新章、プロローグ:糖分と予兆
王都を揺るがしたクーデターの傷跡は、数ヶ月という時間の中で緩やかに塞がっていった。石畳の上の血痕は洗い流され、崩れた外壁は新たな石材で補強されている。
シフォンの体に刻まれた無数の傷も、アリアの治癒魔法と王宮の薬師による献身的な治療によって、ようやく表層的な痛みは消え去っていた。
王都でも一、二を争う人気店『ラ・メゾン・シュクル』。そのテラス席は、午後の柔らかな陽光に包まれていた。
シフォンは、護衛対象であるアリアの数歩後ろを歩き、店の扉をくぐった。店内にはバターの焼ける芳醇な香りと、煮詰められた果実の甘い匂いが充満している。
「あ、シフォンさん! アリア様も!」
聞き慣れた声に視線を向けると、窓際の席に先客がいた。
アリスとリリエルだ。かつては敵対し、今は「黄金のチケット」を共有するお菓子仲間となった二人は、テーブルいっぱいに並べられたフルーツタルトを囲んでいた。
「……アリス、リリエル。……先に来てた」
シフォンが短く挨拶すると、アリスはライフルの手入れをしていた手を止め、小さく頷いた。リリエルは口の周りにクリームをつけたまま、幸せそうにタルトを頬張っている。
「アリスさん、リリエルさん。お元気そうで何よりです」
アリアが微笑みながら二人の向かいに腰を下ろすと、シフォンもその隣に、いつもの無機質な動作で収まった。
アリアは運ばれてきたメニューを眺めていたが、ふと、アリスたちのテーブルにあるタルトに違和感を覚えた。
そのタルトには、この店の代名詞とも言える「蜜苺」が乗っていなかった。代わりに、盛り付けられていたのは季節外れの柑橘類や、日持ちのする煮リンゴだった。
「……あれ。……蜜苺、乗ってない」
シフォンが、自分のことのように残念そうな声を漏らす。
リリエルがタルトの最後の一片を飲み込み、困ったように眉を下げた。
「そうなんだよ、シフォン君。今日、お店の人に言われたの。『蜜苺が手に入らなくて、盛り合わせの内容を変えています』って」
アリスが補足するように、低い声で言葉を繋いだ。
「……ただの不作じゃないみたいよ。最近、市場に出回る蜜苺の量が極端に減っている。価格も数日前から跳ね上がって、今じゃ平民の給料じゃ一粒も買えないレベル。この店みたいな高級店でも、確保に苦労しているらしいわ」
アリアの表情から、穏やかな笑みが消えた。
蜜苺は、王都のスイーツ産業を支える象徴的な果実だ。それだけでなく、ジャムや保存食の材料としても広く使われている。
「不作なのは、蜜苺だけなのでしょうか?」
アリアの問いに、アリスは首を横に振った。
「いいえ。リンゴやジャム用のベリー、それにいくつかの野菜も収穫量が落ち始めているという噂。まだ目に見えるほどの不足にはなっていないけれど、卸値はじわじわと上がっているわ。……一番の問題は、商人たちの動きよ」
「商人たちの……?」
「商人ギルドの間で、食料品の『買い上げ』が始まっているらしいわ。在庫が少なくなると見越して、力のある商人が市場から根こそぎ買い占めて、倉庫に眠らせている。値段をもっと吊り上げてから売るつもりか、あるいは……」
アリスは言葉を濁したが、アリアにはその先が想像できた。
食料の独占は、民の不安を煽り、治安を悪化させる。クーデターによる政治的不安が解消された直後に、今度は経済的な飢えが王都を襲おうとしている。
アリアは、目の前の空のテーブルを見つめた。
「……カイルやカルデナスの件が終わって、ようやく皆が笑って暮らせると思ったのに。食料を奪い合うようなことになれば、また争いが起きてしまいます」
不安そうに指を絡めるアリア。その肩は、目に見えない重圧に僅かに震えていた。
「……アリア」
シフォンの声に、アリアは顔を上げた。
シフォンの前には、彼女が注文した一切れのシフォンケーキが置かれていた。
蜜苺のソースがかかっていない、純白の生地だけのシンプルなケーキ。
シフォンはフォークを使い、淡々とケーキを口に運んだ。
柔らかな生地が舌の上で解け、控えめな卵の甘さが広がる。
「……美味しい。……苺がなくても、ケーキは美味しい」
シフォンは咀嚼し、飲み込んでから、アリアの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……波乱なんて、起きなければいい。……お菓子を食べて、美味しいって言える時間が、続けばいい。……私は、護衛だから。……アリアが悲しむような波乱は、全部、叩き切る」
それは、あまりにも短絡的で、武人らしい乱暴な理屈だった。
だが、その言葉にアリアは救われたように息を吐き、小さく微笑んだ。
「……そうですね。シフォンさんがいれば、心強いです」
シフォンは、最後の一切れを口に放り込んだ。
窓の外、平和を謳歌しているはずの王都の雑踏。そのどこかで、蜜苺一粒の価値が、一人の人間の尊厳よりも重くなろうとしている。
(……お菓子の恨みは、怖い。……苺を隠してる奴がいたら、容赦しない)
シフォンは心の中で、自分自身への誓いのようなものを立てた。
どうか、この穏やかな午後が、明日も明後日も続きますように。
皿の上に残った僅かなクリームの跡を見つめながら、シフォンは戦いではない「日常」の存続を、ただ静かに願うのだった。




