第35章:死神の残火、あるいは約束の抱擁
石畳の湿った匂いと、埃にまみれた空気。王都の華やかな表通りとは対照的な陰鬱な路地裏を、二つの影が駆け抜けていた。
一人は次期国王候補、アリア。もう一人は彼女を護る侯爵家の令嬢、グレイス。
泥と埃に汚れながらも、二人の纏う気品はこの薄暗い小道において異質な輝きを放っていた。
邸宅を襲撃したカルデナスと、彼に与する近衛兵たち。彼らの軍勢をたった一人で食い止めるべく残ったシフォンの時間を無駄にしないため、二人は王宮を目指していた。
平和の象徴であるアリアを守ること。それは、過激派による再戦の火種を消し、凄惨な歴史を繰り返さないための唯一の希望だった。
街中にはカイルの息がかかった兵士たちが溢れ、穏健派の貴族や関係者を狩り立てている。その網を掻い潜るための路地裏ルートだったが、足場の悪さと視界の狭さが、二人の歩みを確実に遅らせていた。
「……あともう少しです、アリア様。あの門を抜ければ!」
グレイスが王宮の尖塔を指差したその瞬間、背後から冷酷な哄笑が響いた。
「逃げ足の速い鼠共め。だが、行き止まりだ」
振り返れば、そこにはカルデナスと数人の近衛兵が立ち塞がっていた。
「カルデナス……! シフォンさんは、シフォンさんはどうなったの!?」
アリアの悲痛な問いに、カルデナスはいやらしく口角を歪めた。
「あの小娘か? 案ずるな。手負いのところを捕らえ、たっぷりと可愛がってやったよ。戦場上がりの無愛想な体だったが、泣き叫ぶ声だけは一級品だった。今頃は使い古されたボロ布のように転がっているだろうよ」
「……貴様ッ!!」
激昂したのはグレイスだった。敬愛する戦友への侮辱は、彼女の理性を焼き切るに十分だった。
グレイスは弾かれたように飛び出すと、カルデナスの周囲を固めていた近衛兵たちを瞬きする間に打ち倒した。その槍捌きには、家系の名に恥じぬ気迫が籠もっていた。
「これで最後です、カルデナス!」
必殺の一撃。だが、カルデナスは蛇のような動きでそれを避けると、グレイスの隙を突き、彼女を冷たい地面へと叩きつけた。
「ぐっ……!?」
「動くな。抵抗すれば、この女の首を撥ねる」
カルデナスは拘束したグレイスの喉元に剣を突きつけ、アリアを脅迫した。
さらに彼の合図で、周囲の影から潜んでいた兵士たちが現れ、グレイスを羽交い締めにし、自由を完全に奪う。
カルデナスは勝利を確信し、アリアへと歩み寄った。その瞳には、歪んだ欲望がぎらついている。
「さて、アリア王女。お前もあの銀髪の小娘と同じように、たっぷりと愉しませてもらおうか……」
カルデナスの手が、アリアの震える肩に触れようとした、その刹那。
銀色の閃光が、彼の右腕を肘から先ごと切り飛ばした。
「あ……が、あああああああぁぁぁぁッ!!」
静寂を切り裂く悲鳴。カルデナスが激痛に悶えながら後退する中、その「影」は静かにそこに立っていた。
衣服は無惨に引き裂かれ、地肌の多くが露出している。白銀の髪は泥と血に汚れ、体中が数え切れないほどの傷に覆われていた。だが、その瞳に宿る冷徹な光だけは、地獄から戻った死神そのものだった。
「……汚い手で、触るな」
シフォンの声は、温度を持たない絶対的な死の宣告だった。
同時に、グレイスを羽交い締めにしていた兵士たちが、次々と背後から現れた影によって沈黙させられた。
「遅くなってすまない、アリア。……グレイスも、よく持ち堪えた」
現れたのは、アリアの兄であり傭兵団を率いるヴィクトールだった。彼は手際よく兵士たちを制圧すると、震えるカルデナスに冷ややかな視線を向けた。
シフォンは痛みに震えるカルデナスの喉元に、血濡れの槍を突きつけた。
「……動けば、次は首。……静かにして」
死神の威圧感に、カルデナスは失禁せんばかりの恐怖で硬直した。その傍らで、ヴィクトールが令状を取り出し、罪状を厳かに読み上げる。
「カルデナス。反逆罪、および王族暗殺未遂の罪で拘束する。……あとは法廷で地獄を見るがいい」
ヴィクトールは拘束魔法をかけ、罪人を引きずるようにして連行していった。
安全が確保されたことを確認した瞬間、シフォンの肩から力が抜けた。
支えを失った操り人形のように、彼女の体が地面へと崩れ落ちる。
「シフォンさん!!」
アリアが駆け寄り、シフォンの体を抱きかかえた。
震える手で最高級の回復ポーションを振りかけ、魔力の限りを尽くして治癒魔法を唱える。シフォンの傷口は深く、流れた血の量は常人なら数回は死んでいるほどだった。
「……あ、……り、あ……」
シフォンが、うつらうつらとした瞳でアリアを見上げた。
その小さな、傷だらけの手が、ゆっくりとアリアの頬に触れる。
「……良かった。……無事で。……約束、……守ったよ」
シフォンは満足げに、不器用に、本当に小さく微笑んだ。
そして、頬を撫でていた腕が力なく落ちる。
糸が切れたように目を閉じ、深い眠りへと落ちていく彼女の顔は、ようやく「戦士」の呪縛から解き放たれた、ただの少女の安らかな寝顔だった。
アリアは、流れ落ちる涙を拭おうともせず、温かさを取り戻し始めたシフォンを、壊れ物を扱うように優しく、そして強く抱きしめ続けた。




