エピソード2-28:真鍮の沈黙、あるいは深淵からの視線
王都の中枢、魔導炉を包んでいた狂気の回転音は止まった。
噴出していた高圧蒸気は行き場を失い、冷たい霧となって空間に沈殿している。静寂が、壊れた歯車と真鍮の破片を優しく覆い隠していた。
アリアは膝を突き、自身の細剣を杖にして荒い呼吸を整えていた。
隣には、槍を納めたシフォンが立っている。彼女の銀髪は汗で額に張り付いていたが、その瞳には、嵐を乗り越えた後のような澄んだ静謐さが宿っていた。
「……終わったの、ね」
アリアの声が、静まり返った炉内に反響する。
「……肯定。……大司教の生命反応、完全消失。……魔導炉の制御、再編率 98%。……正常域に復帰」
リリィが周囲の環境スキャンを完了させ、淡々と報告した。
その傍らで、アリスだけは動かなかった。彼女は粉砕された大司教の「頭部」であったはずの残骸の前に屈み込み、小型端末をその剥き出しの回路へと接続していた。
「……アリスさん? もう大丈夫ですよ。魔導炉のシステムは、私たちが……」
アリアが声をかけたが、アリスはそれを手で制した。彼女の眼鏡の奥で、高速で流れるデータログが不気味に反射している。
「静かにして。……これ、おかしいわ」
アリスの声は、勝利を喜ぶ者のそれではなく、未知の数式に直面した数学者のような、鋭利な冷たさを帯びていた。
アリスが見つめているモニターには、エラーログが並んでいた。
だが、それはシステムダウンによるものではない。何者かによって「外部から」意図的に消去された形跡だった。
「……大司教は、自分自身を『完璧な機械』だと信じ込んでいた。けれど、このログを見て。……彼の演算回路の深部には、彼自身も預かり知らぬ『監視プロトコル』が埋め込まれている」
リリィがアリスの隣に並び、データの深度を上げた。
「……解析。……プロトコル名:『管理人』。……実行権限、大司教を上回っています。……大司教が崩壊した刹那、このプロトコルが発動し、主要な外部通信記録を抹消しました」
シフォンが槍の柄を握り直した。彼女の持つ「死神」の直感が、背筋に冷たい風を走らせる。
「……まだ、……いる。……この下に。……あるいは、……もっと、遠くに」
アリスが執念で復元した最後の一パケット。
そこには、大司教が心酔していた機械技術の「真のソースコード」が記されていた。
それは、この国の歴史にも、アリスが知るあらゆる文献にも存在しない、異質の言語であった。
「……これは……。……大司教は、自分を発明者だと思い込んでいたようだけど、彼はただ『拾った』だけね。……数百年前に捨てられた、神の模倣品の設計図を」
モニターの中央に、一つの紋章が浮かび上がった。
それは歯車でもなく、琥珀でもない。
「瞳」の形をした幾何学模様。その瞳の中には、無限に続く螺旋の階段が描かれていた。
「……『星時計の騎士団』。……聞いたこともないわね。けれど、この紋章の暗号強度……現在の王宮魔導院が逆立ちしても作れないレベルよ」
アリスの言葉と同時に、大司教の残骸から微かな音声ログが再生された。それは大司教の声ではなく、性別も年齢も判別できない、合成された合成音声だった。
『……プロトタイプ 074。……試験運用を終了。……サンプル:感情による不確定性の確認。……結果:不合格。……次なる試験地を、王都中心部から「辺境」へと移行する。……時計の針は、まだ止まってはいない』
沈黙が流れた。
大司教という存在は、ただの「使い捨ての実験体」に過ぎなかったのだ。
アリアは震える手で、その紋章を見つめた。
「そんな……。あれだけの犠牲を出して、私たちの街を壊そうとした彼ですら、ただのサンプルだったなんて……」
絶望に近い溜息を漏らすアリア。しかし、隣に立つアリスの肩が、微かに震えていた。
恐怖ではない。
それは、抑えきれない悦びの震えだった。
「……くふ、……ふふふっ」
アリスが笑った。
かつてアンバー・ノアを壊滅させた時よりも、もっと不敵で、もっと挑戦的な笑み。
彼女は端末を乱暴に閉じ、立ち上がって眼鏡をクイと押し上げた。
「最高じゃない。……退屈な平和が訪れるかと思っていたけれど、どうやら世界は、まだ私を飽きさせないつもりらしいわね」
「……アリス。……危ない。……笑い方、……怖い」
シフォンが半眼で告げるが、アリスは意に介さない。
「いい? アリア。リリィ。そしてシフォン。……奴らは今、私たちを『不合格』と言った。……私の計算を、私のマカロンを、そして私の大切な観測対象を、……『誤差』扱いしたのよ」
アリスは漆黒の地下遺構の奥を、真っ直ぐに見据えた。
その視線の先には、大司教を影から操っていた、より巨大で、より冷酷な「上位存在」の影がある。
「……喧嘩を売る相手を間違えたことを、そのゼンマイ仕掛けの頭に叩き込んでやるわ。……リリィ、全ログを秘匿サーバーへ転送。……アリア、修行は継続よ。……シフォン、お菓子は当分お預け。……新しい『獲物』を狩りに行くわよ」
魔導炉の青い光が、四人のシルエットを照らし出していた。
一つの戦いが終わり、さらに深淵へと続く扉が開かれた。
アリアは、アリスの不敵な背中を見つめ、自身の胸に手を当てた。
(……はい。私は、もう逃げません。……たとえ相手が、世界の設計者であっても)
シフォンはアリアの隣に並び、小さく頷いた。
「……行く。……アリアの、……後ろは、……私の場所」
リリィは無機質な瞳に、新たな解析対象を映し出していた。
「……肯定。……ターゲットを『星時計の騎士団』に設定。……追跡プロトコル、フェーズ1を開始します」
王都に訪れるはずだった「平穏」は、今、より大きな嵐へと書き換えられた。
けれど、彼女たちの歩みに迷いはない。
甘いパンケーキの約束を果たすために、彼女たちは今、未知なる夜へと足を踏み出す。
運命の歯車は、まだ止まってなどいない。
少女たちの戦いは、ここから「真実」へと加速していく。




