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エピソード2-21:琥珀の残照、あるいは死神の帰郷

 

 王都の春は、甘い砂糖菓子の匂いに包まれていた。かつての戦火が嘘のように、離宮の庭園では色とりどりの花が咲き誇り、平和という名の微睡みが街全体を支配している。

 だが、その穏やかな陽光の下で、シフォンの心象風景には時折、冷たい鉄の雨が降り注いでいた。

 

 

「……シフォンさん。あまり動かないでください、火傷をしますよ」

 

 離宮のキッチンで、アリアは真剣な表情で鍋をかき混ぜていた。作っているのは、シフォンの大好物である「ミルクキャラメル」だ。

 シフォンはというと、アリアの背中に文字通り「貼り付いて」いた。アリアの腰に両腕を回し、その肩に顎を乗せて、甘い湯気が立ち上がるのを眺めている。

 

「……アリア、……いい匂い。……お腹、空いた」

「先ほどクッキーを食べたばかりでしょう。……はい、お行儀が悪いです。でも、少しだけですよ」

 

 アリアが木べらの先に付いたキャラメルを冷まし、シフォンの口元へ運ぶ。シフォンは小鳥のようにそれを食むと、満足げに目を細めた。

 

「……あまい。……幸せ、……って、こういう味?」

「そうかもしれませんね。……私にとっても、こうしてシフォンさんと平和な朝を過ごせることが、何よりの幸福です」

 

 アリアは手を止め、自らの背中に預けられたシフォンの体温を感じた。かつては冷徹な「死神」として恐れられていた少女が、今では自分がいなければ朝起きることすらままならない。その変化が、アリアにとっては愛おしくてならなかった。

 

 幸せな時間は、不意に飛来した一通の「不在」によって揺らぎ始めた。

 午後の散策中、二人は王都の裏路地にある古びた郵便局の前を通りかかった。その掲示板に、一枚の古ぼけた手配書が貼られていた。

 手配書には、シフォンの過去――彼女が『アンバー・ノア』に囚われるよりもさらに前、戦場を彷徨っていた頃の偽名と、彼女が使っていた「鎌」の紋章が描かれていた。

 シフォンの足が、ぴたりと止まる。

 

「……シフォンさん?」

「……これ、……知ってる。……私を、……『死神』って呼んだ、……最初の男の、紋章」

 

 シフォンの瞳から光が消え、代わりに底知れない深い闇が広がる。

 彼女の脳裏に、古い記憶の断片がフラッシュバックした。泥濘の中で響く悲鳴、琥珀の薬液に浸される痛み、そして、自分に槍の扱いを教え込み、心を壊した「教育官」の冷笑。

 

「……シフォン、……ここから、逃げろ」

 

 不意に、シフォンがアリアの手を強く握りしめた。その手は、先ほどまでキャラメルを食べていた時とは異なり、微かに震えていた。

 

 その夜。王都を薄暗い霧が包み込んだ。

 アリアが寝室で本を読んでいると、バルコニーの窓が音もなく開いた。

 

「……夜風が強いですね、シフォンさん?」

 

 アリアが顔を上げると、そこにはシフォンではなく、全身をどす黒い外套で包んだ長身の男が立っていた。

 

「……久しぶりだな、『処刑体七号』。いや、今はシフォンと名乗っているのか」

 

 男の声は、墓石を削るような不快な響きを持っていた。外套の間から覗くその瞳は、琥珀の輝きではなく、濁った血のような赤色をしていた。

 

「……ガロウ。……あんた、……死んだはず」

 

 暗闇からシフォンが姿を現す。その手には、いつの間にか愛槍が握られていた。

 

「死の淵から戻ってきたのだよ。貴様がヴィオラと共に壊した『アンバー・ノア』の残滓を拾い集めてな。……マスター・クロノスは消えたが、我々の『契約』はまだ生きている」

 

 男――ガロウは、懐から一本の錆びついた首輪を取り出した。

 

「戻ってこい、死神。お前は砂糖菓子を食べるために生まれたのではない。命を刈り取るために造られたのだ。その公女アリアを殺せば、元の場所へ戻してやろう」

 

 シフォンの体が強張る。過去の呪縛、植え付けられた恐怖のコードが、彼女の思考を縛り上げようとする。

 シフォンは一歩、アリアから遠ざかろうとした。自分と一緒にいれば、アリアまでこの泥沼に引き摺り込んでしまう。

 だが。

 

「……そこまでです、ガロウさん」

 

 アリアが静かに立ち上がり、シフォンの前に立ちはだかった。彼女の手に魔導書はなく、ただ、昼間に焼いたばかりのクッキーの袋を握っていた。

 

「シフォンさんは私の『家族』です。あなたの契約書など、とうの昔に私が燃やしてしまいました」

「フン、小娘が。死神の本当の姿を知らぬからそんなことが言える」

「知っています。彼女がどれほど優しく、どれほど甘いものが好きで、……そして、どれほど自分の過去を恐れているか」

 

 アリアは振り返り、震えるシフォンの頬を両手で包み込んだ。

 

「シフォンさん。あなたはもう、誰の道具でもありません。……あなたが守りたいものは、何ですか?」

 

 アリアの瞳に映る自分の姿を見て、シフォンの中の霧が晴れていく。

 冷たい鉄の味ではなく、温かいキャラメルの味を教えてくれた人。その人を、再び失うことだけは、死よりも恐ろしかった。

 

「……私、……アリアと、……明日も、……お菓子、食べたい」

 

 シフォンの槍が、黒い輝きを放つ。

 

「……ガロウ。……あんたの席、……ここにはない。……地獄へ、……一人で、帰りなさい」

 

 激突は一瞬だった。

 ガロウの放った暗器を、シフォンは以前よりも格段に速い動作で叩き落とし、そのまま槍の石突きで男の胸部を強打した。

 

「……ぐっ、……その力、リミッターを……!?」

「……ヴィオラが、……くれた力。……あんたみたいな、……古いゴミに、……負けない」

 

 シフォンの放った一撃は、男をバルコニーの外へと吹き飛ばした。霧の中に消えていくガロウは、呪詛の言葉を吐き捨てながら夜の闇へと霧散していった。

 

 静寂が戻る。

 

 シフォンは槍を下ろし、その場にへたり込んだ。アリアがすぐに駆け寄り、彼女を抱きしめる。

 

「……アリア。……ごめん。……私、……怖いこと、思い出して……」

「いいんですよ、シフォンさん。過去の影は、何度来ても私が追い払います。……さあ、少し冷えてしまいましたね。温かいココアを淹れましょう」

 

 シフォンはアリアの胸に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

 そこには、自分を繋ぎ止めるための鉄の鎖ではなく、自由を許してくれる甘い花の香りが満ちていた。

 

 翌朝。

 

 リリィとアリスが朝食にやってくると、そこにはいつも以上にアリアにべったりと甘えるシフォンの姿があった。

 

「……報告。シフォン様の甘えの係数が、昨日比で 150% 上昇しています。何らかの異常が発生した可能性があります」

「いいのよリリィ、放っておきなさい。……全く、朝から当てつけかしらね」

 

 アリスが呆れ顔で琥珀糖を口にする横で、アリアとシフォンは二人だけの温かな時間を噛み締めていた。

 影はまだ完全に消えたわけではない。だが、二人の絆という光がある限り、どのような深い闇も、彼女たちを分かつことはできないだろう。

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