エピソード2-20 春風の土産、あるいは甘い休息の風景
北の果て、永久凍土にそびえ立っていた「琥珀の塔」が瓦解してしばらく後。
王都には、ようやく本当の意味での春が訪れようとしていた。
かつての激闘の痕跡を隠すように、柔らかな日差しが街を包み込む。それは、命を賭して戦った少女たちが手に入れた、何物にも代えがたい「退屈」という名の宝物だった。
王都の喧騒から少し離れた、静かな離宮のテラス。アリアとシフォンは、午後の柔らかな光の中でティータイムを楽しんでいた。
「……シフォンさん、そのパイ、もう三つ目ですよ」
「……美味しいから、……仕方ない。……アリアも、……食べる?」
シフォンが半分に割ったパイを差し出そうとした、その時。
「――ただいま帰還しました。報告。北の地の残務処理、および環境データの回収を完了」
無機質だが、どこか誇らしげな声が響いた。テラスの柵を軽々と飛び越え、音もなく着地したのはリリィだった。そのすぐ後ろから、大きな旅行鞄を抱え、ひどく疲れ切った様子のアリスが姿を現す。
「ちょっとリリィ、勝手に飛び降りないでよ……。こっちは精密機器を抱えてるんだから」
「……リリィ。……アリス。……遅い」
シフォンがパイを口に含んだまま、眠たげな眼を向けた。アリアは驚きに目を見開き、すぐに柔らかな微笑みを浮かべて立ち上がる。
「おかえりなさい、お二人とも。無事で何よりです」
「感謝します、アリア様。……お土産を持参しました。北の地、旧本部の地下深くで発見された特殊な結晶構造を持つ甘味――『凍った琥珀糖』です」
リリィが差し出したのは、銀色の小箱だった。蓋を開けると、中には透き通るようなクリスタル・ブルーの、宝石のような菓子が並んでいた。それは、かつて世界を脅かしたあの琥珀と同じ色をしていたが、不気味な魔力は一切感じられない。
「……これ、……ヴィオラの髪の色と同じ」
シフォンが指先で一つ、その結晶をつまみ上げた。
「肯定します。ヴィオラお姉様の記録に、この菓子の製法が残されていました。極低温で魔力を循環させながら結晶化させることで、口の中で瞬時に溶け、冷気と共に甘みが広がるよう設計されています」
アリスが溜息をつきながら、椅子に深く腰掛けた。
「あの子、死ぬ間際までこんなお菓子のデータなんて整理してたのよ。……全く、非効率極まりないんだから」
そう言いながらも、アリスの口元は僅かに緩んでいた。
シフォンが琥珀糖を口に放り込む。刹那、凍てつくような冷気と、驚くほど濃厚な蜜の甘みが彼女の舌の上で弾けた。
「……冷たい。……甘い。……美味しい。……ヴィオラ、……天才」
「……良かったです。……その評価、お姉様のデータバンクに『成功』として記録しておきます」
リリィの瞳に、僅かな光が宿る。それは、亡き姉から受け取った「心」という名のプログラムが、正常に作動している証だった。
数日後。アリアはミリアの家のキッチンにいた。エプロンを締め、真剣な眼差しでボウルの中の生地を見つめている。
「いいですか、アリアさん。お菓子作りは魔法に似ていますが、決定的な違いがあります」
ミリアが、優しく、しかし厳格な師の口調で告げた。
「……違い、ですか?」
「はい。魔法は『結果』を急ぎますが、お菓子作りは『過程』を愛でるものです。特にこの『絶対に焦げないクッキー』は、火の強さではなく、想いの強さで焼き上げるんですよ」
ミリアが教えるのは、彼女の家に代々伝わるという不思議なレシピだった。
アリアはメモを取りながら、慎重にバターと砂糖を練り合わせていく。
「シフォンさんは、外側はサクサク、内側はしっとりした食感を好みます。そのためには、生地を休ませる時間が重要です。……焦る気持ちが、火を強くしてしまうのです」
「……焦る気持ち。……そうですね。私はいつも、彼女を守るために急ぎすぎていたのかもしれません」
アリアの脳裏に、戦場でのシフォンの背中が浮かぶ。常に死の淵を歩んでいた彼女に、自分ができることは何か。その答えが、今、ボウルの中の甘い生地に込められていく。
「さあ、オーブンに入れる前に、最後のおまじないです。アリアさんの魔力を、ほんの少しだけ……温度を一定に保つための『守護』として生地に乗せてください」
アリアは静かに目を閉じ、魔力を指先に集中させた。それは敵を倒すための鋭い魔力ではなく、大切な人を包み込むような、温かく穏やかな光だった。
焼き上がりのベルが鳴る。
オーブンを開けると、そこには完璧な黄金色をしたクッキーが並んでいた。端の一片すら焦げることなく、均一な熱が通った、至高の一品。
「……できました。ミリアさん、ありがとうございます」
「ふふ、いい香り。これなら、あの食いしん坊の死神さんも、きっと満足してくれますよ」
夕暮れ時。再び離宮のテラスに集まった少女たち。
テーブルの上には、アリアが焼き上げたクッキーと、リリィが持ち帰った琥珀糖が並べられていた。
シフォンは、アリアのクッキーを一口食べると、驚いたように目を見開いた。
「……焦げてない。……どころか、……これ、……アリアの味がする」
「私の味、ですか?」
「……うん。……温かくて、……絶対、……守ってくれる味」
シフォンは大事そうに、そのクッキーを咀嚼した。
アリスは紅茶を啜りながら、リリィが持ってきた北の地の調査資料に目を通している。
「……ヴィオラが遺したデータのおかげで、残存する琥珀結晶の無害化も目処が立ったわ。これでようやく、あの組織の亡霊から解放されるわね」
「肯定します。……アリス、仕事はそこまでにして、クッキーを摂取してください。栄養の偏りは演算能力の低下を招きます」
リリィが、アリアのクッキーをアリスの皿に乗せた。
「……わかってるわよ。……全く、誰に似たのかしら、そのお節介なところ」
リリィは空を見上げた。
一番星が輝き始めている。その光は、かつてヴィオラが放っていた、あのクリスタル・ブルーの輝きに似ていた。
「……お姉様。見ていますか。……今日のクッキーは、最高傑作です」
風が吹き抜け、少女たちの笑い声が夕闇に溶けていく。
奪い、奪われ、戦い続けた日々の果てに。
彼女たちは今、ただ「甘い」という感覚を分かち合う、平穏な時間を生きていた。




