エピソード2-6:至高の赤、あるいは追跡者の眼差し
商人ギルドの解体と、地下魔力炉の停止から一週間。王都の混乱は急速に収束へと向かっていた。没収された備蓄食糧が市場へ一斉に放出されたことで、跳ね上がっていた物価は暴落し、市民の食卓には再び色彩が戻った。
王都で最も予約が困難とされるスイーツの名店『サロン・ド・テ・リュミエール』。そのテラス席には、かつて王都を救った少女たちが顔を揃えていた。
アリアは公務の合間を縫い、姉のエレナと共に。アリスとリリエルは、ギルドの報酬整理を終えた足で。そして、騒動の渦中にありながら自身の出自を知らぬままの冒険者、リリィもまた、ギルドからの招集に応じてこの場にいた。
「……シフォン。……起きて」
アリスが呆れたような声で、椅子に座ったまま船を漕いでいるシフォンの肩を叩いた。連日の事後処理と過剰な稽古の反動で、シフォンの意識は覚醒と睡眠の境界を彷徨っている。
「……ん。……タルト、まだ?」
「今運ばれてくるところですよ、シフォンさん」
アリアが苦笑しながら、手元の紅茶を差し出した。
やがて、銀のトレイに乗せられた「蜜苺のタルト」が人数分、テーブルへと並べられた。それは商人ギルドによる隠匿から解放され、農園から直送されたばかりの、最高品質の蜜苺を贅沢に使用した一品だった。
蜜苺の赤は、宝石のような輝きを放っていた。
かつての琥珀化した無機質な石とは異なり、ナイフを入れれば瑞々しい果汁が溢れ、甘い芳香がテラスを満たす。
シフォンは無言で、タルトの一片を口に運んだ。
サクサクとしたパイ生地の食感、カスタードクリームの濃厚な甘み、そして蜜苺の爽やかな酸味。それらが口の中で完璧な調和を奏でる。
「……生きてる。……苺、美味しい」
「本当だね! やっぱり、石ころよりこっちの方がずっといいよ!」
リリエルがスライム特有の柔軟な動きでフォークを操り、幸せそうに頬を膨らませた。リリィもまた、長い耳を揺らしながら笑顔を見せる。
「アリア様、エレナ様、本当にありがとうございました。一時はどうなることかと思いましたけど、こうしてまたみんなで美味しいものが食べられるなんて」
リリィの冷たさを残しつつも柔らかな笑顔。
アリアはその背後にある、禁書庫で見た「Lー081」という無機質な符号を思い出し、胸の奥に微かな痛みを覚えた。彼女は作られた命かもしれない。だが、今ここで笑っている彼女の幸福は、間違いなく本物だった。
「リリィさん、あなたが無事でいてくれることが、私たちにとっても一番の喜びです」
アリアの言葉に、シフォンはタルトを咀嚼しながら小さく頷いた。
陽光は穏やかで、テラスには少女たちの談笑が絶え間なく響いていた。それは、血と鉄にまみれた戦いを経て手に入れた、あまりにも脆く、尊い日常の断片であった。
喧騒に沸く大通りから一本外れた、薄暗い路地裏。
そこには、華やかなスイーツ店の賑わいとは無縁の、冷たい静寂が沈殿していた。
崩れかけた煉瓦壁の陰に、二つの人影があった。一人は商人ギルドの残党であり、もう一人は、今回の事件を裏で糸引いていた組織『アンバー・ノア』の執行者である。
「……マルコムは失態を演じた。魔力炉の喪失は痛手だが、代わりはいくらでも効く」
低く、抑揚のない声。執行者の指には、微かに琥珀色の光を放つ指輪が嵌められていた。
「しかし、あの銀髪の娘……シフォンと言ったか。あれに炉を壊されるとは。そして、王女の動きも予想外だった」
商人ギルドの男が、震える声で応じる。
「ですが、計画は継続されるのでしょう? 蜜苺による魔力抽出は……」
「それはもう古い。我々の真の目的は、炉そのものではない。その炉を永遠に回し続けるための『核』だ」
執行者は懐から、一枚の古い複写写真を取り出した。
そこには、エルフの特徴を持ちながらも、どこか人造物特有の均一さを感じさせる幼い少女の姿が写っていた。
「Lー081……リリィ。彼女が健在であることは確認できた。あの『完成品』さえ手に入れば、琥珀の魔力は完成する」
「……あ、あのスイーツ店に、奴らと一緒にいます。今すぐ捕らえますか?」
「いや、焦る必要はない。あの場には、王室の護衛と、あの死神の残滓がいる。今はただ、観察を続けろ。彼女の魔力波長がいつ、どのタイミングで最大化するかをな」
執行者は、遠くに見えるテラス席に視線を向けた。
幸せそうにタルトを口にするリリィの背中に、見えない照準が合わせられる。
「……?」
タルトの最後の一切れを口にしようとしたシフォンが、ふと手を止めた。
彼女の鋭敏な感覚が、一瞬だけ背筋を駆け抜ける冷たい「殺気」を捉えた。
「シフォンさん、どうしたの?」
アリアが怪訝そうに尋ねる。
シフォンは無言で周囲を見渡した。街路には買い物客が溢れ、不審な点は見当たらない。だが、かつて戦場を遊び場としていた彼女の直感が、平穏の裏側に潜む「穴」を感知していた。
「……なんでもない。……風が、少し冷たかっただけ」
シフォンはそう答えると、残りのタルトを一口で食べた。
胃に落ちる甘みは確かに幸福なものだったが、喉の奥には、消えない苦みが残っていた。
「さあ、お茶をおかわりしましょう。今日はまだ時間はたっぷりありますから」
エレナの明るい声が、不穏な予感を一時的に拭い去る。
だが、空一面を覆う冬の青空の向こう側で、琥珀色の雲が静かに広がり始めていることを、少女たちはまだ知る由もなかった。
王都の平和は守られた。しかし、それはより大きな、そして個人的な「奪還」という名の闘争の幕開けに過ぎなかった。




