「スキルなんていらん。俺に絶対服従する兵隊を安く大量に採れ」と部長が言うので
面接室の空気は、張り詰めた弦のように冷たく澄んでいた。
私の目の前に座っているのは、高杉という二十代半ばの青年だ。
整えられた髪、アイロンのかかったシャツ、そして何より、その瞳に宿る理知的な光。
「……以上が、私が前職で開発したアルゴリズムの概要です。御社の課題であるデータ処理の遅延も、このアプローチなら三〇パーセントは改善できると考えます」
完璧だ。
履歴書上のスキルだけでなく、論理的思考力、プレゼン能力、そして自社の課題を予習してくる熱意。
エンジニアとして即戦力どころか、将来のCTO(最高技術責任者)候補になり得る逸材だ。
私は手元の評価シートに、最高の評価『S』を記入した。
「素晴らしいプレゼンでした、高杉さん。現場のリーダーともすぐに話が合うでしょう。ぜひ、次のステップへ進んでいただきたい」
「ありがとうございます!」
高杉が安堵の表情を見せ、深く一礼して退室した。
私は小さくガッツポーズをした。彼が入れば、開発部のデスマーチは劇的に改善されるはずだ。
人事マネージャーとしての、会心の仕事だった。
しかし。
その三十分後。
私のデスクに、一枚の書類が乱雑に投げ出された。
バサッ。
見上げると、そこにはプロレスラーのような体格の大男が立っていた。
人事部長の剛田だ。先月から営業部より異動してきたこの男は、人事の「じ」の字も知らない素人でありながら、絶対的な決定権を振りかざしている。
「氷室くん。なんだこの評価は」
剛田が、私が書いた『S』の文字を太い指で叩いた。
「高杉さんですか? 彼は極めて優秀です。開発言語の習得数も多く、コミュニケーション能力も……」
「不採用だ」
剛田は鼻を鳴らし、私の言葉を遮った。
「え……? 理由をお聞かせいただけますか?」
「なんかさあ、気に食わないんだよね。あの目」
気に食わない。
主観。感情。それだけの理由で、逸材を切り捨てるというのか。
「生意気そうじゃないか。自分は頭がいいと思って、上司の言うことにいちいち『でも』とか『しかし』とか言いそうだ。こういう奴は組織を腐らせるんだよ」
「部長。彼は論理的なだけです。開発現場では、間違った指示にNOと言える人材が必要です」
「いらん! 会社に必要なのは、上司の命令を120パーセントの気合で実行する兵隊だ。議論なんて求めてない」
剛田は私のデスクの横にあった「不採用予定」の履歴書の山を勝手に漁り始めた。
そして、一枚の履歴書を抜き出し、ニタリと笑った。
「これだよ。これこそが逸材だ」
彼が見せた履歴書には、『松田』という名前が書かれていた。
私は眉をひそめた。
松田。覚えている。
面接に遅刻してきた上、志望動機を聞いても「とにかく稼ぎたいっす!」「自分、体力には自信あります!」「先輩の命令なら火の中水の中っす!」と、大声で連呼するだけの男だった。
職歴は空欄だらけ。特技欄には「一気飲み」と書いてあった。
典型的な地雷だ。
「部長、本気ですか? 彼はエンジニア志望ですが、コードの一行も書けませんよ」
「教えればいいだろ! **『スキルは後からついてくる』**んだよ。大事なのはハートだ、ハート!」
剛田は自分の胸板をドンと叩いた。
「こいつはいいぞ。俺の目を真っ直ぐ見て『一生ついていきます』と言った。こういう素直な奴が伸びるんだ。こいつを採用しろ」
「……エンジニアとして、ですか?」
「おうよ。わからんことがあれば気合で調べるだろ。とにかく、高杉は不採用。松田を採用。これは決定事項だ」
眩暈がした。
現場の悲鳴が聞こえるようだ。コードの書けないエンジニアなど、手術のできない外科医と同じだ。現場の負荷が増えるだけではない。バグを量産し、サービスを破壊する時限爆弾になる。
「部長。現場のマネージャーは納得しません。採用基準には一定のスキル要件が……」
「うるさいな!」
剛田が怒鳴り声を上げ、周囲の社員がビクリと反応した。
「お前さあ、人事の仕事を難しく考えすぎなんだよ。**『人事は誰でもできる』**んだよ。人が足りない部署に、頭数を揃えて放り込む。それだけの仕事だろ?」
誰でもできる。
私が十年かけて培ってきた、行動心理学やデータ分析、労務管理の知識。
その全てを、この男は「頭数合わせ」と切り捨てた。
「いいか氷室。俺は剛田軍団を作りたいんだ。俺の指示ひとつで、右向け右で動く、忠実な軍隊をな。小賢しいインテリはいらん。**『俺色に染めろ』**」
「……つまり、能力は一切不問。部長の命令に絶対服従するイエスマンだけを採用しろ、ということですね?」
「そうだ! やっとわかったか。あと、給料は安く叩けよ。**『安く買い叩け』**。どうせ未経験なんだ、最低賃金で十分だ」
剛田は満足げに頷き、松田の履歴書を私の胸に押し付けた。
「今期の採用目標はあと三十人だ。全員、この松田みたいな『骨のある奴』で揃えろ。期限は来月までだ。できなかったら、お前の査定も響くぞ」
剛田は高笑いを残して去っていった。
私は残された履歴書を見下ろした。
証明写真の中の松田は、何も考えていないような、底抜けに明るい笑顔を浮かべている。
知性の欠片も感じられないその笑顔。
悔しさで、唇を噛み締める。
優秀な高杉さんを落とし、こんなチンパンジーを採用する罪悪感。
現場への申し訳なさ。
そして何より、プロとしてのプライドを土足で踏みにじられた屈辱。
……いいえ。
違う。
私はふと、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
思考の角度を変える。
剛田部長は言った。「俺の指示ひとつで動く軍隊が欲しい」と。
「能力は不問」だと。
ならば、叶えて差し上げましょう。
中途半端な馬鹿ではない。
常識というリミッターが外れた、本物のモンスターたちを。
私はPCに向かい、転職エージェントへのオーダーメールを書き始めた。
これまでは「NGリスト」に入れていた条件を、すべて「必須要件」へと書き換えていく。
・論理的思考力:不要
・協調性:不要(上司への忠誠心のみ必須)
・コンプライアンス意識:不要
・必須スキル:声が大きいこと、考える前に動くこと
そして、過去に「あまりにも危険すぎて不採用」にした、ブラックリスト・フォルダを開いた。
そこには、面接官を恐怖させた伝説の志願者たちのデータが眠っている。
指示待ち人間?
いいえ、もっと恐ろしいものを解き放つのだ。
指示されたこと「しか」できない、そして指示されたことは「犯罪だろうが物理的に不可能だろうが」実行しようとする、暴走機関車たち。
「……三十人ですね。承知しました」
私は静かに微笑んだ。
フロンティア・ソリューションズの崩壊まで、あと一ヶ月。
剛田部長、貴方のための「最強の軍団」が、まもなく結成されます。
一ヶ月後。
フロンティア・ソリューションズのオフィスは、異様な熱気に包まれていた。
それは、知的生産の現場が持つ静かな情熱ではない。
部室の汗臭さと、怒号と、意味のないスローガンが飛び交う、原始的な熱気だ。
「おはようございますッッ!!!」
午前九時。
三十人の男たちが、腹の底から張り上げた大声で挨拶をする。
全員が短髪、黒いスーツ、そして瞳孔が開いたような真っ直ぐすぎる視線をしている。
私が一ヶ月かけて厳選した、剛田部長好みの精鋭たち――通称「剛田軍団」だ。
彼らのスペックは一貫している。
学歴不問、職歴不問。
共通点は「声がデカいこと」と「上司の命令を1ミリも疑わない純粋さ(知性の欠如)」のみ。
「いいか貴様ら! 今日こそ売り上げ目標を達成するぞ! 気合だ! 気合を見せろ!」
朝礼台の上で、剛田部長が竹刀を振り回しながら叫ぶ。
時代錯誤も甚だしい光景だが、新入社員たちは目を輝かせている。
「オスッ! 気合ッス! 一生ついていくッス!」
剛田は満足げに頷き、私の席まで歩いてきた。
「どうだ氷室くん。壮観だろう? これだよ、俺が求めていたのは! この一体感! 前の陰気なメガネ連中とは大違いだ!」
「ええ、素晴らしい迫力です。オフィスの平均デシベルが工事現場並みになりましたね」
「ハッハッハ! 褒めるなよ。君もいい仕事をしてくれた。……さて、彼らの働きぶりを見せてもらおうか」
剛田は腕組みをして、フロアを見渡した。
最初の悲劇は、開発エリアで起きた。
例の松田だ。
彼はエンジニアとして採用されたが、プログラミング言語は何一つ理解していない。
しかし、剛田の教え通り「気合」だけはあった。
松田はキーボードを、親の仇のように強く、激しく叩いていた。
ッターン! ッターン!
エンターキーを殴る音が、銃声のように響く。
「おい松田! 調子はどうだ!」
剛田が声をかけると、松田は直立不動で立ち上がった。
「オスッ! 絶好調ッス! 今、バグを修正してるッス!」
「ほう、早いな! さすが俺が見込んだ男だ。具体的にはどうやったんだ?」
松田は白い歯を見せて笑った。
「はい! 画面に赤いエラーメッセージがいっぱい出ててウザかったんで、全部選択してデリートキーで消しましたッ! これで画面が真っ白になって、スッキリしたッス!」
近くにいたベテランのエンジニアが、コーヒーを噴き出した。
エラー表示を消したのではない。
ソースコードそのものを全消去したのだ。
「おお、そうか! 画面が綺麗になるのはいいことだ! 整理整頓は仕事の基本だからな!」
剛田は松田の肩をバンバン叩いて褒め称えた。
エンジニアが青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「ぶ、部長! 何やってるんですか! コードが消えてます! バックアップは……」
「うるさいな眼鏡! 松田がせっかく掃除したんだ、文句言うな! 消えたならまた書けばいいだろ、気合で!」
エンジニアが泡を吹いて倒れそうになるのを、私は静観した。
剛田部長。「スキルは後からついてくる」と仰いましたね。
確かに、破壊のスキルだけは超一流のようです。
次の異変は、営業部エリアだ。
新人の田中――元暴走族の特攻隊長――が、電話営業をしていた。
剛田の指示はシンプルだ。「客がNOと言っても切るな。粘りを見せろ」。
「あ? いらない? ふざけんなよコラ! こっちが下手に出てりゃ調子乗りやがって!」
田中は受話器に向かって怒鳴り散らしていた。
「部長が『契約取るまで帰ってくるな』っつってんだよ! 俺の顔に泥塗る気か! 住所はわかってんだぞ、今から行くから待ってろや!」
完全に脅迫だ。
だが、剛田はそれを見てニヤリと笑った。
「いいぞ田中! その熱意だ! 客の懐に飛び込め!」
「オスッ! 行ってきます!」
田中は電話を投げ捨て、会社を飛び出していった。
おそらく一時間後には、警察から電話がかかってくるだろう。
だが、剛田は「熱意ある若者」としか認識していない。
そして極めつけは、総務エリアに配属された新人たちだ。
剛田は彼らにこう指示していた。
『会社の無駄を削れ。コスト意識を持て。1円でも安くしろ』。
彼らはその指示を、極めて忠実に、そして物理的に実行した。
プシュン。
突然、オフィスの照明が消えた。
さらに、空調の音が止まる。
窓のないサーバールームの冷却ファンも停止した。
「な、なんだ? 停電か?」
ざわめく社員たち。
そこへ、総務配属の鈴木が懐中電灯を持って現れた。
「報告しますッ! 電気代が無駄だと思ったので、ブレーカーを落としましたッ!」
「なにぃ?」
「太陽が出ている時間は電気なんていりません! 江戸時代は電気なんてなかったッス! これで月々百万円のコストカットです!」
鈴木は誇らしげに胸を張った。
剛田が一瞬呆気にとられたが、すぐに破顔した。
「ハッハッハ! その発想はなかった! 確かにその通りだ、甘ったれた環境に慣れすぎなんだよ現代人は! よし、今日は『暗闇デー』にするぞ! 心の目で見れば仕事なんてできる!」
オフィスの室温が上がり始める。
熱暴走を警告するサーバーのアラート音が、暗闇の中で不気味に響き渡った。
私は暗がりの中、スマホの明かりを頼りに手帳を開いた。
・開発部:ソースコード消失により機能停止。
・営業部:顧客への脅迫により信用毀損、警察沙汰の可能性大。
・インフラ:冷却停止によりサーバーダウン寸前。
順調だ。
あまりにも順調に、会社機能が不全に陥っている。
既存のまともな社員たちは、すでに半数が退職届を提出済みだ。残っているのは、逃げ遅れた者と、この状況を楽しんでいる私くらいだろう。
「氷室くん! どうだ、活気が出てきただろう!」
剛田が暗闇の中で笑いかけてきた。
彼は本気だ。本気でこれが「改革」だと思っている。
自分の指示した「兵隊」たちが、会社の心臓部を食い荒らしていることに気づいていない。
「ええ、部長。素晴らしいエネルギーです。……ところで、社長が緊急視察に来られるそうですよ」
「おっ、そうか! 社長にもこの熱気を見せてやらんとな!」
剛田はネクタイを締め直した。
「おい全員聞け! もうすぐ社長がいらっしゃる! 俺たちの『剛田イズム』を最高のアピールで迎えるぞ!」
「オスッ!!!」
「いつものアレを用意しろ! 俺たちの歓迎の儀式だ!」
いつものアレ。
私は小さく溜息をついた。
剛田部長、それはまずいですよ。
貴方が「インパクト重視」で考えたその儀式だけは。
エレベーターホールの方から、社長の足音が聞こえてくる。
地獄の釜の蓋が開く音がした。
ポーン。
エレベーターの到着音が、静まり返った暗闇のオフィスに響いた。
ドアがゆっくりと開き、そこから一人の初老の男性が姿を現した。
フロンティア・ソリューションズの創業者兼CEOだ。
彼は一歩足を踏み出すなり、眉をひそめて鼻を押さえた。
「……なんだ、この臭いは」
無理もない。
空調の止まった密室に充満する、三十人の男たちの汗と熱気。そして何かが焦げ付くような不穏な臭い。
そこへ、剛田部長が懐中電灯で自分の顔を下から照らしながら、ぬっと現れた。
「社長! お待ちしておりました!」
「うわっ!? ご、剛田くんか? なぜ真っ暗なんだ。停電か?」
「いいえ! これぞ我が社の新スローガン、『闇夜を切り拓く開拓者魂』の実践です! 電気に頼らず、己の心の灯火で仕事をしております!」
剛田は演劇のような大げさな身振りで叫んだ。
「さあ社長! ご覧ください! 私の選び抜いた精鋭たちによる、歓迎の儀式を!」
剛田が指を鳴らした。
それを合図に、暗闇の奥で三十人の目がギラリと光った。
「総員、着火ッッ!!!」
新人のリーダー格、松田が叫んだ。
ボッ、という音と共に、オフィスの中央で巨大な火柱が上がった。
LEDの演出ではない。
本物の火だ。
彼らは廃棄予定の書類や、壊れた椅子を積み上げ、キャンプファイアーを作り上げていたのだ。
メラメラと燃え盛る炎が、呆然とする社長の顔を赤く照らし出す。
「な、な、なんだこれはぁぁぁ!?」
社長が悲鳴を上げた。
だが、剛田軍団の熱狂は止まらない。彼らは炎の周りを囲み、野太い声で社歌を歌いながら、謎の踊りを踊り始めた。
オフィスの床で。
スプリンクラーの真下で。
「どうです社長! このパッション! これぞベンチャーの原点、野性味あふれるエネルギーです!」
「馬鹿野郎! 火事になるだろ! 今すぐ消せ!」
「ハッハッハ! 大丈夫です、彼らのハートの方が熱いですから!」
会話が成立していない。
剛田はトランス状態に入っており、社長の怒号を「感動の叫び」だと勘違いしているようだ。
その時。
松田が誇らしげに、燃料を追加投入した。
「燃料投下ッス! 不要な紙切れを燃やして、さらに気合を入れるッス!」
彼が火の中に放り込んだのは、分厚いファイルの束だった。
表紙には『重要機密契約書』『株主名簿』『特許申請書類原本』と書かれている。
「あ……」
社長の目が飛び出した。
「あああああ! それは! 金庫にあった重要書類じゃないか!」
「オスッ! 金庫なんて邪魔なんで、こじ開けて中身を出したッス! 過去の遺産より、未来の炎ッス!」
松田が良いことを言ったつもりで、満面の笑みを浮かべた。
重要書類がチリチリと燃え上がり、黒い灰になって舞い上がる。
会社の信用と歴史が、物理的に灰燼に帰していく。
ジリリリリリリリリッ!
ついに、火災報知器が作動した。
直後、天井のスプリンクラーが一斉に開放された。
バシャアアアアアアッ!
濁った水が豪雨のように降り注ぐ。
炎はジューッという音を立てて消え、代わりに黒い煙が充満する。
ずぶ濡れになったPCがショートして火花を散らし、サーバーが断末魔の音を立てて完全に沈黙した。
オフィスは、水浸しの廃墟と化した。
剛田部長は、頭から汚水をかぶり、濡れ鼠のような姿で呆然と立ち尽くしていた。
自慢の剛田軍団も、水をかけられた野良犬のように震えている。
「……剛田」
社長の声が、地獄の底から響いた。
彼もまたずぶ濡れだが、その目には殺意しか宿っていない。
「て、手違いです……彼らが勝手に……」
「黙れ」
「ち、違うんです! 私はただ、気合を入れろと言っただけで、放火しろなんて……」
「黙れと言っているんだッ!」
社長が剛田の胸倉を掴み、泥水の中に突き飛ばした。
バシャッ。
剛田が無様に転がる。
「お前はクビだ。いや、クビじゃ済まさん。放火、器物損壊、重要書類の破棄……損害賠償請求と刑事告訴の手続きを今すぐ取る。刑務所で一生、その『気合』とやらを叫んでいろ」
警察のサイレンが近づいてくる。
剛田はガタガタと震え、私の方を見た。
「ひ、氷室くん……助けてくれ……君が採用したんだろう? 君にも責任が……」
私は傘をさし、汚水に濡れないようにしながら、彼を見下ろした。
そして、クリアファイルに入った一枚の書類を提示した。
「部長。こちらは貴方が先月承認した『採用基準変更指示書』です」
「な、なんだそれは……」
「ここには明確に書かれています。『知能指数は問わない』『善悪の判断よりも命令への服従を優先する人材』『暴走族、前科持ち歓迎』と」
書類の末尾には、剛田の大きなハンコが押されている。
「私はプロの人事として警告しました。『組織を破壊する』と。しかし貴方は『責任は俺が取る』『俺色に染めろ』と仰いました。ですから、ご希望通りの人材を揃えました」
私は周囲の野獣たちを見渡した。
「彼らは優秀ですよ。貴方の『常識を壊せ』という命令を、忠実に実行してくれたのですから」
剛田はパクパクと口を開け、言葉にならない声を漏らした。
自分の植えた種が、毒の花を咲かせ、自分自身を食い殺したのだ。
「ああ、それと」
私は胸元から、白い封筒を取り出した。
「退職願です。これにて失礼いたします」
「ま、待て! 今お前に抜けられたら、誰がこの事態を収拾するんだ!?」
「収拾? 無理ですよ。物理的に燃えてしまいましたから」
私は微笑み、社長に向かって一礼した。
「社長。申し上げにくいですが、メインサーバーのデータも、契約書の原本も、全て消失しました。この会社は、もはや抜け殻です。お元気で」
私は踵を返した。
背後で、剛田の絶叫と、警察官たちが雪崩れ込んでくる怒号が聞こえた。
「逮捕だ! 全員確保しろ!」
剛田軍団が「部長を守れ!」と叫びながら警官隊に突撃し、公務執行妨害で次々と制圧されていく。
最後まで、彼らは忠実な馬鹿だった。
オフィスの外に出ると、冷たい夜風が心地よかった。
私はスマホを取り出し、電話をかけた。
相手は、あの日不採用にした優秀な青年、高杉さんだ。
「……もしもし、氷室です。夜分にすみません」
『あ、氷室さん! どうされたんですか?』
「実は、新しい職場が決まりましてね。外資系の大手IT企業です。そこでCTO候補を探しているんですが……興味はありませんか?」
電話の向こうで、高杉さんが息を飲む音が聞こえた。
私はフロンティア・ソリューションズのビルを見上げた。
窓から黒い煙が立ち上っている。
「前の会社は、少々『風通し』が良すぎて燃えてしまいましたから。次は、知性のある人間が評価される場所で、一緒に働きましょう」
私はスマホを耳に当てたまま、軽やかな足取りで駅へと向かった。
私の背後で、かつての職場が、文字通り「炎上企業」としてニュースになるのは、明日の朝のことだった。




