表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『「つべこべ言わずにやれ」と無能上司が言うので、言われた通りに会社を崩壊させることにしました【一話完結・短編集】  作者: じょな


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/5

悪魔的服従

 みぞおちのあたりが、焼け付くように熱い。

 三日間風呂に入っていない自分の体臭と、焦げ付いたコーヒーの匂いが混ざり合い、会議室の淀んだ空気をさらに重くしていた。


「おい佐久間、聞いてるのか?」


 怒鳴り声と共に、分厚いファイルが机に叩きつけられる。

 目の前にいるのは、営業企画部の黒木課長だ。脂ぎった額に汗を浮かべ、血走った目で私を睨みつけている。

 壁の時計は深夜二時を回っていた。


「……聞いています。ですが黒木さん、今のまま本番リリースするのは危険です。決済システムに致命的なバグが残っています」


 私の言葉に、黒木は不快そうに顔を歪めた。

 まるで、言葉の通じない羽虫でも見るような目だ。


「あのさあ、そのネガティブな発言、なんとかならないの? みんな言ってるよ。佐久間は評論家気取りで手を動かさないって」


 嘘だ。

 開発チームのメンバーは、全員死に物狂いでコードを書いてくれている。手を動かしていないのは、無理難題な仕様変更を安請け合いしてくるこの男だけだ。


「みんなとは誰ですか。具体的に名前を」

「揚げ足を取るな! そういう態度がチームの士気を下げるんだよ!」


 黒木が唾を飛ばしながら叫ぶ。


「いいか、クライアントは明日の朝九時にリリースしろと言ってるんだ。これは決定事項だ。つべこべ言わずにやれ」

「テストが終わっていません。顧客のクレジットカード情報が流出する可能性があります」

「可能性の話なんかしてないんだよ! コミットしろよ、結果に!」


 ズキリ、とこめかみに激痛が走った。

 視界が明滅する。心臓が早鐘を打っている。


「何かあったら、俺が責任を取る。お前は黙って従えばいいんだ」


 責任を取る?

 この男が?

 笑わせるな。一回目の人生でも、二回目の人生でも、お前は真っ先に逃げ出したじゃないか。

 そうだ。これは三回目だ。

 一度目は、私が強引にリリースを止めて、納期遅延の責任を負わされて懲戒解雇。

 二度目は、こうして必死に説得を試みて、結局押し切られて炎上し、全責任を負わされて……。


「……佐久間? おい、聞いてんのか!」


 黒木の声が遠のいていく。

 胸の奥で何かが弾ける音がした。

 熱い。痛い。息ができない。

 ああ、またか。

 また、私はこの男の尻拭いをして、過労死するのか。


 視界が暗転する。

 最後に聞こえたのは、私の体を心配する言葉ではなく、納期を気にする黒木の舌打ちだった。




「……くま、佐久間!」


 肩を強く揺さぶられ、私はハッと息を吸い込んだ。

 オフィスの蛍光灯が眩しい。

 心臓がドクドクと脈打っているのがわかる。生きて、いる?


「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」


 覗き込んできたのは、同僚の安藤だった。まだ目の下にクマがなく、肌艶もいい。

 私は慌てて手元のスマートフォンを確認した。

 日付は、四月一日。

 あの悪夢のようなプロジェクト、「次世代ECサイト構築案件」のキックオフミーティング当日だ。


 戻ってきた。

 三度目だ。


 吐き気がこみ上げてくる。またあの地獄を繰り返すのか。

 あの無能な上司の理不尽な命令に耐え、泥のように働き、最後にはボロ雑巾のように捨てられる日々を。


 ガチャリ、と会議室のドアが開いた。


「おー、みんな揃ってるな! よし、始めようか!」


 大きな声と共に、黒木が入ってきた。

 まだプロジェクトが炎上する前だからか、その表情は自信に満ち溢れ、妙にツヤツヤしている。それが余計に腹立たしい。


 黒木はホワイトボードの前に立ち、赤いマーカーで大きく『革命』と書いた。

 中身のない、いつものプレゼンが始まる。


「今回のプロジェクトは、我が社の社運を賭けた『一丁目一番地』だ。全員、そのつもりで頼むぞ」


 出た。昭和の遺物のような言葉。

 周囲の若手社員たちが、少しだけ引いているのが空気でわかる。

 だが、誰も何も言わない。言えば標的にされると知っているからだ。


「で、だ。開発スケジュールの件だが」


 黒木が私の方を見た。

 ここだ。ここが分岐点だ。

 過去二回のループでは、ここで私が発言した。

 『三ヶ月でこの要件は不可能です』と。

 その結果、私はやる気のない抵抗勢力としてレッテルを貼られ、黒木の監視下に置かれ、破滅への道を歩まされた。


「クライアントからは夏前のリリースを強く要望されている。……佐久間、いけるよな?」


 黒木の目が、獲物を狙う爬虫類のように細められる。

 安藤が不安そうに私を見ている。

 常識的に考えれば、無理だ。

 要件定義も終わっていないのに、納期だけが決まっている。典型的なデスマーチの入り口。


 ここで私が「無理です」と言えば、黒木は「代案を出せ」「工夫が足りない」と精神論を振りかざすだろう。

 「人を増やしてください」と言えば、「予算がない」「お前のマネジメント不足」と返してくるだろう。


 議論は無駄だ。

 この男に、論理は通じない。

 彼は「自分の思い通りの返事」以外は、すべてノイズとして処理する耳しか持っていないのだから。


 ふと、思考が冷えていくのを感じた。

 怒りも、焦りも、恐怖もない。

 ただ、氷のように冷たい計算式だけが脳裏に浮かぶ。


 助けようとするから、苦しいのだ。

 会社のため、チームのため、そして黒木のためを思って提言するから、それが「生意気」だと受け取られる。

 ならば。


 私はゆっくりと口を開いた。


「……はい、承知しました」


 会議室の空気が止まった。

 安藤が「えっ?」と小さな声を上げる。

 黒木自身も、予想外の素直な返答に一瞬だけ虚を突かれた顔をした。


「お、おう。そうか。わかるか、このスピード感の重要性が!」

「ええ、痛いほどわかります。黒木課長の方針に、完全に『アグリー』です」


 黒木の好む横文字を、あえて混ぜる。

 すると、彼の顔がみるみるうちに緩んでいった。


「そうだろう! やっと佐久間も、ビジネスマンとしての『解像度』が上がってきたじゃないか!」


 単純な男だ。

 自分の言葉を使う人間を、仲間だと錯覚する。


「ですが課長、一つだけ確認させてください。この短期間で進めるには、現場の判断スピードが重要になります」

「うむ、その通りだ。『なるはや』で頼むぞ」

「はい。つきましては、仕様に関する指示はすべて黒木課長のトップダウンで決定する、ということでよろしいですね? いちいち会議をしていたら間に合いませんので」


 これは罠だ。

 だが、気分の良くなっている黒木は気づかない。

 彼は「トップダウン」という言葉が大好きなのだ。


「当然だ! 俺がすべての『ボールを持つ』。お前たちは俺の手足となって動けばいい」

「ありがとうございます。では、今の発言を議事録に残し、関係者全員に共有しておきます」


 私は手元のノートPCで、素早くタイピングをした。


 決定事項:プロジェクトの全仕様決定権限は黒木課長に帰属する。現場は彼の指示に一切の異論を挟まず、その通りに実装する。


 エンターキーを叩く音が、静まり返った会議室に響いた。


「よし、共有しました。CCには部長と役員も入れておきましたので」

「あ、ああ。……ん? まあいい、仕事が早いな」


 黒木は満足げに頷いた。

 彼は知らない。

 今、彼が背負い込んだものが「権力」ではなく、「時限爆弾の起爆スイッチ」だということを。


 安藤が机の下で私の足を突っつき、小声で囁いてくる。

 「おい、正気かよ佐久間。あんなスケジュール、絶対破綻するぞ」


 私は表情を崩さず、正面を見据えたまま小声で返した。

 「ああ、破綻するよ。派手にな」


 止めない。

 助けない。

 忠告しない。


 お望み通り、貴方の言った通りのものを、言った通りの納期で作って差し上げますよ、課長。

 それが、物理的に動くかどうかは別として。


 私は心の中で、三度目の人生の開戦を宣言した。


 プロジェクトルームには、乾いたタイピング音だけが響いていた。

 窓の外はすでに暗い。他の社員たちが退社していく中、私たちのチームだけが、まるで隔離病棟のように静まり返っている。


 私の指は、かつてない速度でキーボードを叩いていた。

 迷いはない。過去二回の人生で、このシステムのコードは嫌というほど書き直させられたからだ。構造はすべて頭に入っている。

 だからこそ、今の作業は創造ではなく、破壊に近い。


「佐久間さん、ちょっといいですか」


 隣の席の安藤が、怯えたような小声で話しかけてきた。

 彼は顔面蒼白で、モニターを指差している。


「これ……決済モジュールの仕様、変じゃないですか? エラーチェックの工程がごっそり抜けてます。これじゃ、金額がマイナスで入力されても決済が通っちゃいますよ」


 安藤は優秀だ。すぐに気づいた。

 通常なら、これは致命的なバグだ。悪意のあるユーザーが「-100万円」の商品を購入すれば、逆に100万円が振り込まれてしまうような、初歩的かつ最悪の穴。


 私は手を止めず、モニターから視線を外さずに答えた。


「ああ、それでいいんだ。仕様通りだから」

「いや、でも! これじゃ大事故になります!」

「安藤。昨日の朝礼で黒木課長が言ったことを覚えてるか?」


 私は昨日の記憶を再生する。


 ――『あのさあ、入力画面でいちいちエラーが出るの、ウザくない? ユーザーの離脱率が上がるんだよ。もっとサクサク進めるように、余計なチェックは全部外して。これ、マーケティングの常識だから』


 黒木はそう言い放った。

 セキュリティとユーザビリティの区別すらつかない男の、浅はかな思いつき。

 過去の私なら、「それはできません」と戦っただろう。だが今は違う。


「課長は『余計なチェックは全部外せ』と言った。俺たちはそれに従う。それが今回のプロジェクトの一丁目一番地だ」

「で、でも……」

「大丈夫だ。ちゃんとログは取ってある」


 私はフォルダを開き、安藤に見せた。

 そこには『黒木課長指示書_入力制限解除の件.msg』というメールデータと、その時の会議の録音データが保存されていた。


「責任の所在は明確にしてある。君は何も心配せず、言われた通りに穴を掘ればいい」


 安藤はゴクリと喉を鳴らし、震える手でキーボードに戻った。

 良心と命令の板挟みで苦しんでいるようだ。すまない安藤。だが、この膿を出し切るには、一度会社ごと炎上させるしかないんだ。


「おい、進んでるか!」


 背後から、不快な足音が近づいてきた。

 黒木だ。

 彼はコンビニのアイスコーヒーを片手に、私のモニターを覗き込んできた。画面に並ぶ文字列など読めもしないくせに、管理しているフリをするのが彼の仕事だ。


「順調です。課長の仰った通り、入力フォームのバリデーション、つまり入力制限はすべて撤廃しました。驚くほどスムーズに画面遷移しますよ」


 私は作りかけのデモ画面を見せた。

 デタラメな数字や記号を入れても、何のエラーも出ずに「購入完了」まで進む。システムとしては完全に壊れているが、見た目の動きだけは速い。


「おお! これだよこれ! やればできるじゃないか佐久間」


 黒木が私の肩をバシバシと叩く。

 物理的な痛みが走るが、私は笑顔を貼り付けたまま耐えた。


「前の君はさ、すぐ『セキュリティが』とか『仕様が』とか言い訳ばっかりだったけど、やっと解像度が上がってきたな。ユーザーファースト、それがすべてだ」

「ありがとうございます。すべて課長のご指導のおかげです」

「うんうん。で、パスワードの件はどうなった?」


 まただ。

 新しい地雷を持ってきた。


「パスワード、ですか?」

「そう。今どき、英数字と記号を混ぜろとか、8文字以上とか、古臭いんだよ。お年寄りのユーザーもいるんだからさ」


 嫌な予感がする。

 私はあえて、誘導尋問のように問いかけた。


「では、セキュリティ強度は下げて、4桁の数字だけでも登録できるようにしますか?」

「いや、もっとシンプルに。……パスワードなしでもログインできるようにできない?」


 一瞬、思考が停止しそうになった。

 ECサイトで。

 クレジットカード情報を扱うサイトで。

 パスワードなしでログイン?


「……それは、つまり、IDさえわかれば誰でも他人の購入履歴やカード情報が見られる状態にする、ということですか?」

「言い方が悪いな! 『ゲスト購入の手軽さを会員にも提供する』ってことだよ! Amazonだってワンクリックだろ? あれと同じ体験を作れって言ってんの!」


 違う。それは全く違う技術だ。

 だが、説明しても無駄だ。彼は「Amazonと同じ」という言葉を使いたいだけなのだから。


「なるほど、画期的ですね。世界初の試みかもしれません」

「だろ? 俺って時々、天才的なアイデア降りてくるんだよなー。よし、それで実装して。なるはやで!」


 黒木は上機嫌で自席に戻っていった。

 私は深く息を吐き出し、エディタを開いた。


 // 認証機能をバイパスする

 if (config.mode === 'KUROKI_SPECIAL') { return true; }


 コメントアウトに皮肉を込め、私はログイン認証のロジックを削除した。

 これで、誰でも適当なIDを入れるだけで、他人のマイページに入り放題だ。

 個人情報保護法など、この男の前では紙屑同然らしい。


 数日後。

 リリースの前日。

 プロジェクトルームは異様な熱気に包まれていた。

 通常、納品前日はバグ潰しの地獄になる。動かない機能、崩れるレイアウト、整合性の取れないデータ。それらを必死に修正し、徹夜で泥臭い作業をするのが常だ。


 だが、今回は違う。

 あまりにも静かだ。


「おい佐久間、テストはどうなってる?」


 黒木が腕組みをして立っている。


「単体テストはすべてパスしています。課長の指示通り、『正常な操作が行われた場合』のみを確認しました」


 そう。

 私たちは「エラーが起きるような操作」のテストを一切していない。

 変なボタンの押し方もしないし、大量のデータを送る負荷テストもしない。

 なぜなら、黒木がこう言ったからだ。

 『意地悪なテストするなよ。動けばいいんだ、動けば』と。


「よしよし。で、本番環境への移行準備は?」

「できています。……ただ、一点だけ」

「なんだよ、またネガティブな話か?」


 黒木が露骨に嫌な顔をする。

 私は冷静に、最後の確認事項を提示した。


「サーバーのスペックについてです。課長は『クラウド利用料が高いから、一番安いプランにしろ』と仰いましたよね?」

「当たり前だろ。コスト意識を持てよ。最初はアクセスなんてそんなに来ないんだから、ミニマムスタートでいいんだよ」

「承知しました。現在、メモリは最小構成、自動スケールアウト機能もオフにしてあります。これだと、同時に百人がアクセスしただけでサーバーが落ちますが」


 これは脅しではない。事実だ。

 全社を挙げた一大プロジェクトのサイトが、たった百人のアクセスで落ちる。

 それは企業の信用失墜どころの話ではない。


「お前さあ、本当に心配性だな」


 黒木は呆れたように首を振った。


「広告打つのはリリースして一週間後だぞ? 明日なんて、社員と関係者くらいしか見ないって。……これだからエンジニア脳は困るんだよ。ビジネスの現場感がわかってない」

「……現場感、ですね。勉強になります」

「わかったら余計な設定はいじるなよ。勝手にコスト増やしたら給料から引くからな」

「はい。絶対に触りません」


 私は両手を上げて見せた。

 これで、最後の安全装置も外された。


 認証ザル、エラーチェックなし、サーバーは貧弱。

 役満だ。

 このシステムは、リリースされた瞬間に自壊する運命にある。


 午後十一時。

 最終確認を終えた黒木が、満足げに立ち上がった。


「よし! 今日はこれで解散! 明日の朝九時、リリースボタンを押すのは俺がやるからな。記念すべき瞬間だ」


 彼は自分がボタンを押したがる。成功の栄誉を独り占めするためだ。

 失敗した時のことは、微塵も考えていない。


「お疲れ様です、課長」

「おう。佐久間も、今回はよくやったよ。正直、お前がここまで素直になるとは思ってなかったな」


 帰り際、黒木がニヤリと笑って私に言った。


「やっぱりさ、上司の言うことは絶対なんだよ。『君のためを思って言っている』んだから。今回の件で、お前も成長できただろ?」


 背筋が凍るような言葉だった。

 成長?

 ああ、したとも。

 貴方のような人間を、躊躇なく地獄に突き落とす覚悟が決まったという意味では、大いに成長させてもらった。


「ええ、本当に。……明日は楽しみですね」


 私は深く頭を下げた。

 黒木が上機嫌でエレベーターに消えていく。


 私は誰もいなくなったオフィスで、安藤と顔を見合わせた。

 安藤の顔色は悪いが、その目には奇妙な決意の色が宿っている。彼もまた、連日のパワハラで限界を迎えていた一人だ。


「佐久間さん……本当に、やるんですね」

「やるよ。準備はすべて整った」


 私は自分の鞄から、一冊の分厚いファイルを取り出した。

 そこには、過去三ヶ月にわたる黒木の理不尽な命令メール、チャットのログ、そして会議の録音データの書き起こしが、インデックス付きで完璧に整理されている。

 表紙には『トラブル発生時の原因究明資料』とテプラが貼ってある。


「明日の朝九時、このサイトは公開される。そして間違いなく、五分以内に崩壊する」

「……僕たちのせいになりますか?」

「なるだろうな、最初は。黒木は全力で俺たちに罪をなすりつけに来る」


 私はファイルを安藤に見せ、微かに口角を上げた。


「その時が、本当の戦いの始まりだ。黒木が吐いた言葉すべてを、そのまま彼に返す。エビデンスという名の凶器を使ってな」


 窓の外には、眠らない東京の夜景が広がっていた。

 明日の今頃、この会社は火の車になっているだろう。

 だが不思議と、私の心は晴れやかだった。

 かつてないほど、明日の朝が待ち遠しい。


 さあ、最後の審判だ。黒木課長。


 四月三日、午前九時。

 オフィスの巨大なモニターに、サイトのカウントダウンが表示されている。

 プロジェクトルームには、役員や関係部署の部長たちが勢揃いしていた。彼らは皆、このプロジェクトが成功すると信じて疑っていない。黒木が「完璧だ」「革命だ」と吹聴して回ったからだ。


「さあ、歴史的瞬間の始まりだ!」


 黒木が紅潮した顔で叫び、大げさなアクションでエンターキーを叩いた。

 リリース完了。

 拍手が巻き起こる。黒木は満面の笑みで、役員たちに頭を下げている。


「いやあ、苦労しましたが、素晴らしいものができましたよ。私のマネジメントの集大成です」


 私はその様子を、部屋の隅で冷ややかに見つめていた。

 隣では安藤が、祈るように両手を組んで震えている。


 一分後。

 異変は唐突に訪れた。


 ジリリリリリリリッ!


 カスタマーサポートセンター直通の電話が鳴った。

 いや、一本ではない。フロア中の電話という電話が、まるで悲鳴のように一斉に鳴り始めたのだ。

 電子音の不協和音。拍手はピタリと止んだ。


「な、なんだ? アクセス殺到か? 嬉しい悲鳴ってやつか?」


 黒木が呑気なことを言っている間に、サポート担当の女性社員が血相を変えて駆け込んできた。


「課長! 大変です! クレームの電話が鳴り止みません!」

「クレーム? 繋がりにくいとかか?」

「違います! 『他人の住所と名前が丸見えだ』『勝手にカードが使われた』『ログインしたら知らないおじさんの購入履歴が出た』……通報の嵐です!」


 室内の空気が、一瞬で凍りついた。

 個人情報流出。

 企業にとって、死刑宣告にも等しい言葉だ。


「は……? え、なんだって?」


 黒木の顔から血の気が引いていく。

 そこに追い打ちをかけるように、システム監視モニターが真っ赤に染まった。

 警告音がけたたましく鳴り響く。


「サーバーダウンしました! アクセス過多……いえ、これはDDoS攻撃です! 認証の穴を突かれて、ボットが大量に侵入しています!」

「データベース、応答しません! データが……消えていきます!」


 阿鼻叫喚。

 現場はパニック映画のワンシーンと化した。

 役員たちの顔色が青から土色へと変わる。専務が震える指で黒木を指差した。


「おい黒木! どうなっているんだ! セキュリティは万全だと言っただろう!」

「あ、いや、その、はい! 万全のはずです! テストもしましたし!」

「じゃあなんで他人の情報が見えるんだ! 説明しろ!」


 黒木が泳いだ目で周囲を見回す。

 そして、私と目が合った。

 その瞬間、彼の目には「恐怖」ではなく、醜悪な「保身」の色が宿った。


 来る。

 私は身構えた。


「さ、佐久間! 貴様、何をしたああああああ!」


 黒木が私に掴みかかってきた。

 襟首を締め上げられ、私は呼吸を乱さずに彼を見下ろした。


「何をした、とはどういう意味でしょうか」

「とぼけるな! お前が担当したんだろ! 認証周りはお前に任せたはずだ! バグを仕込みやがったな!?」


 黒木の大声に、役員たちの視線が私に集中する。

 そうだ。普通ならこうなる。

 部下のミスは部下の責任。手柄は上司のもの。それがこの会社の腐ったルール。

 だが、今回は違う。


「黒木課長。私はバグなど仕込んでいません。仕様通りに実装しただけです」

「嘘をつくな! 誰が『セキュリティを外せ』なんて言うか! 常識で考えろ! 『そんなの常識でしょ』!」


 黒木が叫ぶ。

 常識。

 ああ、今この状況でそれを口にするか。


 私は静かに、安藤から手渡されたファイルを掲げた。


「では、確認させていただきます。専務、こちらをご覧ください」

「なんだそれは」

「今回のプロジェクトにおける、全仕様策定の経緯を記録した議事録と、黒木課長の承認印付き指示書です」


 私はファイルを広げ、一番上のページを専務に見せた。

 そこには、三月二十五日の日付と、黒木のハンコが押された文書がある。


 件名:ユーザービリティ向上のための入力制限撤廃指示

 内容:エラー表示はユーザーの離脱を招くため、バリデーションチェックを全廃すること。


「な……ッ!?」


 黒木が絶句した。

 専務が震える手でその紙を読み上げ、信じられないものを見る目で黒木を睨む。


「黒木、これはなんだ。お前が指示したのか? チェックを外せと?」

「ち、違います! それは言葉の綾というか、そういう意味じゃなくて!」


「さらに、こちら」


 私は手を止めない。

 次に取り出したのは、ICレコーダーだ。

 再生ボタンを押す。

 会議室に、明瞭な音声が響き渡った。


 ――『パスワードなしでもログインできるようにできない?』

 ――『Amazonだってワンクリックだろ? あれと同じ体験を作れって言ってんの!』

 ――『俺って時々、天才的なアイデア降りてくるんだよなー』


 黒木の、あのふざけた声。

 室内が水を打ったように静まり返る。

 自分の声を聞かされた黒木は、口をパクパクと開閉させ、金魚のように喘いでいる。


「こ、これは……冗談だ! 会議の場を和ませようとしたジョークだよ! 『冗談だよ、本気にするな』!」


 黒木が苦し紛れに叫んだ。

 私はすかさず、次の音声を再生する。


 ――『つべこべ言わずにやれ』

 ――『コミットしろよ、結果に!』

 ――『現場の判断はいらない。俺がすべてのボールを持つ』


「冗談、ですか? 貴方は『結果にコミットしろ』と命令されましたよね。私はその命令通り、貴方のアイデアを実現するために全力を尽くしました」


 私は一歩、黒木に近づいた。


「貴方は言った。『解像度を上げろ』と。これが貴方の求めていた解像度の高い世界です。パスワード不要、エラーなし、世界一スムーズに情報流出するサイト。……ご満足いただけましたか?」


「き、貴様ぁ……!」


 黒木が拳を振り上げた。

 だが、その手は空中で止まった。

 専務の低い、地を這うような声が聞こえたからだ。


「……黒木」

「ひっ! せ、専務! 違うんです、こいつが勝手に解釈して……俺は聞いてない! そう、『俺は聞いてない』ぞこんな仕様!」


「聞いていない、とは言わせません」


 私は最後の一枚を叩きつけた。


「これは昨日、リリース判定会議で貴方がサインした『最終確認書』です。ここには『サーバーは最低スペックで固定』『認証機能はバイパス設定』と明記してあります。貴方はこれを読みもせず、サインしましたね?」


 紙の末尾には、確かに黒木の殴り書きの署名があった。

 それは、彼自身の処刑執行書そのものだった。


「わ、私は……忙しくて……部下を信頼して……」

「信頼? 貴方はこう言いましたよ。『勝手にコストを増やしたら給料から引く』と。だから私は、貴方の財布を守るために、指示通り最低スペックのサーバーを用意しました」


 サーバーダウンのアラート音は、今や絶望のファンファーレのように響いている。

 専務が顔を真っ赤にして怒鳴った。


「黒木! 貴様、会社の損害がいくらになると思ってるんだ! 株価は大暴落だぞ!」

「あ、あ、あ……」

「今すぐサーバーを止めろ! そして黒木、お前は社長室に来い。……いや、その前に警察か」


 警察。

 その単語が出た瞬間、黒木の膝が折れた。

 床に崩れ落ち、脂汗で濡れた顔を上げることもできない。


「ま、待ってください……俺は、俺はただ、やる気を出させようと……」

「やる気?」


 私はしゃがみ込み、黒木の耳元で囁いた。


「ありましたよ、やる気。貴方を社会的に抹殺するためのやる気なら、誰よりもありました」


 黒木がヒッと息を飲む。

 私は立ち上がり、冷徹に言い放った。


「この会社は終わりだ。だが、貴方の人生も終わりだ。……ああ、そうだ。一つ忘れていました」


 私は胸ポケットから、一通の封筒を取り出した。

 退職願だ。


「私と安藤、そして開発チーム全員分の退職願です。これにて失礼します」

「な……待て、待ってくれ佐久間! 今お前に抜けられたら、誰がこのシステムを直すんだ!?」


 黒木が私の足にすがりついてくる。

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。

 かつて私をゴミのように扱った男が、今はゴミ以下の惨めさで慈悲を乞うている。


「『期待してたんだけどな』」


 私はかつて彼に言われた言葉を、そのまま返した。


「貴方が自分で蒔いた種でしょう? 自分で直してください。ああ、無理か。貴方はコードの一行も書けない、ただの……なんでしたっけ?」


 私は楽しそうに、首を傾げてみせた。


「そう、『給料泥棒』でしたね」


 私は黒木の手を振り払い、出口へと歩き出した。

 背後で、専務の怒号と黒木の泣き叫ぶ声が聞こえる。

 安藤が小走りで追いついてきた。彼の顔には、もう怯えはない。憑き物が落ちたような、清々しい表情だ。


「佐久間さん、すごいです……。あんな完璧な証拠、いつの間に」

「三ヶ月間、寝る間も惜しんで集めたからな。……さて、行こうか」

「どこへ?」

「新しい職場だ。実はな、この炎上を見越して、ライバル企業からヘッドハンティングのオファーが来ているんだ。チーム全員でな」


 オフィスを出ると、春の風が吹いていた。

 三度目の人生。

 私は初めて、生きた心地がしていた。

 スマホを見ると、ニュース速報が流れている。

 『大手ECサイト、個人情報大量流出か。システム責任者の杜撰な管理体制が浮き彫りに』


 ざまぁみろ。

 私は青空に向かって、小さく笑った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
いい気味ですね。そう指示書は、なくさず必ず保管しましょう。口頭指示は、文書にして間違いないかの確認をして貰って署名してもらわないとね。指示以外の余計なことは絶対にしてはダメです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ