一人は大手損保会社の調査員。
そしてその後ろには、国交省の腕章をつけた公務員の姿があった。
「あ……」
鮫島の口がパクパクと開閉する。
保険会社だけではない。監督官庁の監査官まで呼んだのか。
「お迎えしましょう、部長。我々の『仕事』の成果を見ていただくために」
鉄山は工具を置き、ゆっくりと入り口へと歩き出した。
その背中は、一晩の徹夜作業を感じさせないほど、堂々としていた。
鮫島はへたり込んだまま、動けない。
彼の周りを囲む金属の山が、まるで墓標のように彼を見下ろしている。
工場内には、まだオイルの匂いが充満している。
だが、その匂いは今や、鮫島にとっては死臭のように感じられた。
金属の迷宮に閉じ込められたミノタウロスは、鉄山ではなく、鮫島自身だったのだ。
午前十時。
アクセル・モータース北関東支店の工場内は、真空のような静寂に支配されていた。
先ほどまで響いていたエアー工具の音も、整備士たちの掛け声も、すべて消え失せている。
聞こえるのは、数人の男たちが歩く革靴の音と、鮫島レイジの不規則な呼吸音だけだ。
鮫島は、コンクリートの床に座り込んだまま、目の前の光景を呆然と見上げていた。
彼の視界を遮るのは、黒いスーツを着た三人の男たち。
中央に立つのは、国土交通省関東運輸局の監査官だ。白髪交じりの厳格そうな男で、その手には分厚いバインダーが握られている。
右側に立つのは、大手損害保険会社の調査アジャスター。鋭い眼光で工場内の惨状をスキャンしている。
そして左側には、所轄警察署の刑事の姿があった。
彼らの背後には、鉄山たち整備士が作り上げた「金属の迷宮」が広がっている。
数万点に及ぶ部品の山。
それは、もはや車ではない。車の形をした「死体」の山であり、同時に、この工場で行われてきた「異常な業務」の動かぬ証拠でもあった。
「……信じ難い光景だ」
国交省の監査官が、低い声で呟いた。
彼は足元に転がるサスペンションアームを跨ぎ、鮫島の前に立った。
「アクセル・モータース北関東支店。ここは指定自動車整備事業、いわゆる民間車検場の認可を受けているはずだが……これは一体どういうことかね、統括部長」
鮫島は震える唇を開いた。
言葉が出てこない。
何と言えばいい? 整備の一環だと言うか? それとも、従業員の反乱だと言うか?
だが、どんな言い訳も、この圧倒的な物量の前では無意味だった。
分解されたエンジン。剥がされた内装。外されたタイヤ。
五十台もの車が、骨の髄まで解体されているのだ。常軌を逸している。
「て、鉄山が……工場長の鉄山が勝手にやったことです!」
鮫島は叫んだ。唾を飛ばし、鉄山を指差す。
「こいつが! こいつが狂ったんです! 私は『点検しろ』と言っただけなのに、こんなめちゃくちゃなことを……! これは器物損壊です! 刑事さん、こいつを逮捕してください!」
鮫島の絶叫が、高い天井に反響して消えていく。
だが、刑事は動かない。
監査官も、冷ややかな視線を鮫島に向けたままだった。
「勝手にやった、ですか」
鉄山が静かに口を開いた。
彼は油まみれの作業着のポケットから、一冊の日報を取り出した。
「ここに、昨日の朝礼での部長の指示内容が記録されています。『一台あたりの修理単価を三十万円以上にしろ』『不具合がなければ作れ』『徹底的にやれ』と。……全従業員の前で仰いましたね?」
鉄山は日報を監査官に差し出した。
さらに、ICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。
――『降らせるんだよ、お前の手で!』
――『キズがなければゴルフボールで叩いてでも作れ』
――『保険会社から搾り取れ』
鮫島の怒号が、クリアな音声で再生される。
工場内に響き渡る自分の声を聞き、鮫島の顔から血の気が引いていく。
保険会社のアジャスターが、眉をひそめてメモを取った。
「……これは決定的ですね。保険金詐欺の教唆、および不正請求の未遂です」
アジャスターは冷徹に告げた。
「当社としては、貴社との代理店契約を即時解除します。さらに、過去数年間にわたる全ての請求事案について、再調査を行います。もし不正が見つかれば、全額返還請求と、詐欺罪での告訴を行います」
全額返還。
数億円、いや数十億円規模になるだろう。
鮫島は膝が笑い、立ち上がることさえできなくなった。
「ち、違う……それは言葉の綾だ……本気でやれなんて言ってない……」
「言葉の綾?」
鉄山は、工場の隅にあるゴミ箱へ歩み寄った。
そして、中から一つの物体を拾い上げた。
白いスポーツソックス。
その中には、硬い球体が入っている。
「部長。貴方はこれを私に手渡し、『これで叩け』と命じましたね」
鉄山は、その靴下を刑事の前に差し出した。
「これには、部長の指紋と、汗によるDNAがたっぷりと付着しているはずです。私がこれを使わなかったことは、目の前の車たちが証明しています。ボンネットには、ゴルフボールの打痕など一つもありませんから」
刑事は頷き、証拠品袋を取り出した。
鮫島が手渡した凶器。
そして、鉄山が守り抜いた、傷のない車体。
どちらが真実を語っているかは明白だった。
「ひっ……!」
鮫島が短い悲鳴を上げ、後ずさりした。
背中が、積み上げられたトランスミッションの山にぶつかる。
ガシャン、と金属音が響き、鮫島の上に小さなギアが一つ落ちてきた。
それが終わりの合図だった。
国交省の監査官が、厳粛な声で宣言した。
「道路運送車両法に基づき、当工場の指定自動車整備事業の指定を取り消します。また、整備主任者である鉄山氏の解任命令……と言いたいところですが、今回は情状酌量の余地があるでしょう」
監査官は、鮫島を見据えた。
「しかし、組織的な不正指示については厳正に対処します。当分の間、工場の稼働停止を命じます。……もっとも、この状態で営業ができるとは思いませんがね」
稼働停止。指定取り消し。
それは、自動車整備工場としての死刑宣告だ。
アクセル・モータース北関東支店は、今日この瞬間をもって消滅したも同然だった。
鮫島の携帯電話が鳴った。
本社からの着信だ。
おそらく、国交省からの連絡が入ったのだろう。
鮫島は震える手で通話ボタンを押した。
「あ、あ、社長……! ち、違うんです、これは現場が……!」
受話器の向こうから聞こえてくるのは、怒号ですらなかった。
氷のように冷たい、絶縁の言葉。
『お前はクビだ。損害賠償請求の準備をして待っていろ』
プツン。
通話が切れた。
鮫島の手からスマホが滑り落ち、コンクリートの床に叩きつけられて画面が砕けた。
彼自身のキャリアと同じように。
「連行します」
刑事が短く告げ、鮫島の腕を掴んだ。
器物損壊教唆、および詐欺未遂の容疑。
鮫島は抵抗する力もなく、ずるずると引きずられていく。
「て、鉄山ぁ……! なんでだ……! お前、クビになるぞ! 娘の学費はどうするんだ! 俺の言う通りにしていれば……!」
往生際悪く叫ぶ鮫島。
鉄山は、静かに彼を見送った。
その目には、憐れみすら浮かんでいた。
「ご心配なく。娘には、『お父さんは誇りある仕事をした』と胸を張って報告できますから」
鮫島の姿がパトカーの中に消え、サイレンの音が遠ざかっていく。
工場には、再び静寂が戻った。
残されたのは、鉄山たち十人の整備士と、監査官、アジャスター。
そして、分解された五十台の車たちだ。
監査官が、ふう、と息を吐いた。
「……それにしても、見事な腕だ」
彼は、作業台の上に並べられたエンジンの部品を見つめた。
ピストン、コンロッド、バルブ。
全てが完璧な順序で並べられ、チリ一つなく洗浄されている。
「ここまで綺麗に分解されたエンジンを見るのは、三十年ぶりだ。……鉄山さん、あんた、相当な腕利きだな」
「恐縮です。ただの、古い整備士ですよ」
「これを元に戻すのは、骨が折れるだろうな」
「ええ。ですが、戻しますよ」
鉄山は、愛おしそうにシリンダーブロックを撫でた。
「彼らはまだ生きていますから。心臓は止まっていません。私たちが、もう一度火を入れてやるのを待っています」
鉄山の言葉に、背後の若い整備士たちが強く頷いた。
ケンタが、涙を拭いながら前へ出た。
「工場長! 俺たちも手伝います! 徹夜してでも、全部組み上げます!」
「ああ。頼むぞ。……だが、その前に」
鉄山は、アジャスターの方を向いた。
「今回の分解整備費用、一台につき三百万円。……請求先は鮫島個人になりますが、よろしいですね?」
「ええ、構いませんよ」
アジャスターは苦笑しながら答えた。
「彼には、一生かかって償ってもらいましょう。もっとも、刑務所から出てきてからの話になりますが」
工場のシャッターが開け放たれた。
真夏の太陽が、工場の奥まで差し込んでくる。
その光は、床に散らばる数万点の部品を、宝石のように輝かせた。
それは、もはやゴミの山ではない。
不正に抗い、職人の誇りを守り抜いた証。
鉄の意思の結晶だった。
鉄山はラチェットレンチを握り直した。
その手は、もう震えてはいなかった。
「さあ、仕事にかかろう。お客様が待っている」
カチリ。
ラチェットの音が、工場に響いた。
それは、アクセル・モータースという腐った組織が死に、本物の整備工場として生まれ変わるための、最初の鼓動だった。
汗と油の匂いの中で、男たちの本当の戦いが、今静かに始まったのだ。




