悪魔的服従
みぞおちのあたりが、焼け付くように熱い。
三日間風呂に入っていない自分の体臭と、焦げ付いたコーヒーの匂いが混ざり合い、会議室の淀んだ空気をさらに重くしていた。
「おい佐久間、聞いてるのか?」
怒鳴り声と共に、分厚いファイルが机に叩きつけられる。
目の前にいるのは、営業企画部の黒木課長だ。脂ぎった額に汗を浮かべ、血走った目で私を睨みつけている。
壁の時計は深夜二時を回っていた。
「……聞いています。ですが黒木さん、今のまま本番リリースするのは危険です。決済システムに致命的なバグが残っています」
私の言葉に、黒木は不快そうに顔を歪めた。
まるで、言葉の通じない羽虫でも見るような目だ。
「あのさあ、そのネガティブな発言、なんとかならないの? みんな言ってるよ。佐久間は評論家気取りで手を動かさないって」
嘘だ。
開発チームのメンバーは、全員死に物狂いでコードを書いてくれている。手を動かしていないのは、無理難題な仕様変更を安請け合いしてくるこの男だけだ。
「みんなとは誰ですか。具体的に名前を」
「揚げ足を取るな! そういう態度がチームの士気を下げるんだよ!」
黒木が唾を飛ばしながら叫ぶ。
「いいか、クライアントは明日の朝九時にリリースしろと言ってるんだ。これは決定事項だ。つべこべ言わずにやれ」
「テストが終わっていません。顧客のクレジットカード情報が流出する可能性があります」
「可能性の話なんかしてないんだよ! コミットしろよ、結果に!」
ズキリ、とこめかみに激痛が走った。
視界が明滅する。心臓が早鐘を打っている。
「何かあったら、俺が責任を取る。お前は黙って従えばいいんだ」
責任を取る?
この男が?
笑わせるな。一回目の人生でも、二回目の人生でも、お前は真っ先に逃げ出したじゃないか。
そうだ。これは三回目だ。
一度目は、私が強引にリリースを止めて、納期遅延の責任を負わされて懲戒解雇。
二度目は、こうして必死に説得を試みて、結局押し切られて炎上し、全責任を負わされて……。
「……佐久間? おい、聞いてんのか!」
黒木の声が遠のいていく。
胸の奥で何かが弾ける音がした。
熱い。痛い。息ができない。
ああ、またか。
また、私はこの男の尻拭いをして、過労死するのか。
視界が暗転する。
最後に聞こえたのは、私の体を心配する言葉ではなく、納期を気にする黒木の舌打ちだった。
「……くま、佐久間!」
肩を強く揺さぶられ、私はハッと息を吸い込んだ。
オフィスの蛍光灯が眩しい。
心臓がドクドクと脈打っているのがわかる。生きて、いる?
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
覗き込んできたのは、同僚の安藤だった。まだ目の下にクマがなく、肌艶もいい。
私は慌てて手元のスマートフォンを確認した。
日付は、四月一日。
あの悪夢のようなプロジェクト、「次世代ECサイト構築案件」のキックオフミーティング当日だ。
戻ってきた。
三度目だ。
吐き気がこみ上げてくる。またあの地獄を繰り返すのか。
あの無能な上司の理不尽な命令に耐え、泥のように働き、最後にはボロ雑巾のように捨てられる日々を。
ガチャリ、と会議室のドアが開いた。
「おー、みんな揃ってるな! よし、始めようか!」
大きな声と共に、黒木が入ってきた。
まだプロジェクトが炎上する前だからか、その表情は自信に満ち溢れ、妙にツヤツヤしている。それが余計に腹立たしい。
黒木はホワイトボードの前に立ち、赤いマーカーで大きく『革命』と書いた。
中身のない、いつものプレゼンが始まる。
「今回のプロジェクトは、我が社の社運を賭けた『一丁目一番地』だ。全員、そのつもりで頼むぞ」
出た。昭和の遺物のような言葉。
周囲の若手社員たちが、少しだけ引いているのが空気でわかる。
だが、誰も何も言わない。言えば標的にされると知っているからだ。
「で、だ。開発スケジュールの件だが」
黒木が私の方を見た。
ここだ。ここが分岐点だ。
過去二回のループでは、ここで私が発言した。
『三ヶ月でこの要件は不可能です』と。
その結果、私はやる気のない抵抗勢力としてレッテルを貼られ、黒木の監視下に置かれ、破滅への道を歩まされた。
「クライアントからは夏前のリリースを強く要望されている。……佐久間、いけるよな?」
黒木の目が、獲物を狙う爬虫類のように細められる。
安藤が不安そうに私を見ている。
常識的に考えれば、無理だ。
要件定義も終わっていないのに、納期だけが決まっている。典型的なデスマーチの入り口。
ここで私が「無理です」と言えば、黒木は「代案を出せ」「工夫が足りない」と精神論を振りかざすだろう。
「人を増やしてください」と言えば、「予算がない」「お前のマネジメント不足」と返してくるだろう。
議論は無駄だ。
この男に、論理は通じない。
彼は「自分の思い通りの返事」以外は、すべてノイズとして処理する耳しか持っていないのだから。
ふと、思考が冷えていくのを感じた。
怒りも、焦りも、恐怖もない。
ただ、氷のように冷たい計算式だけが脳裏に浮かぶ。
助けようとするから、苦しいのだ。
会社のため、チームのため、そして黒木のためを思って提言するから、それが「生意気」だと受け取られる。
ならば。
私はゆっくりと口を開いた。
「……はい、承知しました」
会議室の空気が止まった。
安藤が「えっ?」と小さな声を上げる。
黒木自身も、予想外の素直な返答に一瞬だけ虚を突かれた顔をした。
「お、おう。そうか。わかるか、このスピード感の重要性が!」
「ええ、痛いほどわかります。黒木課長の方針に、完全に『アグリー』です」
黒木の好む横文字を、あえて混ぜる。
すると、彼の顔がみるみるうちに緩んでいった。
「そうだろう! やっと佐久間も、ビジネスマンとしての『解像度』が上がってきたじゃないか!」
単純な男だ。
自分の言葉を使う人間を、仲間だと錯覚する。
「ですが課長、一つだけ確認させてください。この短期間で進めるには、現場の判断スピードが重要になります」
「うむ、その通りだ。『なるはや』で頼むぞ」
「はい。つきましては、仕様に関する指示はすべて黒木課長のトップダウンで決定する、ということでよろしいですね? いちいち会議をしていたら間に合いませんので」
これは罠だ。
だが、気分の良くなっている黒木は気づかない。
彼は「トップダウン」という言葉が大好きなのだ。
「当然だ! 俺がすべての『ボールを持つ』。お前たちは俺の手足となって動けばいい」
「ありがとうございます。では、今の発言を議事録に残し、関係者全員に共有しておきます」
私は手元のノートPCで、素早くタイピングをした。
決定事項:プロジェクトの全仕様決定権限は黒木課長に帰属する。現場は彼の指示に一切の異論を挟まず、その通りに実装する。
エンターキーを叩く音が、静まり返った会議室に響いた。
「よし、共有しました。CCには部長と役員も入れておきましたので」
「あ、ああ。……ん? まあいい、仕事が早いな」
黒木は満足げに頷いた。
彼は知らない。
今、彼が背負い込んだものが「権力」ではなく、「時限爆弾の起爆スイッチ」だということを。
安藤が机の下で私の足を突っつき、小声で囁いてくる。
「おい、正気かよ佐久間。あんなスケジュール、絶対破綻するぞ」
私は表情を崩さず、正面を見据えたまま小声で返した。
「ああ、破綻するよ。派手にな」
止めない。
助けない。
忠告しない。
お望み通り、貴方の言った通りのものを、言った通りの納期で作って差し上げますよ、課長。
それが、物理的に動くかどうかは別として。
私は心の中で、三度目の人生の開戦を宣言した。
プロジェクトルームには、乾いたタイピング音だけが響いていた。
窓の外はすでに暗い。他の社員たちが退社していく中、私たちのチームだけが、まるで隔離病棟のように静まり返っている。
私の指は、かつてない速度でキーボードを叩いていた。
迷いはない。過去二回の人生で、このシステムのコードは嫌というほど書き直させられたからだ。構造はすべて頭に入っている。
だからこそ、今の作業は創造ではなく、破壊に近い。
「佐久間さん、ちょっといいですか」
隣の席の安藤が、怯えたような小声で話しかけてきた。
彼は顔面蒼白で、モニターを指差している。
「これ……決済モジュールの仕様、変じゃないですか? エラーチェックの工程がごっそり抜けてます。これじゃ、金額がマイナスで入力されても決済が通っちゃいますよ」
安藤は優秀だ。すぐに気づいた。
通常なら、これは致命的なバグだ。悪意のあるユーザーが「-100万円」の商品を購入すれば、逆に100万円が振り込まれてしまうような、初歩的かつ最悪の穴。
私は手を止めず、モニターから視線を外さずに答えた。
「ああ、それでいいんだ。仕様通りだから」
「いや、でも! これじゃ大事故になります!」
「安藤。昨日の朝礼で黒木課長が言ったことを覚えてるか?」
私は昨日の記憶を再生する。
――『あのさあ、入力画面でいちいちエラーが出るの、ウザくない? ユーザーの離脱率が上がるんだよ。もっとサクサク進めるように、余計なチェックは全部外して。これ、マーケティングの常識だから』
黒木はそう言い放った。
セキュリティとユーザビリティの区別すらつかない男の、浅はかな思いつき。
過去の私なら、「それはできません」と戦っただろう。だが今は違う。
「課長は『余計なチェックは全部外せ』と言った。俺たちはそれに従う。それが今回のプロジェクトの一丁目一番地だ」
「で、でも……」
「大丈夫だ。ちゃんとログは取ってある」
私はフォルダを開き、安藤に見せた。
そこには『黒木課長指示書_入力制限解除の件.msg』というメールデータと、その時の会議の録音データが保存されていた。
「責任の所在は明確にしてある。君は何も心配せず、言われた通りに穴を掘ればいい」
安藤はゴクリと喉を鳴らし、震える手でキーボードに戻った。
良心と命令の板挟みで苦しんでいるようだ。すまない安藤。だが、この膿を出し切るには、一度会社ごと炎上させるしかないんだ。
「おい、進んでるか!」
背後から、不快な足音が近づいてきた。
黒木だ。
彼はコンビニのアイスコーヒーを片手に、私のモニターを覗き込んできた。画面に並ぶ文字列など読めもしないくせに、管理しているフリをするのが彼の仕事だ。
「順調です。課長の仰った通り、入力フォームのバリデーション、つまり入力制限はすべて撤廃しました。驚くほどスムーズに画面遷移しますよ」
私は作りかけのデモ画面を見せた。
デタラメな数字や記号を入れても、何のエラーも出ずに「購入完了」まで進む。システムとしては完全に壊れているが、見た目の動きだけは速い。
「おお! これだよこれ! やればできるじゃないか佐久間」
黒木が私の肩をバシバシと叩く。
物理的な痛みが走るが、私は笑顔を貼り付けたまま耐えた。
「前の君はさ、すぐ『セキュリティが』とか『仕様が』とか言い訳ばっかりだったけど、やっと解像度が上がってきたな。ユーザーファースト、それがすべてだ」
「ありがとうございます。すべて課長のご指導のおかげです」
「うんうん。で、パスワードの件はどうなった?」
まただ。
新しい地雷を持ってきた。
「パスワード、ですか?」
「そう。今どき、英数字と記号を混ぜろとか、8文字以上とか、古臭いんだよ。お年寄りのユーザーもいるんだからさ」
嫌な予感がする。
私はあえて、誘導尋問のように問いかけた。
「では、セキュリティ強度は下げて、4桁の数字だけでも登録できるようにしますか?」
「いや、もっとシンプルに。……パスワードなしでもログインできるようにできない?」
一瞬、思考が停止しそうになった。
ECサイトで。
クレジットカード情報を扱うサイトで。
パスワードなしでログイン?
「……それは、つまり、IDさえわかれば誰でも他人の購入履歴やカード情報が見られる状態にする、ということですか?」
「言い方が悪いな! 『ゲスト購入の手軽さを会員にも提供する』ってことだよ! Amazonだってワンクリックだろ? あれと同じ体験を作れって言ってんの!」
違う。それは全く違う技術だ。
だが、説明しても無駄だ。彼は「Amazonと同じ」という言葉を使いたいだけなのだから。
「なるほど、画期的ですね。世界初の試みかもしれません」
「だろ? 俺って時々、天才的なアイデア降りてくるんだよなー。よし、それで実装して。なるはやで!」
黒木は上機嫌で自席に戻っていった。
私は深く息を吐き出し、エディタを開いた。
// 認証機能をバイパスする
if (config.mode === 'KUROKI_SPECIAL') { return true; }
コメントアウトに皮肉を込め、私はログイン認証のロジックを削除した。
これで、誰でも適当なIDを入れるだけで、他人のマイページに入り放題だ。
個人情報保護法など、この男の前では紙屑同然らしい。
数日後。
リリースの前日。
プロジェクトルームは異様な熱気に包まれていた。
通常、納品前日はバグ潰しの地獄になる。動かない機能、崩れるレイアウト、整合性の取れないデータ。それらを必死に修正し、徹夜で泥臭い作業をするのが常だ。
だが、今回は違う。
あまりにも静かだ。
「おい佐久間、テストはどうなってる?」
黒木が腕組みをして立っている。
「単体テストはすべてパスしています。課長の指示通り、『正常な操作が行われた場合』のみを確認しました」
そう。
私たちは「エラーが起きるような操作」のテストを一切していない。
変なボタンの押し方もしないし、大量のデータを送る負荷テストもしない。
なぜなら、黒木がこう言ったからだ。
『意地悪なテストするなよ。動けばいいんだ、動けば』と。
「よしよし。で、本番環境への移行準備は?」
「できています。……ただ、一点だけ」
「なんだよ、またネガティブな話か?」
黒木が露骨に嫌な顔をする。
私は冷静に、最後の確認事項を提示した。
「サーバーのスペックについてです。課長は『クラウド利用料が高いから、一番安いプランにしろ』と仰いましたよね?」
「当たり前だろ。コスト意識を持てよ。最初はアクセスなんてそんなに来ないんだから、ミニマムスタートでいいんだよ」
「承知しました。現在、メモリは最小構成、自動スケールアウト機能もオフにしてあります。これだと、同時に百人がアクセスしただけでサーバーが落ちますが」
これは脅しではない。事実だ。
全社を挙げた一大プロジェクトのサイトが、たった百人のアクセスで落ちる。
それは企業の信用失墜どころの話ではない。
「お前さあ、本当に心配性だな」
黒木は呆れたように首を振った。
「広告打つのはリリースして一週間後だぞ? 明日なんて、社員と関係者くらいしか見ないって。……これだからエンジニア脳は困るんだよ。ビジネスの現場感がわかってない」
「……現場感、ですね。勉強になります」
「わかったら余計な設定はいじるなよ。勝手にコスト増やしたら給料から引くからな」
「はい。絶対に触りません」
私は両手を上げて見せた。
これで、最後の安全装置も外された。
認証ザル、エラーチェックなし、サーバーは貧弱。
役満だ。
このシステムは、リリースされた瞬間に自壊する運命にある。
午後十一時。
最終確認を終えた黒木が、満足げに立ち上がった。
「よし! 今日はこれで解散! 明日の朝九時、リリースボタンを押すのは俺がやるからな。記念すべき瞬間だ」
彼は自分がボタンを押したがる。成功の栄誉を独り占めするためだ。
失敗した時のことは、微塵も考えていない。
「お疲れ様です、課長」
「おう。佐久間も、今回はよくやったよ。正直、お前がここまで素直になるとは思ってなかったな」
帰り際、黒木がニヤリと笑って私に言った。
「やっぱりさ、上司の言うことは絶対なんだよ。『君のためを思って言っている』んだから。今回の件で、お前も成長できただろ?」
背筋が凍るような言葉だった。
成長?
ああ、したとも。
貴方のような人間を、躊躇なく地獄に突き落とす覚悟が決まったという意味では、大いに成長させてもらった。
「ええ、本当に。……明日は楽しみですね」
私は深く頭を下げた。
黒木が上機嫌でエレベーターに消えていく。
私は誰もいなくなったオフィスで、安藤と顔を見合わせた。
安藤の顔色は悪いが、その目には奇妙な決意の色が宿っている。彼もまた、連日のパワハラで限界を迎えていた一人だ。
「佐久間さん……本当に、やるんですね」
「やるよ。準備はすべて整った」
私は自分の鞄から、一冊の分厚いファイルを取り出した。
そこには、過去三ヶ月にわたる黒木の理不尽な命令メール、チャットのログ、そして会議の録音データの書き起こしが、インデックス付きで完璧に整理されている。
表紙には『トラブル発生時の原因究明資料』とテプラが貼ってある。
「明日の朝九時、このサイトは公開される。そして間違いなく、五分以内に崩壊する」
「……僕たちのせいになりますか?」
「なるだろうな、最初は。黒木は全力で俺たちに罪をなすりつけに来る」
私はファイルを安藤に見せ、微かに口角を上げた。
「その時が、本当の戦いの始まりだ。黒木が吐いた言葉すべてを、そのまま彼に返す。エビデンスという名の凶器を使ってな」
窓の外には、眠らない東京の夜景が広がっていた。
明日の今頃、この会社は火の車になっているだろう。
だが不思議と、私の心は晴れやかだった。
かつてないほど、明日の朝が待ち遠しい。
さあ、最後の審判だ。黒木課長。
四月三日、午前九時。
オフィスの巨大なモニターに、サイトのカウントダウンが表示されている。
プロジェクトルームには、役員や関係部署の部長たちが勢揃いしていた。彼らは皆、このプロジェクトが成功すると信じて疑っていない。黒木が「完璧だ」「革命だ」と吹聴して回ったからだ。
「さあ、歴史的瞬間の始まりだ!」
黒木が紅潮した顔で叫び、大げさなアクションでエンターキーを叩いた。
リリース完了。
拍手が巻き起こる。黒木は満面の笑みで、役員たちに頭を下げている。
「いやあ、苦労しましたが、素晴らしいものができましたよ。私のマネジメントの集大成です」
私はその様子を、部屋の隅で冷ややかに見つめていた。
隣では安藤が、祈るように両手を組んで震えている。
一分後。
異変は唐突に訪れた。
ジリリリリリリリッ!
カスタマーサポートセンター直通の電話が鳴った。
いや、一本ではない。フロア中の電話という電話が、まるで悲鳴のように一斉に鳴り始めたのだ。
電子音の不協和音。拍手はピタリと止んだ。
「な、なんだ? アクセス殺到か? 嬉しい悲鳴ってやつか?」
黒木が呑気なことを言っている間に、サポート担当の女性社員が血相を変えて駆け込んできた。
「課長! 大変です! クレームの電話が鳴り止みません!」
「クレーム? 繋がりにくいとかか?」
「違います! 『他人の住所と名前が丸見えだ』『勝手にカードが使われた』『ログインしたら知らないおじさんの購入履歴が出た』……通報の嵐です!」
室内の空気が、一瞬で凍りついた。
個人情報流出。
企業にとって、死刑宣告にも等しい言葉だ。
「は……? え、なんだって?」
黒木の顔から血の気が引いていく。
そこに追い打ちをかけるように、システム監視モニターが真っ赤に染まった。
警告音がけたたましく鳴り響く。
「サーバーダウンしました! アクセス過多……いえ、これはDDoS攻撃です! 認証の穴を突かれて、ボットが大量に侵入しています!」
「データベース、応答しません! データが……消えていきます!」
阿鼻叫喚。
現場はパニック映画のワンシーンと化した。
役員たちの顔色が青から土色へと変わる。専務が震える指で黒木を指差した。
「おい黒木! どうなっているんだ! セキュリティは万全だと言っただろう!」
「あ、いや、その、はい! 万全のはずです! テストもしましたし!」
「じゃあなんで他人の情報が見えるんだ! 説明しろ!」
黒木が泳いだ目で周囲を見回す。
そして、私と目が合った。
その瞬間、彼の目には「恐怖」ではなく、醜悪な「保身」の色が宿った。
来る。
私は身構えた。
「さ、佐久間! 貴様、何をしたああああああ!」
黒木が私に掴みかかってきた。
襟首を締め上げられ、私は呼吸を乱さずに彼を見下ろした。
「何をした、とはどういう意味でしょうか」
「とぼけるな! お前が担当したんだろ! 認証周りはお前に任せたはずだ! バグを仕込みやがったな!?」
黒木の大声に、役員たちの視線が私に集中する。
そうだ。普通ならこうなる。
部下のミスは部下の責任。手柄は上司のもの。それがこの会社の腐ったルール。
だが、今回は違う。
「黒木課長。私はバグなど仕込んでいません。仕様通りに実装しただけです」
「嘘をつくな! 誰が『セキュリティを外せ』なんて言うか! 常識で考えろ! 『そんなの常識でしょ』!」
黒木が叫ぶ。
常識。
ああ、今この状況でそれを口にするか。
私は静かに、安藤から手渡されたファイルを掲げた。
「では、確認させていただきます。専務、こちらをご覧ください」
「なんだそれは」
「今回のプロジェクトにおける、全仕様策定の経緯を記録した議事録と、黒木課長の承認印付き指示書です」
私はファイルを広げ、一番上のページを専務に見せた。
そこには、三月二十五日の日付と、黒木のハンコが押された文書がある。
件名:ユーザービリティ向上のための入力制限撤廃指示
内容:エラー表示はユーザーの離脱を招くため、バリデーションチェックを全廃すること。
「な……ッ!?」
黒木が絶句した。
専務が震える手でその紙を読み上げ、信じられないものを見る目で黒木を睨む。
「黒木、これはなんだ。お前が指示したのか? チェックを外せと?」
「ち、違います! それは言葉の綾というか、そういう意味じゃなくて!」
「さらに、こちら」
私は手を止めない。
次に取り出したのは、ICレコーダーだ。
再生ボタンを押す。
会議室に、明瞭な音声が響き渡った。
――『パスワードなしでもログインできるようにできない?』
――『Amazonだってワンクリックだろ? あれと同じ体験を作れって言ってんの!』
――『俺って時々、天才的なアイデア降りてくるんだよなー』
黒木の、あのふざけた声。
室内が水を打ったように静まり返る。
自分の声を聞かされた黒木は、口をパクパクと開閉させ、金魚のように喘いでいる。
「こ、これは……冗談だ! 会議の場を和ませようとしたジョークだよ! 『冗談だよ、本気にするな』!」
黒木が苦し紛れに叫んだ。
私はすかさず、次の音声を再生する。
――『つべこべ言わずにやれ』
――『コミットしろよ、結果に!』
――『現場の判断はいらない。俺がすべてのボールを持つ』
「冗談、ですか? 貴方は『結果にコミットしろ』と命令されましたよね。私はその命令通り、貴方のアイデアを実現するために全力を尽くしました」
私は一歩、黒木に近づいた。
「貴方は言った。『解像度を上げろ』と。これが貴方の求めていた解像度の高い世界です。パスワード不要、エラーなし、世界一スムーズに情報流出するサイト。……ご満足いただけましたか?」
「き、貴様ぁ……!」
黒木が拳を振り上げた。
だが、その手は空中で止まった。
専務の低い、地を這うような声が聞こえたからだ。
「……黒木」
「ひっ! せ、専務! 違うんです、こいつが勝手に解釈して……俺は聞いてない! そう、『俺は聞いてない』ぞこんな仕様!」
「聞いていない、とは言わせません」
私は最後の一枚を叩きつけた。
「これは昨日、リリース判定会議で貴方がサインした『最終確認書』です。ここには『サーバーは最低スペックで固定』『認証機能はバイパス設定』と明記してあります。貴方はこれを読みもせず、サインしましたね?」
紙の末尾には、確かに黒木の殴り書きの署名があった。
それは、彼自身の処刑執行書そのものだった。
「わ、私は……忙しくて……部下を信頼して……」
「信頼? 貴方はこう言いましたよ。『勝手にコストを増やしたら給料から引く』と。だから私は、貴方の財布を守るために、指示通り最低スペックのサーバーを用意しました」
サーバーダウンのアラート音は、今や絶望のファンファーレのように響いている。
専務が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「黒木! 貴様、会社の損害がいくらになると思ってるんだ! 株価は大暴落だぞ!」
「あ、あ、あ……」
「今すぐサーバーを止めろ! そして黒木、お前は社長室に来い。……いや、その前に警察か」
警察。
その単語が出た瞬間、黒木の膝が折れた。
床に崩れ落ち、脂汗で濡れた顔を上げることもできない。
「ま、待ってください……俺は、俺はただ、やる気を出させようと……」
「やる気?」
私はしゃがみ込み、黒木の耳元で囁いた。
「ありましたよ、やる気。貴方を社会的に抹殺するためのやる気なら、誰よりもありました」
黒木がヒッと息を飲む。
私は立ち上がり、冷徹に言い放った。
「この会社は終わりだ。だが、貴方の人生も終わりだ。……ああ、そうだ。一つ忘れていました」
私は胸ポケットから、一通の封筒を取り出した。
退職願だ。
「私と安藤、そして開発チーム全員分の退職願です。これにて失礼します」
「な……待て、待ってくれ佐久間! 今お前に抜けられたら、誰がこのシステムを直すんだ!?」
黒木が私の足にすがりついてくる。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。
かつて私をゴミのように扱った男が、今はゴミ以下の惨めさで慈悲を乞うている。
「『期待してたんだけどな』」
私はかつて彼に言われた言葉を、そのまま返した。
「貴方が自分で蒔いた種でしょう? 自分で直してください。ああ、無理か。貴方はコードの一行も書けない、ただの……なんでしたっけ?」
私は楽しそうに、首を傾げてみせた。
「そう、『給料泥棒』でしたね」
私は黒木の手を振り払い、出口へと歩き出した。
背後で、専務の怒号と黒木の泣き叫ぶ声が聞こえる。
安藤が小走りで追いついてきた。彼の顔には、もう怯えはない。憑き物が落ちたような、清々しい表情だ。
「佐久間さん、すごいです……。あんな完璧な証拠、いつの間に」
「三ヶ月間、寝る間も惜しんで集めたからな。……さて、行こうか」
「どこへ?」
「新しい職場だ。実はな、この炎上を見越して、ライバル企業からヘッドハンティングのオファーが来ているんだ。チーム全員でな」
オフィスを出ると、春の風が吹いていた。
三度目の人生。
私は初めて、生きた心地がしていた。
スマホを見ると、ニュース速報が流れている。
『大手ECサイト、個人情報大量流出か。システム責任者の杜撰な管理体制が浮き彫りに』
ざまぁみろ。
私は青空に向かって、小さく笑った。




