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第30章:要塞の静寂、あるいは二つの影

 

 

 アリアの邸宅に運び込まれたシフォンの顔色は、透き通るような白銀の髪と同じほどに白く、生気を欠いていた。

 胸部を貫通した二つの傷口からは、治癒魔法の光を透過してなお、生々しい破壊の痕跡が覗いている。

 

 邸宅の一室。アリアとシフォン、二人の治癒魔法が重なり合い、部屋を淡い翠の光が満たしていた。

 溢れ出る鮮血はようやく止まり、開いた穴が肉で塞がっていく。だが、失われた血と内部の臓器に刻まれたダメージは、即座に消えるものではなかった。

 

「……ふぅ。……止血、完了」

 

 シフォンが小さく息を吐くと、アリアは膝から崩れるように椅子に座り込んだ。

 彼女の手はまだ震えている。守られるだけではなく、自らも癒しの術を振るったが、親愛なる友の命が指の間から零れ落ちそうになる感覚は、彼女の心に深い傷を残していた。

 

「シフォンさん……本当に、無事で良かった。でも、まだ顔色が……」

「……大丈夫。……死神は、しぶといから。……それより、二人の顔。……お菓子を落とした子供みたい」

 

 シフォンは寝台に上体を預け、不安げに見守るアリアと、槍を握りしめたまま立ち尽くすグレイスに視線を向けた。

 

「シフォン様、申し訳ありません。わたくしが、もっと早く敵の正体に気づいていれば……」

「……グレイス、自分を責めないで。……あいつは、……特別。……それに、追撃の心配も、今は要らない」

 

 アリアが「どういうことですか?」と尋ねる。

 シフォンは窓の外、闇に沈む邸宅の庭を見据えた。

 

「……この邸宅。……私が護衛に就いた日に、こっそり結界を強化した。……ドラゴンのブレスか、王国の宮廷魔導師が三人がかりでも、……一時間は破れない」

 

 さらに、シフォンは淡々と言葉を続けた。

 

「……正門にも、罠を埋めた。……特定のパスワードを知らない者が、殺意を持って踏めば、……一帯ごと爆発する。……スライムでも、蒸発するくらいの火力」

 

 その徹底した、というよりは偏執的なまでの防衛策に、アリアとグレイスは顔を見合わせた。彼女が甘味を巡っている裏で、これほどの準備を整えていたことに、二人は驚きと共に強い安心感を覚えるのだった。

 

 襲撃者の正体を暴くため、シフォンはかつての保護者であり、傭兵団のリーダーであるガリルを呼び出した。

 数刻後。窓から音もなく侵入してきた巨漢――ガリルは、「怪我人に呼び出されるとは、人使いの荒い弟子だ」と悪態をつきながらも、持参した回復薬をシフォンに手渡した。

 シフォンが襲撃者の特徴を伝えると、ガリルの表情から笑顔が消えた。

 

「……スライムの娘に、不可視の狙撃か。確証はねえが、裏の世界で囁かれている最悪のコンビに間違いねえだろう」

 

 ガリルは椅子に深く腰掛け、重々しく話し出した。

 

「スライムの娘は『リリエル』。そして狙撃手は、エルフの『アリス』だ。厄介なのはアリスの方だ。あいつは隠匿特化の能力に加え、この世界の理から外れた『異世界の火器』と呼ばれる武器を使う。音もなく、魔法よりも速い弾丸を飛ばす暗殺の天才だ」

 

 ガリルはグレイスを鋭い目で見据えた。

 

「小娘、お前、あの狙撃を一度弾いたんだな? それは奇跡に近い。普通なら、狙われた瞬間に脳漿を撒き散らして終わりだ」

 

 グレイスは冷や汗を拭い、自らの槍の柄を握り直した。あの一瞬の火花が、それほどまでに絶望的なものだったのかと、改めて戦慄する。

「リリエルも曲者だ」と、ガリルは続ける。

 

「液化の能力であらゆる隙間から侵入し、他人に擬態する。家族、友人、あるいは鏡の中の自分……。油断した瞬間に、内側から食い破られる。カイルの野郎、とんでもない連中を飼い慣らしてやがる」

 

 夜が深まる中、四人は卓を囲み、対策会議を行った。

 アリアの邸宅という「要塞」は安全だが、いつまでも籠城しているわけにはいかない。カイルのクーデターは刻一刻と準備が進んでおり、こちらが動かなければ、王都そのものが彼の手に落ちてしまう。

 

「……狙撃手のアリスを、先に潰す。……目がない暗殺者は、怖くない」

 

 シフォンの提案は、相変わらず短潔だった。

 ガリルは頷き、地図を広げる。

 

「アリスの武器には『射程』がある。そしてリリエルの擬態には『核』がある。そこを突くための装備を俺のコネで集めてやる。だが、シフォン。お前の体、明日までに動けるようになるのか?」

 

 シフォンは、サイドテーブルに置かれたアリアお手製のクッキーを一つ、口に放り込んだ。

 

「……あと、三枚食べれば。……動ける。……アリアの魔法と、お菓子。……これが一番の、薬」

 

 冗談めかしたシフォンの言葉に、部屋を支配していた重苦しい空気が僅かに緩んだ。

 アリアは、シフォンの手をそっと握りしめた。

 

「シフォンさん、グレイスさん、ガリル様。……私は、カイルを止めたい。これ以上の犠牲が出る前に、姉として、王女として」

「……分かってる。……アリアは、アリアのままで。……戦いは、私たちの専門。……明日の朝には、……蛇の首を、狩りに行く」

 

 夜の静寂が、戦士たちの低い声に塗り替えられていく。

 最強の盾と、最強の矛。そしてかつての戦友たちの知恵。

 カイルの放った「毒」を浄化するための、死神の反撃が始まろうとしていた。

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