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『「つべこべ言わずにやれ」と無能上司が言うので、言われた通りに会社を崩壊させることにしました【一話完結・短編集】  作者: じょな


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8/8

修理単価が安すぎる。キズがなければゴルフボールで叩いてでも作れ」と統括部長が言うので

 七月の酷暑。

 埼玉県郊外の国道沿いに、巨大な看板が聳え立っている。

 蛍光色の派手な配色で『アクセル・モータース』と書かれたその看板の下には、見渡す限りの在庫車両が並んでいた。

 アスファルトからの照り返しが、蜃気楼のように空間を歪めている。


 その敷地の奥にある整備工場の中は、さらに過酷な熱気に包まれていた。

 油と排気ガス、そしてゴムの焦げた臭いが入り混じった独特の空気。

 だが、ここで働く整備士たちの額を流れる汗は、単なる暑さのせいだけではない。

 恐怖による冷や汗が、背中を伝っていた。


 カツ、カツ、カツ。


 コンクリートの床を叩く、革靴の音が響く。

 その音が近づくにつれ、インパクトレンチを回す音が止み、整備士たちの動きが凍りついたように止まる。


 現れたのは、仕立ての良い紺色のスーツを着た男だった。

 鮫島レイジ。

 この北関東エリアを束ねる統括部長であり、社内では『死神』と恐れられる男だ。

 彼はハンカチで鼻を押さえながら、汚いものを見る目で工場内を見回した。


「……おい、工場長。鉄山はどこだ」


 低い声が、熱気を切り裂く。

 リフトの下から、一人の男がゆっくりと姿を現した。

 油にまみれた作業着。白髪混じりの短髪。無骨な手には、使い込まれたラチェットレンチが握られている。

 この工場の責任者、鉄山だ。


「ここにおります、統括部長」


 鉄山の声は、錆びた鉄のように低く、太かった。

 鮫島は鉄山の前に歩み寄ると、いきなり手にしたバインダーを投げつけた。


 バシィッ!


 プラスチックの角が鉄山の頬を掠め、床に落ちて乾いた音を立てる。

 頬から一筋の血が流れたが、鉄山は眉一つ動かさない。


「なんだこの数字は」


 鮫島が低い声で唸るように言った。


「今月の車検単価、平均五万円? 修理単価、三万円? ……舐めてんのか?」

「……必要な整備を行った結果です。過剰な部品交換は、お客様の負担になりますので」

「客の負担? 違うだろ。お前が心配すべきなのは、会社の利益だ!」


 鮫島が鉄山の胸倉を掴み、強引に引き寄せた。

 高級な香水の甘ったるい香りが、工場の油臭さに混じって鼻をつく。


「いいか鉄山。俺たちはボランティアじゃない。営利企業だ。車検ってのはな、宝の山なんだよ。客は素人だ。ブレーキパッドがまだ残っていようが、オイルが綺麗だろうが、『交換時期です』と言えば金を払うんだよ」

「使える部品を捨てることは、整備士の誇りが許しません」

「誇り? そんなもんで飯が食えるか! 俺が欲しいのは数字だ! 一台あたり最低でも十五万、いや三十万は乗せろ!」


 鮫島は鉄山を突き飛ばした。

 鉄山はよろめきながらも、足を踏ん張って倒れるのを堪える。

 その目は、静かな怒りを湛えていた。

 だが、鮫島にはそれが反抗的な態度にしか見えない。


「その目が気に入らねえんだよ。……おい、あれを持ってこい」


 鮫島が指を鳴らすと、後ろに控えていた若い部下が、一つの紙袋を恭しく差し出した。

 鮫島はその中から、ある物体を取り出した。


 それは、白いスポーツソックスだった。

 だが、その先端には何かが入っており、重そうに垂れ下がっている。

 ゴルフボールだ。


 工場の空気が、一瞬で凍りついた。

 整備士たちは皆、その意味を知っている。

 業界の闇。公然の秘密。


「鉄山。お前の工場は、入庫車両のキズが少なすぎる。保険金請求額がエリア最下位だ」


 鮫島は靴下の端を持ち、ブラブラと振り回した。

 ブン、ブン、と風を切る音がする。


ひょう害って知ってるか? 空から氷の塊が降ってきて、ボンネットや屋根が凹む自然災害だ。あれはいいぞ。パネル一枚につき十万円以上の板金塗装費用が請求できる」

「……この地域では、ここ数年、雹など降っておりませんが」

「だから! 降らせるんだよ、お前の手で!」


 鮫島は靴下に入ったゴルフボールを、近くにあった預かり車両のボンネットに叩きつけた。


 ドガンッ!


 鈍く、重い音が工場内に響き渡る。

 美しい塗装面に、クレーターのような無惨な凹みが生まれた。

 それは、車を愛する者にとっては、悲鳴にも等しい音だった。


「見ろ。これで修理費十五万円の確定だ。簡単だろ?」


 鮫島はニヤリと笑い、その靴下を鉄山に押し付けた。


「やれ。今ここにある預かり車両五十台、全てに『雹害』を発生させろ。それと、ヘッドライトの取り付け部も割っておけ。あれも交換単価が高いからな」

「……断ります」


 鉄山は短く答えた。


「これはお客様の大切な財産です。それを故意に傷つけるなど、犯罪です。器物損壊、および詐欺罪にあたります」


 その瞬間、鮫島の表情から感情が消えた。

 彼はゆっくりと鉄山に近づき、耳元で囁いた。


「犯罪? 違うな。これは『教育』だ」

「……教育」

「そうだ。会社に貢献できない無能な社員への教育的指導だ。……鉄山、お前には娘がいたな? 来年、大学受験だったか?」


 鉄山の肩が、ビクリと震えた。


「この業界は狭いぞ。俺の一声で、お前をこの業界で働けなくすることなんざ造作もない。退職金なしでクビになり、路頭に迷うか? それとも、娘の進学を諦めさせるか?」


 卑劣。

 あまりにも卑劣な脅し。

 鉄山の手が震えている。恐怖ではない。沸騰するような怒りを、必死で抑え込んでいるのだ。

 だが、鮫島はそれを恐怖による服従だと解釈した。


「わかったらやれ。明日の朝までに全車の見積もりを作っておけ。一台平均三十万円だ。……できなかったら、わかってるな? 『教育』が足りないとして、お前の部下全員を地方の僻地に飛ばしてやる」


 鮫島は部下の肩を叩き、高笑いを残して工場を出て行った。


 残されたのは、凹んだボンネットの車と、靴下を握りしめた鉄山。

 そして、絶望的な顔をした若い整備士たちだった。


「こ、工場長……どうするんですか……」


 入社二年目の若手、ケンタが泣きそうな声で尋ねた。


「俺、こんなことするために整備士になったんじゃありません。でも、飛ばされるのは……」


 鉄山は答えなかった。

 ただ、凹まされたボンネットを優しく撫でた。

 その手つきは、怪我をした子供をあやす父親のように慈愛に満ちていた。

 鉄山には聞こえていた。

 鉄の悲鳴が。

 オーナーが大切に乗ってきた愛車が、金儲けの道具として傷つけられた無念が。


 許さない。

 絶対に許さない。


 鉄山の中で、何かが決壊した。

 それは、三十年間守り続けてきた「我慢」という堤防が決壊し、代わりに「復讐」という名の濁流が流れ込む音だった。


 彼はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、もはや職人の穏やかさはなかった。

 あるのは、冷徹な狩人の光。


「……ケンタ。全員を集めろ。今すぐにだ」

「えっ? は、はい!」


 数分後。

 十名の整備士全員が鉄山の前に整列した。

 鉄山は、手にしたゴルフボール入りの靴下を、ゴミ箱に放り込んだ。


 ドスッ。


「統括部長の命令は絶対だ」


 鉄山が低い声で告げた。

 整備士たちがざわめく。まさか、本当にやる気なのかと。


「部長は仰った。『修理単価を上げろ』と。『不具合を見つけろ』と。『なければ作れ』とは言われたが……そうだな、我々はプロだ。探せば必ずあるはずだ」


 鉄山は工場の入り口にあるシャッターを指差した。


「シャッターを閉めろ。そして、看板の照明を落とせ。今から『緊急特別点検』を行う」

「て、点検……ですか?」

「ああ。鮫島部長は『徹底的にやれ』と仰った。表面上のキズを作るなんて、三流の仕事だ。我々は一流の整備士として、もっと深い、車の心臓部までチェックする義務がある」


 鉄山は工具箱から、一本の工具を取り出した。

 それは、エンジンを分解するための特殊工具だった。


「一台平均三十万? 安すぎる。どうせやるなら、一台三百万の仕事をしようじゃないか」


 鉄山の口元が、微かに歪んだ。


「入庫している五十台、および在庫車両三百台。その全てを対象とする。エンジン、トランスミッション、足回り、内装。……ネジの一本に至るまで、全て分解しろ」

「え……? ぜ、全部分解って……元に戻せるんですか?」


 ケンタが目を白黒させる。

 鉄山はニヤリと笑った。


「さあな。異常がないか確認するためには、バラバラにするしかないだろう? 元に戻す工数は見積もりに入っていない。……我々の仕事は『点検』だ。後のことは知らん」


 整備士たちの顔色が、恐怖から驚愕へ、そして次第に狂気じみた興奮へと変わっていく。

 彼らもまた、鮫島に虐げられてきた被害者だ。

 上司の理不尽な命令を逆手に取り、合法的に、かつ物理的に会社を破壊する。

 その意味を理解した瞬間、彼らの目にも暗い炎が灯った。


「やれますね?」

「……はい! やります! 俺、エンジンのオーバーホールなら誰にも負けません!」

「僕、内装の剥がし作業、得意です! クリップ一つ残さず外します!」


 鉄山は頷き、ラチェットレンチを握り直した。


「よし。これより、アクセル・モータース北関東支店、史上最大の『大分解祭り』を開催する。……一台も逃がすな。骨の髄までバラせ」


 カチリ、カチリ。

 ラチェットの音が、静かに、しかし力強く鳴り始めた。

 それは、巨大な不正組織へのレクイエムの始まりだった。

 外はまだ明るいが、工場の中では、終わりのない夜が始まろうとしていた。


 深夜二時。

 国道沿いの喧騒は消え、世界は静寂に包まれていた。

 だが、アクセル・モータース北関東支店の整備工場だけは、異様な熱と光の中にあった。

 水銀灯の白く冷たい光が、コンクリートの床を照らし出している。

 そこには、十人の男たちが、憑かれたように手を動かす姿があった。


 シュバッ、シュバッ。

 ガガガガッ!

 キン、カン。


 エアーコンプレッサーの唸り声。インパクトレンチがボルトを高速で緩める打撃音。そして、外された金属部品がトレーに置かれる硬質な音。

 それらの音が重なり合い、不協和音のシンフォニーとなって夜の闇に吸い込まれていく。


 工場長の鉄山は、一台の高級セダンの前に立っていた。

 いや、それを「車」と呼ぶことは、もはや難しかった。

 ボンネットは取り外され、エンジンルームは空洞になっている。タイヤはなく、サスペンションのアーム類も全て外され、リフトの上で吊るされているのは、ただの鉄の骨格フレームだけだった。


 鉄山の手には、オイルに塗れたラチェットレンチが握られている。

 彼が見つめる作業台の上には、摘出された心臓――V型六気筒エンジンが鎮座していた。

 だが、その心臓もまた、解剖の最中だった。


「……シリンダーヘッド、取り外し完了」


 鉄山が独り言のように呟く。

 ヘッドボルトを緩め、重厚なアルミの塊を持ち上げる。

 その下から、六つのピストンが露わになった。

 燃焼の痕跡を残すピストントップ。シリンダーの壁面には、微細なオイルの被膜が光っている。

 美しい。

 機械としての機能美がそこにあった。


 だが、鉄山は手を止めない。

 彼はピストンリングコンプレッサーを手に取り、コンロッドのボルトを緩め、ピストンを一つずつ引き抜いていく。

 ヌルリ、という感触と共に、エンジンの奥底からピストンが抜き出される。


「一番シリンダー、ピストン及びコンロッド、異常なし。……念のため、メタルの摩耗度をマイクロメーターで測定する」


 鉄山は呟きながら、測定器具を当てた。

 1000分の1ミリ単位の数値を読み取り、記録簿に書き込む。

 異常はない。メーカーの基準値内だ。

 当然だ。この車はまだ走行距離三万キロ。エンジン内部が摩耗しているはずがない。


 しかし、鉄山の目は冷徹だった。

 異常がないなら、さらに奥へ。

 クランクシャフトを外し、ブロックだけにする。

 それでも異常がなければ、トランスミッションを分解する。

 ギアの一枚、ベアリングの一つに至るまで。


「工場長! こちらのハイブリッドカー、バッテリーユニットの分解が完了しました!」


 若手のケンタが、煤と油で顔を真っ黒にしながら叫んだ。

 彼の足元には、数千個のセルに分解されたバッテリーが、まるで幾何学模様のように整然と並べられている。


「電極の腐食、確認できません! インバーターも開封して基盤チェックに入りますか?」

「ああ、やれ。ハンダ付けのクラック一つ見逃すな。電子顕微鏡を使え」

「了解です! 徹底的にやります!」


 ケンタの声には、疲労よりも一種の昂揚感が混じっていた。

 今まで「時短」と「手抜き」を強要され、整備士としての魂をすり減らしてきた彼らにとって、この狂気じみた「完全分解」は、ある種のカタルシスをもたらしていたのだ。

 車を知り尽くしたい。

 機械の深淵を覗きたい。

 その純粋な欲求が、上司への復讐心と混ざり合い、彼らを暴走させていた。


 工場内の光景は、刻一刻と変貌していった。

 最初は車が並んでいたスペースが、次第に「部品の海」に侵食されていく。

 バンパー、フェンダー、ドア、シート、ダッシュボード。

 エンジンブロック、ピストン、カムシャフト、バルブスプリング。

 数万、いや数十万点に及ぶ部品が、ブルーシートの上に分類され、タグを付けられ、整列していく。


 それはまるで、巨大な生物の体内を裏返したような、グロテスクでありながら神聖な光景だった。

 足の踏み場など、とっくになくなっていた。

 人間が歩けるのは、部品と部品の間に作られた、わずか三十センチ幅の獣道だけだ。


 朝が来るまで、その作業は止まらなかった。

 彼らは食事も忘れ、水も飲まず、ただひたすらに「点検」という名目の破壊を続けた。

 鮫島部長が望んだ「徹底的な調査」のために。


 午前九時。

 朝の光が工場のシャッターの隙間から差し込み、舞い散る埃をキラキラと照らした。

 工場の空気は、鉄の匂いとオイルの香りで飽和していた。


 ウィーン。

 事務所側の自動ドアが開き、鮫島レイジが出勤してきた。

 彼は上機嫌だった。

 昨日、鉄山に命じた「雹害ひょうがい」の工作が完了していると信じていたからだ。

 五十台分の板金修理。しめて一千万円以上の売り上げが、今日一日で計上される。

 その数字を見れば、本社も自分の手腕を評価するだろう。


「おい鉄山! どうだ、進んだか! 見積書はでき……」


 鮫島は工場の扉を開け、一歩足を踏み入れようとした。

 だが、その足は空中で止まった。

 彼が踏み下ろそうとした場所には、床がなかったからだ。

 そこには、銀色に輝くトランスミッションのギアが、城壁のように積み上げられていた。


「……あ?」


 鮫島の喉から、間の抜けた音が漏れた。

 彼は目をこすり、もう一度前を見た。

 視界が狂ったのかと思った。

 だが、何度見ても同じだった。


 車がない。

 昨日までそこにあったはずの、高級セダンも、SUVも、軽自動車も。

 車の形をしたものは何一つない。

 あるのは、見渡す限りの金属の荒野。

 まるで爆撃を受けた後のスクラップ工場のようであり、あるいは未来都市の遺跡のようでもあった。


 その迷宮の奥、リフトの支柱の影から、油まみれの男が現れた。

 鉄山だ。

 彼の作業着は黒く汚れ、目の下には深い隈ができているが、その瞳は異様に爛々と輝いていた。


「おはようございます、統括部長」


 鉄山の声は、低く、しゃがれていた。


「な、な、な……なんだこれは……」


 鮫島は震える指で、目の前の惨状を指差した。


「車は……車はどうした!? 泥棒か!? テロか!?」

「いいえ。そこにありますよ」


 鉄山は足元のブルーシートを指差した。

 そこには、タグ付けされた無数のボルトとナットが、数珠のように並べられている。


「これは田中様のプリウスの、左後輪サスペンションのボルトです。その隣にあるのが、鈴木様のN-BOXのエアコンコンプレッサーの内部部品です」

「はあ!? 何言ってるんだお前! なんでバラバラなんだよ!」

「ご指示通り、『徹底的に』点検しましたので」


 鉄山は平然と言い放った。


「部長は仰いましたね。『不具合を見つけろ』と。『なければ作れ』と。ですが、我々はプロです。捏造などしなくとも、探せば必ずあると信じて、調査を進めました」


 鉄山は一枚の記録簿を鮫島に突きつけた。


「ですが、残念です。エンジンを開け、ミッションを割り、デフを分解しましたが……今のところ、決定的な故障個所は見つかっておりません」

「だ、だからって……ここまでやる馬鹿がいるかッ!」


 鮫島の顔が赤黒く変色した。

 血管が切れそうなほどの怒りが沸き上がる。


「元に戻せ! 今すぐだ! 客にこんなもん見せられるか!」

「戻す? それは無理ですね」


 鉄山は首を横に振った。


「これだけの部品数です。洗浄し、規格を測定し、再度組み上げるには……そうですね、熟練工総出でも、一台につき一ヶ月はかかります。五十台ありますから、単純計算で四年ほどでしょうか」

「よ、四年……!?」

「それに、多くの部品は『再使用不可』です。ガスケット、シール類、ボルトの一部……これらは一度外したら新品に交換しなければなりません。部品代だけで一台数十万はかかりますが、発注してもよろしいですか?」


 鮫島がよろめき、背後の壁にぶつかった。

 四年。数十万。

 利益が出るどころか、大赤字だ。

 いや、それ以前の問題だ。


「お、おい……待て。今日、納車の予定がある車はどうした」

「そこにあります」


 鉄山は、バラバラになったドアパネルと、配線の束を指差した。


「午後一時に引き渡し予定のクラウンです。現在、ハーネスの導通チェック中です」

「ふ、ふざけるなあああ!」


 鮫島が絶叫した。

 彼は足元のギアを蹴り飛ばそうとしたが、革靴の爪先が硬い金属に当たり、逆に悲鳴を上げてうずくまった。


「痛ってえええ! くそっ、くそっ!」

「お気をつけて。そこは精密部品の山です。蹴って傷でもついたら、部長の仰る『器物損壊』になりますよ」


 鉄山は冷ややかに見下ろした。

 その視線には、もう上司に対する敬意など微塵もなかった。

 あるのは、獲物を追い詰めた狩人の冷酷さだけだ。


「さて、部長。ご報告があります」

「な、なんだ……これ以上何があるんだ……」

「これほどの分解整備です。当然、通常の車検費用では賄えません。工賃だけで一台三百万円は請求させていただくことになります」

「払えるわけねえだろ! 客が納得するわけがない!」

「ええ。ですから、保険を使います」


 鉄山はニヤリと笑った。


「部長のご指示通り、保険会社に請求書を作成しました。『雹害』の代わりに、『特約条項に基づく精密分解検査費用』として」

「は……?」

「そして、あまりに高額になるため、保険会社のアジャスター(調査員)を呼びました。……ああ、ちょうど来られたようですね」


 工場の入り口に、一台の黒塗りの車が止まった。

 降りてきたのは、スーツを着た鋭い眼光の男たち。

 一人は大手損保会社の調査員。

 そしてその後ろには、国交省の腕章をつけた公務員の姿があった。


「あ……」


 鮫島の口がパクパクと開閉する。

 保険会社だけではない。監督官庁の監査官まで呼んだのか。


「お迎えしましょう、部長。我々の『仕事』の成果を見ていただくために」


 鉄山は工具を置き、ゆっくりと入り口へと歩き出した。

 その背中は、一晩の徹夜作業を感じさせないほど、堂々としていた。

 鮫島はへたり込んだまま、動けない。

 彼の周りを囲む金属の山が、まるで墓標のように彼を見下ろしている。


 工場内には、まだオイルの匂いが充満している。

 だが、その匂いは今や、鮫島にとっては死臭のように感じられた。

 金属の迷宮に閉じ込められたミノタウロスは、鉄山ではなく、鮫島自身だったのだ。


 午前十時。

 アクセル・モータース北関東支店の工場内は、真空のような静寂に支配されていた。

 先ほどまで響いていたエアー工具の音も、整備士たちの掛け声も、すべて消え失せている。

 聞こえるのは、数人の男たちが歩く革靴の音と、鮫島レイジの不規則な呼吸音だけだ。


 鮫島は、コンクリートの床に座り込んだまま、目の前の光景を呆然と見上げていた。

 彼の視界を遮るのは、黒いスーツを着た三人の男たち。

 中央に立つのは、国土交通省関東運輸局の監査官だ。白髪交じりの厳格そうな男で、その手には分厚いバインダーが握られている。

 右側に立つのは、大手損害保険会社の調査アジャスター。鋭い眼光で工場内の惨状をスキャンしている。

 そして左側には、所轄警察署の刑事の姿があった。


 彼らの背後には、鉄山たち整備士が作り上げた「金属の迷宮」が広がっている。

 数万点に及ぶ部品の山。

 それは、もはや車ではない。車の形をした「死体」の山であり、同時に、この工場で行われてきた「異常な業務」の動かぬ証拠でもあった。


「……信じ難い光景だ」


 国交省の監査官が、低い声で呟いた。

 彼は足元に転がるサスペンションアームを跨ぎ、鮫島の前に立った。


「アクセル・モータース北関東支店。ここは指定自動車整備事業、いわゆる民間車検場の認可を受けているはずだが……これは一体どういうことかね、統括部長」


 鮫島は震える唇を開いた。

 言葉が出てこない。

 何と言えばいい? 整備の一環だと言うか? それとも、従業員の反乱だと言うか?

 だが、どんな言い訳も、この圧倒的な物量の前では無意味だった。

 分解されたエンジン。剥がされた内装。外されたタイヤ。

 五十台もの車が、骨の髄まで解体されているのだ。常軌を逸している。


「て、鉄山が……工場長の鉄山が勝手にやったことです!」


 鮫島は叫んだ。唾を飛ばし、鉄山を指差す。


「こいつが! こいつが狂ったんです! 私は『点検しろ』と言っただけなのに、こんなめちゃくちゃなことを……! これは器物損壊です! 刑事さん、こいつを逮捕してください!」


 鮫島の絶叫が、高い天井に反響して消えていく。

 だが、刑事は動かない。

 監査官も、冷ややかな視線を鮫島に向けたままだった。


「勝手にやった、ですか」


 鉄山が静かに口を開いた。

 彼は油まみれの作業着のポケットから、一冊の日報を取り出した。


「ここに、昨日の朝礼での部長の指示内容が記録されています。『一台あたりの修理単価を三十万円以上にしろ』『不具合がなければ作れ』『徹底的にやれ』と。……全従業員の前で仰いましたね?」


 鉄山は日報を監査官に差し出した。

 さらに、ICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。


 ――『降らせるんだよ、お前の手で!』

 ――『キズがなければゴルフボールで叩いてでも作れ』

 ――『保険会社から搾り取れ』


 鮫島の怒号が、クリアな音声で再生される。

 工場内に響き渡る自分の声を聞き、鮫島の顔から血の気が引いていく。

 保険会社のアジャスターが、眉をひそめてメモを取った。


「……これは決定的ですね。保険金詐欺の教唆、および不正請求の未遂です」


 アジャスターは冷徹に告げた。


「当社としては、貴社との代理店契約を即時解除します。さらに、過去数年間にわたる全ての請求事案について、再調査を行います。もし不正が見つかれば、全額返還請求と、詐欺罪での告訴を行います」


 全額返還。

 数億円、いや数十億円規模になるだろう。

 鮫島は膝が笑い、立ち上がることさえできなくなった。


「ち、違う……それは言葉の綾だ……本気でやれなんて言ってない……」

「言葉の綾?」


 鉄山は、工場の隅にあるゴミ箱へ歩み寄った。

 そして、中から一つの物体を拾い上げた。

 白いスポーツソックス。

 その中には、硬い球体が入っている。


「部長。貴方はこれを私に手渡し、『これで叩け』と命じましたね」


 鉄山は、その靴下を刑事の前に差し出した。


「これには、部長の指紋と、汗によるDNAがたっぷりと付着しているはずです。私がこれを使わなかったことは、目の前の車たちが証明しています。ボンネットには、ゴルフボールの打痕など一つもありませんから」


 刑事は頷き、証拠品袋を取り出した。

 鮫島が手渡した凶器。

 そして、鉄山が守り抜いた、傷のない車体。

 どちらが真実を語っているかは明白だった。


「ひっ……!」


 鮫島が短い悲鳴を上げ、後ずさりした。

 背中が、積み上げられたトランスミッションの山にぶつかる。

 ガシャン、と金属音が響き、鮫島の上に小さなギアが一つ落ちてきた。

 それが終わりの合図だった。


 国交省の監査官が、厳粛な声で宣言した。


「道路運送車両法に基づき、当工場の指定自動車整備事業の指定を取り消します。また、整備主任者である鉄山氏の解任命令……と言いたいところですが、今回は情状酌量の余地があるでしょう」


 監査官は、鮫島を見据えた。


「しかし、組織的な不正指示については厳正に対処します。当分の間、工場の稼働停止を命じます。……もっとも、この状態で営業ができるとは思いませんがね」


 稼働停止。指定取り消し。

 それは、自動車整備工場としての死刑宣告だ。

 アクセル・モータース北関東支店は、今日この瞬間をもって消滅したも同然だった。


 鮫島の携帯電話が鳴った。

 本社からの着信だ。

 おそらく、国交省からの連絡が入ったのだろう。

 鮫島は震える手で通話ボタンを押した。


「あ、あ、社長……! ち、違うんです、これは現場が……!」


 受話器の向こうから聞こえてくるのは、怒号ですらなかった。

 氷のように冷たい、絶縁の言葉。

 『お前はクビだ。損害賠償請求の準備をして待っていろ』


 プツン。

 通話が切れた。

 鮫島の手からスマホが滑り落ち、コンクリートの床に叩きつけられて画面が砕けた。

 彼自身のキャリアと同じように。


「連行します」


 刑事が短く告げ、鮫島の腕を掴んだ。

 器物損壊教唆、および詐欺未遂の容疑。

 鮫島は抵抗する力もなく、ずるずると引きずられていく。


「て、鉄山ぁ……! なんでだ……! お前、クビになるぞ! 娘の学費はどうするんだ! 俺の言う通りにしていれば……!」


 往生際悪く叫ぶ鮫島。

 鉄山は、静かに彼を見送った。

 その目には、憐れみすら浮かんでいた。


「ご心配なく。娘には、『お父さんは誇りある仕事をした』と胸を張って報告できますから」


 鮫島の姿がパトカーの中に消え、サイレンの音が遠ざかっていく。

 工場には、再び静寂が戻った。


 残されたのは、鉄山たち十人の整備士と、監査官、アジャスター。

 そして、分解された五十台の車たちだ。


 監査官が、ふう、と息を吐いた。


「……それにしても、見事な腕だ」


 彼は、作業台の上に並べられたエンジンの部品を見つめた。

 ピストン、コンロッド、バルブ。

 全てが完璧な順序で並べられ、チリ一つなく洗浄されている。


「ここまで綺麗に分解されたエンジンを見るのは、三十年ぶりだ。……鉄山さん、あんた、相当な腕利きだな」

「恐縮です。ただの、古い整備士ですよ」

「これを元に戻すのは、骨が折れるだろうな」

「ええ。ですが、戻しますよ」


 鉄山は、愛おしそうにシリンダーブロックを撫でた。


「彼らはまだ生きていますから。心臓は止まっていません。私たちが、もう一度火を入れてやるのを待っています」


 鉄山の言葉に、背後の若い整備士たちが強く頷いた。

 ケンタが、涙を拭いながら前へ出た。


「工場長! 俺たちも手伝います! 徹夜してでも、全部組み上げます!」

「ああ。頼むぞ。……だが、その前に」


 鉄山は、アジャスターの方を向いた。


「今回の分解整備費用、一台につき三百万円。……請求先は鮫島個人になりますが、よろしいですね?」

「ええ、構いませんよ」


 アジャスターは苦笑しながら答えた。


「彼には、一生かかって償ってもらいましょう。もっとも、刑務所から出てきてからの話になりますが」


 工場のシャッターが開け放たれた。

 真夏の太陽が、工場の奥まで差し込んでくる。

 その光は、床に散らばる数万点の部品を、宝石のように輝かせた。


 それは、もはやゴミの山ではない。

 不正に抗い、職人の誇りを守り抜いた証。

 鉄の意思の結晶だった。


 鉄山はラチェットレンチを握り直した。

 その手は、もう震えてはいなかった。


「さあ、仕事にかかろう。お客様が待っている」


 カチリ。

 ラチェットの音が、工場に響いた。

 それは、アクセル・モータースという腐った組織が死に、本物の整備工場として生まれ変わるための、最初の鼓動だった。

 汗と油の匂いの中で、男たちの本当の戦いが、今静かに始まったのだ。


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