第33章:理想の崩壊、あるいは死神の帰還
王宮の深奥、静寂を約束された小聖堂は、今や異形の魔力による暴力の渦と化していた。
カイルであった「何か」が、黒く変色した筋肉を膨張させ、石造りの床を踏み砕く。
「ハハハ……ッ! 視えるぞ、魔力の流れが、世界が私の指先にあるようだ!」
禁忌の薬を飲み干したカイルの背中からは、魔力で形成された四本の禍々しい腕が生え、その瞳は正気を失い、爛々と赤く輝いている。
対するは、一人の死神と二人の傭兵。
「……リリエル、攪乱。アリス、右の腕を潰して」
シフォンの短い指示と共に、戦闘が開始された。
リリエルが粘液状に姿を変え、床を這うようにしてカイルの死角へ潜り込む。アリスはライフルのボルトを引き、必殺の弾丸を装填した。
「あはは、おっきくなったね! でも、大味だよ!」
リリエルがカイルの足元から無数の棘となって突き出す。カイルは魔力の腕でそれを薙ぎ払うが、リリエルは霧散して再び背後から襲いかかる。
「――堕ちなさい」
アリスの放った狙撃が、カイルの右肩にある魔力の核を正確に貫いた。
「ぐ……ぁああッ!! 貴様ら、虫けら共がァ!!」
カイルが咆哮と共に全方位へ衝撃波を放つ。聖堂の柱が折れ、天井が崩落を始めた。
しかし、その粉塵を切り裂いて、銀色の閃光が突進した。
シフォンの槍がカイルの胸元をかすめる。
カイルは反射的に魔力の腕で槍を掴もうとしたが、シフォンの動きに一切の無駄がなかった。彼女の瞳からは先ほどまでの「甘いものへの熱」が消え、底なしの虚無――戦時中の彼女が纏っていた「死神」の冷気が溢れ出していた。
「……カイル。あんたの言っていた『至高の闘争』。……今から見せてあげる」
シフォンの声は、温度を感じさせないほど平坦だった。
彼女は、アリアを守るための「護衛」であることをやめた。目の前の障害を排除するためだけのかつての「兵器」へと、意識を切り替えたのだ。
シフォンは槍の柄を短く持ち替え、カイルの懐へ潜り込んだ。
カイルは魔力の奔流で彼女を押し潰そうとしたが、シフォンはその奔流の僅かな隙間に体を滑り込ませ、流れるような動作でカイルの四肢の関節を槍先で断ち切っていく。
「な、なんだ……この動きは! 私は神の力を得たはずだ! なぜ当たらん! なぜお前を捕らえられない!!」
カイルが想像していた「至高の闘争」とは、互いの力と力がぶつかり合い、華々しく火花を散らす、英雄譚のような光景だったはずだ。
だが、目の前の現実はあまりにも無慈悲で、泥臭い「屠殺」だった。
シフォンは一切の言葉を発さず、機械的な正確さでカイルを追い詰めていく。
右腕が、左脚が、魔力の翼が、剥ぎ取られるように削ぎ落とされていく。
痛覚を麻痺させていたはずの薬効を突き抜け、死への恐怖がカイルの脳を直接支配し始めた。
「待て……待て、シフォン! 私は、私は王国の未来を――」
シフォンの槍が、カイルの喉笛を数ミリだけ掠めた。
「……未来なんて、……死ぬ奴には関係ない」
カイルは理解した。目の前の少女にとって、自分の掲げた大義も、美学も、理想も、すべては「任務の邪魔なノイズ」に過ぎないのだということを。
そこにあるのは武人の敬意ではなく、ただ効率的に、確実に息の根を止めるための「技術」だけだった。
「ひ……、ひぃ……っ! くるな、来るなァ!!」
カイルは無様に床を這い、出口へと逃げようとした。
かつて自分が蔑んでいた、死にゆく凡夫そのものの姿で。
栄光も、華やかさも、そこには微塵もなかった。ただ、冷たい石床の感触と、首筋を撫でる銀槍の冷気があるだけだ。
「……終わり」
シフォンが槍を振り下ろした。
カイルは最期に、アリアの優しい微笑みではなく、戦場の泥の中で自分を見下ろす「死神」の無機質な瞳を焼き付けながら、絶望の中で息絶えた。
静寂が聖堂に戻る。
シフォンは血を拭うこともなく、槍を消した。アリスとリリエルが駆け寄ってくる。
二人とも、シフォンが放っていた異様な威圧感に気圧され、声をかけられずにいた。
その時、アリスが耳に当てた魔導通信機から、悲鳴に近い報告が飛び込んできた。
『アリス、聞こえるか!? 王都全域で暴動が発生した! カイルが裏で抱き込んでいた軍の反乱分子と、かつて排除されたカルデナスの残党が合流……、クーデターを本格始動させた!』
「何ですって……!? 計画の首謀者であるカイルは今、仕留めたわよ!」
『遅すぎたんだ! 奴らはカイルの生死に関わらず、王都を火の海にする手はずだったらしい! すでに軍の一部が王城に攻め込んでいる! それに……、アリア王女の邸宅も包囲された!』
シフォンの眉が、ピクリと動いた。
「……アリアの家、……壊される」
アリスとリリエルが顔を見合わせる。
カイルという頭を失ってもなお、彼が育てた「毒」は王国を蝕み続けていた。
「……行く。……アリアに、……まだお礼のアイス、もらってない」
シフォンは再び、その瞳に静かな火を灯した。
王宮の外からは、民の悲鳴と、進軍する軍靴の音が地響きとなって伝わってきていた。
死神の夜は、まだ明けない。




