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『「つべこべ言わずにやれ」と無能上司が言うので、言われた通りに会社を崩壊させることにしました【一話完結・短編集】  作者: じょな


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7/8

下請けは雑巾だ。水が出なくなるまで絞り上げろ

 帝都エレクトロニクス本社ビル、二十階の第3会議室。

 そこは、酸素が薄いのではないかと錯覚するほど、重苦しく、澱んだ空気に満たされていた。


「……で? できない、とはどういうことだ、神崎ぃ」


 テーブルの上座から、粘りつくような低い声が響いた。

 声の主は、資材本部長の黒川。

 脂ぎった額に深い皺を刻み、充血した目で私を睨みつけている。彼の口から吐き出される言葉には、安物のタバコと胃液が混ざったような不快な臭気がある。


 私は手元の資料に視線を落としたまま、感情を殺した声で答えた。


「本部長。先ほどもご説明した通り、原油価格の高騰と円安の影響で、下請け各社の原材料費は昨年比で1.5倍になっています。これ以上の値下げ要求は、彼らに死ねと言うに等しい行為です」

「だから、それがどうしたと言っているんだ」


 ダンッ!


 黒川が革靴の踵で床を踏み鳴らした。

 その乾いた音が、会議室の静寂を暴力的に引き裂く。同席している部下たちが、ビクリと肩を震わせた。


「神崎。お前は誰から給料をもらっている? 下請けか? 違うだろう、この帝都エレクトロニクス様だろうが!」


 黒川が立ち上がり、私の目の前まで歩み寄ってきた。

 彼の巨大な影が、私を覆い隠す。威圧感という名の暴力。


「今期の決算目標は必達だ。そのためには、資材コストを30%カットするしかない。これは決定事項だ」

「しかし、30%となると、下請けは完全に赤字です。技術力のある中小企業が連鎖倒産すれば、将来的に当社の製品品質にも……」


 バギィン!


 私の言葉は、黒川の拳が会議テーブルを殴りつける音にかき消された。

 金属製の灰皿が跳ね上がり、床に転がって嫌な音を立てる。


「能書きはいいんだよ! お前は評論家か!? 俺がやれと言ったらやるんだよ!」


 黒川が唾を飛ばしながら叫ぶ。

 その顔は、もはや人間のそれではない。欲と保身にまみれた、醜悪な鬼の形相だ。


「いいか神崎。下請けなんてのはな、**『雑巾』**と同じなんだよ。乾いているように見えても、力いっぱい絞れば水が出る。水が出なくなるまで、手首がねじ切れるまで絞り上げろ。それが資材部の仕事だろうが!」


 雑巾。

 日本のモノづくりを底辺で支えてきた、誇りある職人たちを。

 油にまみれ、鉄粉にまみれながら、ミクロン単位の精度を追求する彼らの技術を。

 この男は、使い捨ての布切れと同列に扱った。


 私の胸の奥で、冷たい怒りの炎が静かに着火した。


「……わかりました。では、具体的にどのように交渉すればよろしいでしょうか」

「交渉? 馬鹿かお前は。誰が交渉しろと言った。**『脅せ』**と言ってるんだ」


 黒川はニヤリと笑い、声を潜めた。


「簡単だ。『30%値下げに応じなければ、来月からの発注を全て止める』と言え。さらに『おたくの代わりなんて、中国やベトナムにいくらでもいるんだ』とな」


 優越的地位の濫用。

 下請法違反の、教科書通りの手口だ。


「それと、これが一番重要だ。値下げに合意したという『確認書』を作れ。日付は先月の日付にしてな。向こうが自主的に申し出た形にするんだ。……わかるな? もし公取(公正取引委員会)が来ても、俺たちは知らぬ存ぜぬで通す」


 書類の偽造教唆。

 完全に、一線を超えた。


 私は胸ポケットの中で、ICレコーダーの録音ボタンが回っていることを指先の感覚で確認した。

 この一時間、彼の暴言は一言一句漏らさずデジタルデータとして記録されている。

 雑巾、脅し、偽造。

 これ以上ない、完璧な証拠エビデンスだ。


「本部長。念のため確認させてください。これは、本部長の業務命令ということでよろしいですね?」

「しつけえな! そうだと言ってるだろ! 全責任は俺が持つ。お前は手を汚すだけでいい。……ああ、それとも何か? お前には荷が重いか?」


 黒川が私を値踏みするように見下ろす。


「もしできないなら、お前も更迭だ。倉庫番でもしてもらうか?」

「……いいえ。滅相もございません」


 私はゆっくりと顔を上げ、能面のような無表情で彼を見返した。


「承知いたしました、黒川本部長。貴方のその『熱意あるご指導』を、余すところなく、忠実に実行させていただきます」

「フン、最初からそう言えばいいんだ。期限は今週中だ。全社から合意書を回収しろ。いいな!」


 黒川は満足げに鼻を鳴らし、ドカドカと足音を立てて会議室を出て行った。


 残された会議室には、再び重苦しい沈黙が戻った。

 部下たちが、怯えた目で私を見ている。

 「神崎課長は、本当にあんなことをするのか?」という目で。


 私は無言で立ち上がり、窓の外を見た。

 眼下には、東京の街並みが広がっている。この街のどこかで、今も必死に機械を動かしている下請けの工場長たちの顔が脳裏をよぎる。


「……やるさ」


 私は誰にともなく呟いた。


「本部長の命令だ。完璧に、徹底的に、やらせてもらう」


 私はデスクに戻り、PCを開いた。

 メーラーを立ち上げ、宛先欄に、当社と取引のある下請け企業150社のメールアドレスを全てBCCで入力する。


 件名:【緊急重要】黒川資材本部長からの価格改定に関する最終通達について


 私はキーボードに指を置いた。

 カチリ、という硬質なタイピング音が、静かなオフィスに響き渡る。

 それは、帝都エレクトロニクスという巨艦が、自ら氷山に向かって舵を切る音だった。


 午後一時。

 昼休み明けのオフィスは、昼食後の気怠い空気に包まれていた。

 だが、私のデスク周りだけは、真空のような静けさが漂っていた。


 画面には、作成したばかりのメールが表示されている。

 宛先は、帝都エレクトロニクスを下支えする一百五十社の下請け企業全て。

 そしてCCには、黒川本部長と、法務部、コンプライアンス室のアドレスが入っている。


 件名:【重要通達】黒川資材本部長による「30%値下げ要求」および「取引停止」の通告について


 本文には、私の言葉は一切入れていない。

 ただ、事実のみを淡々と記した。


 『お世話になっております。資材部の神崎です。

 本日、黒川本部長より、貴社を含む全取引先に対し、以下の指示が発令されました。

 つきましては、本部長の強いご意向に基づき、そのまま通達いたします。』


 そして、添付ファイル欄には、一つの音声ファイルが鎮座している。

 『202X0515_黒川本部長指示_下請けは雑巾だ.mp3』


 私はマウスに手を添えた。

 人差し指が微かに震える。

 これを押せば、もう後戻りはできない。私のキャリアも、この会社の信用も、全て吹き飛ぶだろう。

 だが、引くわけにはいかない。

 あの男に、職人たちの誇りを「雑巾」と侮辱された瞬間から、私の腹は決まっていた。


 黒川本部長。貴方は言いましたね。

 「俺の言葉を伝えろ」と。

 「俺が責任を持つ」と。

 その言葉、信じさせていただきます。


 ッターン。


 私はエンターキーを、強く、短く叩いた。

 乾いた打鍵音が、静まり返ったオフィスに銃声のように響いた。

 画面上の送信バーが一瞬で右端まで走り、消える。

 送信完了。


 一秒。

 二秒。

 三秒。


 その静寂は、暴風雨の前の不気味な凪のようだった。

 隣の席の部下が、不思議そうに私を見た。


「課長? 今、何か……」


 ジリリリリリリリリッ!


 唐突に、爆音が炸裂した。

 私のアナログ電話だ。

 いや、私の電話だけではない。部下の電話、課の代表電話、FAXの受信音。

 資材部にある全ての通信機器が、まるで断末魔のような悲鳴を上げ始めたのだ。


 ジリリリリッ! プルルルルッ! ビーッ、ビーッ!


 電子音の不協和音。

 オフィスにいた全員が飛び上がった。


「な、なんだ!? 一斉にかかってきたぞ!」

「電話が鳴り止みません! 全回線埋まってます!」

「おい、こっちもだ! 取引先の〇〇製作所からだぞ!」


 部下たちが慌てふためき、受話器を取る。

 その瞬間、受話器の向こうから漏れ聞こえてくるのは、怒号、絶叫、そして慟哭だった。


「どういうことだ! 雑巾とはなんだ!」

「30%下げろだと!? 死ねと言うのか!」

「あの音声はなんだ! 社長を出せ!」


 阿鼻叫喚。

 オフィスは瞬く間にパニックルームと化した。

 その騒ぎを聞きつけ、奥の個室から黒川本部長がのっそりと出てきた。

 手にはコーヒーカップを持ち、不機嫌そうに眉をひそめている。


「ああん? なんだこの騒ぎは。うるさくて昼寝もできんぞ」


 黒川は、状況を全く理解していない。

 私は鳴り続ける受話器を無視し、黒川の元へ歩み寄った。


「ご報告します、本部長。先ほど、ご指示通り全社に通達を出しました」

「おお、そうか。早かったな」


 黒川はニヤリと笑った。


「で、どうだ? この電話は。値下げにビビって泣きついてきたか?」

「ええ、大変な反響です。皆さん、本部長の『生の声』を聞いて、感極まっておられるようです」

「生の声?」


 黒川が首を傾げた時、一人の部下が蒼白な顔で駆け寄ってきた。


「ほ、本部長! 大田区の精密加工の社長からです! 『黒川を出せ、ぶっ殺してやる』と……!」

「はあ? 口の利き方を知らん土人が。俺に代われ」


 黒川はふんぞり返り、面倒くさそうに受話器をひったくった。


「はいはい、資材本部長の黒川ですがね。値下げの件なら……あ? 脅迫? 何のことだ。……音声? 何の音声だ?」


 黒川の表情が、見る見るうちに曇っていく。

 余裕の笑みが消え、目が見開き、やがて顔色が土色に変貌する。


「お、おい……神崎! お前、何を送った!」


 黒川が受話器を押さえたまま、私を睨みつけた。


「貴方の指示です。『俺の言葉を伝えろ』と。ですから、会議室での録音データをそのまま添付しました。『雑巾のように絞れ』『嫌なら切ると脅せ』『合意書を偽造しろ』……全て入っております」

「な……ッ!?」


 黒川の手からコーヒーカップが滑り落ちた。

 ガシャンッ!

 陶器が砕け散り、黒い液体が床に広がる。だが、黒川はそれに気づきもしない。


「き、貴様……正気か!? そんなものを流したら……!」

「正気ですが? 本部長は仰いましたよね。『全責任は俺が持つ』と」


 私は冷徹に告げた。


「下請けの方々は、貴方のその『責任感ある言葉』を聞いて、今まさに動き出していますよ」

「う、動き出す? 何を……」


 私が答える前に、総務部の社員が血相を変えてフロアに飛び込んできた。


「大変です! マスコミです! 正面玄関にテレビカメラが押し寄せています!」

「何だと!?」

「さらに、ネット掲示板に当社の内部告発スレが立っています! 『帝都エレの部長、下請けを雑巾呼ばわり』という音声データが拡散されています! トレンド1位です!」


 黒川がよろめき、デスクに手をついた。

 脂汗が滝のように流れ落ちている。


「と、止めろ! 回収しろ! 誤送信だと言え! あれはAIで作ったフェイク音声だと言え!」

「無理ですよ。すでに一百五十社全てに届いています。彼らは今、結束しています」


 私はスマホを取り出し、画面を見せた。

 SNSには、下請け企業の社長たちが、次々と怒りの投稿をしていた。

 

 『帝都エレクトロニクスからの脅迫メールを受信しました。我々は奴隷ではありません。徹底的に戦います』

 『証拠は揃った。公正取引委員会に通報します』

 『下請けGメン、動いてください』


 下請けGメン。

 中小企業庁が設置した、取引調査員の通称だ。彼らが動けば、行政処分は免れない。

 だが、事態はそれだけでは終わらなかった。


 ピンポーン。


 エレベーターホールに、乾いたチャイム音が響いた。

 到着したのは、高層階用の役員用エレベーターではない。

 業務用の貨物エレベーターだ。

 扉が開く。


 そこから現れたのは、グレーのスーツに身を包んだ、十数人の男たちだった。

 全員が鋭い目つきで、手にはジュラルミンケースと、段ボール箱を持っている。

 先頭に立つ男が、警察手帳のような身分証を掲げ、フロア全体に響く声で宣言した。


「公正取引委員会です。下請代金支払遅延等防止法違反の疑いで、立入検査に入ります」


 公取委のガサ入れ。

 企業にとっての、死刑宣告だ。


「く、黒川資材本部長はどちらですか」


 男の視線が、濡れ鼠のように震える黒川を捉えた。


「ひッ……!」

「貴方に、優越的地位の濫用に関する重要参考人として、事情聴取を行います。PCとスマホ、関係書類を全て押収します。動かないでください」


 調査官たちが、無言で黒川を取り囲む。

 黒川はガタガタと震えながら、私の方を見た。

 その目は、裏切られた怒りよりも、完全なる敗北と恐怖で染まっていた。


「か、神崎……お前、最初からこれを狙って……」

「ええ。申し上げたはずです。『徹底的にやらせていただきます』と」


 私は部下たちに目配せをした。

 部下たちは一斉に立ち上がり、調査官たちに道を空け、そして保管していた「裏帳簿」や「強要の証拠ファイル」を次々と差し出し始めた。


 そう。

 これは私一人の反乱ではない。

 現場を知る資材部員全員による、黒川への弔い合戦なのだ。


 調査官が黒川のPCケーブルを引き抜き、段ボール箱に放り込む音が、オフィスの崩壊音のように聞こえた。


 午後五時。

 帝都エレクトロニクスの資材部フロアは、完全な沈黙に包まれていた。

 聞こえるのは、公正取引委員会の調査官たちが、押収した資料を段ボール箱に詰め込む乾いた音と、段ボールを閉じるガムテープを引き裂く音だけだ。


 ビリッ、バリッ。


 その乱暴な音は、黒川本部長のプライドが引き剥がされる音そのものだった。

 黒川は、自分のデスクの前に力なく座り込んでいた。

 高価な革張りの椅子ではなく、パイプ椅子に。

 調査官に囲まれ、まるで檻の中の動物のように小さくなっている。


「……だから、私は知らなかったんだ。部下が勝手にやったことで……」


 黒川が蚊の鳴くような声で言い訳を繰り返している。

 調査官の一人――鋭い目つきの中年男性が、手を止めて黒川を見下ろした。


「黒川さん。往生際が悪いですよ」


 調査官は、透明な証拠袋に入ったICレコーダーを掲げた。


「この音声データは、貴方の声紋と完全に一致しました。さらに、一百五十社の下請け企業全てから、『黒川氏より直接的な脅迫を受けた』『合意書の偽造を強要された』という証言が得られています」

「そ、それは……彼らが結託して私を陥れようと……」

「結託? ええ、そうでしょうね」


 調査官は冷ややかに笑った。


「貴方が彼らを『雑巾』と呼んで踏みにじったから、彼らは結託したんです。自業自得というやつですよ」


 黒川が言葉を失い、床に視線を落とした。

 そこへ、総務部長が真っ青な顔で駆け寄ってきた。手にはタブレットを持っている。


「く、黒川本部長……! 大変です! ニュースを見てください!」


 タブレットの画面には、ニュース速報が流れていた。

 『公正取引委員会、帝都エレクトロニクスに立ち入り検査。下請法違反の疑い』

 『資材本部長による「脅迫音声」流出。株価はストップ安』


 画面には、黒川の顔写真こそ出ていないものの、モザイクのかかった音声動画が再生されている。

 『水が出なくなるまで絞り上げろ』というあの声が、全国のお茶の間に流れているのだ。


「あ、あ、ああ……」


 黒川が頭を抱えて悲鳴を上げた。

 これで終わりだ。

 社内処分だけではない。彼には「下請けイジメの実行犯」というレッテルが一生ついて回る。再就職はおろか、近所を歩くことすらままならないだろう。


「神崎ぃ……!」


 黒川が、充血した目で私を睨みつけた。


「満足か! これが会社のためか! 株価は大暴落だぞ! お前のせいで会社はめちゃくちゃだ!」

「会社を守ったのですよ、本部長」


 私は静かに答えた。


「貴方のやり方を放置していれば、下請け工場は連鎖倒産し、当社の製品供給網は完全に崩壊していました。そうなれば、株価暴落どころか、帝都エレというメーカーそのものが消滅していたでしょう」

「な、なにを……」

うみを出したのです。少々、手術が手荒になりましたが」


 私は調査官に向かって一礼した。

 調査官は小さく頷き、黒川の腕を取った。


「行きましょうか。詳しい話は、あちらで聞かせてもらいます」

「やめろ! 離せ! 俺は本部長だぞ! こんなことが許されるか!」


 黒川の絶叫が虚しく響く中、彼は両脇を抱えられ、貨物用エレベーターへと連行されていった。

 その背中は、かつての暴君の面影もなく、ただの怯えた初老の男だった。


 黒川が消えた後、私は自分のデスクに戻り、私物をまとめ始めた。

 ここでの仕事は終わった。

 部下たちが、不安そうな顔で集まってくる。


「課長……本当に行かれるんですか?」

「ああ。黒川本部長を刺した人間が、このまま会社に残るわけにはいかないからな。後は頼んだよ」


 私は段ボール箱一つ分の荷物を抱え、立ち上がった。

 その時、私のスマホが震えた。

 発信者は、あの大田区の精密加工工場の社長だ。


「……はい、神崎です」

『おう、神崎さんか! ニュース見たぞ! やってくれたな!』


 電話の向こうから、ガラガラ声の笑い声と、工場の機械音が聞こえてくる。

 それは、生きている音だった。


『あんたのメール見て、仲間内みんなで震えたよ。「まだ帝都にも、話のわかる奴が残ってたんだな」ってな』

「恐縮です。ご迷惑をおかけしました」

『迷惑なもんか! おかげで、公取委が入ってくれたおかげで、あの不当な値下げ要求は白紙撤回だ。これでうちも、従業員のボーナスを払ってやれる』


 社長の声が湿り気を帯びた。


『なあ神崎さん。あんた、会社辞めるんだろ?』

「……ええ、そのつもりです」

『だったら、うちに来ないか? いや、うちだけじゃ給料払いきれんかもしれんが、この商店街の工場みんなで金出し合って、あんたを「顧問」として雇いたいって話が出てるんだ』


 私は足を止めた。

 顧問。

 下請け企業連合の、守護神として。


『あんたみたいな、現場の痛みがわかる人間が必要なんだ。……どうだ?』


 窓の外を見ると、夕焼けがビル群を赤く染めていた。

 それは、黒川が見ていた「数字だけの世界」とは違う、汗と油の匂いがする温かい世界に見えた。


「……悪くないお話ですね」


 私は微笑んだ。


「少し考えさせてください。ですが、前向きに検討させていただきます」


 電話を切り、私は資材部のフロアを見渡した。

 かつての澱んだ空気は消え、少しずつだが、正常な呼吸を取り戻しつつある。

 部下たちが、涙ぐみながら頭を下げている。


「お世話になりました!」


 私は無言で手を振り、オフィスを後にした。

 エレベーターホールに出ると、どこからか風が吹き抜けていく音がした。

 

 次の職場は、油の匂いがする場所になりそうだ。

 だが、それも悪くない。

 そこには「雑巾」など一枚もない。あるのは、世界に誇る「職人」たちの熱い魂だけなのだから。


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