幕間:春陽と砂糖菓子、あるいは安息の定義
琥珀の塔が崩壊し、極北の寒風が止んでから数ヶ月が経過した。王都には例年よりも穏やかな春が訪れ、石畳の間からは名もなき野花が顔を覗かせている。
これは、激動の記録の合間に刻まれた、何の変哲もない休息の記録である。
王宮の離宮、アリアの私室。午前八時。
カーテンの隙間から差し込む陽光が、銀色に輝く埃の粒子を照らしている。アリアは規則正しい生活習慣に従い、既に身支度を整えていた。
「……シフォンさん。もう八時ですよ。朝食の準備ができています」
ベッドの主であるシフォンは、シーツの山と同化していた。微かな寝息と、時折ピクリと動く銀髪の房だけが、そこに生命体が存在することを示している。
「……あと、……三時間」
「一時間ではなく三時間ですか。却下です。今日はミリアさんたちが、特製のアップルパイを焼いて待っていると言っていましたよ」
その単語が出た瞬間、シーツの山が爆発したように跳ね上がった。シフォンが眠そうな眼をこすりながら、無防備な姿で現れる。
「……アップルパイ。……行く。……今すぐ」
「まずは顔を洗って、着替えてからです。……ほら、じっとしていてください。髪が跳ねています」
アリアは手慣れた動作でブラシを取り、シフォンの乱れた銀髪を整え始めた。かつては戦いの中で返り血に染まっていたその髪は、今では柔らかい石鹸の香りを漂わせている。
二人は正装を避け、街の少女たちと変わらない軽装で王都の市場へと繰り出した。
『アンバー・ノア』の脅威が去り、市民の顔には活気が戻っている。かつての「死神」と「公女」という仰々しい肩書きを知る者は少なく、二人はただの「仲の良い友人同士」として雑踏に紛れていた。
• 市場の状況:
• 食料供給率:戦前の 110\% に回復。
• 流行品:琥珀を模したガラス細工(皮肉なことに、美しさだけが抽出され工芸品として定着している)。
• 治安指数:極めて良好。
「……アリア。……あそこの店、……いい匂い」
シフォンが足を止めたのは、目抜き通りにある老舗のベーカリーだった。バターの焼ける香ばしい香りが、春の風に乗って鼻腔をくすぐる。
「ヴィオラさんが好きだったお店ですね。……あの日、彼女に教えたかった味が、今日もここで焼かれています」
アリアの言葉は平坦だったが、その瞳には優しい追憶の色があった。
二人は焼きたてのパイと、いくつかの焼き菓子を購入し、近くの公園のベンチへと移動した。
公園の中央では、子供たちが木剣を振って遊んでいる。その光景を眺めながら、シフォンは無造作にパイを口に運んだ。
「……美味しい。……甘くて、……少しだけ、酸っぱい」
「紅玉を使っているそうですよ。ヴィオラさんが遺してくれたデータによれば、人間の脳が最も幸福感を感じる糖分と酸味の黄金比なのだとか」
「……あいつ、……理屈っぽい。……でも、……正解」
シフォンは自分のパイを半分に割り、アリアの口元へ差し出した。
「……アリアも、……食べなさい。……最近、……働きすぎ」
「……ありがとうございます、シフォンさん。そうですね、少しだけ肩の力を抜くことにしましょう」
アリアは差し出されたパイを一口齧った。
サクサクとした生地の食感。溢れ出すリンゴの蜜。
かつて戦場で感じていた鉄錆と硝煙の味は、もう遠い過去のものとなっていた。
午後の陽光がオレンジ色に染まり始めた頃、二人は王宮の奥にある静かな庭園へと向かった。そこには、ヴィオラの「形見」である、あの紺色のワンピースが大切に保管された記念碑が置かれている。
リリィは現在、アリスと共に北の塔の戦後処理に当たっており不在だが、ここには確かに家族の絆が息づいていた。
「……ヴィオラ。……今日も、……お菓子、食べた。……次は、……もっと美味しいの、見つける」
シフォンは石碑の前に、自分が一番気に入っているマドレーヌを一つ供えた。
「……寂しくない。……リリィの中に、……ヴィオラ、いるから」
「そうですね。彼女たちが命を懸けて守ったのは、この『何の変哲もない放課後のような時間』だったのでしょう」
アリアは空を見上げた。
一番星が瞬き始めている。
「……アリア。……明日、……何、食べる?」
「明日ですか? そうですね。たまには私がキッチンに立って、クッキーでも焼いてみましょうか」
「……期待、……しないで……待ってる」
「少しは期待してください。……ああ、でも焦がしてしまったら、シフォンさんが全部食べてくださいね」
「……肯定。……私が、……全部、噛み砕く」
二人は手を繋ぎ、王宮へと続く長い階段を登り始めた。
背後で王都の灯りが一つ、また一つと灯っていく。
かつて失われた命や、凍りついた時間は戻らない。
けれど、新しく刻まれる秒針の音は、かつてよりもずっと力強く、温かかった。




