第32章:狂気の発露、あるいは完璧な駒の欠損
王宮の最深部、かつては静謐な祈りの場であった小聖堂は、今やカイルの私設司令部へと変貌していた。
整然と並べられた魔法の水面鏡には、王都各地で火の手が上がる様子や、私兵団が重要拠点を制圧していく光景が映し出されている。カイルは玉座を模した豪奢な椅子に深く腰掛け、勝利の美酒を味わうかのように、その混沌を眺めていた。
「……美しい。闘争こそが、人間に許された唯一の進化の手段だ」
カイルは独りごちた。彼の瞳には、平和な王国を維持しようとするアリアやヴィクトールの努力が、停滞を招く泥泥とした不純物にしか見えていなかった。
彼の立てた計画は完璧だった。
国軍の動きは事前に買収した将校たちによって封じられ、ヴィクトールは負傷し、アリアの最大の牙であるシフォンは、最強の刺客コンビによって沈められたはずだった。
「リリエル、アリス。そろそろ報告があってもいい頃だが……」
カイルは通信用の魔導具を手に取った。
二人の暗殺者は、彼が多額の報酬と「理想の王国」という甘い言葉で釣り上げた、最高精度の「駒」だ。家を失い、行き場のない彼女たちにとって、自分こそが唯一の救世主であると、カイルは微塵も疑っていなかった。
その時、一つの水面鏡が激しく波打った。
王宮の正門。そこを守っていたはずの私兵たちが、次々と「見えない弾丸」によって撃ち抜かれ、あるいは「影から現れた槍」によって一瞬で命を刈り取られていく。
「何だ……? 誰がやっている」
カイルが鏡を拡大させる。そこには、あってはならない光景が映し出されていた。
爆煙の中から現れたのは、銀髪をなびかせた死神・シフォン。
そして、その左右に立つ二人。
一人は、異世界の火器を構え、正確無比な狙撃で私兵の指揮官を射抜くアリス。
もう一人は、スライムの体を擬態させ、敵の影から現れては鎌のような手で首を狩るリリエル。
三人は完璧な連携で、カイルの私兵団を紙屑のように散らしていた。
「……アリス? リリエル……? なぜだ」
カイルの指が、椅子の肘掛けを強く握りしめた。
裏切り。その言葉が脳裏をかすめるが、彼はそれを否定した。
「金か? それとも死の恐怖に屈したのか? いや、彼女たちはそんな安っぽい倫理観で動く駒ではない。私が与えた報酬は、彼女たちが一生を安泰に過ごせる額だったはずだ」
カイルは遠隔通話の魔法を強引に起動し、アリスの耳元へ声を飛ばした。
「アリス! リリエル! 何をしている! 標的はアリアだと言ったはずだ。今すぐその銀髪の女を殺せ! 報酬を倍に、いや、十倍にしてやろう! 望むなら貴族の位も、豪邸も、すべて与えてやる!」
通信の向こう側で、アリスが一度だけ手を止めた。
彼女は冷たい瞳を、どこか遠くにあるカイルの視線へと向けた。
『……カイル。あなたの提示した「十倍の金」じゃ、このカードは買えないわ』
「カード……? 何の話だ」
『……これ。……黄金の、食べ放題チケット』
今度はシフォンの声が混じる。彼女は懐から、カイルもよく知る「王家の甘味チケット」を取り出し、鏡越しに見せびらかした。
『カイル。……あんたのくれた金は、……食べたらなくなる。……でも、アリアのくれたチケットは、……一年間、毎日幸せをくれる。……それに、あんたの報告書、……嘘ばっかり。……不味い嘘をつく奴は、……私の敵』
『そうだよ、カイル君!』
リリエルが私兵の一人を叩きつけながら、無邪気に笑った。
『カイル君の言う「理想の国」って、なんだか殺風景でお腹が空きそうだもん。アリア様と一緒にいる方が、美味しいものがたくさん食べられそうなんだよねぇ!』
カイルは絶句した。
彼の頭脳が、その「理由」を理解することを拒絶していた。
王国の興亡。歴史の転換点。闘争による進化。
彼が積み上げてきた壮大な理想と、緻密な戦略。それが、たかが「お菓子」という、あまりにも矮小で、俗世的な快楽のために瓦解したというのか。
「……お菓子? 食べ放題……? 冗談だろう? ふざけるな! 貴様ら、自分たちが何をしているか分かっているのか! 歴史を、この国の未来を、そんな紙切れ一枚で売り渡すというのか!!」
『……お菓子は、……平和の証。……あんたには、……一生分からない』
シフォンの冷徹な言葉と共に、通信は一方的に遮断された。
「あああぁぁぁぁッ!!」
カイルは手近な水面鏡を拳で叩き割った。
破片が飛び散り、彼の端正な顔を切り裂く。だが、痛みすら感じない。
彼のプライドは、粉々に砕け散っていた。
自らが「凡庸な人間を操る神」であると自負していた。その神の計画を、スイーツという名の欲望が打ち砕いた。その事実が、彼の正気を奪っていく。
「ふざけるな……ふざけるなふざけるなふざけるな! 人間は、欲望の奴隷だ。だが、それはもっと高尚な、権力や破壊に対する欲望であるべきだ! お菓子だと? ケーキだと?! そんな……そんな下らないもので、僕の計画が!!」
カイルはよろめきながら、聖堂の奥にある秘密の保管庫を開いた。
そこには、彼が研究させていた「栄養剤」の完成形があった。人為的に魔力を増幅させ、細胞を強制的に進化させる禁忌の劇薬。
「いいだろう……。理屈が通じないというのなら、暴力でねじ伏せるまでだ。シフォン、アリス、リリエル……。そして、アリア。お前たちすべてを、この手で塵にしてやる!!」
カイルは薬品の瓶を掴むと、狂ったような笑い声を上げながら、それを一気に飲み干した。
直後、彼の体が異形へと変貌を始める。
血管が黒く浮き上がり、魔力が制御を失って周囲の石壁を粉砕していく。
「お菓子と一緒に、……地獄へ墜ちろォォォッ!!」
邸宅の深奥から、少年のものとは思えない、獣の咆哮が響き渡った。
それは、自らの「完璧」を否定された天才が、最後に行き着いた破滅の産声だった。




